さらさら、さらさら、前髪を指先が梳く気配がする。
 慣れた、その優しい感触に自然、頬が緩んで。
「……!?」
 けれど次の瞬間、それが今ここにあるはずのないものだと気付いて葛馬は上体を跳ね起こした。
「っ……」
 途端、こめかみの辺りにズキンと鈍い痛みが走って、低い呻き声が漏れる。
 目の前が暗くて、何も見えなくて不安を覚えるのと同時に、大きな掌が両目を覆うように優しく添わされた。
(ぇ……)
「大丈夫だよ。急に動くから、身体がびっくりしてるだけ。ほら、もう一度横になって……」
 優しく促されて、もう片方の手が背中に添わされて硬いベッドの上へと誘導される。
「……なんで、お前がここにいんの?」
 視界が塞がれていても、間違えるはずがない……指の持ち主がスピット・ファイアであることを確信して問えば、何時もより尚優しい声が落ちてくる。
「亜紀人君がね、メールをくれたんだよ」
 立眩みのようなものだったのか、数度瞬く間に視界が戻って。
 指先の隙間から夕焼けに染まる彼の姿が見えた。
 髪や瞳だけじゃなくて、全部が仄かに赤くて、幻想的で、キレイで……怖いぐらいだ。
(相変わらず美人ー……じゃなくて、っと、ここ……どこだ……?)
 それにぼんやりと見惚れて……数拍遅れて辺りを見回して、葛馬はようやく其処が通い慣れた東雲東中の保健室だと気付いた。
 寝かされていたのは備え付けの安っぽいパイプベッドで、申し訳程度に薄い上掛けが掛けられている。
「俺、どうしたんだっけ……?」
 意識がはっきりしてきたのを見て取ってか、視界を覆っていた掌が離れていく。
 それを少し寂しく思いながら、葛馬はまだ微かに痛むこめかみを押さえて霞がかった記憶を探った。
「多分軽い脳震盪だと思うけど……頭打って意識を失ったの、覚えてない?」
「あー……」
 言われてみればぼんやりと、覚えているような気がする。
 多分、足を滑らせたのだ。
 最近疲れが溜まっている感はあったから、そのまま意識を失ってしまったのだろう。
 それで保健室に運ばれて……亜紀人に連絡をもらった彼が、駆けつけてくれたと言うことか。
 連日ヨシツネやベンケイらにしごかれた上、自身でも夜遅くまで自主練を重ねていたのだから疲れが溜まっていたとしても仕方が無い。
 ……それでも、葛馬には練習が止められなかった。
 その理由は、前とは少し違っていたのだけれど。
 以前は怖くて、不安で、練習せずにはいられなかった。
 練習してる時だけは……走っている時だけは全部忘れていられたから、追われる様に練習を繰り返した。
 でも今は、少し違っていて。
(……ちょっと、でも……)
 早くキレイに走りたい、少しでも彼に近づきたい。
 追いつく事は出来なくても、せめてその背中を見つめていられるぐらいには。
 そんな思いに、突き動かされるように練習を繰り返している。
 無駄の無いキレイな……あの理想的な走りを脳裏に思い浮かべて。
 ……でも全然、上手くいかなくて。
 アニマルハウス戦の、あの時。脳裏に思い描くように……彼のように走れたのが、嘘みたいだ。
 今日もアイオーンに罵倒された。
(……他の奴に何か言われるよか、アイオーンに言われんのが一番……クるんだよな……)
 彼が、かつて炎の道を走っていて……スピット・ファイアのチームにいて、その後継者と目されていたと聞いたからかもしれない。
(そんなの、別におかしいこっちゃねーけど……)
 むしろアイオーンの実力を考えれば当然なのだけど、でも何となくイヤなのは、それが彼にとても近い響きだからだ。
(だからって、別に俺がそうなりたいってワケじゃねーンだけど……)
 そんなの、高望み……と言うよりむしろ分不相応だ。
 でも自分と、彼の間にいるようで……複雑な気持ちになる。
(んで、こんな……)
「……カズ君?」
「ぁ……」
 心配そうな声が落ちてきて、葛馬ははっと小さく息を呑んだ。
「……あー、そのー……ごめん」
 隣に佇む青年を見上げて、極々小さな声で呟く。
「なんで謝るの?」
 くすっと小さく笑う音がして、くしゃりと髪を掻き上げられて額にキスが落ちてくる。
 気恥ずかしいのと嬉しいのが半々で、葛馬は仄かに赤く染まった目元を隠すように手の甲で其処を擦った。
 沈みかけていた夕陽の赤い光が薄れて、雲が茜色とも紫ともつかない曖昧な色合いに染まっている。
(今、何時ぐらいなんだろ……)
 練習はもう終わってしまっているのだろうか。
 スピット・ファイア以外に人の気配はないけれど、亜紀人達はどこに行ったんだろう。
「……起きられる?」
 ぼんやりと考えていたら、両手を取られてそう促された。
 小さく頷いてゆっくりと身体を起こせば、そのまま更に引っ張られて前のめりにスピット・ファイアの方へと倒れ込む形になる。
 反射的に彼の背中に腕を回しかけて……葛馬ははっと我に返った。
「……ちょ、ここ学校だっつーの!!」
 慌てて身体を離そうとしたら、背中に回された腕でぎゅっと抱き締められてしまって、心臓が跳ねる。
「……っ」
 上げかけた悲鳴は際どい所で噛み殺した。
 大きな声を上げて誰かが聞きつけてきたら困る。
「大丈夫だよ。亜紀人君達は左君が送っていったらしいし、君は怪我人なんだから少しぐらい甘えても、ね」
 男の胸を押しやって逃げ出そうとするのを易々と引き止められて、落ち着かせようとするかの様に柔らかく背中を叩かれて、反抗の気力萎えてしまいそうになって、困る。
 包み込むような仄かに甘い香りと慣れた体温に、ここがどこなのかも忘れて落ちついてしまいそうだ。
「……病院まで送るから。ね?」
「い、いいよ病院なんて、そんな大袈裟な!」
 まるで小さな子供にでも告げるかの様な台詞にカッと頬が熱くなった。
 ちょっとすっ転んで気を失ったぐらいで病院に行くなんて大袈裟だし、カッコ悪い。
 それにこの辺で、通常の受付が終わってるだろう夕方時にに頭を見てくれそうな大きな病院となると樹も入院している巻上女史の病院ぐらいしかない。
 其処に連れて行かれるとなると樹と鉢合わせする可能性もある訳で、葛馬としてはそれだけはどうしても避けたかった。
(ゼッテー、笑われるっつーかバカにされるっつーか……)
 第一スピット・ファイアと一緒のところを見られたらなんと言い訳をすればいいのか。
「大袈裟じゃないよ。頭を打ったんだからちゃんと見てもらわないと」
「もうどうもねーし!!」
 全然平気だから、と押しのけようとしたけれど。
「ダメだよ、頭は後で症状が出ることもあるんだから」
 穏やかな声音はそのままに、けれど珍しく譲る気配の無い強い声が帰ってくる。
 どうにか抱き締める腕からは逃れられたものの、腕は大きな手でしっかり掴まれたままだ。
 彼は基本的に葛馬に甘いけれど、こう言うことでは絶対に譲らない。
 ……と言うのは良く知っているのだけれども、今回ばかりは葛馬の方も絶対、譲れない。
 押し問答状態になって、睨み合うような形になって……葛馬が一方的に睨んでいた、といった方が正しいのだが……生まれた膠着状態を破ったのは。
 ガラリと躊躇いも遠慮もなく……ついでにノックもなく……保健室の扉が開け放された音だった。


「!?」
 その音に慌てて振り向いた葛馬の目に映ったのは、扉の前で不機嫌そうな表情を隠すこともなく佇んでいるアイオーンの姿だった。
「アイ、オーン……」
 なんで、と思って。
 次の瞬間、マズイ、と思った。
「っ、あ、これだな! えっと、その、ちょっとした知り合いッつーか!! あのっ……」
 とにかく誤魔化さなくてはと口を開いて、保健の先生が居たら怒られるのは間違いないってぐらい大きな声を上げた、のだけれど。
 その葛馬の声が聞こえなかったかのように、彼は真っ直ぐにスピット・ファイアの前へと歩んできた。
「……やぁ、左君」
 何事もなかったかの様にほんわり微笑んでスピット・ファイアが右手を上げる。
「…………何やってるんですか、貴方は」
 アイオーンは長い指で眼鏡のブリッジを押し上げ、深い溜息と共に苦々し気にそう吐き出した。
「…………。」
 ……なんだか良くない雰囲気だ。
 問題児の樹と長年一緒に行動していたお陰で、葛馬はある意味修羅場に慣れている。
 要するに恋愛方面ではあり得ないぐらい鈍くても、何となくヤバイ空気と言う奴を察知する能力には長けていた。
 なんだかよくわからないけど、とにかく、マズイ。
「………お、俺先に帰ッ……!」
「……ダーメ」
 逃げなきゃと思って立ち上がろうとしたら、フードを引っ張られてがくんとつんのめった。
「ぎゃっ!!」
「……亜紀人君にメールをもらったんだ。カズ君を病院に連れて行って欲しいって」
「…………。」
 ベッドに逆戻りさせられて、退路が閉ざされたことを知る。
 ……こうなったら目立たないように小さくなって、見守っているしかない。
 葛馬と彼が一緒に居ても、アイオーンは動じた様子もなければ何かを問う様子も無い。
 という事は多分、ある程度のことは知っているのだろう。
 今更誤魔化そうとしても無駄だ……と開き直ることにした。
(………どの程度までか、考えんの、コエーけど)
 精々知り合い程度でありますように、と心の底で祈りながら、そろりとアイオーンを見上げる。
 眼鏡のガラスに窓から入る夕日の残り火が反射して、その向こうで彼がどんな表情をしているのか見えなかったけれど、機嫌が良くないことだけは明白だった。
「……では、私は必要ありませんね」
「あ、ひょっとして左君その為に戻ってきてくれたの?」
 炎を封じ込めたような茜色の瞳が、嬉しそうに和む。
「……左君、なんだかんだ言って律儀だもんねぇ」
 そう言ってやんわりと微笑む男に、左は眉を顰めて渋面を作った。
 どこまでも見透かしているような物言いが気に入らない。
「……シムカ様に預かった大切な雛鳥の一匹ですからね」
 不機嫌さを隠そうともせずそう告げれば、彼は少し困ったように笑った。
「カズ君は僕が連れて行くから、大丈夫だよ」
「……わかりまし……」
「………お、俺アイオーンに連れてってもらう!」
 仕方が無い、ともう一度大袈裟な……見せ付けるための……溜息を吐いて会釈をしかけたところで、予想外の声が上がった。
「……ぇ?」
「え、カズ君?」
 左は一瞬彼が何を言ったのかわからず、目を瞬いてそちらを見た。
 左に向けられていた茜色の瞳も、驚いたように瞬いて同じように少年の方を見やる。
「……ちゃんと病院には行く、だから、いいだろ!」
 病院に行かされるのが余程気に入らないのか、彼はどこか拗ねた様に、不機嫌そうにそう言って外方を向いた。
「でも……」
「いーからっ、第一お前仕事どうしたんだよ」
 スピット・ファイアが何か言いかけたのを強く遮って、立ち上がる。
「今は休憩中だよ。少し長めに取らせてもらえることになったからカズ君を病院に送るぐらいの時間は……」
「休憩中ならちゃんと休憩しとけよな」
 釣られたように立ち上がる男の鼻先に指を突きつけて、黙らせて。
「行こうぜ、アイオーン」
 彼はそう言って、ぐいと手の甲で鼻先を擦ると、先に立って歩き出した。
「…………」
 珍しく本気で困ったような表情を浮かべているスピット・ファイアを見て。
 少しだけ溜飲が下がる思いがして、アイオーンは形良い口元に、薄く笑みを引いた。
「……と、言う訳ですから。貴方はさっさと仕事に戻ってください」

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 最近スムーズに文章がかけなくてぐるぐるしてます……。
 なんだかカクカクしている気がする……(?) ひょっとしたら書き直すかもしれません><
2008.10.13

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