TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

混沌たる心情の果てに10

「離してくれ」
 しばらくそのまま抱き締めていたが、切なさに腕の力を強めたところで、土浦が腕から抜け出るように俺をそっと押し返してきた。
 それは嫌がって無理矢理突き放すような感じではなかったが、その言葉からも態度からも明確に離れようとしているのだと感じて、俺は腕の力を緩めて一歩引いた。話はまだ途中で、このままうやむやに終わらせてしまってもいけないという思いもあった。
 だが離れたその瞬間、目に見える距離以上に、何かが離れたような気がした。それは壁なのか溝なのか、それとも別のものなのかよくはわからなかったが、何かが二人を隔てたことと、それは土浦の意思によって築かれたものなのだということだけはわかった。
 だから俺は無意識とはいえ土浦を抱き締めた行動に理由を付けることはしなかった。だが何故、土浦は今の今まで抱き締められたままでいたのだろうと、そんな疑問は心の中に残った。

「俺の話をここまで聞いて、この先どうするつもりだよ」
 しばらくの沈黙の後、土浦は静かにこちらへと視線を向けると、まるで感情の浮かんでいない顔でそう聞いてきた。
「どう、とは?」
「そろそろ俺から手を引いたほうがいいんじゃないかって話だよ」
 交わされるそんな会話の中でも土浦の表情はまったく変わらない。
「そうして君はまた俺に再会する前の生活に戻るのか?ピアノから離れた生活をするというのか?事実を知って、俺がすぐに手を離すような人間だと思っているのか、君は」
 どこか感情的な言葉が口を衝いて出たが、俺も自分の顔にその感情は表れていないような気がした。
「俺の知っている月森蓮は、他人には興味なんか示さなかったと記憶しているが?」
 ふと、土浦の顔に皮肉めいた表情が浮かんだ。それは土浦らしいと感じるものだったが、その表情に釣られてはいけないと、どこかで警鐘が鳴り始めた。

「君は音楽からまた逃げるつもりなのか」
 他人に興味を示さないと言った土浦の言葉は間違いでもなかったが、俺は敢えてその言葉を無視した。ここで同意なり反論なりの言葉を返せば、話はきっと違う方向へと向かってしまう。
 俺たちが仲違いすることなどたぶん簡単で、だからこそ俺が土浦から手を引くように仕向けるための言葉になど乗ってはいけない。
 土浦は俺この件に係わらせないようにと思っているのかもしれないが、知りたいと言い出した時点で手を引く気など一切なかった。
「君の世界からピアノを奪われたまま、取り戻すこともせずにまた逃げ出すのか」
 そんなのは君らしくないと、そう思ったがその言葉は口にしなかった。土浦の努力も知らずに、らしくないなどと、簡単に言ってはいけないと思った。

「俺を利用したというのなら、役に立たなくなるまで利用すればいいだろう」
 それを土浦が後悔していることもわかっていて、俺はあえてそう言った。
「俺は、何の覚悟もなしに君を買うなどと言ったつもりはない」
 実際、あのときにはそこまで覚悟していたわけではなかったから、この言葉は嘘になるのかもしれない。だが今、例え自分に何かしらのリスクがあるのだとしても、同情でもなんでもなく、土浦が本当に音楽を取り戻すためなら何でもしたいし出来ると思っている。
 それに、土浦から音楽を奪ったそのやり方も誰だかわからないその相手も、俺は絶対に許せはしなかった。

「それとも俺にはもう、利用する価値がないと言うつもりか?」
 俺は敢えて自意識過剰とも取られかねない言葉を選んで口に出した。
 こんな言葉は本意ではなかったが、今の土浦にはそのほうが効果的なのではないかと考えての言葉に、土浦は無表情を破って怒りの眼差しを俺へと向けてきた。
「ピアノを捨てる覚悟なんて全くない君に、ピアノを弾ける場を与えられるのは俺しかいないはずだ。いや、それとも君は、俺よりももっといい交換条件へと乗り換えるつもりか?」
 俺の一言に、土浦の表情が更に怒りを含んだものへと変わり、話を逸らそうとしていた土浦の思惑を覆すことが出来たと確信した。だからこそ、俺は攻撃の手を緩めることはしなかった。
「ピアノを弾く代わりに、君は違う誰かにその身体を売るつもりか?」
 土浦の話に出た交換条件というものが、どんな条件だったのかはっきりと聞いたわけではなかったが、再会した日の土浦の行動やさっきの会話の内容を思い出せば、答えはひとつしか思い浮かばない。

「俺の身体なんだ。俺がどうしようと俺の勝手だろう」
 こちらを睨みつけた瞳がそのまま俺へと真っ直ぐに向けられている。土浦らしいと思えるその瞳の強さに、俺はどこかほっとした気持ちを抱いていた。
「その君を買ったのは俺だ。それとも忘れたのか?」
 こんな関係で土浦を引き留めるのは本意ではなかったが、それでも俺から離れていくのは許せないと思った。巻き込みたくないと、たぶんそんな風に考えたのであろう土浦の気持ちを嬉しく思う以上に、頼られなかったことが悔しくて仕方なかった。
 そして何よりも、俺以外の誰かに土浦が触れるなど、考えることもしたくなかった。
 さっき、土浦が作った距離を許してしまったことを、自分の行動に理由をつけなかったことを後悔する。だから俺は土浦が作った距離を縮めるように一歩踏み出した。

「自惚れるなよ。お前なんて…、お前の代わりなんていくらでもいるんだ」
 土浦の瞳は揺らぎもせずに俺を見たままで、そして突き飛ばすように腕を伸ばしてきた。
 俺はその手を取って強く引き寄せて抱き締めた。土浦は暴れるように腕の中から出ていこうとしたが、俺はそれを許す気などなかった。
「自惚れているわけじゃない。俺は事実を言っているだけだ。俺を利用しろ、土浦…」
 強気の言葉を言っているつもりだったが、最後は懇願に近い気持ちだった。頼られたいと思った。傍にいたいと思った。
 何を言い合っているのか、自分が何をしようとしてこんな会話になったのか、事の始まりが分からなくなってくる。
 だが、ひとつだけわかることがある。俺は絶対にこの手を放してはいけない。絶対に、何があっても。

 土浦をぎゅっと抱き締める。
 離したくない。離れていくことなど許せない。
 今までに感じたことのない激しい感情が自分の中に生まれたことを、俺ははっきりと自覚した。



2014.10.31up