TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

キスから始まる物語4

「話がある。時間を貰えないだろうか」
 次の日の放課後、その一言を言うために月森は普通科の教室までやって来た。

「なんだよ、いきなり……」
 たぶん、そう思っているのは俺だけではないはずだ。
 普段、廊下でさえほとんど見かけることのない音楽科の生徒が普通科の教室にいるというだけでも目立つというのに、それが色々な意味で有名な月森とくれば、クラスメイトの視線が集まってしまうのも無理はないと思う。
「だから、話があるんだ。都合が悪ければ、都合のいい日を教えてほしい」
 月森は自分に向けられている無数の視線をものともせず淡々と言葉を続けたが、俺が聞きたかったのはそこじゃない。用事があればメールで都合をきけばいい話で、わざわざ出向いてきたそのことに驚いたからの言葉だったのだが、それを説明するのもまた面倒で、そして都合が悪いわけではないから立ち上がった。
「都合は悪くないが、場所を変えようぜ」
 こんな無数の視線の中で話をするなんて、俺には耐えられない。
「ああ、そうだな」
 先に歩き出せば、月森は同意して着いてくる。
 今日は月森にも加地にも会いたくなくて、休み時間もなるべく教室から出ないでいたというのに、最後の最後で会いに来られるとは考えてもみなかった。
 別に断ってもよかったが、どうせアンサンブルの練習で会わなければいけないことを考えれば、逃げていても仕方ないと思えた。
 歩き出したはいいが、どこに行こうか思案する。二人きりにはなりたくないし遠いから練習室は避けたいし、何の話をするのかわからないが、人が多くいる場所もきっとダメだろう。人気のなさなら屋上辺りがいいと思うが、あそこもやっぱり遠い。音楽科棟まで月森と一緒に歩いて行かなければいけないことを考えると気が進まない。もう少し遅い時間なら空き教室もあるのだろうが、まだ授業が終わったばかりで校内には人が多く、なかなかいい場所が思い付かない。
「土浦」
 すべての教室を通り過ぎ、階段に差し掛かったところで背後の月森から声を掛けられて振り返れば、月森は上へと昇る階段へ目を向け、そのまま上り始めた。
 普通科の棟は屋上への立ち入りが禁止されているため、扉には鍵がかかっているはずだ。そう口に出そうとして、別に屋上へ出なくても踊場があったと思い出す。出られない屋上に繋がっているこの場所なら、人はそうそう来ないだろうし、気配を感じればわざわざ邪魔をしには来ないだろう。そう考えれば、部屋で二人きりになるより何倍もマシに思えた。
「鍵がかかってるから開かないぜ。話すならここでもいいだろう」
 扉へと手をかけた後ろ姿に声をかければ、確かめるようにノブを回した手を放して月森は振り返った。
 真っ直ぐな視線が向けられ、俺も真っ直ぐに見返した。心の中には色々な感情が渦巻いていたが、今はこの視線から目をそらしてはいけないような気がした。
「話ってなんだよ」
 早く終わらせてしまいたくて促してみたが、月森は何故か黙ったまま近付いてきて、壁に寄りかかっていた俺は逃げ場をなくした。
 話をする距離ではないことは考えなくてもわかったが、そんな距離をとってくる月森の思惑は考えたってちっとも思い付かない。
 いや、昨日の俺が詰めた距離、そして月森から詰められた距離を思い出せば月森が何をしようとしているのかは想像はつく。だが理由がわからない。
「逃げないのか」
「逃げなきゃいけないようなことするつもりかよ」
 お互いの吐息が触れそうな距離でされた質問に、俺も質問で返す。どちらも答えないまま、近付いた距離のままで沈黙が続く。
 視線なんて合わせられないほどの距離だから月森の表情なんて全くわからないが、真っ直ぐに俺を見ていることは感じる視線の強さでわかる。
 一体、俺たちは何をしているんだろう。学院内で、それも個室でも何でもない、人が来ない保証などないような場所で、男二人がこんな近くで顔を突き合せて、一体何をしているんだろうか。
「このまま、キスしても構わないだろうか」
 ふと、月森から向けられる視線が揺れて、ささやくような声が耳に届く。
「君に、キスしてもいいだろうか」
 触れる寸前まで近付いて、同じ意味の言葉がまた告げられる。
 どう答えるべきか考えあぐねて返事をしないでいれば、そのまま距離を詰められて唇が触れた。
 それは掠めるようなものでも噛みつかれるようなものでもなく、優しく、まるでそれが当たり前のように重なり合い、角度を変え、同じタイミングで唇が開いて舌先が触れる。
 全身にまるで電流が流れたような衝撃を感じてとっさに手を上げようとしたが強い力に阻まれ、それが月森の腕なのだと気付いたときには腕を上げる代わりに、触れる月森の制服をぎゅっと掴んでいた。
 舌で口腔を舐め、お互いに絡め合い、名残惜しさを残すようにそっと唇は離れた。
「なんで…」
 吐息とともに、本当は先に聞くべきだった言葉がもれる。
「嫉妬、したんだ」
 まだ近くにある唇から発せられた声に、昨日、聞きたくないと願った俺の名前が続くのだろうと思わず俯いたが、ここでも月森は名前を出さなかった。
「それは、昨日も聞いた」
 胸が痛くて、それでも何故か口から出るのは、まるでその先を促すかのような言葉だった。
 聞きたくない。でも、聞かずにもいられない。話をするなら顔を上げるべきだと思っても、どうしても顔を上げられない。やっぱり、聞きたくない。
「あの日、練習室で土浦と加地がキスをしているのを見た瞬間、心の中が嫌な気持ちでいっぱいになった。それから三人で練習している間も、一人でヴァイオリンを弾いているときも、思い出したように嫌な気持ちがあふれてきた」
 俺の心の中などわかるわけもない月森はお構いなしに話を始め、続きではなく一から説明されるのかと気分は落ち込んでいったが、話を遮る気力も湧いては来ず、そもそも話をしたいと言われて了承してしまっているのだから、俺は俯いたまま黙ってその声を聞いていた。
「君に真相を確かめたときはそれまで以上に嫌な気持ちになったし、君の言葉にも行動にもものすごく腹が立ったが、嫉妬しているのかと聞かれて、どこか腑に落ちたような気がした」
 自分の行動には後悔などしていないが、月森はあのとき、自覚していなかったのかと、そう気付いて自分の言葉には後悔した。
「嫌な気持ちになった理由も、言動に腹を立てた理由も、そのとき初めて気が付いた。だから、余計に腹が立った」
 胸が、締め付けられるように痛い。だがここまできたらもう避けられないし、俺の言葉で気付かせてしまったんだから、どうしようもない。
「君は、付き合っていなくてもキスは出来ると言った。簡単だとも、俺ならいいとも言った。だから、俺も君にキスをした」
 淡々と、本当に淡々とそう告げられたその言葉に、俺は思わず顔を上げた。俺の言動と月森の行動を、だからで繋いでいるその文脈がよくわからない。
「キスをしたら、余計に嫌な気分になった。ものすごく嫉妬した。悔しかった」
 不機嫌なその表情を隠しもせず、俺を真っ直ぐに見ている月森から追い打ちをかけるような言葉が続き、俺は疑問よりも胸の痛さでまた俯きかけたが、まるで体当たりしてくるかのように両腕を掴まれ、それ以上動くことが出来なくなった。
「俺には簡単ではないことを、君は簡単だと言って俺にしようとした。加地とのことは俺には関係ないと言った。加地とのことは簡単ではないと言われたようで、ものすごく悔しかった」
 月森に掴まれている腕が痛い。だがそれ以上に、月森からの言葉が痛い。月森の口から加地の名前が出ると、それだけで胸がつぶされたように痛む。
 痛みに耐えるように歯を食い縛り、だがそんな顔を見せたくなくて月森から顔を背ければ、反対側の首筋に思いがけない痛みが走った。
「いたっ」
 思わず声を上げて首を戻そうとするが、そこにある月森の頭に邪魔されて戻せない。俺の首筋に、月森が顔を埋めている。痛みの原因はたぶん、月森が噛んだからだ。だが、どう考えてもあり得ないその状況に思考が着いていけない。
「なぜ、加地とキスしたんだ。どうして、加地にキスを許したんだ」
 許す、などという言い方に、こんな状況なのになんだか恥ずかしいような気持ちにさせられる。
 加地とのキスは、説明がしがたい。流されたのかもしれないし、同情したのかもしれないし、お互いの傷をなめ合いたかっただけかもしれない。そのどれも誉められたものではなく、それを月森には言えなかった。
「お前には、関係な……」
「関係ある!」
 昨日と同じ台詞で誤魔化そうとした俺の言葉は、顔を上げて真っ直ぐな視線を俺に向けてきた月森の強い声で遮られた。
「好きなんだ、土浦。俺は土浦のことが、好きだ」
 真っ直ぐ、真剣な表情で告げられた月森の声は耳に届いたのに、その意味が頭に届かない。好きって、誰が、誰を好きって言った?
「冗談…」
「あいにく、冗談ではない。俺は好きでもない相手にキスなんてしない」
 意味が分からなくて思わず口から出た言葉も、すぐに否定されてもっとわけがわからなくなる。
 月森が好きだったのは、加地じゃなかったのか。俺の、勘違いだったのか。つまり、月森は、加地に嫉妬したってことなのか。
「本当、に……?」
 その事実を確かめたくて真っ直ぐには返せていなかった視線を恐る恐る月森に向ければ、月森は相変わらず不機嫌そうな顔をしていた。
「本当だ。だから君にキスをしたんだ」
 好きだと、そう言われているのに不機嫌な顔を向けられているのは、俺の言動が許せないからだろう。俺は本心を隠して月森にキスしようとしたし、軽い気持ちでしたんだと思われているはずで、何も伝えていない俺にとって、それは自業自得だった。
「君が、俺とキスする気があるなら、そこに付け込んでしまおうと思った。そう、割り切ろうと思った。君の気持ちなど構うつもりもなかった。だが、どうしても嫌な気持ちがなくなってくれない。それではやっぱり、俺の心が満たされない」
 月森の顔が、まるで痛みを耐えるかのようなものに変わる。こんな表情は初めて見る。いつだって自分の意見が正しくて、上から目線で、人のいいところよりも悪いところを見つけるほうが得意そうな態度で接してくる奴なのに、今、俺の目の前には、見せたことなどない弱みをさらけ出している月森がいる。
「本当は、月森だからキスしたいって思ったんだ。加地とのことは、どう言っても言い訳になるから言いたくないが、でも、月森のことは軽い気持ちなんかじゃなかったんだ」
 もう、目を逸らさない。後から言うのはなんだかずるい気もするが、今ここできちんと伝えないと、気持ちはずっとすれ違ったままになってしまう。
「俺も、月森が好きなんだ。叶うわけがないって思ってたから、ずっと言えなかった」
 月森から向けられる真っ直ぐな視線を受け止め、俺も真っ直ぐに見つめて想いを伝えれば、月森の目は驚いたように見開かれた。
「悪かった。ずるいよな、俺。でも、本当に好きなんだ。好きだから、月森だからっ」
 すべてを言い切らないうちに、月森からのキスで唇をふさがれる。それは昨日、月森からされた噛みつくような激しいもので、俺はそれを目をつぶって受け入れた。
「もう、他の誰ともキスはしないでくれ。俺以外の誰にも、キスを許さないでくれ」
 一度離れた唇から、月森の切実な声がもれる。
「しない。もう、月森以外とはしない。したくない」
 それは俺の、本当は最初から持っていた本心だったのかもしれない。
「好きだ、土浦」
 月森の腕が背にまわり、耳元でささやくように伝えられたその言葉に、俺も背に腕をまわして答えた。
「俺も、月森が好きだ」
 途端、強い力で抱き締められ、不覚にも涙が出そうになる。
 叶わないと思っていた。ずっと一人でこの想いを抱えていくのだと思っていた。いつか思い出に変わるんだと、そんな風に諦めていた。あの日のキスが、こんな結末を運んでくるなんて想像していなかった。
 だが、思いがけない幸福とともに、後悔も一気に押し寄せてきてくる。胸が痛い、ものすごく痛い。たぶん俺は、ずっとこの痛みを抱えていくんだろう。だがこれは忘れてはいけない痛みだ。
 胸いっぱいに広がった甘くも切ない痛みごと、俺は月森を強く抱き締め返した。



キスから始まる物語
2020.5.31
コルダ話97作目。
切ない風味は大好きです。
加地君を書くのも楽しかったです。
が。色々な意味で大丈夫かなとドキドキです…。