TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

オアシス

 仕事を終えて家に着けば、溜まっているのであろう疲れがどっと体に押し寄せてくる。
 間近に迫ったコンサートの準備と打合せ、その時期に合わせて発売されるCDのレコーディング、それに伴う写真撮影やインタビュー、そして毎日、欠かすことのないヴァイオリンの練習。
 休む暇などない忙しい毎日。
「疲れた…」
 ソファへと腰を下ろせば自然と、けれど口に出しても詮無い言葉がため息とともに漏れる。
 こなせないほどの仕事をしているつもりはないし、忙しいことが嫌なわけでも休みが欲しいわけでもない。ただ、この疲れを解消する術を俺は知らず、必要以上に溜め込んでいるという自覚はあった。
 その疲れに任せてソファへと体を沈めれば、ポケットの中で押しつぶされる形となった携帯電話が微かな機械音と振動を伝えてきた。
 居留守を決め込むつもりで無視していたがその振動はなかなか止まらず、とりあえず誰からの連絡なのか確かめようとポケットから取り出した。背面の小さなディスプレイに目をやればそれは確実に仕事がらみの電話で、俺は明確な意志を持って大きなため息を落とした。
 まだ日付は変わっていないがもう真夜中だ。
 こんな時間に掛かってくるということは緊急なのだろうと思いはするものの、電話に出る気が全く起きない。何の設定もしていないため相手が諦めてくれない限り鳴り止むことはなく、俺はその振動を手のひらに握ったまま腕をソファへと落とした。
 柔らかなクッションの上で、それはただ無機質な音を立てている。
 しばらくすると出ないことを諦めたのか振動は止まり、俺はホッと一息ついた。
 このまま電源を切ってしまおうかと逡巡しているとまた、着信を知らせる明かりが点滅を始め、小さな振動が伝わってくる。
 考える前にさっさと切ればよかったと思いながら忌々しげに携帯電話を見つめれば、視界に入る着信者の名前がさっきとは違う。
「土浦…っ」
 その名前を認識したときにはもう、俺は通話ボタンを押してその名前を呼んでいた。
『え、あ、あぁ、月森か。こんな時間だが大丈夫だったか?』
 切ろうとしたところだったのだろうか。少し驚いたような土浦の声のあと、尋ねるように気遣う言葉が続いた。少しでも気付くのが遅ければ土浦からの電話を取り損ねていたのかもしれないと思えば、その名前に気付いてよかったと俺は思った。
「あぁ。久し振りだな」
 定期的に連絡を取り合っているわけではないから、土浦と話をするのは本当に久し振りだった。
『そうだな。元気か? お前のことだから無理してんじゃないか』
 小さな機械越しに聞こえる土浦の声は笑いながら思い切り図星をついてくる。けれど今はその言葉すら耳に心地よく感じる。
「そうかもしれないな」
『おい、大丈夫なのか? まさかまだ仕事中とか言うなよ』
 だから素直にそう認めれば、透かさず心配そうな声が返ってきた。
 ソファに体を沈めたままそんな土浦の声を聞いていれば、それだけで疲れが吹き飛んでいくような気がする。
「いや、ついさっき帰ってきたところだ」
 答えながら掛かってきた電話を思い出したが、出てはいないのだから仕事中にはならないだろう。
『相変わらず忙しそうだな』
 土浦にしては珍しく、その言葉に嫌味は含まれていない。その響きから心配をしてくれている土浦の気持ちを感じ取って、俺はそれだけで嬉しかった。
「そうだな」
 短い返事を返せば土浦は黙り込み、しばらく沈黙が続いた。
「それよりどうした。何か用があったのだろう」
 俺たちは何か必要がなければ特に連絡を取り合わない。それでもこんな風に不意に聞ける声というのは、忙しい毎日の中ではとても嬉しいものだ。
『いや、あの、さ。今から…。いや、やっぱりいいや。明日も忙しいんだろ』
 何かを言い掛けたその声は土浦らしくなく、けれどすぐにいつもの土浦の声へと戻っていた。
 その様子が、言い掛けた言葉が、その姿が見えないからこそ気になる。
「今からどうすればいいんだ。言い掛けてやめないでくれ。気になる」
 仕事優先の毎日で忙しいのはお互い様だが、それでも二人の時間は大切にしたいと思うし、そのための無理は厭わない。
『じゃあ、…今からお前ん家に行ってもいいか?』
 少し考えるような間のあと、少し遠慮がちな声が続いた。
「もちろん構わない。俺が断るとでも思ったのか」
 思いがけない土浦の申し出はとても嬉しいもので、俺が断る理由なんて何もない。
『そうじゃなくて…。むしろ逆というか…。とにかく、今からそっち行くから』
 言い淀む言葉を問いつめる前に、土浦は叫ぶような一言を残して電話を切ってしまった。
「確かに、電話で話しているより直接会って話した方がいいな」
 俺はもう繋がっていない電話を見つめたままつぶやき、久し振りの土浦との逢瀬を邪魔されないようにと、今度こそ電源を落とした。

 それから30分もしないうちに、来訪を告げるチャイムが鳴った。
「相変わらず楽譜だらけだな…」
 部屋に入るなり、言われるであろうと思っていたことを土浦は口にする。来る前に少しくらいは部屋を片付けておこうと思ったが、片付けきれなかった楽譜が床に散らばっている。
 楽譜に書かれたことを少しでも多く吸収しようと家の中でも持ち歩くことが多く、コンサート前は演奏する全ての曲でそれをやるから家の中が自然と楽譜で溢れていく。
「君の部屋だって同じようなものだろう」
 以前、訪れた土浦の部屋にもやはり楽譜が広がっていた。指揮者は全ての楽器の音を楽譜から読み解かねばならないから、俺よりも楽譜を読む作業は大変なはずだ。
「確かにな。でもお前がここまで広げてるってことは相当なんじゃないか。大丈夫なのか?」
 散らばる楽譜を眺めていた視線が、心配そうに俺へと向けられる。こんなときに限ってやけに発揮される土浦の聡さは何もかも見抜いているようで厄介だが、心のどこかに心配されていることを嬉しいとさえ思う気持ちがある。
「いつものことだ」
 いくら弾いても納得のいく音を出せないでいたが、こうやって土浦と話をしている今なら弾けるような気がする。
 俺の音楽に土浦の存在はなくてはならないものになっているのだと、土浦と話をするたびに、逢うたびに思わずにはいられない。
「あんまり無理するなよ」
 土浦はそう言いながら、まるで照れ隠しのように無造作に詰まれた楽譜をひとつ手に取ると、その曲を口ずさみながらソファへと座った。
「っと、なんだ?」
 何か飲み物でもと思い踵を返してすぐ、叫ぶような声が聞こえて振り返れば、立ち上がった土浦は何かを見つけたのかソファへと手を伸ばしている。
「どうした?」
 そう尋ね終わる前に拾い上げられた携帯電話が目に入り、電源を切ってそこに置いたままだったことを思い出した。
「悪ぃ、思いっきり座ったみたいだ…。でもめずらしいな、こんなところに置きっぱなしにするなんて…」
 そう言って差し出された携帯電話を、俺は土浦の手ごと掴む。そして驚いた顔を見せているのであろう土浦をそのまま引き寄せ、ぎゅっと抱き締めた。
「な、何?」
 その行動が急だったという自覚はある。けれど土浦の手に握られた携帯電話が、もう鳴るはずはないのに二人の時間を邪魔するような気がして、一刻も早く視界から隠してしまいたかった。
 それよりも何よりも、俺は土浦を目の前にして自分の衝動を止めることが出来なかった。
「月森?」
 俺を呼ぶその声が心地いい。久し振りに触れるそのぬくもりが、さっきまで溜まっていた疲れをじわじわと解していく。
「不思議だな」
 そうつぶやいて更に抱き締めれば、諦めたようなため息が耳元に落された。それはきっと俺の急な行動や主語のない言葉を、俺が説明する気はないと悟ったからだろう。
 そして土浦の腕がゆっくりと、俺の背に回された。
「月森、誕生日おめでとう」
 それだけでも嬉しかったのに、今度は土浦から思いもよらない言葉が告げられる。
「最近、忙しそうだったから逢う約束は出来ないだろうなって思ってたからさ…」
 だから逢いに来た、と小さな声で言われ、俺は思わず顔を上げた。
 ずっと忙しくて俺は自分の誕生日など忘れていた。けれどそれを土浦が憶えていてくれたことが、誰よりも一番に祝ってくれたことが、そのために逢いに来てくれたことが本当に嬉しい。
「ありがとう…」
 驚きに緩めてしまった腕にもう一度力を込めて抱き締めれば、土浦の腕の力も強くなる。
 疲れを吹き飛ばしてなお余りあるその言葉とゆくもりは、更に俺を幸せにしてくれるのにまだ足りないと思うのは贅沢だろうか。
「土浦…。プレゼントを貰っても構わないだろうか…?」
 そうささやきながら、答えを待たずにキスをする。
 軽く触れただけの唇を離しても答えは返ってこなかったけれど、代わりに土浦の唇が触れてきて、俺は本当に本当に幸せだと思った。



オアシス
2010.4.29
コルダ話54作目。
つっきー、お誕生日おめでとう~♪
当日には全然、間に合いませんでした…。