ビクトールは、死んだ父の相棒だったという。
年に数回やって来ては、特に何をするというわけでもなく滞在して、また何処かへ行ってしまう。
そんなビクトールを、内心良くは思っていない様子の母は、どうしてか毎回手厚くもてなしている。
何だか複雑な大人の事情があるのだろうとは思っていた。
が、そんな事はどうでもよくて。
それよりもビクトールが訪ねて来てくれるという事実の方が、自分には大事だった。
その昔。
父とビクトールは大きな戦争で大変な武勲を立てたらしい。
その武勇伝や、世界中を旅するビクトールの土産話を聞くのは、とても楽しみだった。
そしてなにより。
自分は、このビクトールという男が大好きだった。
ビクトールは変わらない。
いつも携えている『星辰剣』という喋る剣の紋章の力のせいで、不老不死になったんだそうだ。
けれど変わらないのは見た目だけではなく、その性格もそうだった。
ちょっといい加減で不真面目なところもあるけれど。
明るくて温かくて強くて優しい。
子供の頃からずっと、ビクトールが父親になってくれればどんなにいいだろうと思った事か。
死んだ友人の家族を頻繁に訪ねるという、不自然な行動。
それを、幼い頃には当たり前のように受け入れていたけれど。
最近は、その理由について、深く考えるようになっていた。
もしかすると、母のことが好きなのかもしれない。
だったら、直ぐにでも再婚して貰おうかと淡い期待を抱いて、ビクトールに直接訊いた事がある。
けれど、違った。
『フリックの血統を見守ろうと思ってな』
それが、ビクトールの答えだった。
その意味と、ここに訪れる理由とを、自分なりにあれやこれやと考えてみた。
そうすると、そのどれもこれもが、たったひとつの答えに行き着くのだった。
父が、ビクトールにとって、かけがえのない人だった。という事に。
「お前はほんと、髪の色しかフリックに似てねぇよなぁ。」
家の裏にある小川の土手に二人して並んで座り込んでいた。
一通り近況のやりとりを終えた後。
しげしげと自分を見詰めて、ビクトールが言った。
「悪かったな!そんなのしょーがないだろ?!それに親父なんて、顔すら憶えてねーんだよ。」
「いや、別に悪くはねぇけどな。」
少し不貞腐れて返すと、慌ててビクトールは手を振った。
そして、目を眇める。
昔を懐かしむように。
「お前の親父はなぁ、それはもう強くて賢くて綺麗で可愛かったんだぞ。」
「何だそりゃ。男が綺麗で可愛いって自慢になるのか?」
「お前も見たら絶対綺麗だって思うって!紋章使って戦ってるとこなんざ、背筋が凍るくらい綺麗だったなぁ〜」
父は雷の紋章がとても得意で、『青雷』とか言われてたらしい。
「…じゃあ、綺麗なのはいいとして、可愛いってのはなんだ。」
「それはあれだな。ばかな子程可愛いってやつだな。」
「それじゃあ褒めてんのか、けなしてんだかわかりゃしねーよ…」
「はっはっは。ばっか!そーゆーとこが愛嬌があってかわいーんじゃねぇか。」
分厚い手で、背中をばんばんとビクトールが叩いた。
ビクトールは、自分のどんな大きな手柄話よりも父の話をする時の方が、ずっと誇らしげで嬉しそうだ。
こんな時、すごく、思う。
「あんた、ほんとに親父の事好きだったんだなぁ。」
「おお、そりゃあもぉ、すっごくすっごく好きだったぞ!」
「あっそー…」
ビクトールはよく笑う。
その中でも、とびきり最上級かと思える程の笑顔で応えられた。
こーゆーのを、ほんとの心からの笑顔とかいうのだと思う。
「…確か、ビクトールは親父とずっと一緒に旅をしてたんだったよな?」
「ん?おお。」
「じゃあ、うちのお袋が、ビクトールから親父をとっちゃったのか?」
「ははは、そーじゃねぇよ。」
ビクトールが、笑う。
「俺が、捨てちまったんだよ。後の事は全部、お前のお袋さんに任せてな。」
後はお袋さんの頑張りだな。
と言って、ビクトールは遠くを見た。
「何でそんな事…?だって、親父の事凄く好きだったんだろ?」
そう尋ねると、ビクトールは困ったように眉を顰めた。
けれど、ひとつ溜息をつくと、こちらに向き直った。
「俺はこいつがあるから歳を喰わねぇだろ。」
傍らにある星辰剣を掴んで持ち上げる。
いつもなら『こいつ』扱いされて黙っている筈のない星辰剣は、どうしてだか何も言わなかった。
「でもな、あいつは歳を取る。だから、俺なんかに付き合わせていねぇで、人並みの幸せってやつを掴んで貰いたかったんだ。」
だから置き去りにした。
ビクトールのその眸は冥い。
「でも、そんなに好きなのに…他の人に渡してもよかったのかよ?」
「好きだからこそ、だ。」
「……?」
「俺はフリックが本当に幸せでいてくれるなら、一生会えなくても、それで幸せだと思ったんだ。」
ビクトールが手元の小石を拾って投げた。
小さな音がして、波紋が広がる。
「まぁ、でもやっぱり会えないのは辛かったから、たまに顔出してたんだけどな。」
また、小石を投げて、ビクトールが小さく笑った。
「でも…」
ビクトールは石を投げ続ける。
「あんなに早くに逝っちまうんだったら、何が何でも側に居て、手を離さなきゃよかったよなぁ…」
言って投げた石には、さっきよりかは微かに強く力が篭っていた。
「……」
「あー…うそうそ!だったらお前、産まれてこねぇもんなぁ。」
石を投げていた手が伸びて来て、頭をわしわしと掻き回した。
「だから、そんな泣きそうな顔すんじゃねぇよ。」
ぐしゃぐしゃにした髪を、今度はきれいに正していく。
でも、そう言ったビクトールの方が、ずっと泣きそうな顔をしている。
そう思ったら、涙がぽろりと零れ落ちた。
あれは去年の事。
うちに泊まったビクトールが、夜中にこっそり抜け出すのを見て、後を付けた。
その行き先は、すぐ近くにある、父の墓だった。
墓前に座り込んだビクトールはグラスを2つ取り出すと、そのひとつを墓標の下に置いた。
「また来ちまったよ。」
そう言って、それぞれのグラスに酒を注ぐ。
そうしてその後は。
何も言わず、ただずっとそこに居続けるだけだった。
邪魔をしてはいけないような気がして、自分はすぐにその場を離れる事にした。
そしてビクトールが帰ってきたのは、夜明け近い時刻になってからだった。
あれから今日まで。
何回かビクトールはやって来たが、その度ごとに夜抜け出しては朝まで帰らなかった。
父が逝って十数年。
ずっとうちに来る度に、ああして欠かさず父に会っていたのだろう。
それだけでも、解る。
ビクトールにとって、父は、本当に本当に大切な人だったんだ。
「悪かったって。泣くな、ほらっ、男だろ?」
そう言ってまた、ビクトールは折角きれいにした頭をぐしゃぐしゃにした。
大きな温かい掌。
強くて優しくて、こんなビクトールを好きにならない筈がない。
あんなに大切に想われている父も、きっとビクトールの事がとても好きだっただろう。
母がビクトールを良く思わないのは、それをちゃんと解っているから。
昔、盗み聞いた母とビクトールとの会話が胸に蘇った。
『私はね、今でもあんたの事なんか大っ嫌いなんだけど、あんた程あの人を愛する人はいないのよね…そして、あの人だって…』
『でも、あいつは俺じゃなくて、お前さんを選んだじゃねぇか。』
『あんたの為にね。あんたがそれを望んだからじゃない。』
『それだけじゃなかったって事も解ってるんだろ?俺は、お前さんには感謝してる。フリックの子を残してくれた…』
『…別にあんたの為に産んだ訳じゃないわよ。私が、あの人との子供が欲しかったのよ!』
『ああ、そりゃ解ってるよ。でも、あいつの血がちゃんと残ってるって思えるのが、嬉しいんだよ、俺は。』
『あの子はあげないからね。』
『はは…俺もそこまで欲張りじゃねぇよ。』
『どーかしらね。』
もし、まだ父が生きていて。
ある日突然、家族を捨てて、ビクトールと何処かに行ってしまっても。
絶対に。
絶対に、恨んだりしない。
あんなにも、強く想われて。
父がビクトールを選んだとして、どうして責めたりできるだろう。
父が、ビクトールの事を好きであったなら尚更に。
どうして二人は一緒に居る事が出来なかったのだろう。
どうして父は死んでしまったのだろう。
あと、どのくらい。
永遠に刻を生きる、この孤独な男は、父の事を想い続けるのだろう。
髪の色以外にも、もっと似ている所があればよかっただろうか。
それとも、何ひとつとして似る所などなければよかったのか。
無力な子供の自分は。
一体、ビクトールに何をしてあげる事が出来るだろう。
父の事は顔すら憶えていない。
けれど。
二人が肩を並べる姿が目に浮かぶ。
今更、どうする事も出来なくて。
ただ、ただ、哀しい。
止め処なく溢れる涙を、どうしても止める事が出来なかった。
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「うわぁあああああーーーーっ!」
「ほら、もう泣くなって。もうあいつの姿だって見えないじゃないか。」
「うえっ…ひっ…ひっ…」
「大丈夫だって。また、その内会いに来てくれるからさ。」
「くるん?びくとぉ、また、くる?」
「はは、お前もほんとにビクトールの事が、好きなんだなぁ。」
「しゅき。びくとぉ、しゅき!」
「うん。父さんもさ、ビクトールの事が好きなんだ。」
「とーたん、びくとぉ、しゅき!しゅきーっ!」
「…ほんとは、ずっと側にいたかったんだけど、出来ないって思ったんだ。」
「できんの??」
「だからな、父さんが死んだら、変わりにお前がビクトールの側に居てやってくれるか?それで、出来たらお前の子も、そのまた子も、そうしてくれると嬉しいんだけどな。」
「はーい!」
「そーか…」
「そー!」
「…ほんと身勝手な父親だよな、俺…」
「う?」
「…っ…ごめん。ごめんな…ビクトール…」
「ごめん?とーたん、ごめんいよん?」
「うん…」
「どしたん?とーたん、どしたん?」
「ごめっ…何でもな…」
「どっかいたいん?」
「−−−っ」
それは過ぎ去りし遠い日の序章。
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了。 2002.07.15
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