カトリック名古屋教区
カトリック一宮教会の沿革
所在地: 愛知県一宮市大宮1丁目7の1
電話: 0586-73-4884
カトリック 一宮教会の沿革:400年前には当尾張地方にも多くのカトリック信徒(キリシタン)がおりましたが、禁教令のため信徒は絶え、明治時代になって再布教が始まりました。
1597年(慶長2年)、長崎で殉教した26聖人のうちの5人、鈴木パウロ(49歳、伝道士)、烏丸レオン(年齢不詳、伝道士)、茨木ルドビコ(12才、烏丸レオンの甥)、茨木パウロ(年齢不詳、樽職人)、竹屋コスメ(年齢不詳、刀研師)は尾張の出身といわれています。
参考HP: 尾張・三河・美濃地方のキリシタン関連ウェブサイト
現在のカトリック一宮教会は、1955年、当時のカトリック名古屋教区長、松岡孫四郎司教の要請により、カナダのスカボロ外国宣教会が開設しました。1998年3月に献堂された現在の教会堂は3世代目になり、本建築物に対して、同年の「一宮まちづくり建設賞」を受賞しました。
一宮教会への交通
大航海時代の幕開けとともに、ポルトガルとスペインなどヨーロッパの列強が積極的な海外進出を行い、それに伴ない宣教師たちが遠い東洋にまでキリスト教の布教に来ました。一五四九(天文十八)年にフランシスコ・ザビエル神父が鹿児島に上陸して布教を開始し、やがて織田信長の保護のもと、キリスト教は全国的に広まり、信者の数は急激に増加しました。
しかし豊臣秀吉や徳川家康は、キリスト教布教の背後にヨーロッパ諸国による日本侵略の意図を憶測し、条件つきの交易は認めながらも布教は禁止し、宣教師らを追放するとともに、信者にも棄教を迫る厳しい弾圧に臨むようになりました。
一五八七(天正十五)年に、秀吉は「伴天連追放令」を出し、一五九六(慶長元)年には、宣教師を含めた信者二十六名が長崎送りとなり西坂で殉教しました。その後、家康のキリスト教弾圧の意思を推し進めて、二代将軍秀忠の治世の一六一九(元和五)年には、京都で五十三名の信者が処刑され(京都大殉教)、一六二二(元和八)年には、やはり長崎で五十五名の信者が殉教しました(元和大殉教)。
この尾張の地でも、花正村(現、海部郡美和町)出身のコンスタンチノ(日本名不詳)らにより伝道活動が熱心に行なわれ、多くの人々が受洗しましたが、一六三一(寛永八)年、三代将軍家光の厳命により、尾張藩は、踏絵、宗門改などを行なうことで、徹底的な信者の取締まりに乗り出しました。そして信者五十七名を召捕り、一宮の地で精力的に活動していた四名、ポール兵右衛門、コスモ道閑、レオン庄五郎、シモン久三郎を、印田郷裏・常光一本松塚で火あぶりにしました。八劒社境内の空圓上人の碑への彫込み文字「センテンセ」(判決宣告)、「クロタセウ」(はりつけ、火あぶり)は、その処刑の事実を暗示しています(四人の霊を慰めるために「水かけ地蔵」が建立され、これは現在、常光寺に安置されています)。また一六四四(正保元)年には、三ツ井村(一宮市丹陽町)出身の指導者格の喜太郎とその妻が処刑され、男女十数人の信者が大字平(同、丹陽町)で斬首されたといわれています。
さらに一六六一(寛文元)年以来、四代将軍家綱の時代に行なわれた信者大検挙(尾張美濃崩れ)では、小牧(岩崎、二重堀など)、犬山(五郎丸、橋爪、善師野、高木など)や美濃地方へと弾圧の手が延びて、約三千人のキリスト教信者が殉教したと伝えられています。
からくも処刑を免れた家族や親類も、その後は代々にわたって村八分などの差別を受け、信仰の苦難を耐え忍ばなければなりませんでした。
(参考資料)
レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』
片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』
森徳一郎『尾張切支丹なぐさめ塚』
その他、一宮市各町史誌など
<上記の切支丹殉教顕彰碑などの関連記事>
2009年11月8日付 中日新聞(朝刊)尾張版の記事
「カトリック一宮教会殉教者顕彰碑―迫害の歴史忘れぬために」