「自立にむけて」 

  


 

1993年5月1日 土(506)

 初めて中学校へ。玄関の段差にはスロープの板があり、

2階へは生徒さんが車椅子ごと運んでくれた。たとえ2時間

であっても1つの転機になれば.....。

 「英語は辛かったけれど、社会はおもしろかった。だけ

ど、黒板の字が見えなかった。」本人の感想である。何もし

てやれない...。ただ、ただ「少しでも見えるようになっ

てくれ」と祈るのみ。

 

 

1993年5月3日 月(508)

 父さんが、勝手口から車椅子が入れるようにスロープを作り始める。材料を買ってき

て、切断し、組み立てるのだが、日曜大工の経験もあまりないので、上手く作れる?。

 ゴールデンウィークも残すところあと2日。母さん、弟と3人で実家に行き1泊する。

母さんには重要な”骨休め”である。

 

1993年5月5日 水(510)

 ゴールデンウィークも今日で終わり。どこにも行けなかったけれど、昨年の今頃に比べ

ればユッタリ出来た1週間余であった。 

 今日の昼食は、庭に御座を敷きパラソルを張って「芋田楽」を食べる。五月晴れで暑い

くらいの好天気、気持ち良い風も吹いて、皆が久しぶりに楽しく過ごす事が出来た。

 

1993年5月9日 日(514)

 2日早い14歳の誕生祝いをする。1年前に病院でやった日

の事を思うと本当によくなったと思う。来年の誕生日は退院

し、どんな「学生生活」を送っているんだろう?。

 それにしても、今日は本当に笑いの多い1日だった。

 

1993年5月10日 月(516)

 父さんが出張先で身障者向けのパソコンの話を聞く。21世紀のシルバー産業の一翼を担

う事になるとの話であったが、我が家でも検討してみる価値はありそうだった。しかし、

どれ程の能力を持ったPCが出てくるのだろう?。

 

1993年5月12日 水(517)

 最近、お母さんが、からかったり、冗談を言ったり、うたた寝していたりすると怒るそ

うである。「自我」がそれだけハッキリしてきたのか..?。今までに会話の受け答えは

的確になって来たように思っていたが...。今もまだ(脳障害からの)回復過程なの

か?。

 

1993年5月15日 土(520)

 (家にて。)朝方、「寒い」と言ってお母さんを起こす。事実かなり冷え込んだ朝だっ

た。慌ただしく準備をして中学校に行く。ところが、2時間目終了前から熱があり保健室

で休んでいたそうである。家に帰って来てからも熱が下がらず、結局病院へ行く。家族全

員ガッカリ。明日は皆で犬山モンキーパーク(恐竜展)に行く事になっていただけに、弟

はションボリしてしまった。

 

1993年5月19日 水(524)

 今日は身体検査があり、身長170cm弱、体重52kg。重いはずである。

 最近は、リハビリを言われる通り行わない事もあり、時には”値切る”こともする。自

己主張をするようになってきた訳だが、それも一長一短、リハビリはしっかりやってくれ

なくては困る。

 

1993年5月21日 金(526)

 お父さんが帰宅すると「お帰りなさい!」と挨拶の声。声も大きく出せるようになった

し、ハッキリと聞き取りれるようになった。

 弟はお兄ちゃんが帰ってくるとやはり楽しそうである。キャー、キャー言いながらはし

ゃいでいるが、それも(兄の状態に合わせて)限度を知ってやっている所がスゴイ。

 

1993年5月24日 月(529)

 車を「レオーネ」から「カリブ」に換える。車椅子の運搬が楽そうなのが唯一の理由。

 

1993年5月29日 土(534)

 金曜日に帰宅し土曜日に登校、日曜日に病院へ”帰る”、というのが今月からの生活パ

ターン。今日はその登校日である。

 座ったままの授業は辛いが、休憩時間に友達と色々話が出来るのが楽しい、との事であ

る。

 

1993年6月2日 水(538)

 リハビリの帰りに、以前お世話になった脳外科病棟の看護婦さんに会う。「声も出せる

ようになったんだネー!」「立てるなんて本当に感激だワー!」と、その回復ぶりに驚い

ていたそうである。まだ寝たきりで、意識もどれだけ回復しているのかよく分らない時期

に「これくらいが限度でしょう...。」といったのは脳外の先生だったナー。

 

1993年6月5日 土(541)

 午前中は中学校へ。今日は3時限まで授業を受けてきた為、かなり疲れた様子。帰って

きてからは昼食までズーとベッドで休養。まだまだ体力的には辛いのだろう。

 

1993年6月6日 日(542)

 病院に「帰る」途中に、介護用の機器を展示紹介した「老人介護センター」に寄ってみ

た。高価な機器が多かったが、それでも参考になるのもがあった。

 

1993年6月7日 月(543)

 リハビリの先生に「作業(実際には食事を自分でする為)のリハビ

リ」をお願いする。

昨日訪れた「老人介護センター」で、看護婦さんから「これだけ車椅子

を動かせるんだから、キット自分で食べる事が出来ますよ。」と助言さ

れた事による。

 先生「目が見えないので、どれだけ出来るか分りませんが....」と言

う事であった。

 

 

 

1993年6月9日 水(545)

 皇太子の結婚式で、学校も会社も臨時の休日。午後からお父さんが母さんと交代して介

護に当たる。テレビもラジオも結婚式の報道ばかりで「おもしろくない」と、2人で外に

散歩にでる。陽射しは強いものの気持ち良い風が吹いており、1時間余りを歩いたり本を

読んで過ごす。帰りはプロ野球中継のラジオ放送にしておいて欲しいとの事であった。

 

1993年6月12日 土(548)

 今日は田植え。「田植えの様子を車椅子で見ていたい。」と言っていたが、午後遅く始

り風も強かったこともあり、止めにする。

 今度の月曜日から午前中の授業を受けることになった。「あまり早急に事を進めるのも

どうか?」と思ったが、母さんの強い要望で決まった。

 

1993年6月16日 水(550)

 お父さんは、仕事が一段落して早めに帰宅。お母さんの料理の手伝いをしたり、弟のク

ワガタ採りや勉強に付き合って過ごす。今の家族にとって余裕を持つ事が大切な事を感じ

た一日だった。早めに宿題の終わった弟も「余裕があった?」。ピリピリと神経が張り詰

めたような雰囲気は、特に子供にとって良くない、と思う。

 岐阜では33℃まで気温が上がった暑い1日だった。

 

1993年6月21日 月(557)

 自宅で使うベッドが届く。半分が上昇し、全体が上下する等の動きを電動で行う。現在

使用しているベッドに比べると介助がかなり楽になりそう。

 

1993年6月25日 金(561)

 お母さんが、事故以来休職していた勤務先(名古屋)へ今後の相談に行く。色々と配慮

してもらってここまで来たものの、今後も復帰することはおそらく出来ない....。

 代わりに、お父さんが会社を休んで病院へ。平日のリハビリや訓練の様子を直接見る事

ができた。

 

1993年6月30日 水(566)

 平行棒の間を「歩く」訓練をしてもらう。自由に動かない右手を持ってもらい身体を支

えてもらえば、とにかく「歩く」事が出来る!。お母さんが早速「自宅でも平行棒を買っ

てやれん?」ときた。

 

1993年7月3日 土(569)

 3週間ぶりに中学校に行く。病院でのリハビリは続けていたし、週末の帰宅もしていた

のであるが、微熱が続いていた為、「登校」は控えていたのである。

 学校では級友と「腕相撲」をした。「疲れた」とは言っていたものの、やはり楽しかっ

たのか、今日一日は比較的元気な様子だった。

 

1993年7月8日 木(574)

 看護婦さんから「字が読めますよ」。お母さんが、ひらがなから漢字まで色々読ませて

見たところ、文字を大きくし特定の視野に入れてやると、かなり確実に読めるようであ

る。

 

1993年7月10日 土(576)

 梅雨の末期で今日も小雨が降っている。ビデオを借りてきて弟と父さんと3人で観賞。

お母さんは小まめに動いて仕事を片づけているものの、お父さんは何となく欲求不満。

「土・日ぐらいは自分のやりたい事を...」と思ってしまう。家族皆がそうなんだろう。

弟がお母さんに「お兄ちゃんが帰ってくると、お父さんがよく怒る」と言っていたそうで

ある。欲求不満の捌け口が弟に向いてしまうのかナー...?。

 

1993年7月13日 火(579)

 中学校の家庭訪問。

 担任の先生「一生懸命聞いているようで、皆が笑う時には一緒に笑ってますよ。事故に

遭わなければ、きっと皆をリードする生徒さんになっていたんでしょうネ」。

「・・・」。

 

1993年7月21日 水(587)

 教育通信(中学校の通信簿)を読む。勿論科目の評価は無いが、「行動の記録」欄に先

生の心のこもった評価が書いてあった。本人の真摯な姿勢を暖かい目でみていてくれる先

生や級友の姿が目に浮かぶようで、ジーンときた。

 弟も今日から夏休み。心配な1ケ月半の始まりである。

 

1993年7月23日 金(589)

 お母さん、弟と3人で岐阜市内で行われたミュージカルを観に行く。雑菌の多い人混の

中へ、又車椅子で、大丈夫?、等と心配はしたものの、病院の許可は出ていることだし、

弟の「思い出作り」も必要だし...。

 

1993年7月28日 水(594)

 自宅の方に、中学校の女生徒(小学校の同級生)さん2人が「負けないで」のCDを持

って来てくれた。本人もきっと喜ぶだろう!。

 

1993年7月30日 金(596)

 今日と明日の1泊2日で、名古屋の水族館と科学館へ。

 台風6号(熱低に変わったが)は日本海に抜けたものの

梅雨前線を刺激して、名古屋市内では、車の前が見えない

程の豪雨の中。

 水族館では、障害者用のルートがあり、又、職員の方に

もそれ相応の対応をして貰って心配した事は無かったが、

夏休みで混雑もしていたし車椅子に座ったままでどれだけ

見えたのだろう?。

 

1993年7月31日 土(597)

 「名古屋旅行」の2日目。10時頃にホテルを出て、科学館へ。

 本人にとっては余り楽しめなかったようである。良く見えないことと、やはり車椅子と

いうのは通常の生活には大きなハンディである。

 

1993年8月6日 金(603)

 担任の先生が、クラス全員で書いた「暑中見舞い」を病院へ持ってきてくれた。

 

1993年8月16日 月(613)

 例年ならば、叔父さん叔母さんとその子供達が集まり、賑やかなお盆になるのだが、昨

年は中止し、今年も叔父さんとその子供達だけとのささやかな宴となった。それでも食事

時は結構賑わしく、皆良く食べた。本人は「お腹が痛い」と言いながらそれでも食べてい

た。顔にニキビが出ているのに気がついた。青春のシンボルなんだろうが元気な状態で見

てみたかったナ。

 

1993年8月28日 土(625)

 弟の夏休みも今日を含めて後4日。お父さんが面倒を見てやれるのは今日・明日の2日

しかない。夏休みの「自由研究」の星座の観測を2人で何とか仕上げたのが夜10時頃。そ

んな様子を見ていて、「僕の時はどうだった?...。」「同じようなもんだった。」と言

ったものの、実際はもう少し計画的だったし、親が注意してみていたように思う。

 

1993年8月30日 月(627)

 気管の処置(その状態を見たり、ガーゼを代えたり、痰を撮ったりする)の時には、担

当の先生が色々話しかけてくれる。それなりに努力をしているものの、自分の考えている

事を言葉として十分に表現出来ていないようである。見ているお母さんも辛いだろうが、

本人はもっと辛い!。

 

1993年9月3日 金(631)

 台風13号が九州に上陸。戦後最大級の台風だそうで、明朝に、東海地方に最も接近する

そうである。それでもお母さんに連れられて帰ってきた。お母さんはそんなに心配してい

る様子もないが、停電になって吸引器が使えなくなったら、と思うとゾーとする。

 

1993年9月7日 火(635)

 リハビリで久しぶりに”歩行”練習。病院ではなかったけれど自宅では練

習していたからか、「良く歩けるようになったナー」と、担当の先生が言っ

ていたそうである。先生の肩に両手を乗せて歩くのだが、以前に比べて腰が

左右に振らなくなったそうである。

 

 

 

1993年9月16日 木(644)

 昨日が休日で帰宅していた事もあり、今日は中学校に行く。”授業”は運

動会の練習を見学することだった。「僕が元気だったらなー」と感想を言っ

ていたそうだが、小学校の運動会で自分が活躍した事を思い出していたんだろうか?、そ

れとも現在の状態を悔しく思ったのだろうか?。

 

1993年9月21日 火(649)

 中学校の運動会で、一日中車椅子で見学。

「疲れたけれど、楽しかった」との事。本当の気

持ちはどうだったのだろう?。「お前も早く治っ

て走りたかったろう?」と尋ねた所「ハイ」と素

直な返事が返って来ただけだった。

 

 

 

 

1993年9月23日 火(651)

 祝日で、父さんが病院へ迎えに行く。9時頃に着いたが、エレベータの所へ車椅子で迎

えに来ていた。最近はだいたい、お母さんをこのように迎えてくれるそうである。

 看護婦さん「少々風邪気味なんだけど大丈夫カナ?。少しでも調子が悪いと思ったら帰

って来てネ」。今日から4泊5日の”外泊”になる。無事過ごせますように...。

 

1993年10月4日 月(662)

 今日初めて分った事。月曜日の、お母さんとの行動。

 中学校の授業に参加した後、ショッピングセンターに寄って休憩、ジュースを飲む。こ

れは2時間の授業の疲れを少しでもとる為と「おやつ」を兼ねている。今日は更に「xx

を欲しい」と言うので、病院用の「おやつ」を買って病院に行った。結構やってますネ

ー。

 

1993年10月7日 木(665)

 夜、お母さんが「希望が丘養護学校を見に行きたい、このまま手術も出来ずいつまでも

現在の状態では、ダラダラと日が過ぎていくだけで本人の為にならないと思うの...」。

多少”あせり”もあるような気がするが、先が見えないまま「いつまでも」病院に居るよ

りも”動いた”方が良いかも...。

 以前、相談した岐阜養護学校の先生の話も聞いて、今後の事を決めてやりたい。

 

1993年10月10日 日(668)

 秋晴れの好天に誘われ、午後から藤橋城(揖斐郡藤橋村)へドライ

ブ。

 あまり良く見えない目でどれだけ楽しめたかは疑問だが、気分転換に

はなっただろう。

 

 

 

1993年10月13日 水(671)

 お母さんが、病院に着くといつものように、エレベータの所へ迎えに

来ていなかった。

 看護婦さんが「2周目の散歩ヨ!」。車椅子で5階の廊下を”歩き回って”いるそう

だ。

 

1993年10月18日 月(676)

 2時間目の授業は体育だったので帰ろうとすると、M君が「バスケットだから見ていけ

ヨ!」。本人が小学校の時からバスケットが好きで、中学校では部活でやりたかった、と

言う事を知っていたようである。見ていて「昔に還りたい...。」と言っていたそうであ

る。

 

1993年10月25日 月(683)

 お母さん「やっぱり、中学校にいくのが嬉しいようネ、今日学校へ宿題を持っていく、

と言ってるの」。

 土曜日に「『環境破壊』についての下調べ」という宿題が出た。「、オゾン層の破壊、

酸性雨...」と言うのを、お母さんが書きとめたもの。

 

1993年10月29日 金(687)

 看護婦さんがお母さんに「最近、言う事が変わってきたわネ。」との事。「頭」の働き

がシッカリしてきた、と言いたかったようである。お母さん自身も同じような事を最近感

じている。身体がシッカリしてきて脳の働きもシッカリしてきた、と言うことなのだろ

う。

 

1993年11月1日 月(690)

 リハビリの先生「最近は色々な事を話してくれるようになりましたよ。今日も舞子さん

の話から京都に修学旅行に行った時の話をしてくれました」。

 最近は確かに色々な点で変わって来たように思う。少しずつではあるが積極性が出てき

たようだ。

 明後日が休日の為、明日には病院から帰ってくる。もう家族皆がそれを待つようになっ

た。楽な気分になれることもあるが、やっぱり家族は一緒の方が良い!。

 

1993年11月7日 日(696)

 冬に備えて、風呂の暖房器や本人用のビデオを買いに行く。事故に遭わなければ不要な

機器だなーと、ふと思う。ボーナス前だし...。

 

1993年11月9日 火(698)

 今日は午前中、中学校の演劇鑑賞会に参加しそれから病院へ。病院のリハビリも大切で

あるが、多くの級友と共にこうした行事に参加するのもリハビリのうち。

 朝、父さんは風邪気味だったので、出勤前に部屋の外から「会社に行くから」。いつも

は部屋の中に入って少し話をしてから出勤する事にしているのだが。今は弟も母さんも風

邪気味、皆気を使っている。

 

1993年11月12日 金(701)

 病院の先生の紹介で、希望が丘養護学校を見に行く。重度の肢体不自由児が中心である

が、入校は可能との事である。「いつでも入れますよ」との事であったが、病院の先生と

もよく話し合って今後の事を決めたいと思う。本人の将来をジックリ見据えて決めてやら

めば、と思う。

 

1993年11月14日 日(703)

 午前中に、スポ少の仲間と部活にバスケットをやっている4人が訪ねて来てくれた。部

活の帰りという事で時間は短かったが、こうして訪ねてきてくれる事が嬉しい。

 昨日は、スポ少の監督が「6年の最後に出来なかった『お別れ会』をやろうと思う

が...」と言って訪ねてきてくれた。ありがたい話ではあるが、本人はすぐには「ウ

ン」と言わなかった。

 

1993年11月19日 木(708)

 中学校の文化祭。演劇を見たり歌を聴いたりして、車椅子に座

ったままでほぼ1日過ごした。付き添ったお母さんが「マイッタ

ー!。」と言う事であるが、本人は意外と平気で「オモシロカッ

タ」。帰って来てからもTVをみていた。

 

 

 

1993年11月26日 金(715)

 脳外科の先生に「後遺障害」用の診断書を書いてもらう。以前

の診断書とあまり変わった所は無いが、「症状固定」欄に「H

4.12.17」とあった。もう1年も前に「症状固定」になっ

ていたか!、と思う。1年前と比べると相当な差があるように思うのだが...。

脳外科の「症状固定」とリハビリとは関係ない、と思えば良い!。

この1年間のリハビリの効果は大きかったし、今後も続けていけば更に良くなるだろう。

 

1993年12月13日 月(732)

 丸2年が過ぎた。1年前に比べると多少精神的に落ち着いてきたとは言え、家族全員が

どこか追いつめられた気分で過ごした1年だった。しかし、本人とは日常生活の中で、そ

れなりの意思疎通が出来るようになった1年であった。

 

1993年12月15日 水(734)

 3年ぶりに年賀状を出す事にした。昨年までは気分的にも時間的にもそんな余裕は無か

った。今回も余裕が出てきたわけではないが、毎年変わりなく年賀状を送ってくれる人達

に、いつまでも知らせない訳にはいかない。

 裏書きは印刷に出す。自分で作りたかったが.....。

 

1993年12月23日 木(742)

 1日早いクリスマス・イブ。忙しい中でお母さんが作ったケーキと料理を食べながらの

楽しい一時であった。食事後は”UNO”。リハビリになるなら、と家族全員でやる。弟

も良く付き合ってくれた。

 

1993年12月31日 金(750)

 今年最後の日記になった。この数日間は、お正月を迎える準備で忙しい毎日であった。

お母さんは「アッチコッチが痛いワー!」。

 夜は紅白歌合戦を見ながら4人で2時間程”UNO”。これが結構気に入ったようであ

る。除夜の鐘が鳴り始めて、オバアチャンと弟は近くの氏神様(北野神社)へ行き、帰り

に除夜の鐘を突いてきたそうである。「1994年が家族にとって良い年でありますよう

に」。

 

1994年1月2日 日(752)

 昨日からお母さんの実家に行っていた子供達を迎えに行く。夜更かしが続いていたので

2人も早めに寝てしまった。

 中学校の級友から来ていた年賀状を読む。中学生ともなると、字も文章も上手い子が結

構いる。皆、早い回復を祈り、「頑張れ!」と励ましてくれる賀状ばかりだった。その20

数枚にお礼の賀状を書いた。

 

1994年1月10日 月(760)

 小中学校の3学期の始業式。始業式に出席して病院に行く。

 残り3ケ月で何日登校できるか分らないが、貴重な思い出として残る”中学生活”をし

て欲しい。その後は別の学生生活になりそうだから.....。

 

1994年1月11日 月(761)

 明日は、最後の手術(気管を閉じる手術)の”準備”に当たる手術を行う。気管の穴を

閉じる為に、鼻の軟骨の一部を気管に移植するのだそうだ。

 明日の手術については中学校の級友も知っており、クラス全員で千羽鶴を折り、励まし

の手紙を書いてくれた。家族皆で、もう少しの間頑張ろう!!。

 

1994年1月12日 火(762)

 お父さんは午後休暇をとって病院に行く。病室ではお母さんが、心なしか心配そうに顔

を覗き込んでいた。表情は麻酔の分だけボーとしているようだが、問題は無さそう。

 暫く病室に居て、加納のオジイチャン、オバアチャンと話をしていたが4時半頃に帰

宅。

お母さんは病院に泊まるので、弟とオバアチャンの三人で外食に行く。

 

1994年1月15日 土(765)

 夕方、中学校の担任の先生が病室に見舞いに来てくれる。

 「皆が作ってくれた千羽鶴が応援してくれているようで頑張る事が出来た、と皆に伝え

てください。」とポツリ、ポツリと言ったのには感動した。

 多くの人達に励まされてここまで来ることができたのだが、今後も又、多くの人達に助

けられて頑張ることになるだろう。

 

1994年1月17日 月(767)

 今日もまだ微熱があったが、リハビリを再開する。

 

1994年1月26日 水(776)

 弟の誕生日。本当ならば外泊が許されて家族全員でお祝いをする予定だったが、手術後

の経過が思わしくなく、弟の誕生祝いは月末まで延期。

 気管に埋め込んだ1.5cmX3.0cm程の軟骨の下部が、上手く付着していないと言うことで

ある。

 

1994年1月30日 日(780)

 外出許可をとって11時に帰宅。延期していた弟の誕生日祝いを兼ねて、半月ぶりの家族

全員での食事である。楽しい一時を過ごして4時頃には病院へ。来週には外泊許可がでる

だろうか。

 

1994年2月2日 水(783)

 希望が丘養護学校へ弁当を持って体験入学に行く。午前中の予定だったが、丁度来てい

た岐阜大学のオーケストラの演奏を一緒に聞くことになり、病院に帰ったのは3時頃。

 学校での生活についてはまだ分らない所は多いものの、本人はそんなに嫌がっている様

子は無さそう。むしろ、話に聞いたワープロやパソコンに興味を持ったようで、次回の体

験入学の時に使わせてもらえるのを楽しみにしているようである。

 

1994年2月7日 月(788)

 手術からほぼ1ケ月、久しぶりに中学校に行く。

 学校に着くと、待っていた級友達が2階の教室まで運んでくれた。級友達の思いやりに

感謝すると同時に、ふと「何時までもこんな気持ちを忘れないで...」と思う。

 

1994年2月14日 月(795)

 ここ数日雪が降ったり止んだり、そして今日は今冬一番の寒い日になった。岐阜ではマ

イナス3℃だそうである。それでも中学校へ行った。

 午後からは、希望が丘へ2度目の体験入学。お母さん「基本的にはマンツーマンの指導

だし、今のまま普通校に通うよりも良いように思う」。

 

1994年2月18日 金(799)

 会社の取引先のIさんが「子供さんはどうですか?。パソコンの話をされてましたが必

要ならば言ってください、なんとかしますから...。東京のOさんも心配してまして同じ

事を言ってます」との事。ありがたい事だと思う。しかし、甘えてばかりいる訳にもいく

まい、「気持ちは有り難く」という事だ。

 

1994年2月23日 水(804)

 希望が丘へ3度目の体験入学。リハビリは基礎体力を付ける事が中心になる、との事。

それが本人にとって一番良いとの判断だろう。担当の先生から「なんでもっと早く来なか

ったの?。」と聞かれたそうであるが、素人の自分達にとっては病院の先生の判断に従う

より仕方がなかった!!。

 

1994年2月27日 日(808)

 農機具小屋を建て替える為に、建築屋さんに来て貰って相談。

 「障害者に優しい家」、又将来少しでも”自立”した生活が出来る場所にしてやりた

い。

見学等を含めジックリ考えて快適な家に...。

 

1994年2月28日 月(809)

 会社でフラッと訪ねて来たHさん「子供さんはどうかネ、生きていた事が良いかどうか

は分らんワナー」。子供の将来を心配しての言葉なのだろうが、無神経な発言である。

「生きていて良かった。」と本人が実感できるように、キットしてやるから...!。

 

1994年3月1日 火(810)

 今日から、30分ずつ”勉強”をする事になった。今日は理科(星の話)で、最も得意と

する分野だけに楽しみながらやった。どんな科目でもそうだと良いのだが...?。

 今日から、病院の夕食が30分遅くなる。患者さんの為を思っての措置ではあるが、その

為にお母さんの帰りが30分遅くなる。お母さんは帰宅してから、今までも結構忙しかった

のだが、更に慌しくなる。弟の事も心配だし...。

 

1994年3月7日 月(816)

 リハビリの先生「8ケ月から10ケ月かな」。歩行状態を冗談交じりに表現された言葉

である。生後8ケ月から10ケ月の赤ちゃんの歩行状態と同じ位ということ。「ウー

ン...」。

 

1994年3月8日 火(817)

 病院で婦長さん「T君のように4ケ所(4階級?)の脳挫傷だと、普通は寝たきりにな

るらしいよ、これほど回復したのはここでは初めて、と脳外の先生が言ってましたヨ」。

 リハビリの先生も「正直、ここまで回復するとは思ってもみなかった。」と言っていた

そうである。

 まだ育ち盛りで生命力が強かった事もありだろうが、お母さんの努力や病院関係者の治

療、加納のオジイチャン、オバアチャン達皆の支援の賜物である。

 

1994年3月14日 月(823)

 希望が丘からの要望で検査をしてもらった痰の検査がMRSAで陽性反応!!。その為

に今日から個室へ。希望が丘への入学も何時になるのか分らなくなってしまった。お母さ

んはショックで「何も出来んワー」。

 せめてもの救いは、付き添い(お母さん)は以前のような防菌の重装備(帽子、マス

ク、白衣...)はしなくても良いという事。

 

1994年3月26日 土(835

 小中学校の終業式。夜、中学校の担任の先生から電話があった。「30日にでも、クラス

の皆の手紙なんかを持って、お見舞いに行きます。」との事。

 1年近くお世話になった先生始めクラスの皆に、子供と一緒にお礼を言いたかったのだ

が...。時期があまりずれない内に、そんな日が来るだろうか?。

 

1994年3月29日 月(838)

 今日の痰の検査も陽性だった。明日は、クラスで「お別れ会」を開い

てくれる予定だったが...、そしてお礼の出来る最後のチャンスだったの

だが。

 明日の午後には担任の先生が級友の手紙や”言葉”を持って来てくれ

るのだろう。級友も来てくれるかもしれない。辛い別れの場になるか

も?。

 本人にとっては、本当に人生の中でも特別な別れ、今まで後ろ髪を引かれていたものか

らの別れになるのかな、と思う。同時に、新しい人生の出発点にしてやらねば、と思う。

 

 

  

 

「リハビリ2(糸貫中学校)編」は以上で終わりです。

 

この4月には糸貫中学校から希望が丘養護学校に転校したのですが、

度目のMRSA感染との戦い、手術を経て退院し、

実際に登校出来るようになるには

暫くの期間が必要でした。

 

その経過と希望が丘の生活は

希望が丘養護学校編」

読んで下さい。

 

 

感想や助言等がありましたらお寄せください。

   

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