藪漕ぎの楽しみ

五代の尾根(五代が森への稜線)を歩く

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 登山口の坂瀬林道は、久万高原町(旧面河村)の渋草から大成地区へと向かう道路の、集落手前に坂瀬川の左岸沿いに奥へと延びている林道の終点手前にある。林道は未舗装で、平日は新しい堰堤の工事箇所があり、駐車場所には注意が必要である。また、通行止めの鎖から50分ほどの林道歩きも余儀なくされる。

 登山口は、六郎谷と樽ヶ関谷の二股の先の、ヘアピンカーブの手前にあるが、案内標識はない。

 

 

坂瀬林道(林道歩き)〜坂瀬川二股登山口〜堂が森〜五代の分れ(鞍瀬峪の頭)〜1749mピーク】(2005年5月3日)

林道の鎖

 今年のゴールデンウィークは9連休となるので、1日のメーデーを除けば計画は自由自在に組めるが、“雨の日の釣り”が入るので、早々とは日程を組めない。しかし、メーデーが雨だったので、2日に釣りに行って3日から「懸案の尾根の縦走」を計画した。もっとも、もう一つの「懸案の尾根の縦走(鞍瀬の頭の北方稜線)」は、相棒がかたくなに拒否しているので、今回の南方稜線を提案したのだった。

 この縦走は、2001年9月に単独で計画して“酷い目”に逢っているので、今回は下山路を坂瀬林道側と決定した。この下山ルートは、先の縦走の際にも考えていたルートでもあったのだが、先日“某サイト”で実行している記録を見つけていたので、安心である。

 

 

 坂瀬林道を走り通行止めの鎖の手前に愛車をデポして、9時45分に出発だ。日帰り装備と違って、重いザックを背負っての林道歩きは一時間足らずだった。「四国百山(高知新聞社)」の記述にある道なのだが、坂瀬川上流の樽ヶ関谷と六郎谷の二股の直ぐ上にある登山口は何の案内も無い。しかし、こんなルートをわざわざ選んで辿る人がいる(新しい赤テープが物語っている)事が、好ましい限りだ。

 

鍵が閉まっているのになぜか来ているジムニー(ずるい)難題の沢も無事通過

 岩の上で小休止のあと、10時30分に腰を上げた。ここから対岸に渡って、山道を辿ることとなる。数年前に歩いた時には、野バラが行く手を遮って、進むのに難儀した場所があったのだが、今回の場合もう一つ心配の種が増えている。昨年の台風被害である。

 そんな心配をよそに、道は谷を二回渡って明瞭に続いている。谷は適度に水量があり、あまごの姿も垣間見ることが出来る。しかし、暫らくで行く手を遮っているのが大木だった。昨年の台風で倒れた大木が道を塞いでいたのだった。潜ることも、跨ぐことも出来ないし、迂回するにも儘ならない。

 

 

 

地上から1.5mの高さ白花エンレイソウ

 相棒とこの大木との格闘は大変だったのは云うまでもないのだが、もう一つの心配の種だった“野バラ”のジャングルは、綺麗に刈り払われていた。そして、右からの小沢が落ちている処で小休止だ。足元には“フデリンドウ”や“白花のエンレイソウ”が咲いていた。12時前に再出発である。

 六郎谷の最源流部で喉を潤し、準備してきた容器に水を補給して“六分峠”へと、ひと踏ん張りである。その峠では、数本の“アケボノツツジ”が我々を迎えてくれた。梅が市からの旧道と合流したのだが、予想通りに道は荒れ果てていた。尾根筋を通る場合はまだ良いのだが、新道と合わさる手前の笹は勢いが強く道に被さって、足を前に出すのに余分な力が必要なほどだった。

 

 

 新道との合流点で腰を降ろしたのは12時50分だった。ここからは、道がある・・

 

六郎谷の最源流部 6分峠のとうせんぼの棒 堂ケ森への道

 ここにある案内標識には、堂が森まで50分と記されている。出発は13時過ぎだった。正面に見えた保井野分岐に出合うと、珍しい光景に出くわした。親子らしいペアが大きなザックを傍らに置き、少年が弁当を食べていたのだ。ここでは挨拶を交わして、通り過ごした。少しで軽荷の若いペアに出合ったが、堂が森の肩へは順調に歩を進めた。

 

五代の尾根を望むショウジョウバカマの群生

 そして、予定通りの所要時間で肩部に着きザックを降ろした頃、二の森方面から三人組みが到着した。そして、大きなザックの二人組みが到着した。先ほど、保井野分岐で休んでいた少年と父親らしい二人だった。彼らは、今日のテン場の場所を何処にするかと三人組みに相談していた。私達は、その脇を「お先に失礼します」と、先を急いだ。

 

 

 

 

鞍瀬の北尾根の岩峰鞍瀬の頭で

 五代の頭の北方稜線をカメラに納めながらの“気持ちの良い道”は、歩くのには痛快である。その中間部あたりに10名余りの集団が休んでいた。挨拶を交わすと「どちらから?」と問われ「坂瀬から」と、つい答えてしまった。「そこは何処ですか?」に、しまったと思ったのだが、時すでに遅し・・だった。余計な事を言う必要がなかったのだ。相棒が「何処から来たとか、何処へ行くかとか云っても判らない人に、正直に言う必要ないんじゃない」との忠告は、もっともである。

 

 とにかく、別れには14時50分に着き、ザックをデポして鞍瀬の頭へと歩を進めた。三角点でシャッターを押し、来た道を引き返した。

 

鞍瀬の頭のトラバースを行く姫路の親子五代の尾根

 “別れ”に着くと、件の親子ペアが話しかけてきた。今日のテン場を決めかねていたようだった。「姫路から来ている」「石鎚エリアは初めてで様子が判らないので、写真を撮るのに良い場所は?」などの問いだった。

 ジャニーズ事務所のメンバーのような、かわいい少年は中学生になったばかりだという。「私達はツェルト泊なので、適当に場所を決めます」の言葉に少年は「ツェルトって何?」と、父親に尋ねていた。彼らは私達の進言どうり、トラバース道から鞍瀬の頭に向かった。

 

 

 私達は予定どおりに、五代の稜線の二つ目のピークを目指して笹薮を踏みしめ、かき分けて目的地へと向かった。目的の1749mピークには16時に着いた。まずは、笹の隙間の岩に腰を降ろしてタバコを一服だ。ウロキョロと夕陽・朝陽の場所を探してツェルトを張り、簡素な夕食を済ませた。こちらからはテントは見えないが、“鞍瀬の頭”の右側に二人の影が見えていた。夕陽を待つ間にガスが襲ってきたが、雲の流れが速い。現れたブロッケンは薄く、私のデジカメでは絵にならない。落日は19時過ぎだった。ゴーゴーとガスの吹き抜ける音は夜中中、止むことはなかった。その唸り声に起こされて、コンビニで調達した“鬼ごろし”を飲んで再び眠りに着いた。

千代の夕景の写真(クリックすると大きくなります)

 

 

 

1749mピーク〜(稜線歩き)五代が森〜三角点(?)〜坂瀬林道(林道歩き)】(2005年5月4日)

 夜明けは青空を連れてやってきた。相棒に声を掛けたが、いつものように直ぐには反応しない。数分後「あっ、ええ天気やん」と、カメラを抱えて飛び出して行った。

千代の朝の写真(クリックすると大きくなります)

 その間に、朝食準備と出発の準備だ。食事当番兼案内人兼カメラ助手兼雑用係と、私の仕事は多い。「姫路の親子さんは、ええ写真撮れたやろか?」と、相棒も心配顔だ。五代が森まで五つのピークを越える。それも藪を分け、笹を分けて進むので、4時間を予定している。6時40分に出発である。降り始めて直ぐの岩場とガレ部は、前回は一人だったので岩場を下降したのだったが、今回は左手の笹部をトラバースした。そして今回は、昨年の台風被害にも対応できるよう、ロープも持参しているので安心である。 

  

 

キレットを振り返る遠くに石鎚山が見える

 泊まり場にしたピークからは踏み跡も薄く、テープも見出せないが尾根を大幅に外さないよう次のピークを目指す。この尾根の藪ほど手強い藪は経験が無い。弱点が無いのだ。笹を雪が覆っている時期がいいのかも知れないが、その時期の縦走には、相当の経験と技術・体力が必要だろう。

 この縦走路への取り付きと下山ルートを考えると、石鎚界隈の縦走路では超ド級のルートだ。1674mピーク手前の鞍部がキレットなのだが、先年辿ったと同様に、左手の笹部を迂回して鞍部へと回り込む。心配していた相棒も“なんてこと無い!”という顔で付いて来た。8時だった。ここで小休止である。所々で垣間見える“あけぼの”の花も、初々しい。この広大な山域で私達の足跡しか感じない。ここは野生の棲家である。

 

 

   五代が森が見えてきた

 1674mピークからは、少し方向を変えて尾根が続いている。つまり“くの字状尾根”の繋がりである。1690mピークの通過は9時15分だった。まずまず順調に進んでいる。今日の下山路は、前回にも考えていたルートを実行していたグループの【のんびり山歩】さんの記録にある下山路を参考にしての計画だ。

 

 この辺りで初めてテープに出会った。彼らの付けたテープであろう、心強いかぎりである。そして、暫らくぶりの五代が森では“アケボノツツジ”が出迎えてくれた。10時30分だった。お互いにシャッターを押し合って、至福のときを噛み締める。

 

もう少しだ!

 私の記述にたびたび登場する・・「自然は嘘をつかない」「人間社会の醜さ」からの開放感など、現実社会を振り返る瞬である。何故か、先日のJR関西の痛ましい事故が頭をよぎる。

 

 

 

 

 

 家族が犠牲になった年輩の男性が、テレビのインタビューに「事故を起こした運転手の親御さんのことを考えると、言葉がない・・」と答えていた。そこには加害者も被害者もない。起こしたくて事故を起こす者はいないんだ。ここに見え隠れしているのは「企業の利益優先体質」だろう。倒産するから利益を追求するーという名目で、働く者やその家族・国民やお客様に犠牲を押し付ける・・そんな風潮が蔓延している社会なんて、クソクラエだ。

 頂上に着いた千代五代が森頂上

 そんな人間社会に関係なく、木々が芽を吹き、花々が競い合う、そんな自然に抱かれる時間も、直ぐに下山のときを迎える。

 

 

 

 

 

 

五代が森頂上より

 テープに導かれて、三角点に向かった。真新しい赤テープは南へと続いていたが、三角点を見出せないまま続いているようなので、適当に西の坂瀬川へと降りて、左手の尾根へと向かうこととした。今朝作っておいた「五目ご飯」をほうばり、昼食とした。11時20分だ。

 再出発後、しばらくで尾根の赤テープに出会った。5mおきにテープがある。もっとも、テープどおりでなくても大丈夫な広い尾根のルートだった。右手にある、坂瀬川に落ちる谷(林道から見える、堰堤がある谷)を頭の片隅に置いての下山である。潅木と笹の生い茂る中「こんなとこを昇るのはイアやなぁ〜」と、相棒が呟く。

 

 

 この下山ルートは、林道の標高が1000m位なので、700mを降りることとなる。明瞭な道なら1時間半もあれば降りれるのだが、ルートを探しながらなので、5割増しの所要時間が必要だろう。

 

フデリンドウ

 あたりの植生が変わってきて、植林が現れた。テープは右の小沢へと導いてくれた。階段状の小沢を注意しながら降りると、前方に谷が現れた。例の「堰堤の谷」である。明るい林の中で、足元には「フデリンドウ」が咲き競っていた。

 

 

 

 

 13時20分に谷に降り立った。堰堤の上で工事用車両(今日は休みなのだが)を見ながらの休憩は、昨日からの行程を思いだしながらの時間でもあった。コーヒーを沸かしての至福の時間をユックリと過ごす。堰堤を写真に収めて、取り付け道路を辿り林道を下る。14時だった。

 

 一時間の林道歩きは、もちろん“ルンルン気分”の歩きだ。昨日の“デポ”場所である、鎖の手前で釣り人に出会った。「釣れましたか?」に、「私達は登山でした」との返事に何も反応が無かった。「何年か前までは、私もこの谷に通っていましたが、谷の状況はどうですか?」に、「昨年の台風の被害は凄い、家ぐらいある岩が転がっている」など、立ち話は尽きない。林道の鎖には、15時前である。

 

【追記】この山行で出会った「姫路の親子」さんから、メールを頂き驚きました。世の中狭いですね。数分間の立ち話だけで、当hpへアクセスして頂いたそうで、驚いています。当然「姫路の親子」さんのサイトと相互リンクと相成りました。

 

 


 薮漕ぎと言えば、またブヨに刺される〜、笹にいるダニも気をつけないとと思って、D軟膏を持参し8ケ所刺されたブヨの被害も少しまぶたが腫れたくらいですんだのに・・・(>_<)

 なんて事なの〜、翌日まず左手のシャツと手袋の間が腫れて来た。D軟膏をつけてもぜんぜんダメで、ますます水泡みたいなのが出来てきたし、だんだん上のほうにも広がってくる。6日に愛媛の近所の皮膚科を受診して虫刺されでも、かぶれでも同じ薬ですと“アンデベート”と言う薬を貰ってつけているのに、今度は足の大腿部後にも湿疹が出来てきた。長い間留守にしてるから家ダニかな〜と思ったが虫にも効くから軟膏をつけた。そして、大阪に帰って洗濯をしたズボンとシャツ(もちろん他の洗濯物とは分けてした)を見てビックリ! 黒いシミがついている。やっぱり、ウルシだったのね!! 五代が森からの尾根の下山は藁をもつかむ思いで笹でも、何でもつかんで下りたけど・・、最後の涸沢は大きな岩も、石も全部浮いているから・・・、全然芽は出てなかったし〜 (@_@;)

 手の画像は最初のうちで、こんなもんじゃなかったんじょ!(見ただけで、あ〜! ひりひりする〜) あれから、9日も経つのに良くなるどころか、ますます広がるばかりで・・・、原因が分っているから、そのうち治る事は分っていても、こうお腹や、背中にまで広がって来たのでは・・、身体が温まるとヒリヒリ痛いし、掻いたらダメだし・・(ーー;)

 薬はまだあるけど13日に大阪の近所の皮膚科に行くと、なんて事なの〜休業日。次の日行ったら「間違いなく、ウルシかハゼでしょう、薬(セレスタミン錠・1日に朝昼夕3錠4日分)と塗り薬(ダイアコート軟膏)をだします。4、5日で治りますよ」と言われた。それから2日目、少しはましだけど・・まだ治りません。

 「もう藪こぎはこれで終わりね!」とわいわいさんに宣言したんじょ! ^_^;

 後日談: その後、飲み薬が無くなって2日後にまたあちこちに湿疹が出たので20日に皮膚科に行くと、これで治りますよと薬(1日に朝夕2錠4日分)をくれた。飲んでる時はましなんだけど・・、薬が無くなって数日後にまたあちこちに湿疹が出たので28日に皮膚科へ・・、先生も首をひねっていました。結局、湿疹がすっかり治まったのは6月15日だった。40日以上かかった事になる。