エスタンプ(estampe<仏>)
本来は版画そのものを意味するフランス語が、今日、慣用される版画用語としては、オリジナル版画と区別して複製(リプロダクション)版画を意味する言葉となっている。具体的にいえば、油彩、水彩、グワッシュ、素描または版画などの作品は、それ自体で、独立したオリジナルとしての作品価値をもっているが、これらの原画を利用して複製した作品は、もちろんオリジナルとしての作品価値をもたず、これらリプロダクション(複製)版画を総称してエスタンプという。版画はもともと作家が、版の絵をオリジナルに制作するという必然と目的によって作画されたものであって、タブローや水彩もしくは原版画の二次的な量産のものではない。しかし、有名人気作家の油彩、水彩、グワッシュ、素描などの原画を利用して、彫師に模刻させ、木版化・銅販化したり、写真製版でシルクスクリーンやリトグラフを製版したり、もしくは、版画を原画とするリプロダクションである複製版画を印刷し、限定番号(エディション・ナンバー)や作家または(物故作家の場合は)遺族や関係者の署名(サイン)を記入した作品、もしくは無署名あるいは限定番号の記入のない”エスタンプ”作品が少なからず市場に出回っている。もちろん、これらエスタンプと称される複製版画が、リプロダクション版画と明記されて、リーズナブルな価格で市場取引されるならば問題はない。複製版画もまた、それ自体、原作のオリジナルとはまったく別の、それなりの価値をもつ存在であることに相違ないからである。しかし、有名人気作家のタブロー原画を、たとえ優秀な技術者の手によって版画に仕上げたり、版画のそのまたリプロダクションをつくったところで、それはオリジナルとは無縁の複製版画なのである。したがって、これを単に「版画」などという、まぎらわしい名称で宣伝し、作家の署名・限定番号などを加え、市場価格をつり上げるなどという行為は、明らかに詐欺に該当する。複製版画は、それなりの存在価値をもつものであるから(そういうつもりで作家がサインするなら結構だが、その場合、作家は、版元・画商側が複製版画ということを明示するかどうか確認する社会的義務があるだろう)、万人がわかるように「複製版画」「リプロダクション」または「エスタンプ」(この言葉は一般にはわかりにくいので、あまり使わないほうがいいと思う)と明示し、不当な価格で取引しないという最低のモラルが必要だろう。ここで問題になるのは、版画はもともと版を媒介とする間接芸術であるから、第三者の手が入りやすい。ということは、版画としての発想→描画→製版→摺刷という一連の版画制作プロセスの中に、作家の自分自身だけの表現ではない何かが加わり、これが、できあがった版画作品の中に含まれてくるということである。この場合、重要なことは、作家が制作の過程でも、常に積極的にプロセスにかかわり、自己表現の貫徹に留意・参画し、それを厳密にチェックすることが、複製とオリジナルを区別するポイントになるということだろう。したがって、油彩、水彩、グワッシュ、素描など、版画以外の目的で描かれた原画を工房に渡して版画に仕立てたり、また、すでに完成した版画を原画として、さらに写真製版などで複製再現することは、論外なくリプロダクション以外の何ものでもない。が、まぎらわしいのは、版画制作プロセスの中で、1.作家が発想だけにかかわり、あとは必要な写真、デザインなどを工房に渡し、以後の版画制作プロセスを技術者にまかせる。2.作家が発想→描画まではかかわるが、あとは工房にまかせる。3.作家が発想→描画→製版まではかかわるが、摺刷は工房にまかせる−などのケースがある。具体的にいうと、2.のケースには、タブロー作家などが、石版・銅販・木版作品を手がける場合、各版面に作家が直接描画はするが、以後の薬品処理・腐蝕・印刻などの調版・製版作業は専門技術者にまかせるものも含まれる。また、これが多色版画の場合は、詳しくいえば、イ.作家が主版(墨版)を直接版面に描き、色版制作以下の作業は工房にまかせる。ロ.作家が主版を直接版面に描き、墨一色で摺りあがった墨版(主版)に手彩色を行う−など、色計画までは作家自身が行うが、あとは工房にまかせるなどのケースもあるだろう。これらの版画制作のいずれかのプロセスで、工房に発注する版画作品を”エスタンプまがい”と呼ぶ考え方もあり、ことに、量産プロセスである摺刷はともかく、版画が版の画であるかぎり、いかなる版種であろうと、製版までは作家自ら手を下すのが当然という固定観念も一部では根強い。たしかに前述のロ.などの場合は、作家自身が制作のプロセスにかなりの程度タッチしているわけだが、墨版以外の色版を工房(技術者)が制作する場合、技術者が、原画の手彩色に忠実であろうとするあまり、細部にこだわりすぎ、手彩色の各色の模写に終わり、原画のヴィヴィッドなタッチをいかしきれないというケースも往々出てくる。こうなると、厳密にいえば、版数だけは多いが(原画に似せようとするため)色版の部分が、複製的になり、版画としての原画本来の意味のあり方と違ってくるという見方もなりたつ。しかし、ここで本末転倒してはならないのは、最も重要なのは原画における作家の”版画表現の意図”が、どこまで貫徹されるかというポイントなのである。換言すれば、作者が、版画技術者として全能であればともかく、自らの”版画表現の意図”実現のため、工房(技術者)との協力が必要なら、むしろ、すすんで厳密な交流・共同作業関係をもつべきであり、作者の”版画表現の意図”が各制作のプロセスで貫徹されたその果実は、オリジナル版画の誕生ということになる。もともと、間接芸術としての版画は、広い意味での発注芸術的要素を内在し、オリジナルな自己表現に、匿名の第三者の手が入るいう点がおとし穴になるのを警戒するあまり、いわゆる自画・自刻・自摺りとう創作版画のパターンも生まれたのである。もちろん、それはそれなりに、ひとつの自己表現での仕方であるが、作家と工房(技術者)との間に各プロセスにおける作者の”版画表現の意図”の十全な交流・協力関係と原作者側の厳密で良心的なチェックがあれば、版画制作のプロセスに熟練した技術者の手が入ることには何の不思議もない。前記のいわゆる”エスタンプまがい”は、作家と技術者との間に、十全の交流・協力・チェック関係が欠け、制作のプロセスで、作者の”版画制作の意図”が貫徹されなかったために起こるものであって、それは単に、製版までの作業は作家自身が手がけなければならないというような、図式的な”固定観念”によって規定されるものであってはならないと思う。日本美術家連盟は「現代のオリジナル版画と複製についての見解」を発表しているが、それによると、版画の「制作の過程に、作者の版画表現の意図が如何にかかわっているかということが、オリジナル版画と複製の区別の鍵となります」とし、また、複製については「オリジナル作品(例えば日本画、油絵、版画等)を原画として、それを第三者が版画技法又は機械印刷により再製したもの」と定義している。さて、オリジナル版画とリプロダクション(複製)版画=エスタンプとの区別ははっきりしたが、現実に、エスタンプ作品が、単に版画のようなまぎらわしい名称、あるいは、オリジナル版画と素人には区別のつかないような形で市場に出回っていることは大問題である。解決策はリプロダクション(エスタンプ)には、画面のどこかに、その旨を明記すればいいわけで、欧米ではすでに広く行われている。日本でも、版画工房の中には、その明記を条件として、リプロダクション(複製)と明記する良識派も増えているが、たとえば、MMG工房ではフランス式に、次のような記載方法をとっている。すなわち、各リトグラフの画面左下に「C(○囲み)by原作者名(複製)制作年 MMG GRAV.LITH.」。たとえば、同工房ではタブロー画家・中村清治の油絵をもとに、全部の版を技術者が描きおこし、同氏の立ち会いのもとで限定部数のリプロダクションを1982年に制作したが、その表示は「C(○囲み)by
Seiji Nakamura 1982 MMG GRAV.LITH.」となっている。つまり、C(○囲み)により著作権は原作者に帰属し、同時に複製作品だということを示し、MMG GRAV.LITH.はMMG工房がリトの版を制作したことを示すフランス式記載方法である(「版画芸術」41号、益田祐作「版画のオリジナルと複製」参照)。これは、シャガールやビュッフェの油絵のリプロダクション版画の下にCH.SORLIER.GRAV.LITH. すなわち、石版師シャルル・ソルリエがリトの版を制作した、などという記載にならったもので、簡明適切で、これでリプロダクション(複製)版画=エスタンプということがわかる表示になっている。しかし、MMG工房の場合、版元やエディターによっては工房名の記入を好まないところもあるので、そういう場合は、版元(エディター)名を入れ、その次にリプロダクションのREPRO.と記入することを複製受注の条件としているという(前掲、益田論文による)。日本中、いや世界中の工房が、こうしたモラルの水準を守ってくれれば、オリジナル版画とまぎらわしいリプロダクション(複製)版画のいわゆる”エスタンプ”問題は解消するはずである。(→リプロダクション)