螺旋回廊
〜葵マルチサイト補足〜
「アクア・ペルマネンス」
「……さ、ここまで言えばおまえにもわかるじゃろう。いまやわしらの手中からおまえを奪還することのできるものは、神の力でもなければ人の力でもない。また、それは可能な物事の秩序のなかにあるものでもなければ、奇跡の分野にあるのでもない。いかなる種類の方策も、おまえがあんなに誇りにしているその純潔を、もはやこれ以上永く保たせることは不可能であり、いかなる手段も、要するに、考えるべきあらゆる意味とあらゆる仕方とにおいて、わしら四人が共どもこれからふけろうとしているあの肉の放蕩三昧の、おまえが餌食となることを妨げることはできないのじゃ」
マルキ・ド・サド「ジュスティーヌ物語、あるいは美徳の不幸」より抜粋
序
その日のわたしは、世界で一番幸せだった。
ヨーロッパの古い呼び名でノエルと称され、さらに伝承を遡ればユールという古名にまで辿り着く、クリスマスの日のわたしは……。
葉子の体調が悪くなって──それはそれで悲しかったけど──佐伯先生と二人きりですごすことになり……香乃先生のことでヤキモチを焼いて……。
だけど、それがきっかけで先生に「好き」だって言ってもらえた。
「有頂天」って言葉は、もともとは仏教用語で、もうこれ以上登るところがない最上天って意味だけど……その日のわたしが、まさにそういう状態だった。
登りつめてしまえばあとは下るしかなく、その山が高ければ高いほど、険しければ険しいほど、一歩足を踏みはずせば奈落の底まで一直線だというのに……。
そういえば……以前、ある教授の講義のなかで、こんな話を聞いたことがある。
クリスマスとは、実はイエス=キリストの誕生日ではない、と。少なくとも、聖書にそのような記述は存在しない、と。
ローマ帝国の初期に大流行したミトラ教という宗教があって、そのミトラ神の誕生日が12月25日の冬至──
太陽神であるミトラは、一年を通じてもっとも日照時間の短い冬至に生まれ、徐々に成長していく。夏至には青年に達し、それからは老いる。
天体の運行を擬人化した原始宗教の最後の名残であり、ミトラ教徒にとっての冬至とは、神の死と再生を意味するもっとも神聖な一日──
このミトラ教から信者を引き抜くために、初期キリスト教の教父たちは、ミトラ神の誕生日を剽窃し、縁起由来を捏造し、イエスのそれへとすりかえた──
それがクリスマスの始まり……。
……この話を初めて知ったときには、なんて夢がないんだろうと思った。
救世主の降臨を讃える厳粛なミサ……ロウソクの炎に照らし出される家族の団らん……
熱い眼差しで見つめ合う恋人たちの聖なる夜……そういったものに対する冒涜だと思った。
だけど……案外そんなものなのかもしれない。今は……そう思う。
だって……わたしは気付いて≠オまったから……。
佐伯先生をお待たせしてシャワーを浴びているときに、自分が「夢を見ている」のだと……。
なぜなら、去年のクリスマスの日……わたしは……幸せとは対極にあるかのような、粘着質の悪夢のなかで溺れていたのだから……。
葉子の病気も……香乃先生への嫉妬も……そして、佐伯先生への告白とその受け入れも……すべては、わたしの脳が失われた過去の断片を集めて組み立てた、不出来な寄せ木細工……。
たとえ空想のなかだけでも、あの人たち≠フいない世界に遊んでみたいという、わたしのささやかな抵抗……秘めやかな願望……。
第一幕
1
うたかたの夢から醒めたとき、わたしは今、自分がどこにいるのかが分からなかった。
2DKのマンションの一室──必要最低限の生活用品しかない。
ちょっとした小物にまで、その暖かい人柄が反映されている佐伯先生のアパートとは、比べものにならない殺風景な部屋……。
数秒間の自失のあと、わたしは自分の置かれている状況を唐突に思い出した。
本当は……思い出すまでもないのだ。わたしがこの部屋に住むようになってから、すでに四ヶ月近くが経過しているのだから。
心理学をかじったわたしには分かる。心が……最後の最後に残ったほんのわずかの良識や尊厳が……状況を受け入れることをいまだ拒否しているのだ。
どうしても許容できない現実を突きつけられたとき、人は精神か肉体か、あるいはその両方に、何らかの形で変調をきたすことがある。
見てはいけないものを見たショックで失明する者がいる。幼児退行を起こす者もいる。
特定の言葉や状況が引き金となって、神経性ショックを引き起こす者も……。
わたしの場合、それはしばしば、記憶障害といった形で現れる……。
それでも、一時よりはずいぶんと回復した。あの悪夢の数日間に最初の調教≠受けた直後しばらくは、わたしは堕ちるところまで堕ちていたと思う。
SEXとペニスのことしか頭になく、一分前のことすら思い出せない──
もちろん、わたしを取り巻く状況は、今も決して改善されてはいない。ううん、むしろ悪化している。
だけど……どのような惨状であろうと、それがいったん確定し、安定≠オてしまえば、人は徐々にでもそれを受け入れ、慣れて≠「くものらしい。
人間の心は、自分が思っている以上に弱くてもろい──そう考えていたけど、実は結構、強くて剛性があるのかもしれない。
その証拠に、わたしは理知的にものを考えられるようになっている。
もっとも……いつまで理性を保っていられるかは分からない。
そう遠くないうちに最悪の状態に戻って……ううん、最悪を通り越して≠オまうような気もする。
だから、「人間の心」という命題に関しては、今は保留とするしかない。いずれ……わたし自身がその答え≠ニなるだろう。
あの日∴ネ来、わたしはここでご主人様≠ノ飼われて≠「る……。
ご主人様≠ヘ一人ではない。
EDENというインターネットのHPに会員として名を連ねるすべての者が、等しくご主人様≠フ資格を有する……。
そして……わたしは……ご主人様≠スちが共同所有する、いつでも使える利便性の高いメスブタ=c…。
このマンションは、メスブタ≠飼うためにご主人様≠スちがお金を出し合って借りたもの。ご主人様≠スちは、この部屋を家畜小屋≠ニ呼んでいる……。
ご主人様≠ヘ十人以上いるから、毎日、誰かしらが家畜小屋≠ノやって来る。
平均で二・三人。わたしは、そのすべてを満足させるべく、誠心誠意ご奉仕≠オなければならない。
昨夜は、珍しく誰も来なかった。月に一度あるかないかだ。
でも、だからといって、私の気が休まるということはない。
ご主人様≠スちは事前の連絡などなしで、いつも唐突にやって来る。
だから、わたしは常に身構え、用意していなければならない。
昨日は、明け方近くまで眠れなかった。だから、今の時刻は正午を少し回っている。
家畜小屋≠ノは、時計なんて気の利いたもの≠ヘないから、あくまで私の体内時計をもとにした推測でしかないけど、それほど間違ってはいないはず。
ここで飼われる≠謔、にかってから、様々な感覚が研ぎすまされているから。
もっとも、その最たるものは性感≠ネのだけれど……。
こうして一人でいる時には、以前なら逃げ出すことを考えた。それは案外、簡単なのだ。
玄関のドアには外から鍵をかけるような仕組みはないし、もっと手っ取り早いのは、窓を開けて大声で助けを求めること。
だけど……ご主人様≠フ一人がこう言ってから、わたしは逃亡の望みを自ら封印した。
「おまえがサツにでも駆け込みゃ、確かにオレたちは終わりだ。だがな、監禁とレイプくらいじゃあ、絶対に死刑にはならねぇんだ! 何年かかっても出てきて、ツケを払わせてやるからよ!!」
「そん時ぁ、おまえだけじゃ決してすまさねぇ。おまえの大事な先生も、親友も、弟も、みんなぶっ壊してやる!」
そんなふうに脅されたら、絶対に逃げられない。
ご主人様≠スちが、口にしたことは必ず実行する、ということを骨身にしみるまで知っているのは、ほかならぬこのわたしなのだから……。
ご主人様≠スちも、その点を理解しているからこそ、いつでも逃げ出せる状況に、平気でわたしを置いておくのだろう。
もしかしたら、調教≠フ一つなのかもしれない。
強制されるのではなく、自分の意志で家畜小屋≠ノ留まっている、ということをわたしに思い知らせるための……。
どちらにしても……わたしのもとの居場所、わたしが愛して、わたしを愛してくれた人たちのところへ帰るなんてこと、今のわたしには絶対にできない。
季節はもうすぐ春だけど、わたしの心に積もった雪がとけることはない。
だけど……それはある意味、恩寵なのかもしれない。雪は……汚いものをすべて、覆い隠してくれるから……。
自我の崩壊を防ぐ精神的ブロック──心理学的に言うと、そういうことになるかもしれない……。
汚されれば汚されるほど、堕とされれば堕とされるほど、わたしの心には雪がしんしんと降り積もっていった。
そして、だからこそ、わたしはここから逃げ出すことができないでいる。
陽の光の下、雪がとけ去ったあとに残る穢れた残骸を、わたしは決して直視できないであろうから……。
もう……よそう。生きていること──ただそれだけが、今のわたしの唯一の目的であり、最大の贅沢なんだから……。
わたしの名前は水代葵。数ヶ月前までは、どこにでもいる普通の大学生だった……。
2
疲労と倦怠感が、ヒルのように身体に吸いついている。考えてみれば、それも当然だった。
わたしは、絨毯の上に直接、毛布だけをかぶって横になっていた。
隣の部屋にはベットがあるけど、その使用をわたしは許可されていない。
あのベットはご主人様≠スちの専用で、ご奉仕≠するとき以外、わたしが上がることは禁じられている。
精神的疲労と肉体的疲労──この二つが、常にわたしから滋養分を吸い上げている。倒れてしまわないのが不思議なくらいに。
なら、肉体的疲労だけでも回復させるために、鬼の居ぬ間の洗濯とばかりに、ご主人様≠フ来ない日にベットをこっそり使う? そんなことは考えられない。
たとえ心≠ェそうしたいと願っても、体≠ェ言うことをきいてはくれない。
もし事が露見したら、厳しく、徹底的に躾け≠轤黷驍ゥら……。
脇腹を、肋骨を折らないよう留意しながら断続的に蹴る──これを三分間も続けられると、わたしは恥も外聞もかなぐり捨てて、涙を流しながら「やめて下さい!!」と懇願せざるをえなくなる。
やめてくれるなら何だってする。足の指はもちろん、ペニスだって、お尻の穴だって舐める。
それほどにつらい。躾けというより暴力、暴力というより拷問。
あの苦しみは、実際に経験しないかぎり、誰にも分からないに違いない。
ただ、これほど疲弊していても、体重だけは、不思議とあまり減っていない。
時計と同じく、体重計なんてものは家畜小屋≠ノは置かれてないけど、感覚的に分かる。
1キロも痩せてはいないはず。胸などは、以前よりもむしろ大きくなったような気がするし、肌の張りや色つやも悪くない。
おそらくこれが……女になる≠ニいうことなのだろう。
くる日もくる日もSEXすることで、女性ホルモンが活性化しているのだ。
ただ、ご主人様≠スちに言わせると、こういうことになる。
「栄養のぎゅっとつまったうまい餌≠、たっぷりと、好きなだけ飲ませてやってるんだから、当然だ」
メスブタ≠フ餌──それが男性の精子であることは、今さら、取り立てて言うまでもない……。
いつまでもこうしてはいられない。わたしは、のろのろとした仕草で毛布を脱ぎ捨てた。
体が冷え切っている。まだ春先なのに毛布一枚というのは……やっぱりつらい。
それに……わたしは何も身につけていないのだ。
精液専用の肉便所≠ェ身体を飾るなんて傲慢≠ナ無意味≠ネこと、ご主人様≠スちが許すはずもない。
わたしはもう四ヶ月、奉仕(プレイ)を盛り上げる方便──メイド服やボンテージファッションの着用を命じられたことがあった──として以外、下着すら身につけた覚えがない。
壊れたマネキン人形のように崩れ落ちる、という表現があるけど……わたしはその逆回し再生を見るような、端から見るとどこか現実感のない仕草で立ち上がった。
床でゴトリと音がした。反射的に視線を移し、ゆっくり五秒ほど考えてから、わたしはそれが何であるのかを悟った。
例の記憶障害が、またも現れていた。
決して忘れるはずのないもの──わたしの身体のなかにさっきまで入っていたもの──バイブレーターだった。
最初の調教のときに使われた、これ以上はないといった大きさのものと比べると、せいぜい半分ほどのサイズ──
これには理由がある。私は、いつでもご主人様≠受け入れられるよう、準備しておかなければならない。それがバイブの着用義務。
だけど、それで……ご主人様≠フ言葉をそのまま使うと「ゆるガバの締まりのねえオマ○コ」になることは許されない。
その二律背反する命題を解決するのが、この……抜け落ちてしまっても気付かない程度の大きさのバイブなのだ。
でも……抜け落ちてしまっても気付かない≠フは、わたしがSEXだけを至上目的とする、あさましくいやらしい肉体に改造されてしまったから。
普通の女のひとなら──四ヶ月前のわたしでもそう──こんなものを挿入したまま眠るなんてこと、絶対にできない。
……言い忘れていたけど、もちろんお尻にもバイブは差し込まれている。
すべての穴を常に使用可能にしておくことは、ご主人様≠ノ使っていただける肉便所≠ニしての、必要最低限な義務なのだから。
わたしはバイブを拾い上げると、もう一度、それを体内に収め直した。
抵抗感はほとんどなく、ピンク色をした玩具は、ズブズブと肉のなかに埋没していく。
根本まで完全に呑み込んだところで、わたしは膣を締めて<oイブを固定した。
最近収得した……ううん、収得させられた技術の一つ。
「温泉芸者」って呼ばれる人たちが使うテクニックだと、ご主人様≠フ一人はニヤニヤしながら言っていた。
それがどういうことなのかは、世間知らずのわたしには分からない。
ただ、それが風俗関係の業界で働く人たちの技術だということだけは分かる。
わたしはもう……そういう人間になってしまったんだ……。
風俗の人たちを卑下するつもりはないけど……ううん、以前のわたしは、確かにそういう人たちを見下していたと思う。
どんな理由があったって、身体を売ってお金を稼ぐなんて、と……。
だけど、今のわたしは、そういう人たちよりも明らかに下なのだ。
陵辱を受け、奉仕を強いられ、そして、それを受け入れるよう心と体を作り変えられて≠オまった、今の私は……。
・・・続く。