ビクトールは彼方を見つめ、深い溜息をついた。 辺りはすでに闇を纏い、茂る森を色濃くしている。 葉ずれの音は何者かの囁きを思わせ、そこに生きる獣たちの息遣いまで聞こえてきそうだ。 フリックは水筒に水を汲みに行ったまま戻ってこない。 水場はけして遠くない。 草木を掻き分けて行った先、およそ15メートルのところだ。 こんこんと湧き出す泉がそこにある。 ビクトールは再び溜息をついて立ち上がった。 足元で燃える炎も勢いを無くしている。 パチン。 薪がはぜる音を合図に、気配を殺して水場の方へといて近づいていった。 別の何かに気を取られている人間の背中を取ることなど造作も無い。 普段のフリックであれば必ず気付くだろう。 音無き音を、息を詰める一瞬を、決して逃すことなど無い。 だが、今夜は・・・・・・。 木の葉に一切触れず、森をすり抜けたビクトールは、思わずその場に立ち尽くした。 泉の淵に佇む一人の青年。 夜空の一点を見つめるフリックが其処に居た。 今宵は満月。 彼が満月の夜に殊更物思いに更けるという事は、長い付き合いで良く知っている。 しかし。 フリックが見上げる月の位置は低く、泉を挟んだ向こう側の森の枝に掛かるほど。 白く凛と美しいはずのそれは、朱い。 禍禍しい色を放ち、空の高みへ昇ろうとしていた。 ビクトールは己の奥歯がギシリと鳴るのを聴いた。 それがそのまま声になる。 「フリック」 名を呼ばれた青年は呆気に取られるほど物凄い勢いで振り返った。 薄闇の中、その瞳が光ったように思う。 ぐらり。 フリックの身体が後方に傾ぐ。 その唇が「あ」という形を作った。 「フリック!!」 ビクトールは飛ぶようにして駆け寄ったが、伸ばした手はむなしく空を掻いた。 次の瞬間、派手な水音と共に盛大な水飛沫が上がる。 穏やかだった水面に無数の波紋が広がり、枝で羽を休めていた鳥達が一斉に飛び立ってゆく。 再び訪れた静寂の中、フリックは泉の底に尻餅をついていた。何が起こったのか分からないという顔をしている。 ビクトールはやり場のなくなった手を頭に持っていき、わしわしと掻いた。 「・・・・なーにやってんだ、お前は」 何気ない風を装って、苛立ちを取り繕う。 普段と同じ調子で出た声音に、自分自身が驚いた。 フリックは眉間に思いきり皺を寄せ、口を尖らせる。 「お前が気配も無しに、声なんか掛けてくるから・・・・!」 「だからって普通落ちるかぁ?青雷の名が泣くぜ」 「・・・・ちょっと考え事してたんだよ!」 「あー、そうかいそうかい」 改めて、ビクトールは手を差し伸べた。 フリックは一息で立ち上がった。 水音は高く、広がる波紋は大小様々。 水気を含んだ衣服が身体にはりついて動きづらそうだ。 フリックは前髪を掻き上げながら、ビクトールの手を取った。 濡れた手が思いの他強い力で骨太の手を掴む。 その時。 ビクトールも予想しなかったことが起こった。 先程の水飛沫で濡れた泉の淵はぬかるみ、そこに立っていたビクトールの身体が泉側へ引っ張り込まれる形で傾いたのだ。 「のわぁっ!?」 態勢を立て直す暇も無かった。 ビクトールの大きな身体はフリック諸共巻き込んで、浅い泉の中へ落ちていた。 フリックの立てたそれより、大きな音と水飛沫が上がる。その音は森中に響いたのではないかと思われる程だった。 しばらくの間、ビクトールは泉の底に尻餅をついた格好で呆然としていた。 同じように膝をついたフリックもただただ目を瞬かせる。 それから二人は顔を見合わせ、ほとんど同時に怒鳴りつけた。 「フリック!!てめえ、何しやがる!!」 「このバカ熊ぁ!!なんでお前も落ちるんだ!!」 「てめえがワザと引っ張ったんだろーが!!」 「俺がそんなことするわけないだろ!!」 「だったら、てめえの運の悪さを俺にうつすんじゃねえ!!」 「うつるか、そんなもん!!」 そこまで叫ぶとすっきりしたのか、互いに肩を落として波立つ水面を眺めた。 遠くで、鳥の低い声がする。 先に口を開いたのはフリックだ。 「・・・・バカらしい・・・・」 「・・・・それを言うならお互い様だ」 再び視線を合わせると、疲れた表情が薄闇の中で微笑みに変わる。 フリックは立ち上がり、着ているシャツの裾を絞った。 「ったく、びしょ濡れじゃねえか」 ビクトールは胸まで水に浸かったまま、フリックを見上げた。 「先に落ちたのはお前だろうが」 「あれはお前が悪い」 「俺のせいかよ」 「そうだ、お前のせいだ」 言いながら、最初泉に落ちた時一緒に落とした水筒を拾おうと腰を屈めた。 と、その手が止まり、ビクトールは首を傾げる。 「どうした?」 フリックの視線を追うと水筒が浮かんでいるその脇に、枝から離れた月がはっきりと映っていた。 ビクトールは顔を上げ、それを見上げる。 色味は相変わらず赤いまま、むしろより赤く染まったように思えた。 それだけではない。 いくらか大きさを増したようにも見える。 ――――――――――――まるで、あの日のようだ。 フリックはそこだけ赤く染まった水を掬った。 しかし、その手はただ濡れただけ。 何もついてはいない。 そのまま水筒を手に取り、フリックは静かに息を吐いた。 「・・・・・・月って」 どこか遠くの方でその声を聴く。 「あんなに赤くなるものなのか?」 疑問というより不満げな声音だ。 ビクトールは再び奥歯の音を聴く。 「・・・・ああ」 あの忌まわしい吸血鬼が全てを奪っていった夜も、こんな月の色をしていた。 男は、それを地面に寝転がったまま眺めたことを忘れられずにいる。 濃い血の匂いとあいまって、全てが赤く染まっていた。 それは随分長いこと、男の身体に染み付いて離れなかった。 あの日、そのままの月が、今また目の前で昇ってゆく。 震えかける声を押さえ、ビクトールは口を開いた。 「滅多になるもんじゃねえんだろうがな」 「・・・・そうか」 フリックは月から目を逸らさずに言う。 「どうしてだろう・・・・。 なんだか不安になる・・・・・・」 雫が落ちて、ビクトールの頬に跳ねる。 「・・・・俺は、白い月しか知らないからかな・・・・」 愛した女に良く似た輝きの、白くまあるい月。 彼女が死んで五年近く経った今でも、フリックの心の闇の中で煌き続けている。 決してその輝きが色褪せることは無い。 ビクトールがどんなにフリックを想い、フリックがビクトールの傍に居続けたとしても。 決して彼女の居る場所へ辿り着く事は叶わないのだ。 ならば。 この赤い月は・・・・。 男は立ち上がった。 水音がやけに響く。 フリックの青い双眸は、赤い月を捉えたまま。 ビクトールは、水面の月が歪んでいくのを見た。 赤い月は光をもたらさない。 どんなに大地を照らしても、鈍い色に染めるだけ。 穢れの象徴だ。 髪の先、指の先から滴る雫は、穏やかだったはずの水面を乱してゆく。 ―――――――――あれは、己だ。 ビクトールは自分より一回り小さな肩を掴んだ。 振り返ったその目は、見えない何かを見つめている。 形の良い唇が何かを語りかけるのを、ビクトールは塞いだ。 薄く開いた唇は言葉を刻もうとするが、男がそれを許さない。 逃れようとするのを追いかけて、引き戻しては追い立てる。 ざらりとした感触が次第に粘着質な物へと変わってゆく。 口の端から液が垂れて、見開かれていたフリックの瞼が閉じられる。 ビクトールはその睫毛の先を見つめた。 絡めていた舌を離すと、熱のこもった吐息と共に、フリックは瞼を上げる。 澄んだ青空のような瞳が、淫らにも蜜を湛えてその先を望む。 「・・・・ビクトール・・・っ・・・・・」 名を呼ばれた男はその腕を取って引き寄せた。 「来いよ」 濡れた髪が頬にあたる。 雫が伝って、男の肌を滑り落ちていく。 腕の中に収めた身体は熱い。 また、ビクトール自身も熱を帯びている。 乱暴なくらいの力で以って泉の淵に腰掛けさせ、上から覆い被さった。 はりつく衣服を捲り上げ、露になった白い肌に舌を這わせれば、息を荒くさせたフリックがビクトールの肩を強く掴む。 「・・・・こっ・・・・ここで、か・・・・?」 潤んだ瞳は男の欲望を駆りたてるだけだ。 「どうせ脱ぐんだ。・・・・どこで脱いだって一緒だろ」 フリックは促されるままにシャツを脱ぎさる。 「・・・・あっ・・・・」 男は熱を帯びて膨らみ始めた腰を相手のそれに擦りつけた。 漏れ出す息を吸い込むように塞ぎ、同時に胸の突起を指で転がせば、フリックの身体は色に染まる。 それはビクトールと同じ熱さでもって、解き放たれるのを待っている。 「・・・・・・ビクトール・・・・・・」 息をつき、首筋を舌でなぞりながら、熱く掠れかける声を聴く。 「・・・・ビクトール・・・・・・」 視線が交わる。 「何だよ・・・・」 真上から見下ろした瞳は何処か不安げで。 「どうか、したのか・・・・・?」 無邪気にもそんな言葉を吐いた。 赤く鈍い光を背にした男の顔は、薄闇の中で一層深く濃い闇に溶け込む。 フリックからは男の表情を読み取ることは出来まい。 ビクトールには、戸惑う青年の瞳の揺らめきまで見えるというのに。 「・・・・別に」 絞り出した声は己のものとは思えなかった。 フリックは言葉をつなぐ。 「・・・・・なんか・・・・・いつもと違う気がする・・・・・・・」 見上げる瞳が僅かに逸れた。 その先に何があるのか、男は知っている。 見るな。 と。 言えたらどんなに良いか。 俺だけを見ろ。 せめて今、この時だけでもいい。 何も考えず、俺だけを。 と。 口に出すことが出来たら、少しははっきりするかもしれない。 でも。 「・・・・気のせいだろ・・・・」 だからこそ。 男はフリックの視界を遮るためだけに、その上に覆い被さった。 自分にも捨てられないものがあるように、自分が組み敷いた青年にも捨てられないものがある。 それは失うことの難しいもので、無理に奪えば壊れてしまう。 だのに、その全てを剥ぎ取って、自分だけのものにしたくなる。 これは、ただの子供じみた独占欲だ。 改めて捻じ込んだ舌先で、内側の粘膜をあても無く探す。 絡み合う頃には無我夢中で、何も考えられなくなるだろう。 フリックは手を伸ばした。 月を掴むように。 それを目の端で追いながら、男はフリックの熱を弄った。 「・・・っ・・・・・う・・・・・・」 虚ろな瞳が閉じられる。 フリックは何も見ない。 光も感じない。 手を伸ばしたのは月を掴むためではない。 引き寄せられたのはビクトールの方だった。 剣を握るにしては細い指が、男の背中を強く強く掻き抱く。 「・・・・ああっ・・・・・」 フリックはその手を離そうとしなかった。 男よりも強い想いで、男の全てを欲していた。 頭上には、いつのまにか白さを取り戻した満月が、濡れた二人の身体を照らし出し、ただ美しく輝いていた。 end H15.2 |
とゆー訳で、さりげなーく戴かせて貰いました!(笑) てか、我侭を聞いて下さいまして有難う御座いました。 とても嬉しかったですー しかも好みの月に狂う、みたいなカンジで… こーゆー怪しい雰囲気は素敵ですよねぇ。 水辺のえろもまたツボです。ふふ。 ほんとに有難う御座いました。 また宜しくお願いしますです(こらこらー) |
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