「自立にむけて」 

  


 

1992年9月12日(275)

 ようやくMRSAの”菌”から開放される。長い隔離生活だった。今日からは以前のよ

うに看護婦さんも気軽に世話をしてくれるし、なによりも周囲の刺激を得ることが出来る

のが良い。リハビリの仕切り直しである。

 

1992年9月14日(277)

 母さんから会社に電話。「今日からお粥を食べても良いんだって。」ついつい嬉しくな

って会社に電話をかけてしまった、という事である。

 しかし、実際には戻してしまい、1/3程しか食べられなかった。

 

1992年9月15日(278)

 味噌とユカリを持って病院に行く。ユカリを振りかけたお粥は全部食べた。

一緒に出たシューマイも美味しそうに食べたし、スープも飲んだが、肉だけは口の中でモ

グモグしているだけで食べられなかった。明日からは”キザミ”の料理にしてもらう。

 

1992年9月17日(280)

 離乳食程度だった食事の内容も一般の患者さんと同じ料理になった。看護婦さんが「カ

ロリーとしては十分だから、おやつはあまり栄養のあるものは控えて下さい」。お母さん

が前の晩に作って持っていった食べ物は結局持って帰ることになってしまった。

 

1992年9月19日(282)

 保険会社に提出する診断書を先生に書いてもらう。診断書に「後遺症害:軽減の有無→

無し」とあった。「・・・・・」。

 

1992年9月22日(285)

 リハビリの1つとして「寝返り」の訓練が始った。リ

ハビリ室から帰ってきてからも、ベットの上で一生懸命

身体を動かそうとする。こうした姿勢は事故に遭う前と

変わらない。

 現在、入浴は週に1回程度で、週2回にの「ハーバー

ド浴(訓練)」の後にも身体全体を洗ってもらえるで、

この3回を楽しみにしている。

 

 

 

 

1992年9月24日(287)

 MRSAから開放されて以来、経口の食事、リハビリの本格化と介護の仕方が変わり、

立っている事が多くなった母さんは、最近腰痛がひどくなり今日からコルセットを付ける

ことにした。ベットから車椅子への移動、リハビリ室での介助、食事・オヤツの世話...

ほとんど立ったままの介護である。

 

1992年10月2日(295)

 午後から2人部屋に移動。今までのように自由気ままに(?)振舞う事が出来にくくな

った。特にラジオを大きな声で聞けなくなったのが辛い。

 最近、(まだ声は出せないものの)口の動きから何を言おうとしているのかがかなり分

るようになった。看護婦さんもその変化にビックリしていたそうである。

 

1992年10月5日(298)

 腹ばいになって首を持ち上げる訓練、寝返りの訓練、起立の訓練

...等、最近のリハビリはその種類も多く、リハビリ室にいる時間

が結構長い。先生に「休んでいて良いよ」と言われても、少し休む

と直ぐに訓練を始めるそうである。見ている母さんもその懸命さに

感動してしまうそうである。

 

 

 

 

 

 

 

1992年10月18日(311)

 リハビリの先生の勧めもあって、担当の先生にお願いしていた「帰宅の訓練=自動車に

乗ること」の許可が出た。事故後初めて自動車に載せた。病院の周囲を20分程度”ドライ

ブ”しただけであるが、運転していたお父さんが疲れてしまった。まだ首をはじめ姿勢が

安定せず恐々の運転であった。

 

1992年10月19日(312)

 今日から見習の看護婦さんが付いてくれる。2週間という事であるが、腰痛のあるお母さんにとっては大

助かりである。

 

 

 

 

 

 

1992年10月22日(315)

 お婆チャンが顔に出来た腫れ物の手術。昨日からの入院で1週間程の入院が必要との

事。良性であり心配をする事は無い、との事であったが、まずはホッとする。

 しかし1週間、母さんか父さんが帰るまで家に1人でいる事になった弟のことが心配。

お母さんが加納のお婆チャンに夕食の世話を頼んで、出来るだけ早く帰宅することになっ

た。

 

1992年10月28日(321)

 初めて、自力で”立つ”訓練が始る。まだ足、腰等の筋力が無い為支えてもらわないと

ダメであるが、よくここまで来たと思う。

 ここ1ケ月間で体重が7Kg増えたそうである。お粥を中心とした食事であり、かなり好

き嫌いの偏食もあるようであるが、それでもこれだけ回復が早い。

 

1992年10月30日(323)

 お婆チャンが退院。心配していた弟も結構1人の時間を楽しんでいた(?)。

 

1992年11月1日(325)

 夕方、人のいない渡り廊下で、お母さんが椅子に座って本を読んでやっていた。車椅子

に座って首を前に垂れ背中を丸めた姿で聞いていた。淡い夕暮れ時の薄日の中で、遠くか

ら眺めた2人のシルエットは何とも切ない情景であった。何を思い、何を考えながら聞い

ていたのだろう....。

 

1992年11月3日(327)

 2回目のドライブ。まだ緊張をするようであるし、車の中が暑かったことのあって25分

程で病院に帰る。

 ベットの上で弟と”ボール投げ”をして遊ぶ。弟も結構面倒見が良く、丁寧に相手をし

てくれた。

 

1992年11月5日(329)

 昨日は、リハビリ室で、先生に抱きかかえられてでがあるが、”歩く”訓練をした。本

当に歩くことが出来るかどうかは別にして、少しでも前向きな訓練を出来るようになった

のが嬉しい。リハビリの先生もその可能性を否定していないのだ。

 こうしたリハビリの風景をお母さんが写真に撮って来た。「良い写真があれば、心配し

てくれている小学校の先生に送りたい」。

 

1992年11月10日(334)

 婦長さんから「町役場から車椅子やベットが借りられるか確認して下さい」との事。

 年末年始を、「一時帰宅」で自宅療養する検討が進められているようである。

 

1992年11月12日(336)

 突然に6人部屋に移動。個室を必要とする患者さんが来たのだろう。

 現在は3人居るだけであるが、今までのようにテレビやラジオを自由に聞けなくなって

しまった。リハビリ以外では重要な刺激であり又楽しみであっただけに「何とかしない

と...」。母さんと相談して(TVの音声も入る)CDラジカセを持ち込む事にした。

 

1992年11月21日(345)

 父さんは、今日まで3日間の沖縄出張。お土産は色々買ったものの、置物の「シーサ

ー」を3組買ったのが特徴?。沖縄では屋根の上に置かれている「守り神」である。

 

1992年11月25日(349)

 眼科の先生が往診に来て目の検査。「現在の視力は0.1も無いです。目の構造には問題

は無いのですが、脳神経に障害があるかもしれません。」との事であった。一番心配して

いた事であったが、やはり....、である。後日、再検査と脳のCTスキャンを撮ってみる

ということであったが....。

 

1992年11月29日(353)

 事故後初めて家に帰る。2、3日前から母さんは一時帰宅の準備で大忙し。病院でも先

生や看護婦さんから家庭での介護の仕方や注意事項を聞きメモを作っていた。

 10時頃に病院を出てゆっくりした運転で昼頃に到着。昼食を食べ、横になっていただけ

であるが、家族全員が寛いだ気分になれるから不思議である。3時頃まで家に居た。

 

1992年12月6日(360)

 昨日から今日にかけて家庭泊。金曜日は泊まることにかなり不安を感じていたが、看護

婦さんから家での過ごし方を色々聞いてその気になったようである。

 家族揃っての食堂での食事も1年ぶりである。昨日の夕食、今朝の食事共によく食べ

た。

 しかし、現在の家の造りが障害者(車椅子での生活)にとっては、とても大変だと言う

事が良くわかった。将来、車椅子で動けるようになったとしても、常に誰かが付いている

必要がある。

 

1992年12月9日(363)

 目の再検査。右眼が0.01、左眼は不明、という事であった。暗闇の世界にいる訳ではな

いが、ボンヤリとした世界なのだろう。それでも元気にリハビリに励んでいる精神力は大

したものである。

 

1992年12月12日(366)

 事故の日から1年が経った。本人は勿論だが家族全員にとって、長い長い、しかし季節

感の無い1年だった。

 今日から明日にかけて一泊。母さんが連絡しておいた事もあって、6年生の時の担任の

先生やクラスメート、少年野球の監督さんやチームメートが次々とお見舞いに来てくれ

た。

 

1992年12月13日(367)

 午前中には、3人の女子中学生(小学校のクラスメート)、午後からは、中学校のクラ

スメート3人が見舞いに来てくれた。思い出話が中心だったが、中学校の生活も色々話し

てくれた。どんな気持ちで聞いていたんだろう?。

 

1992年12月19日(373)

 先週と同じように今週末も一泊。今日は中学校の担任の先生とクラスメートが10人、手

紙や録音テープ、「学級通信」を持ってお見舞いに来てくれた。夜は、お母さんがそれを

1つ1つ読んで聞かせていた。「早く治って学校に来い!」。

 

1992年12月23日(377)

 病院は祝日の休みで診察やリハビリは無し。外出許可をもらって家に帰る。

 1日早いクリスマスをやる。ちょうどクラスメートが訪ねて来てくれたので賑やかなお

祝いになった。しかし、一緒に少年野球をやったチームメートが、今は大人びて見える。

「元気だったら....」と思う。

 

1992年12月27日(381)

 今日から、病院が年末年始の休暇に入るのに合わせて家に帰る。30日・31日と一旦診察

の為に病院に行くものの4日まで1週間以上の在宅になる。まずは無事に過ごせますよう

に...。お母さんは「年末の大掃除もやらなあかん」と途方に暮れている。

 

1992年12月30日(384)

 少年野球チームの監督さんとほぼ全員のチー

ムメートが”遊び”に来てくれた。アルバムを

見たり写真を撮ったりしながらの2時間余であ

った。

 皆が帰るとさすがに疲れた様子であった。

 

 

 

 

 

1992年12月31日(385)

 除夜の鐘を聞きながら、今年最後の記録をつける。

 今日は病院への往復、大掃除、...大忙しの1日だった。お母さんはそれ以上に忙しか

ったろう。隣に住んでいる父さんの弟(叔父に当たる)も家の周りの片付けを手伝ってく

れた。一昨日は加納の夫婦が庭の掃除にきてくれた。多くの人達に助けられ励まされて、

一年余りが過ぎ、そして新しい年を迎える事が出来る。

 

1993年1月1日(386)

 例年ならば、家族全員で谷汲さんに初詣に行くのである

が、今年は近くの氏神様(北野神社)と墓参り、そして加

納天満宮に行く。

 それぞれで「早い回復と家族全員の健康」を祈願する。

 

 

 

 

 

 

1993年1月2日(387)

 事故に遭う前から1年余りの写真の整理をする。事故に遭う前の元気な写真と入院生活

の写真とに、改めて生活の落差を感じる。辛い整理の時間だった。

 

1993年1月4日(389)

 4時頃に病院へ。食欲はあまり無いように見えたものの、夕食を”適当に”に済ませ、

途中で買ってきたポテトフライとチキンナゲットを1人分食べてしまった。

 明日からは、一時帰宅の間あまり出来なかったリハビリ訓練の再開である。

 

1993年1月7日(392)

 2日程前から元気の無かった弟が38度の発熱。お父さんが会社を休んで医者に連れてい

く。胃腸風ということであった。弟は昨日までお母さんと一緒に病院に行っていたが、感

染したりはしていないだろうか。

 

1993年1月12日(397)

 昨日、家にある自分の机から計算機(電卓のこと)を持って来て欲しいと言われ(と言

っても身振り手振りの会話)、何をするのかと思えば、「お年玉の計算をする」、との事

である(驚いたー!!)。上手く動かない右手を動かしながら懸命に計算をやっていたと

いうことである。

 

1993年1月23日(408)

 弟の誕生日祝いをやる。実際は26日であるが皆が揃っていた方が楽しいから、と言う事

で早めのお祝いとなった。

 お兄ちゃんの事故以来、ユックリと弟の世話や遊び相手をしてやる事が出来なくなって

しまった。正月以来2度の風邪やスポーツ少年団の活動の事を思うと、「これで良いの

か、何とかもう少し時間を割いてやりたい」と思うのだが...。

 

1993年1月29日(414)

 昨日から降り出した雪が、今朝までに岐阜市で21cm、名古屋で7cm。

何年ぶりかの大雪である。母さんは「恐いから」と病院に行くのを1

間ずらした。

 とにかく”自動車”には(家族全員が)過敏になっている。

 最近のリハビリ。腕立て伏せ、腹這いでの腰の前後運動、膝歩き、

掴り立ち、30分程の立居(腰をバンドで固定し立っている事)..。

介助があるとは言え、結構ハードである。

 

 

 

 

1993年1月31日(416)

 病院のリハビリ室で使っている腕の筋力を付ける器具を家でも作ってみた。ぶら下がり

健康器を利用して、重りを結びつけた紐を、滑車を通して引けるようにした物である。軽

い重しでも続けてやっていると結構疲れるものである。

 

1993年2月7日(423)

 今週中に気管の手術が予定されており、手術後は暫く鼻注になり普通の食事は摂れなく

なる。昼食は「好きなものを作ってあげるから...」と母さんの心尽くしの食事になっ

た。

 家にあった中学校の名札をジーと見ていた。眼につく所に置いておかなければ良かった

のに、と思う。

 

1993年2月10日(426)

 朝9:00から気管の手術が始る。今回の手術が上手くいけば、声が出せるようになる。

 昼頃に一応終わったものの、「気管の軟骨が脆くなっており、数ケ月後に軟骨の移植を

含めて再手術が必要かも...。」とういことである。少しづつ、少しづつの回復だナ

ー!。

 

1993年2月11日(427)

 祝日で、お父さんと弟も病院に行く。

 声を出そうとしているのだが、なかなか声にならない。声を出すのも訓練が必要なん

だ。

ただ、笑う時だけは、ハッキリと声が出る。

 

1993年2月12日(428)

 中学校の先生に国語と社会(歴史)の教科書を届けてもらう。「同室の中学生が母親に

教科書を読んでもらっているのを一緒に聞いていた」と、先生に話したところ、早速持っ

て来てもらえたのである。

 

1993年2月18日(434)

 「失語症」の検査をする。発音時の口の動きがオカシイ、という事でその検査だった。

素人の自分達には良く分らなかったものの、結果は「まず問題ないでしょう。」と言う事

で、とにかくホッとする。

 弟が「普通の日にはお兄ちゃんに会えないから、手紙を書くよ。」と、手紙を入れる折

り紙の箱を作る。弟は1人で遊べる「折り紙」が非常に上手くなった。

 

1993年2月20日(436)

 手術後続いていた鼻注がようやく終わり、今日の昼食からお粥になる。病院の副食はあ

まり食べなかったが、お母さんが作ってきた煮物や果物は美味しそうに食べた。

 

1993年2月24日(440)

 言語のリハビリが始る。1対1の訓練で、付き添い不要とのこと。嬉しそうな顔をして

訓練室から出てきた。「話す」ことが出来そうなのかな?。

 ベットの上で胡座から横になることが出来るようになる。腹筋だけでこの動きをしてい

るので不安定であるが、これに腕を使えるようになるともっと安定してくるのだが...。

 

1993年2月26日(442)

 言語のリハビリは先生と向かい合って色々な単語を言う事だそうである。訓練の後お母

さんに単語を言ってみたのだが、理解出来たり、出来なかったり...。

 歩行訓練で初めて、先生の方に掴って2m程歩いたそうである。お母さんは「感

激!」。

 

1993年3月5日(449)

 お父さんは午後から身体の節々が痛くて医者に行く。インフルエンサだった。3日前か

ら弟が罹っていたが、それが伝染ってしまったらしい。悪い事は重なるもので、夕方お母

さんから「又、MRSAに罹って個室に移った。」との電話。せめてお母さんにインフル

エンザが伝染らないようにしなければ。

 

1993年3月13日(457)

 今日で1年3ケ月。病院から障害者手帳取得の為の診断書がでる。「病状固定」の文字

と「両眼球運動障害」の文字が眼につく。覚悟はしていたものの、やはりショック。

 

1993年3月21日(465)

 弟をボーリングとバッティングセンターに連れて行く。スポーツ少年団の付き添い以外

ではなかなか一緒に遊ぶ事が出来なかったが、ようやく行く事が出来た。そのまま病院へ。

 MRSAに感染して以来ズーと38度〜39度の高熱が続いていたが、今日は元気そうだっ

た。先生の話では「MRSAの検査はマイナスになっているが、『緑膿菌』が強くてそれ

による高熱のように思う。」との事である。とにかく原因がハッキリすればホッとする。

 

1993年3月28日(472)

 「部屋を消毒するから」と言う事で突然の一時帰宅になった。弟が昨日から春休みにな

っており、不幸中の幸い?。久しぶりに家族5人での夕食になった。お婆チャンが「本当

に良くなってきたネー。」と感心していた。以前と比べて身体が丸みを増してきた事と、

それなりの会話が出来るようになった事をいっているようである。

 

1993年4月2日(477)

 会社を休んでお母さんと「今後どうしたら良いか」相談に行く。

 最初に、現在中学校の校長先生をしているお父さんの従兄の所へ、続いて従兄の紹介を

貰って、岐阜養護学校の主事さんの所へ。色々話を聞かせてもらったが、結論は「退院後

は養護学校が良い。」と言う事になった。....どう思うだろう?。

 

1993年4月3日(478)

 糸貫中学校へ今後の相談に行く。学校側としては、校舎の改築は出来ないが出来るだけ

の事はする、との事であった。先生・生徒共に学校全体の課題として捉えてもらえるよう

だ。

 

1993年4月7日(482)

 言語のリハビリの後、やった事を録音するようになった。

 科学のクイズで「太陽に黒点があるのは?」の問いに「周囲より温度の低い所。」と答

えることが出来た。事故に遭う前に覚えた知識なのだろうが、チャント覚えている事もあ

る。 

 

1993年4月13日(488)

 1年4ケ月が過ぎた。不安と焦りの毎日であったが、振り替えってみるとその変化は非常

に大きい。しかし、普通の生活をする事は不可能だろう...?。ただ、本人が頑張ってい

る限り、父さんも母さんも諦める訳にはいかん!!。

 

1993年4月19日(494)

 お母さんが病院に着くと、看護婦さんが「昨日の夜、不機嫌だったヨー」。原因は不明

との事であったが、色々聞いてみると、看護婦さんにからかわれた、と思ったらしい。こ

のような感情もハッキリと表に出すようになった。

 

1993年4月20日(495)

 6人部屋に移動。

 中学校の教頭先生と学年担任、担任、養護の各先生が夕方病院に来て、主治医、リハビ

リの先生と今後の中学校生活について話し合いを持ってくれた。5月1日にまず「顔合わ

せ」を行う事になった。

 

1993年4月28日(503)

 雨の中、加納のオジイチャンの車で帰宅。オ

ジイチャンも気を使った事だろう。明日からの

ゴールデンウィークは家での生活が中心になる。

 疲労が溜まっている母さんにとって、あまり

面倒を掛けないようにと頑張って来た弟にとっ

て、暇を見つけては病院に来てお母さんを助け

てくれた加納のオバアチャン、オジイチャンに

とって、.....皆が落ち着いた生活が出来そう。

 

 

1993年4月30日(505)

 リハビリの為に病院へ。父さんは久しぶりにリハビリの様子を見る事が出来た。

 寝返り(に近い事)、腕立て伏せ(のような事)、身体を支えてもらっての膝立ち、

膝歩き、....。身体全体に力が付いてきた事が良く判った。

 

 

 

 

 

 

「リハビリ編」は以上で終わりです。

ここまで読んで頂きましてありがとうございました。

 

病院生活が基本ですが、この年の5月から週1〜2回、中学校に行く事が出来る

ようになりました。ここから「編」を変えて記録を続けたいと思います。

 

宜しければ、続きの「リハビリ2(糸貫中学校)編」

を読んで下さい。

 

 又、感想や助言等がありましたらお寄せください。

 

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