法住寺合戦

法住寺合戦のあらましを読む

義仲の不幸は側近の人材不足

 義仲にとって不運だったのは、彼のまわりに頼朝にいたような、中央の政治に精通した参謀がいなかったことだ。武力で京を制圧したところまでは良かったのだが、その後の武家政治に対するヴィジョンを持った者がいなかったのである。一方の頼朝は、平治の乱に敗れ20年の歳月を伊豆の配流地で過ごした。その間には当然、地方武士の考えや不満などを身近に見聞したはずである。そうしたところから、地方武士の権益を守り、その代わり武士達を従わせるという幕府の基本姿勢を打ち立てることができた。
 加えて、頼朝の側近には大江広元や三善康信など京から下ってきた下級官人が政治顧問として頼朝を補佐しており、巧みに朝廷との政治的な駆け引きをすることができた。頼朝自身も十三歳で伊豆に配流されるまでは、父義朝とともに京に住んでいたし、また任官もしていた。決して単なる田舎侍ではなかったのである。
 対して義仲は2歳の時、父義賢が頼朝の兄義平に誅せられ、木曽の豪族中原兼遠の元に預けられて以来ずっと木曽の山奥で過ごしてきた。関東よりも都近くに住んでいたとはいうものの、“木曽の冠者”と呼ばれていたくらいであるから当然任官もしていない。木曽の野生児として育った彼にとっては武勇こそが大切で、ちまちました政治的駆け引きなどは思いも寄らなかったのであろう。
 物語にはしばしば大夫房覚明という祐筆が登場し、大事な場面で起請文や牒状を記す役を果たす。この覚明は元興福寺の僧で、最乗坊信救と名乗っていたという。以仁王の乱の際、三井寺の大衆が南都へ送った牒状に対する返牒を記したのは、この信救である。
 しかし、内容が「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」というものだったために清盛の怒りを買い、おそれた信救は奈良を抜け出し義仲の元に身を寄せた。長年、興福寺にいた覚明が、都の事情に精通していただろうことは想像に難くない。また、出家するまでは藤原氏の学問所である勧学院に出仕しており、多くの著書もある。非常に学才に長けた人物だった。このため物語でも義仲の入洛までは、「木曽の頭脳」といった役割を与えられているのである。京の統治に際して義仲を諫める者は、この覚明をおいてほかにはいなかったはずなのだ。
 しかし都入りしてからは覚明が登場することはほとんどなくなり、法住寺合戦に勝利した後、義仲が天皇になろうか、法皇になろうか、いや関白になろうと言った際、義仲の勘違いを正す役として登場するばかりである。しかしその役も諸本によっては今井兼平であったりして、必ずしも覚明ではない。このことについて上横手雅敬氏は、義仲には知識人としての覚明の重要性がわからず、いつしか義仲のそばから遠ざけられたのだろう、と推測されている。

戦功だけに期待した無計画な入京

 物語の作者は一貫して、入京した義仲に対して冷淡である。様々なエピソードを通して、都の風儀に慣れない彼を、ある時は侮蔑をもって、ある時は滑稽に描いていく。義仲の言葉遣いや着こなし、牛車の乗り降りに至るまで、山育ちの田舎者であることが強調され続ける。法住寺合戦の原因も、一方的に義仲のこうした不作法が招いたように描かれているのである。
 確かに、木曽の軍勢は都入りして以来、掠奪・狼藉を繰り返し、朝廷が義仲に取り締まりを命じても、彼はそれをしなかった。実際はしていたのかも知れないが、当時の京は養和の大飢饉の直後で食糧が著しく欠乏していたうえ、そこへ平家を震え上がらせるくらいの大軍団で乗り込んできたのであるから、食糧の不足から兵が暴徒化するのは無理のないことであったのだ。こうした、状況を的確に把握し、入京の準備をしていたならば、義仲の都での立場もこうまで悪くはならなかっただろう。このことも先に述べた“優秀な側近の不在”と無関係ではない。当然、都人からの支持は全く得られず、法皇を始め貴族からも疎まれ、義仲は次第に孤立していくのである。
 さらに義仲は天皇不在の京にあって、以仁王の乱の後、出家して北陸に落ち延びていた以仁王の皇子(北陸宮)を即位させるよう院に申し出たりもしている。武士が天皇の即位に口を出すなどもってのほかの過分であり、そのことでも法皇の怒りを買っていた。
 しかし、義仲が不満を募らせるような事柄も多かった。というより意図的に後白河や頼朝が義仲を挑発していたのである。そもそも頼朝と義仲の間には、どちらが源氏の嫡宗かという問題があった。もし、頼朝が源氏の嫡宗であることが認められるならば、義仲がいくらがんばって平家を倒しても、それはあくまで頼朝の代官としての行為であり、戦功は結局は頼朝に帰することとなる。だから頼朝としてはそのことを当の義仲に対して認めさせる必要があった。
 そこで頼朝は入洛前の義仲に対して大軍をもって威嚇し、嫡子の義高を人質として差し出させることで義仲を屈服させた。これで心おきなく軍を進めることができた義仲であったが、このようなかたちで頼朝を嫡宗と認めてしまった弱みは後々まで義仲の行動を制約し、焦燥感を駆り立てていたに違いない。そのため、義仲はその弱みを戦功によって償おうと上洛を急いだ。
 しかし、上洛した時点ではすでに勲功の第1は頼朝、第2は義仲という序列が決まっていたのである。これは頼朝側の政治力が義仲のそれに大きく勝っていたからに他ならない。当時、未だ「謀叛の賊」であった頼朝は京の後白河に書状を送り、自分の支配下にあった東国の統治権を朝廷に返還するという、いわば妥協的な申し出をしていた。法皇を始め公家たちは喜んでこの申し出を受け入れたし、当然のごとく朝廷の頼朝に対する信頼は高まった。そのため、後白河は義仲入洛の直後から、頼朝に上洛を促す文書を送っていた。法皇としては田舎者で野卑な義仲などは歯牙にもかけず、頼朝に期待をかけていたのである。

四面楚歌の義仲

 後白河はなんとか義仲を平家追討のために西国に赴かせ、その留守の間に頼朝との提携を勧めた。寿永2年10月、上述の頼朝も申し状に基づいて、史上有名な“寿永2年10月宣旨”が出された。これによって、頼朝が支配している東国の荘園・公領を貴族・社寺などの本所に返還することを条件に、東国における頼朝の支配権が確立したのである。頼朝は、義仲の押さえている北陸までをこの宣旨の適用範囲に入れようとしたが、義仲をはばかった後白河法皇はさすがにこれを拒んだ。しかし、義仲の元に伝えられた情報は、北陸までも頼朝の支配権に入るという誤報だったのである。そのため義仲は大いに怒り、法皇との関係は険悪化した。
 義仲は法皇に、頼朝の上洛を促した件と10月宣旨に北陸道を含めたことについて不信を表明したが、それに対して法皇は、悪僧・無頼漢を集めて院の御所を警備させるという行動に出たのである。九条兼実を始め諸公卿は、こうした行為は王者のする事ではない、と話し合いによる解決を求めたが法皇は聞き入れなかった。実際に“鼓判官”こと平知康が頼朝の軍勢に期待をかけて法皇を煽動したらしい。
 加えて四囲の状況も、じわじわと義仲を追いつめていた。頼朝は年貢を進上するという名目で義経を京へ派遣していたのだが、義仲に阻まれた義経は伊勢で様子を伺っており、それが義仲の行動を牽制することとなった。なおかつ西国では平家が、備中水島で矢田判官代義清の軍勢を破るなど着実に勢力を盛り返し、播磨にまで進出していた。西にも東にも進めない全くの四面楚歌、そこにきて法皇の挑発である。
 自暴自棄の義仲はその怒りの矛先を法皇に向けた。法住寺殿は焼かれ、天台座主明雲をはじめ多くの犠牲者がでた。結果的には法皇方は完膚無きまでに破れ、ふたたび(平治の乱を入れると3度)幽閉の憂き目をみるのである。それは清盛がしたようなある意味節度を守った反乱ではなく、怒りと憎しみによって誘発された大規模な“喧嘩”だった。

裏切られた英雄

 もちろん義仲のしたことは非難されてしかるべきであり、野蛮な行為であったといえる。しかしその反抗は、これまでの勲功をないがしろにされた恨みであり、自分を嫌悪する貴族達に対する憎しみだった。また、敵に後ろをみせないという武士の矜持でもあった。和をもって国を治めるべき“治天の君”である法皇が、義仲に対する嫌悪から自ら戦う姿勢を隠そうともせず、この荒武者を刺激したことは、大いに非難されてしかるべきであろう。
 執拗に繰り返された清盛との政争の中で、武士の力の強大さは嫌というほど見せつけられていたはずの後白河にして、なぜこのような愚かな行為に出たのであろうか。そして、悪いことに義仲はお人好しの清盛とは違い、根っからの武人であり野蛮な田舎武者であった。儀礼においても朝廷や貴族とのつきあい方を知らなかった義仲は、暴力においてもその限度を知らなかったのである。
 しかし、猫間中納言とのやりとりや暴走牛車のエピソードなどを通して読者が感じるのは、無骨で行儀は悪いが単純で一本気な義仲の“愛らしさ”ではないだろうか。破竹の進撃を繰り返し、どんな大軍をもなぎ倒してきた“朝日の将軍”義仲が、京に入ったとたんにまったくその剛勇さを欠いてしまう。一般庶民にとっては、平家を西国に追い落とした英雄が、ぐっと身近に感じる瞬間である。
 無知で野暮な義仲を馬鹿にしようという物語の意図は、かえって義仲に対する親近感を与える結果となり、ひいては法住寺焼き討ちの暴挙にも必然性を与える。そして、最終的に読者の共感は「木曽最期」の場面まで受け継がれ、義仲の末路をいっそう哀れなものとして読む者の心に強く焼きつけるのである。

参考文献

山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(三)』(岩波文庫)/ 佐藤謙三校注『平家物語(下)』(角川文庫)/ 伊沢元彦著『平家物語の怪』(世界文化社)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上)』(塙新書)/ 石母田正著『平家物語』(岩波新書)/ 上横手雅敬著『源平の盛衰』(講談社学術文庫)/ 安田元久著『平家の群像』(塙新書)/ 安田元久著『人物叢書・後白河上皇』(吉川弘文館)/ AERAMook『平家物語がわかる。』(朝日新聞社)