水面に映る掴めない月を 2






今日は満月で。
酷く月明かりの眩しい夜だった。



ふと、目が覚めて筧はぼんやりと辺りを見回した。
見慣れない部屋。
そして思い出す。
今日から部の合宿だったことを。
目を凝らすまでもなく、月明かりで充分に部屋の中の様子は知れる。
もう、皆は熟睡に入っているらしい。
ただ一人、目の前にいなければならない筈の者を除いては。
隣に敷かれた布団は蛻の殻で、上掛けは無造作に捲くられて放られたままだった。


暫く、待ってみたのだが。
水町は一向に帰って来ない。
いつまで経っても主の戻らない、月に照らされ青白くほのかに輝くシーツを眺めていると。

どうしてだか、淋しいような、切ないような気分になった。

馬鹿馬鹿しい。
そんなわけある筈ない、と筧は目を閉じる。
けれど。
すぐにまた目を開け、深い深い溜息と共に起き上がった。
そしてそろりと寝床を抜け出し、部屋を出て行く。

今は就寝時間で。
いわばプライベートな時間だ。
寝てようが起きてようが、それは個々の自由だ。
だから、水町が。
どこで何をしていようとも、放っておけばいいのだ。
そして自分は自分で、必要不可欠で最も大事な、睡眠という名の休養を取るべきなのだ。
そう思う。
思うのに。



筧の足取りはしっかりとしていて。
そして迷う事無くその場所へと向かう。
近付くにつれ、水音が大きくなる。
確かめるべくもなく。
水町はそこにいるのだ。


明かりの落とされた屋外のプール。
入り口にはしっかりと鍵が掛かっている。
明らかに不法侵入、無断使用だと思って筧は痛む頭を押さえて上を見上げた。
煌々と輝く満月。
そしてそれに照らされる金網とそこに掛けられたスポーツタオル。
ばしゃり、とひとつ大きな水音が。
そしてまた静寂が訪れる。
筧は金網に手を掛けると一気によじ登った。

がしゃがしゃと大きな金属音がしたけれども、誰もいない運動場ではただ響いて消えていくだけだった。
一番高いところに来て、中を見渡した筧の目に映ったのは。
月光を浴びきらきらと輝く水面と、その下を泳ぐ大きな黒い影だった。
その影はゆっくりと、そして滑らかに。
水底をゆらめきながら流れていく。
何か得体の知れないもののように感じて。
まるでここの主のようではないかと思う。

あれは、水町に間違いないのに。

水町がひとりきりで泳ぐ時はいつもあんな風だ。
誰か他に人がいる時には、派手にクロールなどしてみたり、潜ってもあらぬところから顔を出したりして騒がしく遊んでばかりだった。
けれども。
ひとりでほんとうに水に親しむ時には。
息の続く限り水上になど出てきやしない。
水の中を自由自在に、好きな方へと、流れるように滑るように。
荘厳にさえ見えて、けれどどこか孤独な姿。

こんな風に泳ぐ水町を。
他に知っている者は何人いるのだろう。

自分だけが、と思うのはおこがましいだろうか。



筧がプールサイドに降り立ったと同時に。
ざばり、と音がして水面から頭が上がった。
「水ま…ち…」
声を掛けると振り返った水町に。
筧はギクリとして固まった。
酷く、怖い顔をしているように見えたからだ。
まるで、水の中に棲む、人ならざるもののような。
けれども。
顔を出したまま、すい、と平泳ぎで近寄ってきた水町の顔は見知ったもので。
筧は内心ほっとして、その場にしゃがみ込んだ。
「筧、ナニ?どしたの?」
「どしたの、じゃねえよ。何泳いでんだよ。」
「あはは…いやなんか眠れなくってさー」
「眠れないからって、何も泳ぐことねえだろ…」
そう、返しながら筧は不思議な気持ちで水町を見ていた。
どうしてだろう。
やっぱり、何かどこかいつもと違う。
見慣れた筈の、水町の笑顔もどこか不自然な気がする。
そんな事をぼんやりと思いながら筧は手を伸ばした。
「こんなに冷えきって…一体、いつから泳いでたんだよ?」
水町の顔に触れて。
その冷たさに一瞬手を引っ込めた後。
今度は明るい色の髪を一房摘んで撫でながら。
筧が問うたのに、水町は答えなかった。
代わりに。
筧の腕を掴んでその手の甲を唇に宛がって。
「…筧はあったけーのな。俺もあっためてくんね?」
言った後、水町はぺろりと掴んだ筧の手を舐める。
その生温い感触に筧は慌てて手を引っ込めた。
「…っ、何、馬鹿げた冗談言ってんだよ?!」
「冗談、ねえ…」
何か含みのある笑みを作って、水町が覗き込む。
月光の加減がそうさせるのか、どこか凄みのある表情にさせていた。
そんな水町が、まるで自分の知らない人のように目に映るのを感じて筧は眉を寄せる。
「とにかく…もう出ろよ。誰かに見付かったら怒られんだろ。」
得体の知れない不安感に襲われて、筧は早口で言った。

早く、水町をここから連れ出そう。
そうすれば。
きっと、この違和感も消える。
きっと、いつもの水町だと、思えるようになる。
だから早く。

一刻も早くここから立ち去りたくて、筧はすっくと立ち上がると踵を返した。
当然、水町もそれに続くと思っていたのだが。
水音がしない。
「おい…水町!」
苛立ちを覚えながら筧が振り返って見ると。
水町は呆然とした風にして、ある一点を凝視していた。
「…?」
その視線が止まってる先に、筧も同じように目を向ける。


そこには。
静まった水面に出来たもうひとつの月。
青白く輝いている。
ゆらゆらと煌いて、とても綺麗な。

水町が静かに近付いて。
そして、そっとその月を掬い上げた。
けれど。
それは当然のように細かく砕け散って水町の手できらきらと小さな光の群となった。

「やっぱり…掴めねーの…」

その声はとてもとても淋しそうに切なそうに聞こえたから。
筧もまた、思ってしまった。

掴めたらよかったのに。

そんな事、出来る筈がないのは充分承知の上で。
それでも。
そう思わずにはいられなかった。

どうしてそんな風に思うのか。
そしてどうして。
水町もまたそんな事を思うのかも解らなかったけれど。

でもその、はっきりとは言い表せないけれど。
確かにそこにある気持ちだけは何故だか酷く解るような気がした。



少しづつ、少しづつ。
また、水町の目の前に光が収束をはじめる。
そして。
ゆらゆらと輝く新しい月がそこに出来た。

あんなに近くで見ているのに。
触れればたちまち消え失せて、掴むことなんて出来やしない。

まるで嘲笑われているようだ、と。
筧は思って水町を促した。
「早く、帰るぞ。」
それに水町が無言で応えて、ようやく水から上がる。
「ほら」
「ん」
金網に掛かったタオルを筧は手渡してやる。
その時触れた水町の手は酷く冷えていて。

青く白く大きな満月。
夜のプール。
たったひとり。
幾許かの時間を。

水町は何を思ってここで泳いでいたのだろう。



「…ナニ?」
「いや…帰ろう。早く…」

訊いてみたい気はしたけれど。
出来なくてただ。
自分達の棲む世界に水町を連れ帰る為の言葉しか出てこなかった。



おわり



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なんだろう…この話(第二弾)
意思の疎通はないけれど、よく似た事を思う二人。
水町はかなり邪モード入ってますけど。

ところでプールに月は映りますよ…ね…?
映る、という前提でよろしくお願い致しますです(おいおいおい…)
2004.11.26