法住寺合戦~あらまし

主な登場人物

[木曾義仲]
清和源氏、源義賢の次男で幼名は駒王丸。二歳の時、義賢が悪源太義平に滅ぼされ、以来乳母の夫である木曽の豪族中原兼遠のもとで養育された。治承四年九月七日挙兵、寿永二年七月平家を京より追い落とす。その功により「朝日将軍」の称号を与えられるが、この称号は記録にはなく、大日本史では義仲の自称であると推測している。

[今井四郎兼平]
中原兼遠の子で義仲の乳母子。木曽四天王の一人。義仲との絆は深く、「木曽最期」における細やかな主従愛とその壮絶な最期はあまりにも有名である。

[矢田判官代義清]
清和源氏。父の陸奥新判官義康は義家の孫で足利氏の祖。水島の合戦で戦死。

[新宮十郎行家]
源為義の十男で、熊野の新宮に住み新宮十郎と呼ばれた。頼朝に嫌われ、その後義仲のもとに身を寄せた。権謀術数の人で陰でいろいろと画策するが戦は下手だったようで、砺波山の合戦の際も志保へ向かった行家は倶利伽羅合峠での戦闘を終えた義仲の援軍に助けられたし、その前の墨俣の合戦でも重衡(平家物語では知盛)の軍勢に破れている。

[後白河法皇]
鳥羽天皇の第四皇子。名は雅仁。源平時代を通して30年にわたり院政を行った。仏教を深く信仰し、また今様、芸能に精通し『梁塵秘抄』を選定した。平治の乱で殺された藤原信西は後白河を「和漢の間、比類少なきの暗主」と評しているが、その政治的手腕の評価は賛否両論がある。

[壱岐判官朝泰]
本名は平知泰。北面の侍で壱岐守平知親の子。後白河院の信任篤く、『吉記』によると“山門御幸”に随身したのは物語で描かれている右馬頭資時とこの知康であった。

[猫間中納言光高]
本名は光隆。権中納言正二位清隆の三男。「猫間」は邸の所在地の名で、七条坊城壬生の辺り。

事件のあらまし

 寿永2年7月25日、木曾義仲の勢威に怖れをなした平家は安徳天皇を奉じて西国へ落ちていった。28日には比叡山東堂に隠れていた後白河法皇を守護し、義仲は5万余騎で都入りを果たす。法皇を守護するのは近江源氏山本の冠者義高(錦織義高、源義光の子孫)で、十郎蔵人行家は宇治橋を渡って入洛、矢田判官代義清は大江山を経て都へ入る。そのほか摂津、河内の源氏が雲霞のごとくなだれ込んでくる。義仲、行家は院参し、平家追討の院宣を下される。
 さらに院では、平家の西走とともに連れ去られた安徳天皇にかわる天皇の擁立が検討され、高倉天皇の四の宮(後の後鳥羽天皇)が天皇として擁立される。8月10日、院では除目が行われ、義仲は左馬頭に任命され越後国を与えられるとともに、“朝日の将軍”の称号を賜る。行家は備後守になるが、それぞれ知行国に対する不満を訴え、義仲は伊予国を、行家は備前国を与えられる。さらに16日には平大納言時忠、内蔵頭信基、讃岐中将時実を除く、平家一門160余人の官職が留められた。
 そんな中、頼朝は鎌倉に居ながら征夷将軍の院宣を下されることとなり(史実では建久3年)、左史生中原泰定(伝未詳。高倉院の厳島御幸に同行した)が使いとして東国に下る。頼朝は使いの泰定を自分の館に招き、さまざまにもてなした。都へ帰った泰定は、頼朝と面会した一部始終を報告すると、後白河はいたく感心し、いよいよ頼朝を頼りとするようになった。
 義仲は2歳から30になるまで木曽の山里に住んでいたため、万事が不作法であり、言葉つきも野卑だった。ある時、猫間中納言光高という人が、相談することがあって義仲邸を訪れたときのことである。郎等が取り次ぐと義仲は「猫は人にげんざう(げんざん=見参の訛った言い方)するか」と冗談とも勘違いともとれる問いを発する。猫間とは光高の宿所の名であると郎等が説明すると、「さらば」と言って面会する。義仲はそれでも「猫間」とは言えないで、「猫殿」と呼ぶ。「猫殿のまれまれわいたる(“わしたる”の音便形。“わす”は“おわす”の簡略形で野卑な感じを表す)に、物よそえ」と、いやがる中納言に無理矢理昼食を勧めるのである。
 こんな時分に食事などとんでもない、と辞退しても(当時、武士は1日3食だが貴族は昼食抜きの2食が習慣だった)義仲は、食事時に来てそういうわけにもいかないだろうと、大きくくぼんだ田舎風の椀にご飯をうずたかく盛り上げ、おかずを3種添えて差し出した。
 下品なお椀に閉口して食べずにいる中納言に、義仲は「それは義仲が精進合子ぞ」と、仏事の時だけに使う特別な椀であることを強調して勧める。そして、まったく箸をつけないのも失礼だろうと中納言が食べる振りをすると、それを見た義仲は「猫殿は小食におはしけるや。きこゆる猫おろしし給いたり。かい給え(掻き込んで食べ給え)」と言ってさらに責め立てた。猫おろし(猫が食べ物を残すこと)になぞらえておかしがる義仲だが、中納言は用件もろくに言えず、這々の体で邸を逃げ出したのであった。
 またある時、義仲は官位を与えられた者が直垂で出仕するなどとんでもない、と狩衣で正装し、出仕することにした。しかし、狩衣は武士の間では正装だが貴族にとっては略服だった。さらにその着こなしも、烏帽子から指貫のすそまでまったく洗練されていなく、“まことにかたくな”であった。

平家物語絵巻「猫間」

また、牛車には“こがみ乗んぬ”という、無様な格好で乗った。牛車はもと前内大臣宗盛のもので、その牛飼いもかつては宗盛に仕えていたが、時代の流れに合わせて、今は仕方なく義仲に仕えていた。そのことがあまりに癪に障っていたためか、車が門を出る際、牛飼いは牛に鞭を当ててはげしく車を走らせた。
 飛ぶように走る車の中で義仲は仰向けに転がり、蝶が羽を広げたように両の袖をバタつかせて懸命に起きようとするがうまくいかない。義仲は、またも牛飼いと呼べず「やれ子牛こでい、やれこうしこでい(“こでい”は“こんでい”の訛りで足軽や中間のこと。牛飼いという名称を知らない義仲が勝手に名付けたようである)」と必死に訴えるが、“やれ”を“車をやれ”というふうに解釈した牛飼いは、さらに五六町も車を疾走させたのだった。今井四郎兼平が追いついて事なきを得、義仲は牛車に装備された“手がた”という取っ手にとりついて、ともかくも院の御所にたどり着くことができたのであった。
 さて、車から降りようとする義仲だが、牛車は乗るときは後ろから、降りるときは前からというのが決まりであるのに、義仲は車だからといって素通りするわけには行かない、と乗ったと同じ後ろから降り、またしてもまわりの失笑を買うのである。そのほか、滑稽なことは数多くあったが、皆恐れて口には出さなかったという。
 さて、そうこうするうちに平家は屋島にあって山陽道8か国、南海道6か国、都合14か国をおさえ、着実に勢力を盛り返しつつあった。そこで義仲は矢田判官代義清を大将軍、海野弥平四郎行広(清和源氏の滋野氏)を侍大将として、7000余騎を屋島に差し向ける。軍勢が備中国水島の港から、すでに屋島に押し寄せようとする。
 その時、大手は新中納言知盛、搦め手は能登守教経を大将軍とする(史実では重衡・通盛)平氏軍が押し寄せてきた。平氏軍は千余艘の船をことごとくつなぎ合わせて、船から船へ行き来できるようにして戦った。侍大将の海野は討たれ、義清も主従7騎で小舟に取り乗って逃れようとするが、船が転覆して命を落とす。源氏の軍勢は総崩れになり、ここに平家は都落ち以来の雪辱を果たした。
 これを聞いた義仲はいよいよ平家打倒の決意を固め、自ら1万余騎を引き具して山陽道を下る。備中国万寿の庄で勢揃えし、今にも屋島へ攻め寄せようとしている義仲のもとへ、京に残っていた樋口次郎兼光からの使者がやって来た。義仲が留守の間に、行家が義仲のことを院に告げ口しているという。摂津国を経由して急ぎ京へとって返す義仲だが、一方の行家は義仲と顔を合わせないよう、入れ違いで丹波路を経由して播磨国に下った。この間に、平家は木曽を討とうと、新中納言知盛、本三位中将重衡を大将軍に(史実では経盛・重衡)、越中次郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を侍大将に、都合2万余騎で播磨国室山に陣を取った。
 行家は平家と戦って義仲と仲直りしようと思ったのか、500余騎をもって室山に押し寄せるが、平家の作戦にまんまと引っかり、大軍に取り込められてさんざんにうちなされる。行家は主従20余騎で命からがら逃げ延び、播磨国高砂から和泉国へ渡り、河内を越えて長野城へ引きこもってしまった(この戦いは史実では法住寺合戦の後)。こうして水島、室山両度の合戦に勝利を治め、平家はその勢力をますます拡大していった。
 このような中、京では源氏の評判は日増しに下がっていった。京中に源氏があふれ、あちこちで窃盗・強盗などを繰り返していたからである。青田を刈って馬草とし、歩いている人の衣服まではぎ取る始末だった。法皇は壱岐判官朝泰を使いとして遣わし、狼藉を鎮めるよう義仲に命令する。
 朝泰は鼓の上手であり、世間では“鼓判官”といわれていた。義仲はまず、その返事をする前に朝泰に向かって「そもそもわとのを鼓判官と言ふは、よろづの人にうたれたうたか、はられたうたか(たまいたるかの訛り。うたれなさったか、はられなさったか、ということで、鼓にかけて義仲がからかったもの)」と尋ねた。面食らった判官は返事もできず、急ぎ院の御所に帰って法皇に、義仲は大馬鹿者で今に朝敵となるだろうからすぐにでも追討したほうがよい、と奏上した。しかし法皇は武士に仰せつけることをしないで、延暦寺、園城寺の悪僧達、さらに市井の無頼の徒や乞食法師を集め、義仲の攻撃に備えたのだった。

平家物語絵巻「法住寺合戦」

 この情勢を見て五機内の兵はほとんどが木曽を背いて院にはせ参じた。今井四郎は義仲に向かって、法皇に矢を向けるなどとんでもないと降人になることを勧めるが、義仲は聞き入れず、これを最期の戦と決めて法皇への戦いを挑む。北国の勢はほとんどが落ちてしまい、わずか6、7000千騎ばかり残ったのを7手に分け、七条河原に向かって進発する。
 一方、院御所法住寺殿には2万余騎が立てこもった。鼓判官が軍の行事(大将軍)となり、鎧を着ずに甲ばかりかぶるという異様な格好で(この逆の場合はある)御所の土塀に登って、両手に握った鉾と金剛鈴を打ち振り、時々は舞いなどしてみせた。しかし、戦が始まり樋口次郎の軍勢が法住寺殿に火をかけると、鼓判官は真っ先に逃げだし、2万余人の官軍も我先にと落ちていった。
 この戦いで、信濃源氏村上三郎判官代、近江中将為清、越前守信行、伯耆守光長、光経親子、天台座主明雲、三井寺の長吏円慶法親王らが討たれた。御所に迫ってくる火からのがれようと河原を逃走中、武士に衣装をはぎ取られる刑部卿三位頼資(本名頼輔。権大納言藤原忠教の四男)のような者もいた。法皇は輿に乗って逃れようとするところを義仲の軍勢に囲まれ、五条内裏(五条東洞院にあった藤原邦綱の邸。高倉天皇の御所であった)に幽閉される。主上(後鳥羽天皇)は七条侍従信清、紀伊守教光にかしずかれ、池に船を浮かべて義仲軍の攻撃を避けようとしていたが、これもつかまり閑院殿に押し込められてしまう。
 乱を制し、法皇を幽閉したことで朝政は義仲の思いのままとなった。得意の絶頂にある義仲は家の子、郎等を集め、主上になろうか法皇になろうか、と豪語した。義仲は卿相・雲客49人を解官し、さらに無理矢理、前関白松殿房の姫の婿となった。そして、屋島の平家に書状を遣わし、力を合わせて東国を攻めようと誘うが、喜ぶ宗盛に対して平大納言時忠、新中納言知盛の意見は、義仲の方から降人となって屋島に下ってくるべきだ、というものだったため、この計画は絶ち消えとなる。
 その後、基房の取りなしで解官された人々はもとの官に復し、基房の子で中納言中将の師家を無理矢理摂政に祭り上げた。さらに歳末には叙位・除目が行われたが、これも義仲の思うままになされたのだった。

『平家物語』で該当する章段

巻八「山門御幸」「名虎」「緒環」「太宰府落」「征夷将軍院宣」「猫間」「水島合戦」「妹尾最期」「室山」「鼓判官」「法住寺合戦」