前田の算数

コ ラ ム 
子供を好きでいるって、大変なこと
教師が変われば子供が変わる

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 「子供が好き」って難しい
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 「子供が好きです」
 そんな言葉をよく耳にする。
 「子供が好きだから、先生になった」
 そういう先生も多いのではないだろうか。
 子供を好きなんて、教師なら当然のこと。
 そう思う人もいるかも知れない。
 
 しかし、子供を好きでいることは、そんなに簡単なことではない。
 子供が好きっていうとき、思い浮かべている子供の姿は、素直で明るく優しい姿である。
 しかし、教室には、陰湿ないじめを繰り返す子もいれば、教師に「うざい」「きもい」「死ね」と反発してくる子もいる。
 全ての子供を好きでいるということは、そうした子供を好きでいるということなのだ。
 極論をいえば、もし、連続殺人犯の酒鬼薔薇が教室にいたとしたら、酒鬼薔薇を好きでいられるだろうか。
 子供が好きとは、そういうことなのだ。



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 教師が変われば、子供は変わる
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 「子供に愛情を注ぎましょう」
 そう教えられてきた。
 しかし、
 「好きでいるには、どうすればよいか」
については、教えられたことがない。

 それは、愛情というのは、もって生まれた資質であって、努力で身に付くものではないと捉えられているからかもしれない。
 愛情は、教育技術とは違って、成長させられないものだと、捉えられているのかもしれない。
 しかし、本当にそうなのだろうか。
 「心のもちかた」は、努力によって成長させていくことができるのではないだろうか。
 最近は、そう感じるようになってきた。

 そして、教師の「心のもちかた」が変われば、「子供の見え方」も変わってくる
 「見え方」が変われば、その子への「思い」も変わる。
 そんなふうに思うのである。
 
 

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 「好き嫌い」は変えられない
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 若い頃の私は、「子供を好きでいよう」と努めていた。
 そして、そうなれない自分を責めたりもした。
 でも、最近になって、「好きでいよう」という構え自体に無理があると思うようになってきた。

 「好き」や「嫌い」というのは感情である。
 感情は生理的なものだから、理屈で変えられるものではない。
 例えば、トマトが嫌いだという人に、「今からトマトを好きになりなさい」と言っても無理なことである。
 しかし、「好き」にはなれないにしても、「認める」ことはできる。
 トマトは嫌いでも、トマトに栄養があると認めることはできる。
 トマトは嫌いでも、トマトの酸味が料理を引き立てることを認めることはできる。
 それは、子供に対しても同じことがいえるのではないだろうか。

 

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 「ほめる」よりも「認める」
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 そんな風に思うようになったのは、苦い失敗の経験からである。

 30代前半。ある程度の教育技術が身に付き、周りからも認められるようになり、天狗になっていたときのことである。
 その頃の自分は、自分の力をもってすれば、子供を動かすのなんてお手のものだと勘違いしていた。

 私は、3年生の担任になった。
 そこには、いつもきまりを破り、陰では弱い子をいじめる3人グループがいた。
 私は、何回注意しても、そうした行動を繰り返す態度を、どうしても許せなかった。
 叱ってばかりしている毎日。
 だんだん、その子たちとの心の溝が深まっていった。

 ときには、そんな自分を反省し、叱った分だけ、 たくさん褒めようと努めてみたこともあった。
 しかし、褒めようと思っても、特段褒められるようなことをするわけもないので、とってつけたような褒め言葉を並べてしまう
 どんなに褒めても、彼らの心には響かなかった。

 3年生の頃は、教師の威厳で無理矢理言うことを聞かせられた。
 しかし、持ち上がりの4年生になると、彼らは次第に反抗的な態度をとるようになっていった。
 彼らの不満を聞き、自分の悪かったことについて詫び、少し関係は修復したものの、わだかまりは消えないまま、3月を迎え、別れることになった。

 今から思えば、彼らは褒めてほしかったのではない。
 ただ単に、自分たちのことを認めてほしかったのだと思う。

 「褒める」と「認める」。
 当時の自分には、その違いを意識していなかった。
 「褒める」という行為は、教師の価値観という色眼鏡が入る。
 あの頃の私は、「よい行動」「悪い行動」というものさしで、彼らを見ようとしていたのだ。
 きっと、彼らが見てほしかったのは、そんなことではないのだ。
 あのとき、彼らは、一体、何に困っていたのだろうか、何を訴えようとしていたのだろうか。
 彼らには、申し訳ないことをしたと思っている。

 
 

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 「行為」よりも「背景」
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 そうした反省もあり、40代になると、「行為」に至る「背景」を観察しようという思いが強くなった。
 6年生を担任したときのことである。
 所謂、問題児といわれる子を担任した。
 4月。 最初の体育の授業は100m走だった。
 その子は、だらだらと笑いながら走る。
 学年の先生からそのことを叱られても「本気でーす」と平気で答えるだけ。
 せっかく運動能力が高いのに、本気を出さずに周りを茶化してばかりいた。

 その子は、普段から叱られてもへらへら笑っている子だった。
 正直、その子が何を考えているのか、私はつかめずにいた。
 しかし、その子の走る様子をじっくり観察していると、ずっとだらだら走っているのではないことに気付いた。
 だらだらとスタートはするものの、最後には急にペースをあげて他の子を追い抜くのである。
 もしかすると、その子は走るという単純作業は嫌いだけど、勝負することは好きなのかもしれないなと思った。
 周りのメンバーが自分より確実に遅い時には、普通に走っても面白くないので、少しハンデを与えておいて抜かすという自分なりのゲームを行っているのかもしれない。
 或いは、その子は、本気を出す自分を他人に見られるのが恥ずかしいのかもしれないとも思った。
 それでも、自分の力を誇示したい気持ちは高く、最後だけペースをあげるという行為に表れたのかもしれない。
 4月当初ということもあって、ただ単純に、その子のことが知りたかった。
 その子の行動を観察しながら、その背景を勝手に想像していたのである。

 不思議なもので、その子の行動の背景を推し量るうちに、だんだんその子への親しみの情が沸いてきた。
 もちろん、だからといって「だらだらと笑いながら走る」という行為は許されるわけではない。
 その行動については、注意した。
 すると、不思議なもので、彼は、その指導をすんなりと受け入れた。
 うまく言えないが、同じ叱るにしても、こちらの思い次第で、伝わり方が変わるのだ。

 
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 その子を「主人公」にして見つめる
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 30代の自分、40代の自分、その違いはどこにあったのだろうか。
 前者は、教師という上の立場から、自分の価値観という色眼鏡で子供を見ていた。
 それに対して、後者は、ただ、知りたいという思いで子供を見ていた。
 素直にその子を観察し、その子の思いを想像していたように思う。

 その子は何に困り、何を訴えているのか。
 その子の視点に立って想像を巡らせると、不思議なもので、自然とその子への情が沸いてくる。

 そういえば、ドラマや映画を見てるときにも、それと似た経験をすることがある。
 ドラマや映画は主人公の視点で描かれる。
 見ているうちに、だんだん主人公に自分を投影し、
 気付けば、主人公に感情移入してしまう。
 そして、ドラマを見終わった頃には、すっかり主人公が好きになっている。
 冷静に考えてみれば、結構、はちゃめちゃな主人公だったりもする。
 それにもかかわらず、不思議と主人公を好きになってしまうのだ。
 その人の視点でものごとを見ているうちに、情がわいてくるのである。

 だったら、教室においても、子どもの視点でものごとを見つめていけばよいわけだが、それは、そう簡単なことではない。
 なぜなら、我々教師は、個と同時に、集団も見ていなければならないからである。
 他の児童への影響だって考えなければならない。
 誰か一人だけを主人公にして、ものごとを見るのが難しいのである。
 難しいがせめて、誰かが困ってみるときには、その子の視点になって、その子が見ている世界を一緒に見ていきたいものである。

 
 
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 「心の持ち方」で「感情」が変わる
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先程、「その子の視点になると、不思議と情がわく」と書いた。
冒頭では「感情は変えられない」と書いた。
この2つは、矛盾しているように思われるかもしれない。
「感情は変えられない」と書いたが、正確には「変えられない」のではなく、「変えようと思って変えられるものではない」というべきだろうか。

他者は、厳密には存在し得ない。
人は、自分というフィルターを通してしか、相手をみることができないからである。
相手を見ているつもりでも、我々が見ているのは、相手そのものの姿ではなく、あくまでも自分のフィルターを通した相手の姿なのだ。

教師の「心のもちよう」が変われば、子供の「見え方」が変わる。
子供の「見え方」が変われば、その子への「感情」が変わる。
相手への感情を無理に変えようとするのではなく、自分の「心のもちよう」を変えていけばよい。
「心のもちよう」は、いくらでも成長させられるのだから。

 
   
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