TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

夢を想う時間

 さっきから、ほとんど進んでいない。
 俺はタクシーの車窓から無数のライトが交錯する街中を眺め、もう何度となく落としたため息の数を更に増やした。
 今日が金曜日であることに加え、世間一般に給料日が多い日の夜ともなれば道は必要以上の混雑に見舞われる。出来るならばタクシーになど乗りたくもなかったが、終電などとっくに終わっているこの時間では家へ帰る手段が他にない。
 次に開かれるリサイタルの新しいスポンサーが決まり、今日はその契約と今後のことを話し合うためにその会社を訪れた。話し合いは順調に進んだ。それでは少し席を変えて、となることは承知していたが、こんなに遅くまで拘束されるのは出来れば止めてもらいたい。
 これが仕事のひとつだということも、今が大事な時期だということもわかっている。浜井美沙の息子という親の七光りを絵に書いたような呼び名ではなく、やっと自分の名前が、ヴァイオリニストとしての月森蓮という名が世間も周知されてきた今、このリサイタルを成功させることは重要であり、今後の音楽活動生命がかかっていると言っても過言ではないだろう。
 だが、ヴァイオリンを弾く時間さえなくなってしまいそうなスケジュールに振り回されるような毎日というのは何か違うような気もしてしまう。
 明日――といっても既に日付が変わっているから実際には今日だが――の午前中にやっと半日だけの休みは取れたが、前日の帰宅がこの時間ではほとんど何も出来ないだろう。 
 とにかく早く帰りたい。
 俺は数時間前から何度も願ったその思いを、もう一度心の中でつぶやいた。

 渋滞を抜けて住宅街に入れば他に走る車もなく、タクシーは順調に進んでいく。
 やっと見えてきたマンションの窓の明かりはいくつも灯っていない。何とはなしに見上げた自分の部屋の窓が、数えるほどしかない明かりのひとつに含まれている。一人暮らしでは明かりの点いた部屋に帰ることは有り得ない。消し忘れて部屋を出ただろうかと考えて、もうひとつの可能性を思い付く。
 何の約束も連絡もなしに、俺の部屋に入れる人物が一人だけいる。
 土浦梁太郎。
 俺の音楽においてのよきライバルであり、そして誰にも代えることの出来ない愛しい恋人。
 お互い忙しくて、ここしばらくは逢っていない。もともと頻繁に連絡を取り合っているわけではないが、それにしても声を聞いたのがいつだったかすら思い出せないくらいここ最近は本当に連絡を取っていなかったような気がする。
 土浦が来ているのだと、そう思えば心は逸る。それなのにヴァイオリンを持っているせいで走れないのがもどかしい。エレベーターから部屋までの距離でさえ、やけに遠く感じる。
 やっとの思いで扉を開ければ、いつもは真っ暗な部屋が暖かな光で迎えてくれた。扉を閉めるのももどかしく部屋へと上がるろうと靴を脱げば、その横には明らかに俺のものではない靴が少し無造作に揃えて置いてある。そして部屋の中からは人の気配を感じ、やっぱり消し忘れなどではなかったのだと思えば心が温かくなる。
「おかえり。勝手に上がらせてもらったぜ」
 同じタイミングでこちらの気配にも気付いたのであろう。振り向いたその顔が、俺を捉えた瞬間に笑顔へと変わる。そして持っていた楽譜をテーブルに置いて立ち上がる姿が目に入った。
 あぁ、土浦だと、俺は当たり前のことを思った。だがそれは事実以上の実感だった。
 久し振りに見る土浦の笑顔に、久し振りに聞くその声に、ついさっきまで感じていた嫌な気持ちが綺麗に吹き飛んでいったようなそんな気がした。
「ただいま」
 何か用か、とか、待たせてしまっただろうか、とか、思い付く言葉はいくつもあったのに、俺はただその一言しか口に出すことが出来なかった。
 土浦に逢うのは本当に久し振りで、逢えただけで、声を聞けただけで、その理由など今はどうでもいいように思えてしまう。
「土浦…」
 そして今はその存在をもっと傍に感じていたくて、俺は土浦をしっかりと抱き締めた。

 抱き締めて、キスをして、俺たちは逢っていなかったその時間を埋めるようにお互いの熱を感じ合った。
 その熱がぬくもりへと変われば余計に放し難く、俺は腕の中へとそっと抱き締めてそのぬくもりを感じていた。
「そういえば、何か用があったんじゃないのか」
 俺はまだ突然の来訪の理由を聞いていないことを思い出し、戯れるように髪へと触れながら尋ねた。
「いや、別に。久し振りに休みが取れたから…。それだけだ。それより、眠い…」
 土浦はまるでなんでもないことのようにつぶやくと、器用に寝返りを打って俺に背中を向けてしまった。
 俺が帰り着いた時点でもう真夜中すらとっくに過ぎていたし、久し振りで歯止めがきかなかった自覚があるから眠いというのは本心なのだろう。いや、それよりも休みだからと来てくれた土浦を、きっと何時間も待たせてしまったのだと気が付いて俺はハッとした。
「来ると連絡してくれれば…」
「仕事だったんだろ。いいんだよ、俺が勝手に来たかっただけなんだから」
 言いかけた言葉は、土浦の言葉によって遮られた。
 確かに、連絡が入っていたからといってあの場から抜けられたとは思えない。
「だが、折角の休みを無駄にさせてしまったのは申し訳ないと思っているんだ」
 もしも来ることがわかっていたならば、帰りが遅くなるとか今から帰るとかそんな連絡くらいは出来ただろうし、いつ帰ってくるかもわからない状態で待たせてしまうこともなかったと思う。
「いいって言ってるだろう。それに、誰も無駄になったなんて言ってない」
 向けられた背中を抱き締めるように回していた腕に、土浦の手が微かに触れる。
「休みは、これからだからな…」
 聞こえるか聞こえないかの小さな声でつぶやかれたその言葉の意味を、俺は一瞬考えてしまった。
「明日が休みということか?」
 その意味を頭の中で理解したときには土浦の体勢を無理やりこちらに向かせていた。土浦は眠そうな、けれど驚いたような視線で俺を見上げてきた。
「明日っていうか、もう今日だけどな」
 そう言いながら土浦は体勢を元に戻そうとしていたが、俺はそれを正面から抱き締めることで阻んだ。
 例え半日だろうと、土浦と休みの日が重なったのはいつ以来だろうか。こんなチャンスをみすみす逃したくはない。
「なっ、ちょっと、眠いって言ってるだろう。おい、月森っ」
 抱き締めるついでに首筋へと唇を寄せれば押し返すように手を伸ばされたが、その手もそっと握り締めてシーツへと縫い付けてしまう。
 触れれば反応を返してくれるのが嬉しくて啄ばむようなキスを唇に落とす。土浦はにらむように俺を見上げてきたが、その瞳は微かに潤んでいてあまり威力はなく、むしろ俺には誘っているようにしか見えない。
「明日も仕事なんだろう。早く寝ないと差し支えるぞ…」
 逃げ道を作ろうとする土浦の表情や言葉が、俺を想ってのことなのだろうと考えるのは自惚れだろうか。もしそうならば、俺は嬉しくてその気持ちにさえ煽られてしまう。
「大丈夫だ。俺も明日は休みなんだ」
 午前中だけだが…と思ったがそれは口にしなかった。それが半日であろうと全日であろうと、休みであることに嘘はない。
「だから、もっと君に触れさせてくれ…」
 俺はその返事を聞く前に、何かを言おうと開いた口をキスで塞いでいた。

 久し振りに充実した時間を過ごせたおかげなのか、朝の目覚めは自然と訪れた。
 まだ薄暗く静まり返った部屋の中に、土浦の寝息だけが規則正しく流れる。ただそれだけなのに、俺は言いようのない幸せを心から感じていた。
 土浦の存在が、土浦の気持ちが、荒んでいた俺の心を癒してくれる。また頑張ろうと、そう思わせてくれる。
(土浦…)
 起こさないようにそっと抱き締めて、心の中で愛しい人の名を紡ぐ。それだけで、幸せだと感じる。
 本当はもっと、ずっと一緒にいたいと思う。こんな朝を毎日迎えることが出来たら、どんなに嬉しいことだろうと思う。
 けれど、たぶん今はまだ無理なのだろう。お互い、やらなくてはいけないことが多過ぎる。やりたいことの、まだ最初の一歩を踏み出したばかりの俺たちには、優先させなければいけないものが他にもたくさんある。
 そして、守らなければいけないものがあるのも現実だ。公に出来る関係ではないことくらい、俺も土浦もわかっている。それがいつかどちらかの枷になるであろうことも心のどこかでは理解しているが、だからといって今更、この手を離すことは出来ない。
 だから普段の俺たちは連絡を取り合わず、約束もせず、なんでもない顔をして毎日を過ごす。そうして過ごしていても、心はちゃんと繋がっている。そして逢いたくなったら約束などせずに逢いにいく。勝手に見られても困るものなどひとつもないから、部屋の鍵はお互いが一本ずつ持っている。
 でもいつか、二人で過ごす時間が当たり前になればいい。誰に何を言われることなく、一緒にいられる存在になりたい。
「土浦…」
 もう一度、心からの想いを込めてその名を紡ぐ。その名を声に出せば、心の中でつぶやくよりも更に想いは深まっていく。
 抱き締めた腕に力を込めれば、腕の中で土浦が小さな声をあげる。起こしてしまっただろうかと少しだけ腕の力を緩めて顔を覗き込めば瞼が微かに揺らいだが、覚醒するまでには至らなかったらしく、また規則正しい寝息が戻ってきた。
 それは安心しているからなのか、それとも疲れているからなのか。たぶん後者である確立の方が高いのだろうと、思い当たる節のある俺はそっと苦笑いをこぼした。
 起きて欲しいとも思うが、その眠りを妨げたくないとも思う。
 少し悩みながら土浦の寝顔を見つめていれば、その顔は安らかで気持ちよさそうで、起こしてしまうのはなんだかもったいないような気がした。
 俺たちの目の前には忙しい毎日が待っている。それならば今は、共に過ごせるこの時間を大切にすることが大事なのではないだろうか。
 そう思い、俺は土浦をそっと抱き締め直してゆっくりと目を瞑った。 
 次に目が覚めたらきっと俺の休みは終わってしまっているけれど、そしてそれを土浦に言えば嘘を吐くなと文句を言われそうな気もするけれど、今はただ、このぬくもりを時間の許す限りゆっくりと感じていたい。
 俺は伝わるぬくもりに誘われるように意識を手放し、まどろみの中へとその身を委ねた。



夢を想う時間
2010.6.28
コルダ話55作目。
ほんのり甘く、ほんのり切ない話を書いてみました。
微妙に月誕話とかぶっているような気がします^^;