TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

秘匿

密やかに秘めやかに
そっと隠して蓋をして
誰も知らない恋心



 たぶんそれは初恋だったのだと思う
 そして今もずっと好きな人はただひとり


 ぼんやりと眺める窓の外は雲ひとつない青空で、眼下には綺麗に手入れされた庭の緑が広がっている。
 なるほど、先程から聞き飽きるほどに言われた『いいお天気に恵まれて…』などという言葉はあながち間違いではないようだ。
 けれど天気など、晴れだろうが雨だろうがどちらでもいい。
 俺にとっての今日はいつも通りの通過点で、人生における特別な日でもなんでもない。
 何があろうと何が増えようと、俺自身は何も変わらない。
 だから今日など、早く過ぎてしまえばいいと思う。

 舞台に立つときと大して変わらない衣装に着替える。
 違うところといえばこちらの格式のほうが高いところと手袋を持たなくてはいけないところだろうか。
 俺の支度などものの数分で終わってしまうが、女の支度はそうはいかないらしい。
 右腕の時計を見遣れば予定の時間までまだだいぶ時間がある。
 別に待たされるのは苦ではないが、先程から何故かため息が止まらない。
 俺は今日というこの日を、心のどこかで後悔しているのだろうか。

 部屋に居ると息が詰まりそうで廊下へと出てみたが、行く当てがある訳ではない。
 なんとなくそのまま歩いていると、階下のロビーに置かれたピアノが目に留まった。
 そういえば下見に来たときに演奏会なども行われているのだと聞いたような気もするが、あまり真剣に聞いていなかったからよく憶えていない。
 そのまま見下ろすようにピアノを見つめていると、そこには居るはずもない人物が脳裏を過ぎった。
 高校を卒業して以来、一度も連絡を取ったことはないからもう何年も会っていない。
 忘れていた訳でも忘れたい訳でもないが、きっと思い出さないようにはしていたのだと思う。

 憶えていることといえば、目を合わせれば必ずと言っていいほど言い合いをしていたことだろうか。
 音楽のこと、性格のこと、その原因は様々でどれも些細なことだったが、だから尽きることもなかった。
 その毎日はいつの頃か、俺たちにとって欠かすことのできない大切な時間になっていた。
 自分の中にある気持ちに気付き、俺へと向けられた気持ちに気付き、そして俺の気持ちも気付かれていたが、それを口に出したことはどちらもなかった。
 言わなくてもわかっていたから言わなかったのか、言って何かを変えたくなかったから言わなかったのか。
 俺たちは高校を卒業するまで、目を合わせる度に言い合う毎日を繰り返していた。

 あの時から俺の気持ちは全く変わっていない。
 どれだけの好意を向けられても、誰に何を言われても、感情が揺れ動くことはなかった。
 もともと他人にはそれほど興味を持てない性格だったが、俺にとって近しい人以外はその他大勢の存在でしかなかった。
 口に出さない代わりに心の奥底へしまった想いは、だからこそずっと色褪せずに俺の中にある。
 ただひとりだけに向かう俺の想いは、この先もずっと色褪せることなく俺の中に変わらずあり続けるだろう。
 例え今日、俺が別の人と結婚するのであっても。

 勧められるまました見合いがそのまま結婚に繋がった。
 だからといってそこに何の感情があるわけでもなく、向こうがどう思っているかは知らないが、俺からすれば嫌いではないという程度のものだ。
 そもそも演奏会で世界各地を移動している俺には結婚など頭になかったし、したいとも思っていなかった。
 それでも周囲はあれこれと騒ぎ立て、二言目には『恋人は?』と聞いてくる。
 結婚はそんな周りの大きなお世話を黙らせるひとつの手段であって、相手など誰でもよかった。
 本当に想う相手が心の中に居れば、それだけでいい。

 控えめに流れる音楽ではなく、生の音が聴きたくて階段を下りた。
 特に何の注意書きも書かれていないピアノへと手を伸ばし、その鍵盤に触れる。
 硬く冷たい感触が指から伝わり、ロビーにピアノの音が響いた。
 ただ音を聴きたかっただけで何か弾きたい曲があった訳ではなかったが、静かに流れ始めた曲に合わせて鍵盤へと指を滑らせる。
 それはカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲で、何度か弾いたことがあったから頭の中に楽譜を探し出すことが出来た。
 その楽譜と一緒にオペラのあらすじが頭に浮かんで、俺はなんだかおかしくなった。

「今日はヴァイオリンじゃなくてピアノの演奏会か、月森」
 不意に声を掛けられて演奏を止めると、そこに見知った顔を見つけて俺は驚いた。
「見たことある名前が隣に書いてあると思ったら、ご本人様でしたか」
 少し棘のあるその言い方は思い出の中のそれと全く変わっておらず、懐かしいとさえ思う。
「久し振りだな。まさかこんなところで再会するとは思ってもみなかったけどな」
 意志の強そうな瞳は、真っ直ぐに俺を射抜いていた。

「土浦…。元気そうだな」
 思い付く当たり障りのない言葉を掛けながら、俺はその距離を縮めるべく椅子から立ち上がった。
「こんなところで一体…」
 何を、と続くはずだった言葉は俺と似たような服装をしている姿を見て止まった。
「今日の主役ということか。こんなところで油を売っていていいのか」
 このタイミングで訪れたこの再会は、俺たちにとってどんな意味があるというのだろうか。

「その言葉、そっくりお前に返すぜ。お前も今日の主役なんだろ」
 目が合えば言い合いを始めるのは、どれだけの時間が二人を隔てていたのだとしても変わらないらしい。
「と言っても男は待たされるばっかりで脇役みたいなもんだけどな」
 それならば俺へと向けられた気持ちはどうなのだろうかと、俺は想いを込めた視線で見つめてみる。
「でも、おかげでいいものを聴くことができた。生で月森のピアノを聴く機会なんて滅多にないからな」
 真っ直ぐに見つめ返してきたその視線には、あの頃と変わらない想いが込められていた。

「ピアノが本職の土浦に聴かせるほどの腕は持ち合わせていないことくらい自覚している」
 それが嫌味で言われたのではないとわかっていても、俺は素直にそれを言葉にしない。
「だから君の前では弾かないようにしていたんだ」
 口角を僅かに上げ、小さく笑みの形を作るだけで、この気持ちは伝わるだろう。
「君のピアノには勝てないからな」
 その言外に込めた、君を認めているからだという気持ちも、きっと伝わるはずだ。

「世界的なヴァイオリニストにお褒めいただけるとは光栄だな」
 作られた表情は相変わらず挑戦的だったが、その目は少し嬉しそうに細められた。
 僅かに見せるその変化は、俺の気持ちが伝わった証拠だ。
「相変わらず感情的な弾き方のようだがな」
 その瞳で見つめ合い気持ちを伝え合うだけで、やっぱり俺たちはその想いを口にしない。
 今ここでその想いを言葉にしたところで何も変えられないことを、俺たちは心のどこかで気付いている。

「君の式はこれからか?」
 ロビーに置かれた大きな振り子時計が、再会の時間が僅かしか残っていないことを告げる。
 けれど離れたくはないのだと、本当はもっと傍に居たいのだと、心が叫ぶ。
「あぁ、そろそろ戻らないと…」
 僅かに伏せられたその顔が、同じ気持ちなのだと伝えてくれる。
 それならば、お互いの存在をお互いの心に刻み付けておこう。

「じゃあ、な」
 そう言って一歩近付く君の左手が、微かに俺の左手に触れる。
「じゃあ」
 そのまま離れていく前に、薬指で薬指を絡めとる。
 指輪がはめられてしまうその前に、お互いの指を指輪代わりにして絡め合う。
 たった一度だけ触れたその指が、俺たちにとっての永遠の約束となる。

 どんなに離れていても、傍に居なくても、この心は繋がっている。
 言葉にしないで心に秘めておけば、この想いは永遠にあり続ける。
 どこに居ても、誰と居ても、心は他の誰にも傾かない。
 この心も気持ちも想いも、この命ある限り。
 健やかなるときも、病めるときも、永遠を…。
「誓います」


密やかに秘めやかに
そっと隠して鍵をして
君しか知らない恋心




秘匿
2009.2.14
コルダ話33作目。
なんだか痛い設定でとっても矛盾だらけなお話になりました。
でもたぶん、二人は幸せなのだと思います。