TeaParty ~紅茶のお茶会~

『音色のお茶会』

雨夜の月

 流れ落ちる水音にもかき消されることのない声が響く。
 どんなに足掻いても声は止められず、縋ることの出来ない手が虚しく空を切った。


 頬に触れた冷たい感触にそっと目を開けると、まだ焦点の合わない視界にぼんやりと人影が映る。
「土浦…。気が付いたか」
 名前を呼ばれ、何度か瞬きを繰り返すと、覗き込むような月森と目が合った。
 その背後に見える内装で、ここが月森のベッドの上なのだと理解する。
「無理をさせてしまったな…」
 頬に触れている少し冷たい手が、まるで撫でるかのように目元を掠めていくその感覚に、さっきまでの記憶がぼんやりと戻ってくる。
 傘もなく走っていた俺はびしょ濡れで、そんな俺に傘を差し出してきた月森に誘われるまま月森の家で俺はシャワーを浴びながら…。
「大丈夫か?」
 熱が、一気に上がったような気がした。
「…っ」
 答えようと口を開き、けれどぴったりと張り付いてしまったかのように渇いた喉から声を出すことは叶わなかった。
 喉が、カラカラになるほど渇いている。
「あぁ…」
 察したように小さくつぶやいた月森は、傍に置いてあったペットボトルへと手を伸ばしそれを呷ると、そのまま口付けてきた。
 流れ込む水が、喉を潤していく。
 ゆっくりと離れ、もう一度水を呷った月森を、今度は目をつぶって受け入れていた。
「はぁ…」
 水がなくなってそれはキスへと変わり、知らず識らずにため息のような声がこぼれ落ちた。
 そのキスはあまりにも優しくて、俺の心は掻き乱される。
 これ以上、深入りしてはいけない、錯覚してはいけない、本気になってはいけないと、心の奥から、そんな警鐘に似た声が聞こえてくる。
 自分の気持ちを抑えておかないと、歯止めが利かなくなる。もっとと、言ってしまいそうになる。
 真っ直ぐに見つめられて思わず逸らした顔が、顎を捕らえられて戻される。
「君は後悔しているのか。俺と、こんな関係になったことを…」
 そんな風に聞かれても答えられなくて、逸らせなくなった顔の変わりに視線だけを逸らせば、それすら許さないと言わんばかりにその視線を追うように月森の顔が近付く。
「いつもそうだ。誘えば断らないのに、君はどこか後悔したように俺から目を逸らす。どんなに俺が抱き締めても、その手は縋ってもくれない」
 強い力で抱き締められて、泣きそうなくらい心が締め付けられる。
 後悔なんてしていない。しているわけがない。けれど俺の変なプライドが邪魔をする。
 いつまでたっても月森に勝てない自分が悔しくて、好きになどならないと思っていた音色にも本人にも惹かれていくことが悔しくて、今更、素直になんかなれないから言い訳を繰り返す。
 そして俺は何もかも見透かされそうなほど真っ直ぐ見つめてくる月森から目を逸らす。
 望んでしまいたい。縋ってしまいたい。けれどそれが出来なくて俺はシーツをぎゅっと握り締めた。
「君の手はいつも、そうやって俺ではなくシーツを握り締めている。縋るものがなければ縋ってくれるかとも思ったが、それでも君の手は俺に向けてはくれなかった」
 俺の手に、少し冷たい月森の手が重なる。
「拒否はしないが、受け入れもしないということなのか。俺の想いは、君には届いていないのか」
 そんな言葉と共に月森の眉根が痛みに堪えるかのように微かに寄せられるのを見て、俺の胸にもまた痛みが走る。
 月森の気持ちが、痛いほど俺に伝わってくる。
「違う」
 シーツを握り締める手に力がこもる。
「そうじゃない」
 けれど本心は言葉にならなくて、それが口からでてしまわないようにぎゅっと目をつぶる。
 言ってはいけない、悟られてはいけない。そうじゃないと俺は、本当に手離さなければいけなくなったときに、この手を離せなくなってしまう。
「俺は君を追い詰めているのだろうか。俺の存在で君を、変えてしまうのだろうか」
 月森の言葉に、俺は首を振って答えた。
 俺は、人前でピアノを弾くことを止めたあのときから何も変わっていない。
 本当に大切なものから、ほんの些細でちっぽけな理由で、俺は簡単に逃げ出してしまう。ピアノからも、月森からも…。
「それなら何故…」
 月森にはわからない。俺の理由なんて、ちっぽけ過ぎて想像もつかないだろう。
 音楽しか、ヴァイオリンしか選択肢のないお前には、その選択肢の先に、俺の存在がどんな形であれ邪魔をするであろうことなんか考えてもいないのだろう。
 今から悩んだって仕方ないことくらいわかっている。けれどその時になってからでは遅過ぎる。今でさえ、こんなにつらいというのに…。
「土浦…頼むからなんでも一人で答えを出さないでくれ。俺の存在を、なかったことにしないでくれ」
 ただ重ねられていただけの手が、シーツとの間にある僅かな隙間を縫って手のひらに触れる。
「この手で、俺のことを掴んでいてくれ」
 握り締めた指を解くように触れるその手が、頑なに閉ざされた俺の指も心もゆっくりと絡め取っていく。
「掴んで、いいのか」
 シーツから引き離された俺の手は、月森の手に握り締められる。
「俺が掴んでいて欲しいんだ、土浦に…」
 そっと開いた目に、痛ましいほどに切実な目をした月森が映る。
 掴んでしまったら、もう手放すことなんか出来ない。わかっているのに、この想いを抑えられない。
「俺がどこにいても、何をしていても、例え土浦の傍にいられないとしても、掴んだこの手を離さないでいてくれ」
 その言葉から、月森の想いが伝わってくる。
 ぎゅっと握り締めてくる月森の手から、言葉にはしなかった様々な想いが伝わってくる。
「お前も、離すなよ…」
 小さくつぶやいて、絡めた指に力を込める。
 握り返した手に、俺の言葉にならない想いを込める。
 俺は初めて、月森に触れたような気がした。

 このゆくもりはいつまで俺のものでいられるのだろうか。
 伸ばしたこの手はいつまで握り返してもらえるのだろうか。


 空は暗く、俺にはその光が見えない。



雨夜の月
2009.6.29
コルダ話44作目。
設定が微妙な感じです。
土浦君が暗い人になってしまいました…。