わたしは、二本のバイブを二つの肉穴に収めたまま、バスルームへと向かった。



 バスルームといっても狭いユニットバスだから、シャワーを浴びることくらいしかできない。

 だけど、わたしの今の立場……というか身分≠ネら、それでも贅沢すぎるのだろう。

 ベットの使用はおろか、食事すら許可がなければ摂ることのできないわたしだけど、シャワーだけは好きなときに浴びていいことになっている。



 もちろん、それは常に清潔な状態でご主人様≠迎え入れるためだけど……それでもやっぱり嬉しい。

 そんなことが嬉しい≠ニ感じる事自体が異常であるのもわかってる。



 だけど……仕方がないじゃない。これは……メスブタ≠ノ許された最大の……そして、ほとんど唯一の……人間らしい権利なんだから。





 コックをひねり、シャワーから溢れ出す水がお湯に変わるのを待ちながら、わたしはぼんやりと考えていた。

 ──今日は特別な日≠セから、身体のすみずみまできれいに、清潔にしておかねばならない……。

「ふふふふ……」

 私の口からは、知らず知らずのうちに笑声が漏れていた。

 犯されるため、汚されるため、身体を清める──その矛盾が可笑(おか)しかったのだ。



 こういう自虐趣味は、以前のわたしにはまったくと言っていいほどなかったものだ。

 やっぱり……心が壊れかけているのかもしれない。



 ふと気がづくと、とっくの昔に水はお湯に変わっていて、狭いバスルームはもうもうとした白煙に覆われていた。

 わたしは蛇口をひねって水流に冷水を足すと、同時に換気扇を回す。

 水蒸気のなかに、佐伯先生の顔──幸福の最後の残照──が垣間見えたような気がした。

 しかし、その白い幻影も、すぐさま荒々しい空気の奔流によって駆逐されてしまう……。





 わたしは股間に手を回し、両方のバイブを同時に抜いた。さすがに、このままでは身体を洗うことができない。

 手早く引き抜いたつもりだったけど、恐れていたことが起こった。わたしのなかに、快楽の卵が産み落とされてしまったのだ。

 もう一度、バイブを埋め戻したい衝動に駆られる。それだけでなく、前後に激しく出し入れし、昇り詰めたい、イきたい──そういう黒い塊だった。



 わたしは、二本のバイブを手にしたまま立ちつくしていた。

 オナニーは禁じられている。

 それは……ご主人様≠ェ望んだとき、ご主人様≠フ前でしか、してはならない禁則事項だった。



「っつ……!」

 唐突に、欲望が怒りにとってかわられた。理由は分からない。

 感情の起伏が激しいのは精神的に安定していない証拠──と、それだけしか言えない。

 毎日、あれだけ犯されておきながら、まだ足りないと言うの!? 強烈な自己嫌悪──



 だけど、結論だけを言えばYESなのだ。

 昨日は誰も来なかった。

 たったそれだけ! たった一日、禁欲しただけで!!

 わたしの肉体は主の意志を裏切り、いきり立った、グロテスクな、白濁した欲望を吐き出す男性器を貪婪(どんらん)に求めるのだ。



 わたしは、バイブを思いっきり床に叩きつけた。

 バイブは濡れた床で二・三度、びちびちと跳ね、釣り上げられたばかりの魚のようにも見えた。





 数分が経過して怒りが潮のように引いてしまうと、わたしはバイブを拾い上げ、丁寧に洗ってから、洗面台の上に置いた。



 情けなさでいっぱいだった。今のわたしよりみじめな人が、はたしてこの世にいるんだろうか? そう思うと、涙が溢れてきた。

 嗚咽がとまらない。

 しかし、それでもわたしは浴槽に入り、泣きながら体中をすみずみまで洗った。胸とアソコとお尻は、特に念を入れて……。

 ご主人様≠ノ服従し、奉仕し、悦んでいただく──このメスブタ≠ニしての義務が機械的に行えるよう、細胞の一つ一つにまで、そのためのありとあらゆる行為が染み込んでいる証拠だった。



 シャワーを終えてバスタブから出ると、不思議と心は静まっていた。

 洗面台の上のバイブを再び手にしたとき、代わりに沸き上がってきたのは……ある種の違和感≠セった。

 シャワーを浴びている間も、本当は気ずいていた。ただ、認めたくなかっただけ……。

 バイブで塞がれていないと、股間もお尻も、どこか手持ちぶさたで現実感がなく……もっと簡単に言うと「物足りない」ことを……。



 改造されてしまった肉体……塗りかえられてしまった心……その二つをいだいて、わたしはバスルームを後にした。











 リビングに戻ると、わたしはバスタオルで全身を拭いてから、再びバイブを肉の柔穴に埋めた。

 またも、自慰への渇望が下腹部から立ち昇ってくる。

 あるいは、全身の焦熱(ねつ)がすべて、下腹部に下りてしまったかのよう。

 だけど……なんとか堪(こら)えた。そんなことにかまけていられる時間は、もうあまりない……。





 わたしは、閉め切られたカーテンを少しだけ開いた。強烈な日差しが網膜の上で踊る。



 ああ、今日はこんなにいいお天気だったんだ──そんなことを、今さらながら知る。



 だけど……メスブタ≠ノとって天気なんて、本当はどうでもいいこと……。

 空の高さを……そして青さを知ることは……地を這うものには、むしろ絶望でしかない。



 一年365日を全裸で過ごすわたしが、外から見られるかもしれない危険をおかしてまでカーテンを開いてみたのには、別の理由がある。

 ホウキと雑巾がベランダに置いてあるからだ。

 リビングは……ううん、この家畜小屋≠ニ呼ばれる空間のすべては、SEXのためだけに存在している。

 だから、数少ない、それ以外の用途のものは、すべてベランダに雑然と放置されている。



 わたしはカーテンとガラス戸を開くと、身をかがめ、素早くベランダに躍り出た。

 マンションの五階だから、人目につく可能性はあまりないけれど……どこでだれが見ているかは分からない。

 事実、わたしがメスブタ≠ノ堕ちる前、ご主人様≠スちは双眼鏡を使って、遠くからわたしを観察、あるいは値踏み≠オていたのだから……。



 寒風が肌を叩いた。まだまだ外は寒い。

 バスタオルか毛布を身体に巻けばよかったのかもしれないけど、そんなことは決してできない。

 もしも、ご主人様≠ェ家畜小屋≠ノ来る途中、たまたまベランダを見上げてしまったら──そう考えてしまうから。

 そんな万に一つの可能性にまでおびてしまうほど、躾け≠ヘ完璧に、徹底的に行き届いている。





 ホウキと雑巾をかかえると、わたしは少しでも早くリビングに戻ろうとした。

 しかし、ふと、同じくベランダに置かれているあるモノ≠ノ目が留まった。



 ベランダに置いてあっても大して違和感のないもの……しかし、特別≠ネ調教の場合にのみ使われる道具……これまでにたった一度だけ、わたしが家畜小屋≠ゥら外に出たときに入れられた、メスブタ$齬pの移動容器……わたしと佐伯先生の紐帯(きずな)を完璧に、そして永遠に断ち切った、忌まわしくも呪わしい鉄の獄(ごく)……。

 パブロフの犬の反応で、わたしはブルっと身震いをした。そして、リビングに駆け戻った。





 ホウキと雑巾を手にすると、わたしは部屋をすみずみまで掃除し、ベットのシーツも取りかえた。

 ……今日は特別な日≠セから……。

 行動だけを挙げると、まるで恋人の到着を待ちわびる乙女のよう……。



 二時間以上をかけて、わたしはすべての準備を整えた。



 そうだ……忘れていた。わたしは最後の準備を思い出す。

 避妊薬……ピルを飲むこと──

 医師の処方箋がないかぎり、ピルは手に入らないと聞いていたけど、ご主人様≠スちには独自のルートがあるらしい。

 わたしは一日に一回、その服用を命じられている。

 もっとも、それはご主人様≠ェわたしの身体を気遣っている、という証拠では決してない。

 ただ単に……「メスブタ≠ェ孕んじまうとな……とりあえず産ませる気はねぇから中絶(おろ)させるとしても、その間は使えない≠ゥらよ」ということ……。

 「便所を気持ちよく使うためには、日頃の手入れが必要だろ?」そうとも言っていた。

 あの薄暗い倉庫で施された″ナ初の調教では、あれだけ膣内(なか)で出されたにもかかわらず、わたしは妊娠しなかった。

 基礎体温は測ってなかったから何とも言えないけれど、おそらくは、たまたま安全日だったのだろう。

 それが……あの人生最悪のクリスマスの日……わたしの身に起きた、たった一つだけの奇蹟……。

 わたしは、台所の引き出しのなかから錠剤の入った小瓶を取り出すと、水といっしょに嚥下した。

 これはわたしのためでもあるの──そう言い聞かせながら……。

 これで……本当に準備は終わり。あとは……ただ待つだけ……。



 わたしは絨毯の上にぺたりと座り込み、何をするでもなく、ぼうっと中空を凝視していた。

 一応テレビはあるけれど、あまり見る気にはなれない。

 もともと、それほどテレビを見るほうではなかったし、今では幸せそうにしている人たちを見るのがつらいから……。



 いったいどれくらい、そうしていただろう……?

 時間の砂が虚空に落ち込んでいくような錯覚──

 短かったような気がする。十分くらい? とても長かったような気もする。二時間くらい?

 ただ……カーテンの隙間から漏れるオレンジの光は、黄昏が訪れたことを物語っていた。





 わたしは、玄関の方向から聞こえる物音で、ふと我に返った。



 ……がちゃがちゃ……がちゃがちゃ、と──



 合い鍵を使って錠をはずしている音だ。

家畜小屋≠フドアにこのようなことをする人間が誰であるかは、もはや説明するまでもない。

 わたしは、義務≠全うするため玄関に向かって駆け出しながら、このような話を思い出していた。



 ──黄昏は古来、「誰そ彼れ」と書き、人の顔が判別できなくなる時刻だとされていた。

 顔が判別できなくなるから、人のなかに魑魅魍魎が混じっていても気づかない。

 それゆえ、人は黄昏と、その背後に迫る闇を異常なまでに怖れた──



 ……がちゃがちゃ……がちゃがちゃ──



 あの耳ざわりな金属音は……人のなかに混じった魑魅魍魎の到来を告げる、第五天使の喇叭(ラッパ)の音……。

 水代葵の人間≠ニしての時間の終わりを告げる、首吊ヶ丘の 弔鐘(ちょうしょう) の響き……。







第一幕──了──