前田の算数
「自分らしさ」って何? | ||
思春期の悩みを哲学する ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「自分らしさ」って何? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「自分らしく生きましょう」って言われたことはないだろうか。 だけど、そんなこと言われても困ってしまう。 大体「自分らしく生きる」って、どういうことなんだろう。 そもそも「自分らしさ」って、いったい何。 それが分からないのに、「自分らしく生きろ」なんて言われても、困ってしまう。 一昔前に「自分探しの旅」という言葉が流行った。 だけど、自分探しの旅に出かけ「自分が見付かったよ」なんて人を見たことがない。 それもそのはずである。 「自分」というものは、どこかに転がっているわけではない。 「自分」とは、「さがす」ものではなくて、「つくる」ものなのだから。 「自分らしさ」について、ちょっぴり掘り下げて考えてみよう。 「自分らしさ」って言葉を聞いて、真っ先にイメージするのは、どんな自分だろう。 まず浮かぶのは、きっと「ありのまま」って言葉じゃないだろうか。 では「ありのまま」って、どういうことだろう。 好きなことだけをして生きるってことだろうか。 いやいや、そんなはずはない。 「ゲームが好きなので、ゲームばかりします」 「掃除は嫌いだからしません」 そんなのは、ただの自分勝手である。 そんな自分になりたいなんて人はいないだろう。 「ありのまま」って、どういうことだろう。 それは、他人の目を気にせずに生きるってことだろうか。 でも、それも違うような気がする。 社会の中で他人のことを考えながら生きる自分。 時には他人の評価を得るために必死に頑張る自分。 そんな自分を「本当の自分じゃない」なんて言われたら、あまりに寂しすぎる。 だって、周りを気にせず生きる自分だって自分だけど、周りを気にして生きる自分だって「本当の自分」なのである。 考えれば考えるほど、「自分」って何なのか、分からなくなってくる。 ここは少し違った視点から、考えてみることにしよう。 「自分らしさ」と似た言葉に「個性」という言葉がある。 最近は「個性」が尊重されるあまり、「個性」が無理強いされる風潮があるような気がする。 「個性的に生きましょう」なんて言われたことはないだろうか。 でも、「個性」を単に「人と違うこと」と捉えるならば、とんでもない間違いだ。 わざと人と違う行動をとって、目立ちたがる人。 みんなの興味をひこうと、奇をてらった行動をする人。 髪の毛を染めてみたり、奇抜な格好をしたりする人。 そんな人を個性的って、思えるだろうか。 「人と違うこと」がよいのなら、変態が1番よいってことになってしまう。 もちろん、そんなはずはないだろう。 だって、人と違うことをしようとすること自体、人の目を意識していることなのだ。 それこそ、「自分らしさ」とは、かけ離れている。 個性とは、求めるものではない。 個性とは「目的」ではなく「結果」なのだ。 その人が自分の「良心」に従ってよりよく生きようとした「結果」を、他人が「個性的だ」と評価するわけである。 良心に従って生きる。 そうはいってみたものの、言葉で言うのは簡単だが、実際はそれほど簡単ではない。 というのも自分の「良心」が、誰にとっても必ず正しいとは限らないからだ。 「良心」とは、自分の中にある価値観をもとに、ものごとを決定したり、善悪を判断したりする、心の働きのことである。 人によって価値観が違うのだから、そこに働く良心も、人ぞれぞれである。 私の良心とあなたの良心が同じとは限らないということである。 例えば、友達が「宿題のドリルをやり忘れたから見せて」と言ったとしよう。 「先生に叱られたらかわいそうだ。」 と感じて、「見せてあげよう」と思う人もいるだろう。 「ドリルを見せるのは不正なことだ。」 と感じて、「断ろう」と思う人もいるだろう。 「見せても本人のためにならない。」 と感じて、「友達だからこそ注意しよう」と思う人もいるだろう。 どれが正しいだなんて言い切れない。 「良心」は、人それぞれなのだ。 もっと言えば、今の自分と10年後の自分だって、「良心」は異なるかもしれない。 だって、「経験」によって「価値観」だって変化する。 それをもとに働く「良心」だって、今と異なるのが当然だろう。 そんなことを理解しないで「自分だけが唯一正しい」と信じ切って暴走する人。 そんな人のことを「自分らしい」とは、誰も認めてくれないだろう。 だからといって、自分の良心をすぐに引っ込めてしまうのも考えものだ。 例えば、自分は「ドリルを見せてあげるのは不正なことだ」と感じたとしよう。 そこに、別の友達が、 「いいよ。見せてあげるよ」 と言ったらどうするだろう。 「それは不正だ」と諭すことができるだろうか。 何となく雰囲気に飲まれて、自分の良心を引っ込めてしまうことはないだろうか。 そして、自分が良心を引っ込めたことにさえ気付かないふりをして、自分を納得させていることはないだろうか。 もちろん、それが悪いというわけではない。 時には、良心を引っ込めることだってある。 ただ、いつもそうしてばかりいたのでは、いつしか心が疲れてしまう。 少なくとも、人は他者と同調する習性があることは知っておくべきだ。 知っていたなら、ちょっと立ち止まり、自分の良心に耳を傾けることができるからである。 夏目漱石の「草枕」の冒頭には、 「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。」 とある。 自分の良心ばかり優先させて生きていけば、衝突が起こって生きづらい。 時には、他人の良心との折り合いをつけることだって必要だろう。 でも、ここでいう折り合いとは、決して自分を押し殺すことではない。 自分の良心に耳を傾け、どこまで許せて、どこまで許せないのかを見極めることなのだ。 自分と他人の良心が異なることを理解した上で、自分が納得できる道をさぐることなのだ。 「同調」するのが心地よい人。 「主張」するのが心地よい人。 それだって、その人らしさなんだと思う。 無理に「主張」したり、無理に「同調」したりすると心が疲れてゆく。 もしも、「こんな自分は、本当の自分じゃない」なんて悩んでいる人がいたなら、きっと、「主張」と「同調」のバランスが、その人に合っていないのだろう。 さて、話を最初に戻そう。 冒頭で、「自分とはつくるものだ」と書いた。 それは、良心に従って理想の「自分」に向かうという意味である。 良心が人それぞれ異なるのだから、理想の「自分」は人とは違うはずである。 きっと、それが「自分らしさ」なんだと思う。 時には、良心に従えないことだってあるだろう。 それでも、折り合いをつけながら、そんな「自分」を受け入れて生きる。 それが「自分らしく生きる」ってことだと思うのだ。 |
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