TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

幸せの続き

「別れてくれ、月森」
 コンクールでの優勝を手に入れた俺に告げられたのは、おめでとうという祝福の言葉でも、お前は最初からそこを狙っていたんだろうなどという皮肉めいた言葉でもなく、突然の別れの言葉だった。


 出会いはどちらかといえば最悪だったのだと思う。
 何もかもが正反対でやることなすこと反発しあっていたし、口を開けば相手に対する文句の言葉しか思い付かなかった。あの頃はたぶん、お互いに嫌悪感すら抱いていた。
 だが、そんなマイナスだらけの感情がすべて羨望と憧れの裏返しだと気付いたとき、俺の中にあった嫌悪は強い好意へとその姿を変えた。
 初めての感情に戸惑い、叶わないであろう想いに胸を痛めた。
 それでも諦め切れなくて想いをぶつけ、どう考えても強引過ぎたと自覚のある俺の行動を受け止めて貰えたときには奇跡だと思った。
 順風満帆ではなかった。喧嘩も言い合いももちろんあった。それでも俺たちは俺たちなりに上手くやってきたはずだ。
 今回のコンクールへの出場も応援してくれていた。レッスンのためにと海外へ渡ったときも比較的頻繁に連絡を取り合っていたし、皮肉めいた言葉の中にも俺を想う気持ちが込められていると感じていた。
 今日だってわざわざ都合をつけてコンクールの会場まで足を運んでくれたのだし、始まる直前には頑張れと言ってくれた。緊張をほぐしたいという本気と言い訳の入り混じった俺の抱擁に、文句を言いつつもその腕を背に回してくれたのはついさっきのことだ。
 どれを思い出しても別れを切り出されるようなことなど微塵もなかったと思う。
 いや、そう思っていたのは俺の錯覚で、本当はすでに、もっと以前から別れたいと思っていたのだろうか。
 納得がいかなくて理由を問えば、好きじゃなくなったと返された。
 その言葉は、嫌いになったと言われるよりもずっと、深い痛みをもたらした。思い切り心に突き刺さったまま抜けず、そこまで言われたら俺にはもう、それ以上の言葉を返すことなど出来なかった。
 納得したわけではない。想いを諦めたわけでも嫌いになったわけでもなかったが、俺への気持ちはもうすでにどこにもないのだと言われて、それに太刀打ち出来るほどの言葉など俺は持ち合わせていなかった。
「そういうことだから」
 返す言葉を見つけられず、わかったとも言えずに黙ってその目を見つめれば、そんな俺を気にするでもなく視線を逸らされた。
 それはまるで、もうお互いの視線が交わることはないのだという合図のようで、何かが割れるような、引き裂かれるような、そんな音が聞こえたような気がした。

■ ■ ■


 コンクールでの優勝をきっかけに俺の音楽への道は世界へと広がり、それまで以上に音楽漬けの毎日になった。
 ひたすらに自分の音を追い求める日々は時に辛く、だがそれ以外を考える暇などない毎日を、俺は自ら求めて没頭していった。自分の中にある忘れることなど出来ないそれを、俺は色々な言い訳の中に押し隠して忘れようとしていた。
 優勝という大きなものを手に入れ、ヴァイオリニストとしての地位を確固たるものにし名声を手に入れたが、それ以外の部分で俺はだいぶ欠落していた。
 たぶん、手に入れたものよりも失ったものの方が格段に大きい。
 あの別れの日以来、恋愛はしていない。誰に対しても心がまったく動かない。だが、俺自身ではなく俺に付随したものに引き寄せられて人が寄ってくるから、進展と事実の伴わない噂話と浮名が、勝手に世間を騒がせていた。
 心は凍りついたように冷めているのに、奏でる音色にはまるで誰かを焦がれているような響きがあると、そう言われることが多かった。
 確かに、それは間違っていない。
 突然、何の前触れもなく終わりを宣告された俺の恋はあの日のまま止まっている。止まったまま想いは色褪せず、ここに残っている。ひどい言葉を投げ付けられてなお、想いはただ一人にだけ向かっている。
 だから俺はもう二度と、たった一人以外の誰にも心を動かされることなどないだろう。

■ ■ ■


 再会は、別れと同じく突然、訪れた。
 お互い同じ業界にいるのだから名前やその活躍は耳にしていたし、いつか同じ舞台に立つことがあってもおかしくはないだろうと思っていたが、音楽とは全く関係ない、本当に全く予期しないときに、何の変哲もない街中で再会は果たされた。
 街中特有の雑踏に紛れることなく耳に届いた久し振りという声はやけに鮮明で、そこだけ時間が止まったような、いや逆に、止まっていた時間が急に動き出して一気に現在まで繋がったような、不思議な感覚の中に俺は立たされた。
 他愛のない言葉を交わし合ってすぐに沈黙は訪れ、次の言葉が出なくてその顔を見つめれば、微かに瞳が揺れてそのまま逸らされた。
 瞬間、もう長いこと別々の時間を刻んできたのだと実感させられる。今、同じ時間を過ごしても、またあの日と同じことを繰り返すだけなのだろう。
 沈黙が重い空気に変わったところで、短い別れの言葉が告げられた。
 これでまた、次の偶然まで俺たちは会うことなく過ごすことになる。そして俺の時間はまた、今日から止まったままになる。
 そう思ったときにはもう、俺の手は離れていくその手を掴んでいた。
 その身体が震えたことは、掴んだ手から嫌でも伝わってきたが、それがただの驚きだったのか嫌悪だったのかはわからない。わからないからいいように解釈して、俺は掴む手に力を込めた。
「俺には君以外、考えられない」
 あの日にはまだ言葉になっていなかった俺の心が、自然に口から出ていた。言葉にすることでより気持ちが強くなり、心の中が温かいものでいっぱいになった。
 真っ直ぐに俺を映しながら驚きに見開かれた瞳から嫌悪は感じとれなかったが、戸惑いは痛いほどに伝わってきた。
 好きではなくなったときっぱり言い切ったときとは随分様子が違う。瞳が揺れ、逸らされ、逡巡のあとに手を払い除けられ、掴み直す間もなく逃げられた。
 あの日の俺はその後ろ姿を見送った。何も言わず、答えすら返さず、ただ告げられた言葉を受け止めてしまった。
 だが今はそうしたくない。俺はもう一度、あの手を掴み直さなければいけない。


 人混みで思うように追いかけられなかったがそれはお互い様で、どちらにも不利であったその条件のおかげで俺は追い付くことが出来た。
 人の通りの疎らな路地へと走る方向を変えられ、本格的に逃げられてしまうその前になんとか掴むことの出来た腕はやけに熱く感じた。
 それをさっきよりも強い力で振り解かれそうになって、俺は更に力を込めてその腕を掴み、痛みを訴える声が届いても離せず、諦めたように抵抗を止めるまで俺はその腕を掴み続けていた。
 こんなにも誰かに執着したのは初めてだったが、戸惑いよりも独占欲にも似た焦燥心のほうが強い。自分の中にこんなにも激しい感情があることを、嬉しくさえ思う。
「何でっ…、俺が、せっかく…」
 小さく、まるで独り言のようにつぶやかれた言葉に顔を覗けば視線は逸らされたが、掴んでいた手を、たぶん振り解くためではなく掴み返された。それは俺が掴んでいる力よりも強かったが、微かに震えている。
 言葉の意味とその行動を問おうと口を開きかけた瞬間に掴まれた腕が引っ張られ、ほんの少しだけ俺より高い位置にある頭が俺の肩口へと埋まり、触れ合うところから体温と少し速い鼓動が伝わってきた。
 急に近くなったその距離感に今度は俺が驚いて立ち尽くしていれば、俺の腕を掴んでいた手が不意に離され、何かを責めるように俺の胸を叩き始めた。
 それが何を意味し、どんな感情でなされるものなのかと頭で考えるよりも先に、目の前にあるその身体を思い切り抱き締めていた。
 ずっと、抱き締めたいと思っていた。あの日からずっと、もう叶わないことはわかっていたのに、こうやって抱き締めてもう二度と離したくないと、ずっとそう思っていた。
 抱き締めるだけでは足りなくて、隠された顔を見たくてその腕を少し緩めたが肩口からその顔が上がる気配はなく、むしろ強く押し付けられてしまった。だが俺を叩く手が止められ、まるで縋るように、離れないようにきゅっと服を掴まれて心が切なくなり、もう一度抱き締める腕に力を込めた。
 あの日、急に別れを切り出したその理由も、今、こうして俺に身体を預けてくれるその理由も、たぶん問うても言葉では返してくれないだろう。だが答えは、言葉ではなく全身から伝わってくるような気がする。
 好きではなくなったという言葉は、俺を最も納得させるために選んだ言葉だったのだろう。そして自分を偽るための、自分を納得させるための、もしかしたら本心を隠すための言葉でもあったのかもしれない。
 だがひとつ、その言葉がもたらす結末には間違いがあった。確かにその言葉に返す言葉を見付けられなかったが、納得など今まで一度もしたことがない。俺も、そしてたぶん言った本人も…。


 もう間違えない。もう離さない。だから覚悟を決めてほしい。どんな理由でも、どんな言葉でも、俺はもう絶対に離れることを許しはしない。
 だからこの先もずっと、俺の傍にいてほしい。俺と共に、その人生を過ごしてほしい。あの日に止めてしまった時間を、もう一度ここからまた二人で始めたい。
 何よりも君の名を、俺に呼ばせてほしい。
「好きだ。君が好きなんだ、土浦」



幸せの続き
2012.10.8
コルダ話76作目。
最後は幸せですが、途中が切なめというか痛めというか…。
説明不足気味な書き方ですが状況は伝わっていますでしょうか^^;;
一応ここで完結予定だったのですが、こっそり続きがあります。
話は裏場面ばかりですので、18歳未満の方の閲覧はご遠慮下さい。