TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

急転直下の放課後2

「土浦?」
 いつもなら扉が開いてすぐに聞こえる声が、いつもと変わらない響きで俺の名を呼ぶ。だが俺はいつもと同じように返事を返すことが出来なかった。
「待たせてすまない」
 そんな俺を気にする風でもなくこちらへと向かいながら掛けられた月森の声にやっと顔を上げることは出来たが、その手にある封筒が視界に入った瞬間、思わず目を逸らしてしまった。
 淡いピンク色をしたその封筒は月森の私物とは思えず、ついさっき渡されたものであろうことはすぐに予想がついた。その手の中にあるということは、月森は受け取ったということなんだろう。
 そう思った瞬間に気分の悪さが小さな痛みに変わった。その痛みは小さいくせに、身体中のあちこちが痛くて苦しくて堪らなかった。
「それ…」
 封筒を指差し、思わずそう言い掛けて慌てて口を噤む。
 別に月森の口から今の状況を説明してほしいわけでもないし、聞いてどうなるものでもない。
 ただ、今まで遭遇した告白の場面ではいつだってその場で断っていて、それがどうして今回に限って受け取ったのだろうと気にせずにはいられなかった。
「あぁ、聞こえていただろうか。受け取るつもりはなかったんだが…」
 月森が手の中の封筒へと視線を動かした気配を感じ、痛みは何故か更に増した。
 この痛みの理由がわからなくて、この痛みの理由を知りたくて、でもその理由を知ってしまうのも怖い。
「へぇ…。それより、今日はめずらしく遅かったな。何かあったのか?」
 続く月森の言葉を聞いてしまえばその答えがわかってしまうような気がして、俺はわざと話題を変える言葉を口に出した。
「留学のことで先生に相談していたんだ」
 だが、思い付くままに変えた話題から、思ってもみなかった驚くべき答えが返ってきた。
「留学…?」
 思わず確かめるように繰り返した俺の言葉に、月森はヴァイオリンケースと鞄を棚に置きながら短く肯定の返事を寄越した。
 聞き間違えでもなんでもなかったのだと理解した途端、俺はさっきとは違う意味で聞きたくない言葉を聞いてしまったような気がした。
「近いうちに、ウィーンへ留学しようと思っている」
 月森にとって上を目指すなら留学という選択肢は当たり前のことで、けれど俺はそれを今すぐの現実とは考えていなかった。
 身体中に感じていて痛みが、まるで心臓を思い切り握り締められたような痛みに変わり、俺は無意識に胸の辺りをぎゅっと掴んでいた。
「さっき手紙を渡されて、俺は伝える側の気持ちというものを初めて考えたような気がする」
 変えたはずの話題がまた元に戻ってしまい耳を塞いでしまいたいような気分になったが、何故か固まったように動けなくなっていた。
「自分が伝えたいと思う立場になって初めて、自分の気持ちを伝える難しさと、微かな望みに縋りたくなる気持ちを理解したのかもしれない」
 静かに告げられる月森の言葉が何を意味しているか嫌というほどわかってしまい、俺は何故か増していく胸の痛みに耐えるようにぎゅっと目をつぶって俯いた。
「色々と、初耳過ぎて驚いた」
 続いてしまった沈黙と治まらない胸の痛みを、そんな言葉で誤魔化すように破る。
「まぁ、留学はいつかするんだろうと思って・・・」
 顔を上げ、いつもの調子で声を出せた自分を褒めてやりたかったが、月森と目が合った瞬間、その言葉と作り笑いの表情を続けることが出来なくなった。
 真っ直ぐにこちらを見ている月森の目は真剣で、それをどう表現していいのかわからなかったが、今までに一度も見たことのない表情をしていたことは確かだった。
 その目があまりにも真剣過ぎて目を逸らせず、まるで蛇に睨まれた蛙のように動くことさえ出来なくて、俺は微かな恐怖さえ感じていた。
 ちょうど見下ろされるような位置関係にいることもまた、俺の恐怖を煽る材料になった。
「土浦、俺は…」
 掛けられた月森の声に俺は自分でも驚くくらい過敏に反応してしまい、たぶんそれに気付いたのであろう月森の言葉は中途半端に止まり、そっと目を逸らされた。
 月森の視線から解放され、ほっとしたと同時に何故か不安にもなった。月森が何を言おうとしていたのだろうと考えれば心はざわめき、聞きたいような聞きたくないような思いで月森を見上げた。
「留学は確かに以前から考えていた。行動を起こすなら早いうちのほうがいいこともわかっているし、個人的な感情に流されて将来をふいにはしたくないというのが俺の信条だ。だがそれでも、どうしても俺は割り切れないんだ」
 目に映る月森の横顔からその感情を読み取ることは出来なかったが、それでも思い悩んでいることだけは感じ取れた。
 何を悩んでいるのかはこの短い会話の中で察することが出来ていて、そんなことで悩むなんてお前らしくないとか、感情も好意も切り捨てるくせにとか、今までだったらなんでもなく言えたはずの言葉が、今日はうまく口から出てこない。
「お前なら、誰に告白してもうまくいくだろう…。留学だって、応援してくれるんじゃないのか」
 それでもやっとの思いで口に出せたその言葉は月森に向けたものであったが、何故か自分に言い聞かせているような気分にもなった。
 月森の学院内での人気の高さは知っているし、余程の相手ではない限り振られることも想像しにくい。そして留学のことも、相手を本当に想っているのならば淋しいと引き止めて自分が足枷になってしまうことはきっと望まないだろう。
 いや、離れ離れになってしまうことを淋しいと言えるのは恋人の特権なのかもしれないが、月森をそんな感情で引き止めるような相手を月森には好きになってほしくないと、そんな風に思ってしまった。
「君は…、君なら俺の留学を、応援してくれるだろうか」
 逸らされていた視線が戻り、静かに告げられたその言葉に、ひとつ大きく心臓が鳴った。
「少しでも淋しいと、そう思ってくれるだろうか…」
 そして真っ直ぐに、それなのにどこか頼りなげに見える瞳で見つめられ、心臓は高鳴ったまま治まらなくなった。
「応援するに決まってるだろう。いくらお前とずっといがみ合っていたからって、今でもお前が留学して上を目指すことを批判するほど、心は狭くないつもりだぜ」
 もしも出会ったばかりの頃に留学の話を聞いていたら、せいぜい頑張ってこいとそんな風に言っていたかもしれない。だが、こうやって一緒に練習や話をするようになって、俺は月森の実力も努力もちゃんと認めている。
 そしてもうひとつの質問を、心の中で繰り返す。
 俺は月森の留学を、淋しいと思っているのだろうか。だからそれを聞きたくなかったと思ってしまったのだろうか。だがそれよりも、何も聞かされずに留学されていたら、もっと淋しいと思ったかもしれない。
「もう二度と会えなくなるわけでもないし、音楽っていう繋がりがある限りまたどこかで会えるだろうし、っていうか、お前は淋しいのかよ」
 なんでもない振りでそう言いながら、高鳴ったままの心臓がものすごく痛いと思った。淋しいと思ってしまっている本心がその痛みの原因なのだと、心のどこかで自覚してしまった。
「俺は、たぶん淋しいと思っているんだ。だから留学を、自分の音楽のためだと割り切れない」
 月森が一歩近付いて、俺は更に見上げる格好になる。
 言われた言葉の意味と、向けられる表情と、自覚した自分の気持ちと、その全てが頭の中でいっぱいになり、考えがうまくまとまらない。
「淋しいって、何でだよ…。何で俺に、そんなこと言うんだよ…」
 まとまらない思考のまま、気付けばそんな言葉を口に出していた。
 それを聞くということは月森の本心を聞き出すということで、無意識に聞いてしまったということは本心を聞きたいと思っているということだ。
「いや、なんでもない、今のは忘れてくれ…」
 だが次の瞬間、その答えを聞くことに恐怖を覚え、俺は慌てて自分の言葉をなかったことにした。
「土浦、俺は…」
 それなのになかったことにしてくれそうにない月森から聞き覚えのある台詞が告げられ、見覚えのある過敏な反応をもう一度返したが、月森はさっきのように目を逸らしてはくれなかった。
「俺は君が―――」
 聞きたくないと、そう心で叫んで思わず耳を塞いだが、それでも聞こえた月森の言葉は聞きたいと、そうだったらいいと思ってしまった言葉だった。
「え…」
 それは俺の心が聞かせた声ではないかと思わず聞き返せば、月森は耳を塞ぐ俺の手をやんわりと耳から離すように握り締めてきた。
「俺は土浦が好きなんだ。だから留学をすることで君に逢えなくなることを淋しいと思っている」
 真っ直ぐに俺を見下ろしてくる視線には揺るぎなどどこにもなく、ただどこか痛みに耐えるようなその表情が俺にも痛みをもたらした。
「君にこの気持ちを伝えていいものなのか悩んでいた。だが、この気持ちを伝えないまま留学することはしたくなかった。すまない…」
 掴まれていた手が離され、月森は一歩離れていく。
 作られたその距離に、告げられたその言葉に、向けられるその表情に、俺は感じた痛みと共に自分の気持ちを自覚した。いや、たぶんすでに気付いていながら気付かない振りをした自分の本心に、俺は初めてちゃんと向き合ったのかもしれない。
 告白に対する不快感の、どうしようもない胸の痛みの、留学に対する衝撃の、その全ての理由が今、俺の中で形になる。
「俺は…、俺も月森が好きだ」
 あぁ、だから俺は月森宛の手紙に嫉妬して、月森の留学に淋しさを募らせて、月森に好きな人がいると知って悲しくて、月森の本心を聞くことが怖かったんだ。
 声に出すと、どうして今まで気付かない振りなどしていられたんだろうと思うくらいに月森への気持ちがあふれてきた。
「月森に言われるまで自覚してなかったけどな…」
 一歩先にいる驚き顔の月森を見上げ、俺は中途半端な位置で固まっていた腕を月森へと伸ばして立ち上がる。
 俺の手が月森に触れる前に握り締められ、そこから伝わる体温と鼓動が思ったよりも熱くて早かったことに驚きと嬉しさを感じた。
「君も俺が留学することを淋しいと思ってくれているのだと、そう自惚れても構わないのだろうか」
 どこか頼りなくて縋るような瞳を向けられて、俺はそれを愛しいと思った。そしてこの瞳が俺だけに向けられているのだと思えば、俺も自惚れたくなってしまう。
「俺の気持ちはどうであろうと、俺は月森を応援する。個人的な感情で月森を引き止めるのは俺が許せない。だから、だけど、…さっき貰った手紙はちゃんと、断ってこいよ…」
 淋しいとか、悲しいとか、自分勝手な独占欲は口には出さない。だが、月森を好きでいることを月森に許されるのは俺だけであってほしいと、そんな独占欲は思わず口に出してしまった。
 だが口に出しておきながらその台詞はやっぱり恥ずかしくて、俺は思わず見つめてくる視線から逃げるように俯いてしまった。
「もちろん」
 そして即答で返ってくるその言葉が、俺の顔を赤くする。
「ありがとう。俺は君の言葉でこの先もずっと頑張っていかれそうな気がする」
 聞こえる月森の声は聞いたことのない嬉しさと甘さを滲ませていて、俺はその表情を見てみたいと思う気持ちに負けてちらりと視線だけを上げてみた。
「っ…」
 そこには見たことのない月森の微笑んだ表情があり、月森の視線はさっきよりも確実に俺のことを真っ直ぐに見つめていた。
 自覚したのがついさっきで、こんな状況に置かれるなど考えたこともなく、だから嬉しいと思うよりも恥ずかしくて俺は更に顔を俯かせてしまった。
「土浦…」
 握り締められた手が不意に離され、離れていく熱と俺の名を呼ぶ声に釣られるように顔を上げれば、月森の顔が本当に目の前にあって思わずぎゅっと目をつぶってしまった。
 柔らかな何かが唇に触れ、すぐに離れた代わりのように抱き締められてやっと、触れたのが何かを理解する。
「月森、今の…」
 何か、なんて聞いて答えられても困ることはわかっていて、だがほんの一瞬過ぎてそれが本当にそれだったのかわからなくて、抱き締められて見えない月森の顔が見えるだけの距離を作るように軽く押し返した。
 さっきまであんなに真っ直ぐ見つめていた月森の視線はほんの少しだけ逸らされ、それなのにその瞳から今まで見たことのない熱っぽさを感じ取って心臓が高鳴った。
「キスをしても、いいだろうか」
 逸らされていた視線がまた真っ直ぐに俺へと戻り、月森の手が頬に触れたと思ったらその吐息が触れるほどに顔が近付く。
「んなこと聞くなよ…。っていうか、聞く前に…」
 したくせにと続くはずだった言葉は、今度こそ確実に触れてきた月森の唇によって飲み込まれた。
 でもそれを嫌だなんて思ってないし、月森が俺の返事を待たないことなんてもうすでに知っている。
 だから俺はゆっくりと目を閉じ、そっと月森の背に腕を回すことで答えを返した。



急転直下の放課後
2012.3.18
コルダ話72作目。
必殺じれったいくっつきました話。
バレンタイン イブと設定がかぶってるんじゃない?
という突っ込みはなしでお願いします(自覚あり)