前田の算数


嫌いな人とのつきあい方
思春期の悩みを哲学する
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 嫌いな人とのつきあい方
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 「あの人、なんだか苦手だな」
 誰にだって、そう思う人がいるものだ。
 だったら、関わらなければいいって思うんだけど、どうやらそうもいかないようだ。
 「共通の友達がいるし・・・」
 「なんだか断りづらいし・・・」
 そんな理由で、ほんとは嫌いなのに一緒にいるなんてことが結構ある。

 思春期になれば、友達とのつきあい方で悩むのは当然のことだ。
 だけど、せっかく悩むなら、前向きに悩んでみるのがいいと思う。
 だって、学校っていうところは、嫌いな人とのつきあい方を学ぶところなのだ。
 社会に出れば、気の合う人ばかりではない。
 むしろ、本当に気の合う人なんて一握りである。
 それでも、一緒に仕事をしていかなければならない。
 だから、学校で苦手な人とのつきあい方を学んでおく。
 うんと悩んで、考えて、学んでいけばいいと思うだ。

 腹が立ったときには、「あいつは間違ってる」って思いが、頭の中をぐるぐる回る。
 自分が正しいって思い込みたいから、いろんな理屈をつけて、相手を非を並べあげるのだ。
 だけど、それで解決に向かうことって、ほとんどない。
 なぜなら、相手って変えることができないからだ。
 相手は変えれないけど、自分を変えることならできる。
 だから、自分の心の持ち方を変えてみる。
 その方が、ずっと得策だ。
 だって、嫌いな人とつきあえる「心の持ち方」を手に入れたなら、それは人生の武器になる。

 嫌いな人と、うまくつきあう方法なんてあるのだろうか。
 よく言われるのは、「好きになるように努力しましょう」なんて言葉だ。
 だけど、そんなことを言われても困る。
 だって、「好き」とか「嫌い」って、理屈じゃなくて感情だからだ。
 感情は、生理的なものである。
 努力や理屈で変えられるものではない。
 例えば、ピーマンが嫌いな人に、「今からピーマンを好きになりなさい」と言ったって、それは無理なことである。
 出来もしないことをがんばるよりは、「無理に好きになる必要はない」と割り切った方が、気持ちが楽になるのではないだろうか。

 もちろん、嫌いだからといって、何をしてもいいわけではない。
 例えば、ピーマンが嫌いだからといって、ピーマンを好きな人を非難する権利はない。
 ましてや、自分が嫌いだからといって、世の中からピーマンを排除すようとするのは、あまりに横暴だ。
 嫌いな子と仲良くする子がいたって、それは自由だし、嫌いな子を仲間はずれにするなんて、それはもっての他だ。

 どうしても好きになれないなら、「距離を置く」という方法がある。
 もちろん、距離を置くって、無視をするのとは違う。
 「おはよう」と挨拶はするし、話しかけられれば答える。
 同じ班になったなら、必要な話はする。
 ただ、こちらから必要以上に近づかないという意味である。
 距離を置くには、ルールもある。
 その子と共通の友達がいた場合、その友達がどっちと仲良くするかは、その子の自由というルールだ。
 共通の友達の横取り合戦は、ルール違反になる。
 
 距離を置けば、トラブルが起こるはずがない。
 理屈で考えれば、そうなんだけど、実際はそう簡単じゃない。
 そんなこと、高学年の女子なら、みんな知っている。
 近づかないようにしていても、同じ学校にいれば何らかの接点はある。
 「すれ違った時、睨まれた気がした」
 「陰で私のことを話してる気がした」
 そんなトラブルが、必ず出てきてしまう。

 それって、距離の置き方に「勘違い」があるからだと思う。
 「距離」を「物理的な距離」と捉える勘違いだ。
 例えば、すれ違った時に睨まれた気がしたり、相手が自分のことを話してる気がしたりするとしよう。
 それは、相手を強く意識している状態なのだ。
 例えば、向こうに何人かの友達が見えたとき、その中で、嫌いなあの子のことが何だか気になるとしよう。
 それは、相手を強く意識している状態なのだ。
 つまり、「心の距離」がすごく近いということなのだ。

 距離を置くっていうのは、10m離れるとか、一緒の場所にいないとか、そういう物理的な意味ではない。
 「心の距離」を置くということなのだ。
 相手が誰と話そうと、気にならない。
 一緒にいても意識しない。
 それが、「心の距離を置く」ということだ。

 きっと、心の距離を置こうなんていうと、反論したくなるだろう。
 「でも、相手を気にしないってのが、1番難しい」
 「それができれば、苦労しない」
 確かに、その通りである。
 だから、ここから先の話は、ちょっと難しい話になる。

 それは「認める」という話だ。
 ピーマンが嫌いな人に、「今からピーマンを好きになりなさい」と言っても、それは無理なことだ。
 だけど、「好き」にはなれなくても、「認める」ことはできる。
 ピーマンは嫌いでも、ピーマンに栄養があると認めることはできる。
 ピーマンは嫌いでも、ピーマンの苦味が料理を引き立てることを認めることはできる。
 自分は嫌いでも、その味を好きな人がいることを認めることはできる。
 友達に対しても同じことがいえないだろうか。
 相手を「好き」になれなくても、「認める」ことはできるはずだ。
 難しいけど、不可能じゃない。
 だって、「好き」や「嫌い」は感情だから、自分ではどうにもできない。
 だけど、「認める」というのは違う。
 「認める」のは、感情ではなく理性で行う。
 自分の心の持ち方でコントロール可能なことなのだ。
 もちろん、簡単じゃない。
 でも、がんばってみる価値はあると思う。
 だって、そんな心の持ち方を身に付けられたら、人生の武器になるのだから。

 では、相手を認めるためには、どうすればよいのだろう。
 そのためには、相手の「行為」だけを見ないことだ。
 「行為」だけを見ていると、腹が立ってくる。
 それよりも、「行為」に至る「背景」を見ることが大切なんだと思う。
 それは、相手の立場に立って、考えてみるということだ。

 例えば、距離を置く際に、それまでいた共通の友達の取り合いはしないでおこうと約束したとする。
「それなのに、あの子は○○ちゃんにべったりくっついて離れない」
「そのせいで、私は○○ちゃんと遊べない」
という不満が頭をよぎるかもしれない。
 だけど、その子の立場になって、
「どうしてそんなことをしたのだろう」
と想像してみたなら、どうだろう。
「私たちのグループから、あの子は外れた。あの子には、今、居場所がない。だから、中立の立場の○○ちゃんに、すがる気持ちでべったり近づいたのかもしれない」
と思えるかもしれない。
 もちろん、だからといって、その子の行為が正しいとはいえない。
 だって、共通の友達の取り合いはしないという約束を破ったのだから。
 だけど、その子のつらい思いを認めることはできるかもしれない。
 認めることができたなら、その子の行為を許すことができるかもしれない。

 もしも、人の心の弱さを認め、それを許すことができたなら、それはどんなに素晴らしいことだろう。
 心の弱さを愛おしいとさえ感じることができたなら、もはや、仏の域である。
 しかし、我々は、人間である。
 腹が立ってる最中に、相手の立場になるなんて、そんなことはできない。
 でも、落ち着いて冷静になったとき、ちょっと相手の立場に立って考えることくらいはできるだろう。
 だって、大嫌いなあいつのために時間を費やすより、自分を高めるために時間を費やした方が、ずっとお得である。

 無理に好きになるのではなく、相手の立場になって考え、相手を認める。
 そうした経験が、社会に出ていろんな人とつきあう上で、きっと武器になる。


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