前田の算数

前 田 の 算 数  実 践 事 例
授業で学級をつくる


  で   を つ く る

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 1、よさを認め合える学級づくり
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(1)「分かるよ」が聞こえる授業

授業をしていると、子どもが間違った答えを言う時がある。
そんな時、周りの子がどんな反応をする学級であってほしいだろうか。
「違いまーす」と大声で間違いを指摘する子がいる学級だろうか。
それとも、間違っている子を傷つけないように、
そっと間違いに気付かない振りをする学級だろうか。
どちらも、何だか寂しい気がする。

私は、子どもの中から、
「○○さんの考えたこと分かるよ」
「きっと○○さんは、こう考えたんだよ。でもね…」
という言葉が出てきてほしいなと思っている。

 “間違いの中に潜むよさを認めあえる
そんな学級である。



〜ある日の授業風景@〜

こんなことがあった。

 

上の問題を解いた後に、正三角形が5個の場合の周りの長さを考えた時のことである。
加藤君という子が、問題を聞いて即座に「分かった。8pだ」と答えた。
正解は7p。
加藤君の答えは間違いである。

そこに、
「加藤君の考えたこと、分かるような気がする」
と1人の女の子が手を挙げた。

 

「正三角形を4個から5個に増やす時、線を2本書き足すでしょ。だから、加藤君は、2p増えると思ったんだと思う。でも、本当は、2本増えるんだけど、ここの1本が周りの長さじゃなくなるから、2−1で1pだけ増えます。だから答えは7pです」
と女の子は説明した。

 “さっきより1p増える”という説明を聞いて、ある子が
「だったら、正三角形が6個になったら、もう1p増えて、8pになるんじゃないの」
とひらめき、
「7個なら、9pだ」
と他の子も続いた。

私は、そんな様子を見ながら、何だか心があったかくなった。
 “8p”という“答え”だけを見ると間違いである。
しかし、
“実際に数えずに求める”
“前と比べて次を予想する”
という“考え方”は素敵なものである。
授業の終わりに
「これが、今日の1番大切な考え方です
」と子どもたちに話をした。
加藤君は、嬉しそうにはにかんだ。


(2)間違いを生かして高まり合う授業

“間違いを生かして、みんなで高まり合う”
 そんな学級って素敵だと思う。
 授業においても同じである。

〜ある日の授業風景A〜


 三角形や四角形の学習をした時のことである。
「三角形と四角形があるんだったら、五角形や六角形もあるんじゃないの」
という話題になったところで、ある子が
「でも、一角形や二角形はないよね」
と、つぶやいた。
そこに1人の子が声をあげた。
「先生、一角形もできるよ。しずくの形!」
というのである。

「一角形???」
みんながきょとんとしていると、その子が前に来て、黒板に次のような図をかいた。

 

なるほど、確かにかどが1つである。
しかし、これは一角形とはいえない。間違った答えである。

私は、
「だったら、先生は二角形を思いついたよ。二角形は猫の形!」
と言い、かどが2つある形を板書してみせた。

 

さらに
「三角形は、チューリップの形!」
と、書き加えた。

 

子どもたちから、
「そんなの三角形って言わないよ!」
という声があがった。
そこで、チューリップの形をを三角形と言わない理由を話し合った。
話し合いの中で、子どもたちは
「かどがあるだけじゃ駄目。3本の直線が要るよ!」
「曲がった線じゃ駄目。直線で囲まれないと!」
と、三角形の定義を見つめ直していった。

しずくの形の一角形をきっかけに、みんなの考えが高まったのである。


(3)認め合える学級だから、自分らしさを発揮できる


間違いの中によさを認め、間違いを生かして高め合う授業
そんな毎日の授業の積み重ねがあって、
互いのよさを認め合い、高め合う学級
がつくられるのだと、私は考える。
そんな学級では、1人1人が自分らしさをのぴのぴと発揮することができる。

練習問題の答え合わせの際、答えを子どもに発表させ、
他の子どもたちに「合ってまーす」や「違ってまーす」と大声で言わせる学級を見かけることがある。
正答か誤答かという視点で友だちの考えを聞き、
間違った子を大声で「違ってまーす」と責める。
そんな学級を見ると、少々寂しくなる。
そもそも、多様な考え方があり、それぞれの考えによさがあるからこそ、
子どもに発言させるのである。
正答が1つしかないのであれば、何も子どもに答えを言わせる必要はない。
教師が言ってしまった方が効率的である。

答えはさっさと教師が伝えてしまい、その後に
「どんな間違いをしたか紹介してくれる人はいませんか」
と尋ねる。
そんな温かな授業でありたいと思う。



「問1の答えは○○です」

「あってまーす」

「問2の答えは○○です」

「ちがいまーす」



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 2、間違えた子がヒーローになれる授業づくり
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(1)ヒーロー体験が、子どもを変える

有名な言葉に、「教室は間違うところだ」という言葉がある。
私も大好きな言葉である。
しかし、言葉だけじゃ駄目である。
「教室は間違うところだ」と100回言ったからといって、
やっぱり間違えるのは恥ずかしいに決まっている。
間違いを恐れずに発言できる学級にするには、
間違えた子がヒーローになる授業をいっぱいしなければなるまい。
間違えてヒーローになった体験があってこそ、
子どもはのびのびと自分の考えを言えるようになるのである。

(2)間違いはチャンス

それでは、間違えた子がヒーローになる授業をするためには、どうすればよいのだろうか。

まず第一に、“子どものよさに寄り添おう”とする教師の気持ちが大切だと思う。

子どもが教師の意図しない発言をした時、
 “面白い発言”と思えるか。
 “都合の悪い発言”と思ってしまうか。
そうした教師の気持ちが大切だと思う。
都合の悪い発言を切り捨てて授業を進める教師が、
「友達のよさを認め合いましょう」
と言っても、子どもたちは聞くはずないのである。

学級づくりの言葉に“トラブルチャンス”という言葉がある。
トラブルがあった時こそ学級が成長するチャンスという意味の言葉である。
授業においても同様である
間違いがあった時こそ、それを生かして互いの考えを深めるチャンスにしたい。


(3)気持ちだけでは、子どものよさを生かせない

、“子どものよさに寄り添おう”という気持ちが大切である。
それでは、“子どものよさに寄り添おう”という気持ちだけで、授業はうまくいくだろうか。
そうではあるまい。
間違いを生かすだけの“教材観”や“指導技術”も必要になってくる。


〜ある日の授業風景B〜 


ある教育実習生が「倍数と約数」の授業をした時のことである。
約数を求める練習問題をしていると、1人の子が次のようなノートを書いていた。

 

12の約数を求める問題と16の約数を求める問題をした後に、「2」に○を付け、「最小公約数」と書き添えたのである。
そこに教育実習生が机間指導でまわってきた。
ノートを見た教育実習生は
「最小公約数って言葉はないよ。最大公約数って言葉ならあるけど…」
とあっさり指導してしまった。
私はもったいないなと思った。
面白い間違いであったのに…。

こんなこともあった。
12と16の最大公約数の求め方を考えていると、1人の子が
「ひき算で答えが出るよ。16−12をすると最大公約数になる」
と発言した。

 

それを聞いた実習生は
「ああ、偶然だね…」
と、その考えを流してしまった。
私はもったいないなと思った。
面白い間違いであったのに…。


決して悪い教育実習生ではなかった。
むしろ「子どもの個性を生かしたい」という愛情に満ち溢れた実習生であった。
しかし、まだ学生なので“教材観”や“指導技術”が未熟だったのである。

(4)だから、授業研究

 時折、次のような言葉を耳にすることがある。

「研究授業なんかをするよりも、子どもと向き合うことに時間を注ぎたい」

私は、そんな言葉を聞くと、何だか違和感を感じてしまう。
教材と向き合うことなしに、子どものよさを引き出すことなど出来ないと思うからである。
医者が患者を診察するには、医学の知識が必要である。
教師が子どものよさを認めるためには、確かな“教材観”が必要だと思うのである。

授業で学級はつくられる。
だからこそ、日々、授業の腕を磨いていきたい。

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