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 2001年7月21日〜24日

 

 

  

【1日目(松山〜茅野)】

  

今回の計画は、車を使った山行計画の実行である。機動力の導入である。JRの茅野駅前のビジネスホテルまで高速道路を利用して、八が岳の縦走を企てた。松山自動車道から瀬戸大橋をわたり、山陽・中国・名神・中央の高速道路を乗り継いで、8時間の車の旅は、茅野には19時前に着く。 「昨日は、東京から10時間もかかったそうですよ」のホテルマンの言葉にも、慰めの言葉にもならず疲れは隠せない、まずは睡眠である。我々中高年は、無理な計画をしないのだ・・・(01.7.21)

  

 バスを

【2日目(茅野〜渋の湯〜黒百合平〜東天狗〜夏沢峠〜オーレン小屋)

  

 

 

   

 

 

諏訪バスは、6:35分出発である。最終の渋の湯へは、我々以外は“3人組”だけだった。渋の湯ホテルの上手の、橋の袂にあるポストに登山届けを提出して、出発だ。いきなりの樹林帯(シラビソだろうか?)と、ゴロゴロの石の道は歩きにくくて、徐々に高度を稼いでいった。やがて、前方に小屋が現われた“黒百合平”である。ここで一休みとする。十人程の登山者が休んでいた。小屋には“生ビール”があったが、私は見向きもしない。ここは我慢!

  

黒百合は終わっていたが、ユックリと休憩する。ここからは、中山峠経由の尾根道と、天狗の奥庭を辿る道とに分かれるが、私たちは後者に道をとり“天狗”に向けて出発である。すると前方に、バスに同乗していた関西弁の三人娘が歩いていた。大きなザックに幕営道具を背負って上っている。大きな岩が重なる道を、ガスの切れ間から姿を現す東西の天狗岳に向けて進む。ハイマツの林の急坂を登り切ると、東天狗岳だった。直ぐ前に西天狗が対峙している。

   

 

 

 今回の縦走の計画はこの東天狗から始まる。ガスの切れ間に垣間見る、南方向に伸びる縦走路を確認して、ここで昼休みとした。昼食後、根石岳への縦走路へと出発だが、降り口に“オバサン軍団”が陣取って、お弁当を広げている。何処を通っていこうかと迷っていると、「あなた達何処へ行くの?」と、こちらの道は違うと云う。相棒が予定表を見ながら「オーレン小屋へ行きます」と答えるが、知らないとの事だった。兎に角、出発だ。

  

 

根石岳で写真を撮り、根石山荘までザレた道を行く。砂礫に咲くコマクサは、あたり一面で塊りで群落だ。そして、間もなくで夏沢峠への分岐で、小屋へはシラビソの小生えが群生する道だった。オーレン小屋は、埼玉方面からの六人組と私たちを併せての八名。そして間もなく到着した、テント泊“三人娘”を加えての夕食後の、アルバイトのネパールの若者のビデオ鑑賞会は盛況だった。(01.7.22)

  

 

 

 

【3日目(オーレン小屋〜硫黄岳〜横岳〜地蔵の頭〜赤岳〜キレット小屋)】

  

  

 昨晩のオーナーのお勧めのコースは、オーレン小屋から“峰の松目”の尾根へ登り、そこからの南八が岳の姿だった。6:15分に出発である。私たちは、なんの制約もなく歩けるのでお勧めのコースを採った。だが、このコースは私たちが独占した。稜線に出合い展望所まで足を運ぶと、目の前には阿弥陀岳から赤岳、そして行者小屋が眼下である。二人占めだ。そして、稜線を辿れば赤岩の頭に着く。今春とは違い、雪の消えた稜線を硫黄岳までの道を進めば、大ケルンの連なる縦走路である。

  

 

硫黄岳を8:40分に出発し、硫黄岳山荘のお花畑ではシロバナコマクサを写真に収めた。小休止の後、横岳へと歩を進める。大同心や小同心が真近に見える頃、斜面一帯のコマクサの群落に息を呑む、ここらあたりが大ダルミだろう。やがて、横岳直下の岩場を慎重に通過・・・で、相棒の“ストップ”の合図である。足元の不安定な処で、チョウノスケソウ発見だ。花を撮るときには、どんな斜面も怖がらないのは何故なんだろう?・・・まっいいか。横岳には10:30分到着だ。

  

 

  

  

 ここまで来れば、赤岳も随分大きく見える。タカネサギソウ・イブキジャコウソウ・ミネウスユキソウ等が咲くなかを、岩場の中の道をルンルンと散歩気分である。残雪の中では苦労した場所も、雪の消えた夏場は随分と歩きやすく、残雪に覆われた鎖場も今はその全貌を現して、ただ降りるだけで良い。岩の間に、チシマギキョウ・キリンソウ等が顔を見せる。やがて、地蔵尾根の分岐を見送ると赤岳展望荘である。

  

 

赤岳頂上小屋までのザレ場をひと踏ん張りすると、頂は目の前だ。1時前だった。そして、予定変更とした。予定では、阿弥陀岳をピストンして、頂上小屋へ泊まる計画だった。が、前日の小屋での宿泊者は、キレット小屋まで足を伸ばすという。それで、私たちも阿弥陀岳は又の機会として、キレット小屋泊とした。その旨を予約していた頂上小屋に告げて出発だ。

  

 

 

4月末に経験済みの、頂上直下の大岩を降り阿弥陀岳への分岐に差し掛かった時、大声が聞こえた。「そこはルートじゃない!」の声である。そういえば頂上で休んでいる時に、かの“三人組”が、頂上から直接阿弥陀岳へ向けて岩場を歩いていったのだが、相棒の「そっちじゃなかったよ」の忠告にも聞かず、進んでいった彼女たちへの呼びかけだった。私は内心“すごい女性たちだなぁ”と関心していたのだが・・・・

  

  

 

 その阿弥陀岳を右手にして、左方に大天狗岩の岩山をを望みながら、天狗尾根の頭をハシゴを伝いトラバースする。足元にキンロバイがあった。やがて、竜頭峰にでると眼下にキレットのガレ場である。先ほどの声の主が、女性と共に降っている。ここは脆い岩で、ゴロゴロと崩れるような岩質だ。相棒はこのような降りでも、恐れないで降りている。格段の進歩である。暫く降りると、若い女性を連れた三人組みとすれ違う。「あぁ二本足で、降りてる!」との感嘆の声に、相棒はうれしそうな顔で応えていた。遥か遠くに見える権現岳と、眼下にはキレット小屋が姿を見せる。

  

 

 小屋には、15時前に着く。赤岳からキレットの降りの岩々を見上げて、今日の頑張りに“天は褒美をくれる筈だ”と、自画自賛である。“1リットル3分”の水場へ降り、まずは水の確保だが、8分はかかった。小屋番は、黒板の字を書き換えていた。・・・8分と。そのうちに、“三人娘”が着いた。「恥ずかしい!」と、赤岳からのルート選定を反省していた。(01.7.23)

  

 

  

 

 

 

【4日目(キレット小屋〜権現岳〜青年小屋〜網笠山〜観音平)】

  

   

昨日は、予約なしの食事の注文に“ご機嫌斜め”の小屋番だったが、同宿のグループの人数変更で後和算となり、機嫌も直りギター付きの宵となった。昨日の、大声ペアはテント泊で、大声をかけられた“三人組”も5時過ぎにはテント場へと、たどり着いた。朝陽を小屋の窓から覗いていると、雲の上に富士の姿が現われた。すがすがしい朝を迎えた。6時過ぎに出発である。

  

 

 

 急登の後のピークは、赤岳が正面に聳えて朝陽に輝いていた。ここがハゲツルネと呼ばれている。やがて、雲の上に富士山が正面に見えるツルネに差し掛かる。ここからは、ややトラバース気味に旭岳への登りである。赤岳から硫黄岳、そして中岳のコルから横岳の小同心などがクッキリと現われた。暫く進むと、左手に大きな尾根が現われる。その尾根に長大なハシゴが懸かっている・・・源治バシゴである。稜線を辿れば、眼下に小屋が望める分岐に出る。ここは、たくさんの登山者が集まっていた。そして、岩を縫って辿れば権現岳の頂に立てる。8時半だった。

  

 

  

 この頃には、先行の“テント組み”の3人グループや、ペア組みと前後しながらの山行となった。変な名の“青年小屋”までは、ギボシの岩山を辿り林の中を降りるのみである。途中で、若者グループに出会う。男女で、“お手手つないで〜”と登っていく。オジサン達は、観てみぬふりでチラット横目で覗く。そして、青年小屋で“乙女の水”と呼ばれる水場に急ぐのは“オッチャン”である。小休止の後、大きな岩が連なる登りも30分ほどで、編笠山だった。ここが、八が岳と下界を分ける分岐点だった。

 

  

 

  編笠山からは、今日の下山口の観音平まで“ひたすら降る”のみで、昼食タイムを含め二時間ほどの所要時間だった。観音平でタクシーを呼ぶが、前後して降りた例の“テント泊のペア”の人と言葉を交わすと、九州の人で「ホームページを立ち上げている・・・」とのことで、メールを送りますと別れた。私たちは、JR小渕沢駅から茅野まで電車に揺られ、次の宿泊先である中の湯温泉へと、車を走らせた。(01.7.24)

  

 

  

 

 

 一昨年の北海道でも、昨年の立山でも“チョウノスケソウ”を見る事が出来なかったので、今度こそと目を皿のようにして歩いていたのに、花が終わり穂になったのしか見つけられずガッカリ・・・ところが横岳の崖に遅咲きの花を見つけた時はうれしかったじょ!

 24日にツルネ付近で、権現岳方面から来てすれ違った女性に見覚えが・・ 権現岳で話した中高年のご夫婦によると、四国から一人で縦走している人が行かれましたとの事、やっぱり、去年4月8日に石鎚山でお会いした(夏にアルプスに行くために訓練していると言ってらした)高知のあの方だ〜と関心したのだった。