南湖にて W7月3日
戊辰の役の戦跡ー(1)

福島県白河市はかつて戊辰戦争の折、東西両軍の激突する激しい戦場となった。1868年(慶応4年)1月鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、薩・長・大垣藩等が主体となる新政府軍(西軍)が会津藩、米沢藩、仙台藩等の諸藩が結集する奥羽越列藩同盟を鎮定するため東進し、大挙して三方から白河を攻めたてた。
東軍の会津、仙台、棚倉の兵は白河城の南西の山に陣して迎え撃った。この地は白河口の激戦地で、閏4月25日会津兵は一旦西軍を退けた。しかし5月1日再び来襲したので西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣して迎え撃ったが、激戦の後弾尽き刀折れて戦死者数知れず敗退のやむなきに至った。この時白河城も落城した。戦後両軍は各々戦死者の碑を建て霊を慰めた。白虎隊の悲話で知られる会津城は、約5か月後の9月22日降伏し開城となった。(白河市教育委員会、市観光協会の説明板より一部引用)
白河市の南湖付近を散策していると、ここ彼処に散在するこの地の歴史を語る史跡に巡り合うことが多く市内全体では、こうした慰霊碑は50か所以上に及ぶといわれる。戦乱収まっての後敵味方の別なく亡骸を葬り、霊を慰めた城下町の人々の優しい心は今にも伝えられて、毎年慰霊祭が行われているという。


南湖の西北に1.5q白河口の激戦地、稲荷山の遠景。東軍と西軍の激突による死者は夥しい数に上った。 南湖の東方約1qの合戦坂(こうせんざか)地区、お婆さんが一人畑仕事をしていた。戊辰戦争この付近は一番激しい戦争だったのだと語っていた。
稲荷山々麓に立つ慰霊碑、「戦死墓」と刻まれている。地元の町の人たちによって管理されている様子で季節の花が供えられていた。 合戦坂から市内へ500mほどの八竜神地区の道路左側に建立された「戊辰戦死之碑」藤沢など4か所に散されていた東軍の死者を大正年間に合葬したと記される。
「戦士墓」に隣接する「会津藩戦士墓、会津銷魂碑」と記されてこの最大の激戦地で戦死した304名の藩士の名が記されている。題字は藩主松平容保の筆によるものという。 会津藩戦士の墓と道を中にして向かい会いに立つ「長州大垣藩六人之墓」慶応4年閏4月25日の白河口の戦いで戦死した長州と大垣藩の六名が葬られている。
      
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