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2001年7月25日〜7月27日
【5日目(中の湯温泉〜上高地〜明神〜徳沢〜横尾〜本谷橋〜涸沢小屋)】
昨夜は中の湯温泉旅館に泊まり、八が岳での3日間の垢を流した。上高地までは6時過ぎのバスに間に合うように、下のバス停まで送ってくれた。もちろんバスターミナルは、大勢の登山姿の人たちで一杯だ。バスターミナルで登山届けを提出して、6:45分に出発。河童橋で記念撮影をして、明神には、7時半に着く。明神岳だろうか?山が迫って見える。小休止の後、徳沢に向かう。所狭しとばかり、咲き競っている花を撮るのに時間を費やすのは、相棒だけではない。若い乙女も一緒だ。しかし、動作の機敏さは真似が出来ない。・・・中高年の我々は、ゆっくりでいい!
徳沢には8時半に着く。
徳沢園から暫く行くと、やがて新村橋が現われる。左手には、梓川の向こうに前穂高岳が姿を見せる。淡々と歩を進めると屏風岩の岩壁を眺めながら、横尾に着く。9時半である。ここは、槍が岳と涸沢との別れであり、人が大勢休んでいた。私たちは、横尾大橋を渡り涸沢へと道を採る。左手に見える屏風岩が大きく聳え立って見える。やがて、右手の岩に“岩小屋”と木の札が架かっていた。前方に立ち塞がる、屏風岩を見上げる位置にあるこの岩小屋が何なのかは、消えかかり判別が難しくなった文字が語っている。
屏風岩も後方になり尚も左岸を進むとやがて、本谷橋に着いた。11時前である。ガイドブックには、右岸の湧き水は飲用には“不適”と書かれている。橋の袂で小休止だが、この頃には下山者と行き違うようになる。相棒が、先ほど追い抜いた年配の人が抱ええていた“花束”の事を話題にした。「ひょっとしたら、誰かに備える花なのかなぁ?」70代と思われる年輩で、腰も曲がっているが足は確かで、ゆっくりとだが、確実に登っていた。
本谷橋からは、右岸の道を急登だ。樹林の間を汗を拭きながら歩き、適当な所で昼食とする。やがて、前方が開けて雪渓が現われた。太陽は真上から照りつけて、遮る木陰の切れた残雪の上は、“ギラギラ”と音さえ聞こえそうである。もっとも、その苦しみは直ぐに消えた・・広々としたカールに着いた。涸沢ヒュッテは賑わっていた。“ふきながし”が風に泳いでいる。周りの山々の名前はよく判らないが、とにかく“この瞬”に浸る・・・
涸沢ヒュッテから、今日の泊まり場の涸沢小屋は目の前である。小屋で宿泊の手続きをすると、雪渓辺りで前後していた二人連れと同部屋となった。14時前だった。小屋の前のテラスでは、みんな思い思いにくつろいでいた。
同部屋となったペアは私たちと同年代の、奇しくも同じ四国の足摺に住んでいる、というカップルだった。「10年程前から、アルプスに来ている」との事だ。私たちは夕食前に、明日の登路の“北穂沢”方面に写真撮影である。すると、小屋の人に「降りれなくなった人がいる」と話している声が聞こえた。事情を聞くと、女子高校生のグループの一員で引率の“先生”は、さっさと降りてきているそうである。やがて、足を引きずりながらトレパン姿の娘が降りてきた。小屋の主は、出迎えた“先生”を叱りつけていたが、・・情けないなぁ〜自分だけさっさと降りるリーダーが何処にいるんだ?
部屋へ戻るとザックが二つ、目に入った。今日はこの部屋は三組だ。だが、カップルと思った三組目は、若い女性組だった。自然と“オジサンの頬はユルム・・・”(01.7.25)
【6日目(涸沢小屋〜北穂高岳〜涸沢岳〜穂高岳山荘〜奥穂高岳)】】
昨晩は、若い娘二人組みが同じコースという事なので、「おっちゃん達も付いて行くから」・・と、話が盛り上がった。5時過ぎ、カールに朝陽が当たる前に出発だ。小屋の横にある、北穂への道を北穂沢を辿り登る始める。やがて、朝陽はカールの底まで射してきた。辺りは、シロバナノチシマフウロやミヤマノキリンソウ等が咲く“お花畑”だ。左手に前穂のT峰からY峰への稜線を望みながら、歩を進めると大岩を左に回る箇所に出合う。鎖やハシゴを伝い乗っ越すと南稜だ、ここで小休止である。
稜線に咲く花は、コバイケイソウ・イワツメグサ・イワオトギリ・ミヤマリンドウ等、次々と姿をあらわすが、登るにつれて霧が上がってきて遠くの景色は望めなくなった。岩稜の登りは、ペンキ印や踏み跡に気をつけて登っていくのみだが、霧に隠れて足下も周りの風景も望めない。右手に見えるはずの、北穂東稜のゴジラの背も、霧の中である。奥穂への道の分岐を右に採り、やがて霧の中に“松濤岩”を巻く道でシコタンソウが咲いていた。そして、8時過ぎには北穂高岳の頂上に着いた。三脚をセットしたカメラマンが滝谷にカメラを向けている。と昨夜同宿の彼女たちも、頂上で休んでいた。そして大休止の後、私たちも縦走路へと踏み出した。
南稜との分岐を縦走路にとり、岩尾根の始まりである。ガスの切れ間に滝谷のドームが姿を見せた。ペンキ印に気をつけて、若い彼女達のあとを追うように出発である。足下の霧を一陣の風がさらっていった。と、南岳からキレットが現われた。しかし槍の穂先は雲の中である。路は涸沢側(進行方向に向かって左側)から、滝谷がわへと替わり、足下には遙か下方が垣間見える。
そして涸沢側へ回り込んで、最低コルへと降ると、前方から三人組みが上がってきた。インストラクターらしき女性が二人に「こういう処でも、ザイルを結んでいるだけで、安心して歩けるものヨ」等と、話しながら歩いていた。・・・槍が岳まで縦走するのだろうか?私たちも、大キレットを歩けたら・・・10時前に、最低コルで小休止。
涸沢槍へは、滝谷側を登る。大岩がゴロゴロした場所だ。鎖やハシゴが要所に架けられ、不安は感じないが油断はできない。槍を過ぎ小さなコルに着く。足下にはミヤマキンバイ・イワオウギ・ハマベンケイなどが咲いていた。長いハシゴの上から若者のグループが降りてきた。「コワーイ」等など口々に叫びながらすれ違って行った。そして、涸沢岳の稜線に出ると頂上は真近にあった。その頂上には、昨日同宿だった足摺の夫婦が上がってきていた。
10分程降ると穂高岳山荘があり、まずは宿泊の手続きを済ませた。昼食を終え、奥穂高へ出発だ。白出のコルから、直ぐのハシゴを何個か登ると山荘は真下になる。背中の荷物が軽くなった分、どんどん足が伸びる。左手は、涸沢に向けてすさまじい絶壁を形作っているが、ここにも花は咲いている。前方には霧の間に頂上が見えてきて、間違い尾根を乗越えると、頂上は直ぐだった。12時半だった。相変わらずの霧の中、小屋に戻り寛ぎの時間だ。相棒は、ジャンダルムの夕景を撮りに粘っていたが、さてどうなったか?(01.7.25)
ドーム先の鎖場の降りで、はたと怖気づいた私はどうしたものかと悩んでいると、下から叱咤の声が・・・意を決して降る途中でクラックに深く足を入れすぎて抜けなくなり、にっちもさっちもいかなくなり、おっちゃんの世話になったんじょ。
【7日目(穂高岳山荘〜涸沢ヒュッテ〜横尾〜上高地)】
今日は降るだけなので、ゆっくりでいい。朝陽を写真に収めて、ザイデングラードを涸沢に向けて下山開始だ。昨日は、13時過ぎには小屋に帰っていたが、当初からの行程に変更は無い。朝陽がザイデングラードに当たり始めた頃、お花畑を通過する。もう下からの登山者とぼちぼちとすれ違い始めた。お花畑はミヤマキンポウゲだろうか黄色い花がよく目立つが、白いチングルマも咲いている。涸沢ヒュッテには、7時前に着く。ヒュッテには、○△さんが上がってきています、とサイン入りの本を売っていた。
このまま降れば、昼前に下山となりそうなので、パノラマコースを降りようかと、救助隊の本部にコースの状況を問い合わすと、「残雪が多いので、危険です」との事だが「途中まで歩くと、槍が岳が見えるところがあるので、そこまで行ってみたら」との言葉。寄り道をしようとヒュッテの前まで行くと、例の“足摺のペア”に出会う。訳を話すと、「一緒に槍を観に行く」との事なので、同行する事となった。“通行禁止”のロープを跨ぎ、パノラマコースを暫く進むと、北穂から奥穂にかけての文字どうりのパノラマと、涸沢カールの展望だった。そして、見事なクルマユリにも出会えた。おまけは雲の切れ間から顔を覗かせた槍が岳だった。
槍が岳を遠望できた事に満足して、下山である。1時間余りの寄り道で、9時40分に横尾に着く。そして、観光客に混じって“嘉門次小屋”で昼食を摂る。上高地に近づくにつれて、下界に近づく事を再認識である。
上高地ターミナルからバスに乗り、中の湯温泉へ車を取りに行く。松本インターの近くのホテルで3日間の疲れを癒して、明日はユックリ走ろう・・・(01,7,27)
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