「自立にむけて」 

  


  

1991年12月13日

 塾から自転車で帰る途中に、2トントラックと正面衝突。小学校6年生、12歳の時。

 全身に多数の骨折箇所があり、意識不明の重態で岐阜県立病院の緊急救命センターへ。

 事情を聞いた小学校の先生、少年野球チームの親さん達、親類が夜遅くではあったが駆

けつけてくれた。

 

1991年12月14日

 緊急救命センターで最初の面会。

 「命は取り留めた模様だが、ここ2〜3日が山」とのこと。

 「肺を中心とした胸部の損傷が中心で、胸部を救う為の措置が中心になる。その為に脳

への<鎮静剤>の投与を行う。場合によっては後遺症も」。

 

1991年12月16日

 小学校の校長先生が見舞いに。

 「クラスの生徒が励ましの作文を書いてます。元気にになったら渡します」との事。

 医師の勧めで、父さん、母さんは一旦帰宅。

 

1991年12月18日

 主治医が今日から「脳神経外科」に。

 

1991年12月22日

 依然意識不明の状態。ただ容体は安定している。

 看護婦さん「大きなお子さんですね。だから助かったんでしょうね」。

 

1991年12月25日

 今日から鎮静剤をストップ。「覚醒に向けて、自力によるガンバリが必要な時です」。

 

1991年12月26日

 看護婦さん「呼びかけたりして刺激を与えると目を開けますよ。まだ焦点は合ってない

ようですが」。

 小学校の終業式。担任の先生が2学期の作品を持って見舞いに。今はそれを見る気力も

無い。「元気になったら一緒に見よう!!」。

 

1991年12月29日

 医師「脳の中枢部に損傷があると、意識が戻るまでに3週間ぐらいはかかります」。

 「3週間」となると新年早々と言うことになるのだが...。

 

1991年12月31日

 10分間の面会時間の間にも、手足を動かし、欠伸もする。動きが見えてきた。

 

1992年1月1日(19)

 クラスを始め多くの友達から年賀状が届く。「早く良くなって...」。

 

1992年1月2日(20)

 入院後初めて、看護婦さんに身体を洗ってもらう。

 目、口、手等の動きが少し早くなってきた。しかし、目の焦点が合っていないようで意

識が回復しているようには思えない。

 

1992年1月9日(27)

 (救急救命センター内の)個室から広い部屋に移る。少しでも刺激がある所に移す方が

良いとの判断。又、手、足を動かすリハビリも始る。

 

1992年1月12日(30)

 少年野球チームの会長さんから「団員皆で、回復をを祈りに北野神社に行ってきた」と

教えてもらう。お礼が出来るようになるのは何時になるのか?。

 少しでも刺激を与えようとラジオを持ち込む。”柔らかい”曲を聞かせようとオルゴー

ルの曲を中心にCDを買い込んできた。

 

1992年1月14日(32)

 担当医「事故当時の酸素不足と、脳に空気が入ったことで、意識が戻るのに2ケ月ぐら

いかかることもある」。

 

1992年1月17日(35)

 他の病気を併発しないように、気管を切開して酸素吸入する呼吸方法に変える。

 何で更に身体を傷付けなければならないのかと思いつつも、やむを得ない事なのだろ。

 

1992年1月18日(36)

 一般病棟に移動。今日からは自由に会う事ができる。

 ”床ずれ”防止にエアーマットを敷く。

 鼻から湯を入れる流動食の準備も始った。

 救命センターの「面会」待ち時間に、お母さんが折った千羽鶴(実際には5千羽鶴?)を部屋に掛ける。「早く元のように”羽ばたけ”ま

すように......」。

 

 

 

 

 

1992年1月24日(42)

 尿検査で”MRSA”を検出。個室に移り、面会者は「防菌」服、マスク着用が必要に

なり、看護で付き添っている母さんには負担がかかる事に。

 

1992年2月1日(50)

 看護婦さん「今は、泣き顔が多いんですが、そのうち笑顔を見せるようになりますよ。

色々な変化が見られるようになります」とのこと。

 

1992年2月11日(60)

 最近、目、口、等の顔の表情や、手足への刺激に対する反応等に変化が出てきた。担当

の部長医師の診察でもそうしたことを確認されたそうである。

 

1992年2月12日(61)

 初めて”笑顔”を見せた。自分のオナラに母さんと看護婦さんが笑っていたら一緒に笑

ったそうである。

 

1992年2月15日(64)

 週末の休日になると、色々な人がお見舞いに来てくれる。今日は小学校の校長先生や担

任の先生が来てくれた。クラスの友達の声を採った3本目のテープを持って来てくれた。

級友の声の刺激が一番良い?。

 週末の付き添いはお父さんということが多い。母さんは一週間分の家事の片付けと準備

である。

 

1992年2月20日(69)

 流動食再開。白湯に栄養分の入った物で朝・昼・晩の3食。

 (しかし、この日の夜に戻した為、翌日から又中止になった。)

 

1992年2月24日(73)

 医師の「意識の回復」とはどんな状態のことを言うのだろうか。今では、母さんの「足

を動かして」との指示に、確かに足を動かそうとするそうである。これはもう意識が戻っ

ているのと違うのか?。

 

1992年3月3日(81)

 尿の検査から菌の検出が無く、ようやく「隔離

室」から脱出。(検査で無菌の日が3日続くとよ

うやく脱出出来る。)

 40日余りかかったが、とにかく個室から出

て、色々な刺激のある部屋に移動。

 看護婦さんが「日課表」を作ってくれた。リハ

ビリの時間もチャント入っている。

 

 

1992年3月5日(83)

 今まで手足の”緊張”を取るリハビリが中心であったが、今日からはリハビリ室での訓

練や風呂・入浴での治療が始る。もう!”立つ”こともやる。

 

1992年3月6日(84)

 流動食、再々開(今度は大丈夫だろうか)。

 

1992年3月7日(85)

 担任だった先生と級友が、卒業アルバムを持ってお見舞いにきてくれた。目標は卒業式

に出席する事なのだが......。

 先生や友達が色々話しかけてくれたり、笑わせたりしてくれた。しかし、どこまで理解

しているのかが判らない。

 

1992年3月8日(86)

 今日は非常に多くの人達がお見舞いに来てくれた。

午前中に卒団式を終えたスポーツ少年団の監督・コー

チ・友達それに親さん達が来てくれた時間帯は病室に

入れない人も。色々な記念品や見舞い品を持って来て

くれ、色々話をしてくれて、一緒に居た看護婦さんも

ついついもらい泣き。

 

 

 

1992年3月13日(91)

 今まで栄養補給の中心であった点滴は止めになり、流動食のみになる。

 事故から3カ月。当初聞いていた「長くて3カ月ぐらいたてば意識が戻るのでは」とい

う期間もすぎてしまった。

 看護婦さん「今日は、”泣き顔”ではなく本当に泣いていましたよ。」とのこと。

 もう意識は戻っているのではないか?。しかし「本当に泣いていた」のは何故?。

 

1992年3月21日(99)

 毎週のように見舞いに来てくれる担任の先生が、今

回はクラスの女の子を一緒に連れてきてくれた。教頭

先生に、卒業式には出席出来そうにない旨、伝える。

代理の出席も辞退した。

 母さん「辛くなるばかりだから......」。

 

 

 

 

 

1992年3月22日(100)

 看護婦さん「今までも長かったけれど、これからはもっと長いわよ。意識は回復してい

るんだけれど、色々な機能がダメになっているから...。これから一つ一つ回復させてい

くんだから」。

 

1992年3月23日(101)

 事故から今日までのことを話してやる。「もうすぐ卒業式だ」と話すと、涙をポロポロ

とこぼしていた。意識が回復していることを実感した。ただ、的確に反応を返せないだけ

なのだ。

 

1992年3月25日(103)

 小学校の卒業式。午後には先生と仲の良かった友達、そのお母さんがオルゴールを持っ

て見舞いに来てくれた。卒業式には名前を呼んでもらったそうであるが、通知表は「評価

不能」。

 

1992年3月27日(105)

 最近、リハビリに行く事を喜ぶようになった。入浴や体を動かす事が気持ちよいのだろ

う。リハビリ室での動きも除々にではあるが良くなってきたそうである。

 

1992年3月29日(107)

 昨日、今日と級友やスポーツ少年団の友達(親さんと一緒)のお見舞いが続いた。友達

の話に、笑顔でしか反応出来ないのを見ていてやはり目頭が熱くなる。

 

1992年3月30日(108)

 今日から、二人部屋に移動。看護婦さんの詰め所からも離れた部屋になった。

 父さんの会社の女子社員が作ってくれた千羽鶴が届く。

 

1992年4月1日(110)

 一昨日変わったばかりの部屋(小児科病棟)から、今日又部屋を移動(脳外科病棟)。

 6人部屋であるが、「刺激があって良い」とのことである。

 昨日まで、ラジオの高校野球の実況中継を聞いていたのだが、この部屋では電波が上手

く届かず聞けなくなってしまった。重要な刺激が無くなってしまったことになる。

 

1992年4月3日(112)

 母さんの友達がポータブルテレビを持ってきてくれた。しかし配線がわからず今日は”

聴く”ことが出来なかった。

 夜、寝る時に弟が「お母さん、早く元の生活に戻りたい....」。まだ3年生になったば

かりである。

 

1992年4月6日(115)

 小中学校の入学式。隣のベットの親子が中学校の部活の話をしていた。それを聞いてい

たのか様子が急変し涙を流していた。看護婦さんが「早く治って中学校で部活をやるんで

しょ?。」と言ったらよけい涙が流すようになったそうである。ここまで感情をハッキリ

表現出来るようになった。

 

1992年4月12日(121)

 相変わらず、週末には見舞いに来てくれる人が多い。今日は小学校のスポーツ少年団で

一緒に野球をやった監督とチームメートが来てくれた。

 今日は弟のスポーツ少年団の入団式なのだが、お父さんが病院に来ている為、参加せず

本を持って見舞いに来た。

 

1992年4月14日(123)

 足の屈伸(横のなったままだが)を50回やった。先週まで30回だったのだが本人は

意識して頑張るようである。このあたりの頑張りようは小学校の時からズーとである。

 「左手の回復に比べ右手の回復が遅い。かなりの後遺症になりそう」ということでる。

 

1992年4月18日(127)

 小学校時代の先生が、女生徒3人とお見舞いに。3人で吹き込んだテープをお土産に持

って来てくれた。最近は音(音楽)に対する反応がすごい。

 

1992年4月20日(129)

 加害者側の保健会社に提出する担当の医者が書いた診断書「....日常生活の動作は全面

介護が必要であり、よくなる見込みは低い....」。これを読んだお母さんのショックはと

てつもなく大きかった。

 

1992年4月22日(131)

 お母さんは今も診断書のショックが尾を引いている。しかしそれを忘れようと一生懸命

介護に当たっているようだ。

 医師から加湿器を持ってくるように言われ、あちこちの電気屋さんに問い合わせるもの

なかなか見つからない。

 

1992年4月29日(138)

 ゴールデンウィークが始る。今日から一週間程は父さんも一緒に毎日病院に来る事がで

きる。

 最近判ってきた事。本を読んでやるとその反応(うなずく事)から、事故当時のレベル

の知識は持っているようである。

 

1992年4月30日(139)

 担当の医師から現在の状態と今後の見通しを聞く。「...よくここまで回復した。この

あたりが限度かもしれない...」。頭を殴られたようになり、”目の前が真っ暗になる”

というのはこんな状態を言うのかと思った。この話はお母さんには言わないことにした。

 車椅子に載せて”散歩”。歩きながら歌をうたってやったり、小さい頃や小学校の頃の

思い出話をしてやる。涙が止まらなかった。

 

1992年5月10日(149)

 1日早い13歳の誕生日のお祝いをする。お母さんの作っ

たケーキを囲んで、家族4人でお祝いをしてやった。父さ

んも母さんもヤッパリ涙が止まらなかった。

 帰り際「次の誕生祝は家でやろうな」と言ったら、泪を

ポロポロ流しだして、父さんも母さんも帰れなくなってし

まった。

 

 

 

1992年5月23日(162)

 車椅子に移動する時、少しの時間ではあるが、頭を自分の力で支える事が出来た。看護

婦さんもビックリ「こんな力も付いてきたんだ!」。

 昨日散髪をしてもらい、丸坊主の頭がサッパリしていて気持ちよさそうである。

 

1992年5月26日(165)

 担当医(脳神経科)の話「気管の手術をして、喉を元に戻したとしても、話が出来るよ

うになるとは限りません。脳の言語中枢が障害を受けている可能性があります」。またま

たショッキングな話である。しかし、今は本人の治癒力と、母さんをはじめとした家族皆

の介護を信じるのみ。

 

1992年6月1日(171)

 今週からグリンピース、豆、ニンジン等を潰した食事を摂るようになった。ただ、婦長

さんが持ってきてくれた鰹だしのスープは、最初チョット飲んだだけで後は嫌そうにして

飲まなかったそうである。味覚も戻ってきたのか?。

 

1992年6月7日(177)

 テレビデオを購入。テレビは良く見えないが、夜の野球中継を”聴く”ことは出来る。

 最近、車椅子での散歩は日に2回。今まで使用させてもらっていたリクライニング式の

車椅子は自由に使えない為、普通の車椅子での散歩になっている。それだけ首もしっかり

してきたということである。

 

1992年6月12日(182)

 気管の手術の為、前に居た小児科病棟に部屋を移動。個室になり、有料だそうである

が、家庭的な過ごし方が出来て良い。

 

1992年6月15日(185)

 喉を切開し、気管を塞いでいた肉芽を除去すると共に、T字型の管を埋め込む手術を行

う。「切開が声帯まで行かなかったので、声を出せるようになると思いますよ」とのこと

であった。声が出せるようになれば又一段と良い意思疎通が出来るようになる。

 母さんは、「付き添わなくても良いですよ」と言われたものの、やはり心配で簡易ベッ

トを借りて病院に泊まる。

 

1992年6月26日(197)

 喉の手術以来、微熱がズーと続いており、又痰が詰まって咳き込んだり、食べたものを

上げたりしてパジャマや下着を汚す事が多い。母さんの帰宅後の洗濯が何時もより多くな

って大変。

 今日、母さんが病院に着くと、ポロポロと泪を流しだした。色々聞いてみると「早く中

学校へ行きたい」、「皆と一緒にいろんなことをしたい」と言う事だったそうだ....。

 

1992年7月6日(207)

 気管の状態もようやく落ち着いてきたようだし、唾液を飲み込むことにようやくなれて

きたのか、咳き込んだりすることが少なくなった。しかし元気が無い。中学校に行けそう

に無いことをハッキリ意識しているようである。

 

1992年7月7日(208)

 七夕祭。病院では、看護婦さんが中心になって、患者さんを励ます集いを開いてくれた。

それはそれで嬉しい事であるが...。

 

 

 

 

 

 

1992年7月8日(209)

 昨日の痰の検査で、2度目のMRSAが発覚。午後から隔離用の個室へ移動。部屋から

は出られなくなってしまった。部屋の中でも頭にキャップを被り、マスクをし、防菌措置

をした上着を着けていなければならない。付き添っている母さんは大変である。それ以上

に精神的なショックは大きい。

 少しずつ、少しずつ積み上げてきたリハビリの効果も、何時開放されるか判らない”

菌”の為に元の木阿弥になってしまうのでは....。

 

1992年7月20日(221)

 中学校のクラスメートが吹き込んでくれたテープと「学級通信」が届く。まだ見ぬ友に

「早く治って学校に来い」と言う気持ちが素直に表現された文章が多い。

 明日から小中学校の夏休み。「二学期には....」と思うのだが。

 

1992年7月29日(230)

 今の生活の中心はラジオを聞くこと。続いて本を読んでもらうこと、テレビを”見る”

こと、音楽のテープを聞くこと、そしてリハビリの順になる。

 今、バルセロナオリンピックの真っ最中。オリンピックの実況中継もよく聞いている。

 

1992年8月1日(233)

 一昨日から経口の飲み物の許可が出た。リンゴジュース、牛乳などを飲んでいたが、特

に咳き込む事も無く、それなりに飲み込むことも出来るようになってきた。そして今日か

らは、プリン等の柔らかい食べ物も許可が出た。

 

1992年8月3日(235)

 小学校の時の教頭先生がお見舞いに。「本当に変わってきたネー」との事。毎日見てい

るとその変化もなかなか判らないのだが、久しぶりに見るとその違いがハッキリ判るよう

である。お土産に持ってきて頂いたアイスクリームをおいしそうに食べた。

 

1992年8月12日(244)

 担当の先生より「言語関係の先生に見てもらい、今後の言語のリハビリについて相談し

ます。」とのことであった。舌の動きもすこしずつではあるが出来るようになってきた。

 微熱が続いている為抗生物質の投与が行われてきたが、今日で投与を中止するとのこと

である。以前から心配されていた肝機能への影響を出さない為である。回復への道のりは

相変わらず行ったり来たりである。

 

1992年8月18日(250)

 舌の動きがかなり良いということで、母さんがストローでジュースを吸わせたところ、

それなりの問題なく飲むことが出来た。更に、スプーンにヨーグルトを載せてやると、最

初は鼻に当たったり唇に当たったりしたものの、それでも口に運んだそうせある。しか

し、左手である。

 

1992年8月23日(255)

 少年野球チーム時代の監督さんとチームメートがお見舞いに来てくれた。部屋の中に入

ってもらえなかったが、一生懸命手を振って応えていた。「変わってきたネー」の一言が

嬉しい。一昨日は母さんの勤務先の教授や同僚がすごい花かごを持って見舞いにきてくれ

た。子供さんを亡くされた経験のある教授は泪ぐんでいたそうである。

 

1992年8月27日(259)

 ジュースを飲んだり、ヨーグルトやアイスクリームを食べるのが日常化してきた。食べ

る時には気管に入らないように顎を引くようにして食べる。しかし筋肉が弱っている為頭

は支えてやる必要がある。

 会社の帰りに、「植物人間からの復帰」と「看護リハビリテーション」を買ってきた。

少しでも参考になる所があれば...。

 

1992年8月30日(262)

 目の”訓練”の為に、クリスマスツリー飾りの点滅電球を部屋に取り付ける。

左手にボールを持たせ「光ったら強く握れ」というと、的確に反応する。視覚障害の程度

は分らないが全然ダメな状態ではない。

 明日で学校の夏休みも終り。母さんがほとんどいなくて父さんも会社で、心配していた

弟の夏休みであったが無事過ごす事が出来た。しかし、思い出の無い夏休みだっただろう

ナー?。

 

1992年9月1日(264)

 ヨーグルト1個、アイスクリーム1個、ジュース50cc〜100cc、飴2〜3個。最近の1日の食べ物である。

 加納(母の実家)のお婆チャンが、鉄アレイならぬ砂アレイを作ってきてくれた。腕や

足の訓練(リハビリ)用である。

 

1992年9月9日(272)

 母さんの友達が、ひらがなと数字の一覧表を作ってきてくれた。一文字づつ指で指しな

がら”読む”ことをやってみたものの認識出来ないようである。目の焦点が合わなくて認

識出来ないのか?、文字を忘れてしまったのか?....。

先生に確認するのも怖い。

 

 

  

 

「覚醒編」は以上で終わりです。

ここまで読んで頂きましてありがとうございました。

数日後にMRSAから開放されて、いよいよ本格的なリハビリが始ります。

宜しければ、続きの「リハビリ編」を読んで下さい。

 

 又、感想や助言等がありましたらお寄せください。

   

 

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