ビクトールが立ち止ったのは、それを見付けたからだと思う。 先程から、聞こえていた小さな声。 なにかの動物の、か弱い助けを求めるかのような鳴き声。 その鳴き声の主は、怪我をしたまだ子供らしき小さな猿であった。 「あー…怪我で川が渡れねぇで、取り残されちまったんだな…」 まだ乾き切らない毛のまま、河原の大きな石の上で子猿は向こう岸に向かって必死な声を上げている。 対岸はそう遠くはないが、こちらからはよく見えず、親猿がいるのかどうかは解らなかった。 ここは、デュナン湖へと流れを作るそう大きくはない川だ。 最近、自分達はそのデュナン湖の湖畔にある、かつてノースウインドウと呼ばれていた村の跡に住みはじめた。 何年も打ち捨てられうら侘びた村は、少しずつ手を入れられ建て直され。 この頃やっと人が住むのには充分な町へと姿を変えつつあった。 そして今は、その中心にある城は対ハイランドの同盟軍の本拠地にと据えられていた。 もう春も終わり、夏へと向かう季節。 その城主の少年ヤマトが、姉や仲間のピリカやアイリ達と共にこの川に遊びに来たいと言い出した。 そこで、危険はないかと前もって調査のためにフリックとビクトールは下見にと来ていたのだった。 川幅は15メートル位だろうか。 中央の流れは緩やかとは言い難いが、岸辺の方は幾分か弱まっている。 水深も、そう深くはないように見えた。 子供が川岸で遊ぶ分には、そう危険はないように思える。 しかし猿が渡るにはどうだろう。 子猿は腕に傷を負っている。 きっと渡る時には母親が抱えていたのだろうが、流れに負けて流されてしまったのだろう。 もしくは、背に乗っていたが怪我のせいで上手く掴まれずに川に落ちて流されたか。 とにかく、もう少し上流で川に落ちたが、助けが間に合わずに流されこちら岸へ戻ってしまった事は確実であった。 「向こうへ渡してやったら、群れにまた戻れるかな?」 「…まあ、戻れるかは兎も角、ここで泣いてるよりゃ断然その方がいいだろうな…っと、ちょっと待て待て!」 「?」 取り敢えず保護して手当てを、と思い踏み出した自分を慌ててビクトールが遮った。 そうして、遮った反対の手で自分の鞄をごそごそと探っている。 「こーゆーのはな、下手に触っちゃあ駄目なんだよ」 野生の動物は人間の匂いに敏感で、もし群れに帰れたとしても育児放棄されてしまうかもしれない。 と、ビクトールが尤もらしい事を言う。 「じゃあどうするんだよ?」 「まあ見てろって」 そう言って、ビクトールは背に手を伸ばすと星辰剣を鞘ごと抜き出した。 そして幅広のその鞘の真ん中程に、鞄から取り出したパンを置いた。 言われたまま黙って見ていると、今度は鞄からおくすりを取り出して蓋を捻る。 「あっ」 置いたパンにおくすりをどばっと掛けると、ビクトールはニヤッと笑って目配せをしてきた。 見てろ、という事なのだろう。 お手並み拝見、と構えるとビクトールは少し気を引き締めたようだった。 パンを乗せた星辰剣の切っ先を、ゆっくりと子猿のいる石の上に剣が水平になるように置く。 子猿は警戒する声を小さく上げたけれど、危険がないのを察したのかきょろきょろと辺りを見回しながらパンの方へと近づいてきた。 パンを取るために刀身に子猿が乗ったと同時に、そろっとビクトールは星辰剣を持ち上げた。 そのまま、慎重に歩き出す。 そうして、ざぶざぶと川を渡り始めたのだった。 子猿が落ちないように、剣を水平に保ちながら流れに足を取られないようにして歩いてゆく。 こちららから見れば心許ない足取りにも見えるが、暫くすると無事に向こう側へ辿り着いたようだった。 やはり近くに親猿が居たようで。 甲高い鳴き声がいくつか聞こえると、ビクトールが猿達にだろう、手を振るのが見えた。 そして、振り返ると今度は倍くらいの速さでこちらへと戻って来る。 その表情は、川面に乱反射する陽の光でよく見えないでいた。 「いや〜やっぱなあ、親猿が待ってたみてぇで…喜んで行っちまったぜ」 「そうみたいだな。こっちからも見えたぜ。お前、手振ってただろ」 「おお、見えたか?ちゃんと群れに戻れそうでよかったよなー」 「……?」 よかった、と。 そう言って向こう岸を見遣るビクトールが、嬉しそうなのにどこか寂しそうにも見えて。 瞬きをしてもう一度よく見ようと覗き込んでみる。 けれど、その時にはもうビクトールはいつもの笑顔になっていた。 「んん?」 「いや…えらく優しいじゃないか。猿の恩返しでも期待してんのか?」 「はっはっは!美人になって返しに来てくれりゃあ、大歓迎なんだがなあ〜!」 見詰める自分を不審に思われて、思わず茶化して返したら明るい声が返ってくる。 だから自分の思い過ごしだったか、とそう思った。 けれど。 「…独り、取り残されんのは辛ぇからな…出来るなら、返してやりたかったんだよ」 「……」 一瞬、ほんの一瞬、沈んだ瞳をして。 ビクトールはそう呟くと、背を向け歩き出した。 自分は、とっさには何も言えずに黙ってその後を追って歩き出す。 何も言わない背中。 ひとり、取り残されるのは辛い、と言った。 打ち捨てられていた、ノースウインドウという村は。 ビクトールの故郷だった。 ネクロードという悪い吸血鬼が来て、滅ぼしてしまったのだ。 村人達は一人残らず殺され、その後不死人にされてしまった。 ビクトール、以外。 そして独り残されたビクトールは、仇討の旅に出たのだ。 独りで。 「でもまあ、暖っけぇ季節でよかったよな」 「うん?」 「流石の俺でも、真冬の雪の降るしきる時じゃあ、この川は渡れなかったぜ」 「…そうか」 「ああ…そうだ」 今日は良く晴れている。 昼下がりの今は、お日様が照っていると暑いくらいで。 少し冷たい風が気持ちいいくらいに感じられる。 けれど、それでも泳ぐにはまだ早い。 ビクトールは何も言わなかったし、そんな素振りも見せなかったけれど。 川の流れる水は冷たかった筈だ。 水深もそれ程ではないと言っても、腰の辺りまで水に浸かっていた。 決して、そんな、笑ってたいした事じゃないと言えるような事じゃない。 そして。 ビクトールはそう言うけれど。 けど、知っている。 そう言ったって、もし、また雪の中。 あの猿に出会ったなら、同じように川を渡らせてやるのだろう事を。 独り取り残された者を見付けたなら、きっと必ず助けてやるのだろう。 独りは辛いから、と。 自分にはその気持ちが解るからと。 どうしてだろうと思う。 ビクトールの持つ剣、星辰剣は吸血鬼を斃すための必殺の武器だ。 一度使い、そして捨ててきた剣を、わざわざ拾いに行ってまた手に入れた。 そう、一度、あの吸血鬼を斃したのだ。 斃した筈だったのだ。 けれど、このノースウインドウの朽ちた村で生きていた。 斃したと思ったのは分身だったなどと。 積年の怨みを果たしたと思ったのは幻だったなど。 どんなに悔しいだろうか。 辛いだろうか。 どうしてだろう。 ビクトールはいい加減で、お調子者で、怠け者でずる賢いところもあったりするけれど。 けれど、基本優しい奴なんだ。 あんな猿のために、身に痛いほどの冷たい川の水をものともせず渡ってやるくらい。 たいして仲も良くなかった仲間が死に掛けてたのを、ずっと傍に付いてて看病してやるくらい。 困っている奴を放っておけなくて。 子供や老人にも労わりや優しさをもって接する事が出来る。 弱い者を助け、強い者の横暴や理不尽な行いは見過ごせない。 優しくて、いい奴なんだ。 なのに。 どうしてだろう。 どうして、こんなにいい奴が。 こんなに酷い目に合わなくてはならなかったのだろうか。 世の中には、もっとずっと悪い奴等が蔓延っている。 そいつらは何食わぬ顔で生きているのに。 なぜ、こいつが。 こんないい奴が。 出掛けた隙に故郷の村を吸血鬼なんかに襲われ。 不死者になった家族や友達を斃さなくてはいけなくて。 大事な幼馴染を奪われ、取り返せずに命を絶たれ。 復讐の旅に何年も何年も彷徨い続け。 やっと仇を討ったと思っていたのに、そうではなかったと知り。 不死者として蘇らされた幼馴染のその首を刎ね。 終わった筈の復讐をまた続けさせられ。 そして今もまだ、哀しみや憎しみに囚われている。 どうして、こんなにも辛い想いをしなくてはならないのか、と。 どうして。 それが。 こいつなんだ。 そう思ったら、涙が滲んできた。 前を歩くビクトールの背中がぼやける。 けれど。 ビクトールが、自分と出逢ったのは、その復讐の旅があったからこそなのだとも思う。 ネクロードが、生きてなどいなければよかったのにと心から思う。 いや、そもそもビクトールの故郷が襲われたりなどしなければ。 せめて幼馴染だけでも助かっていれば。 ビクトールが哀しむのは嫌だし、苦しむのも嫌だ。 辛い想いなどして欲しくはないし、ずっと幸せに笑っていて欲しいとも思う。 これは本当の気持ちだ。 嘘偽りない、本当の、心からの気持ち。 だけど。 もし、ネクロードが村を襲わなかったら。 ビクトールが復讐の旅に出ていなかったら。 自分達はきっと出逢う事など出来なかっただろう。 生まれた国さえ違う。 歳だって、生きている境遇さえも。 この広く果てしない世界で。 出逢う事など、出来たであろうか。 ビクトールが、辛い想いをしたからこそ。 村を滅ぼされ、家族を幼馴染を殺され、何年も復讐の旅をしていたからこそ。 だからこそ、自分達は出逢ったのだ。 ビクトールが辛いのは嫌だ。 だけど。 そうでなければ、ビクトールとは出逢えなかった。 「…っ」 「あぁ?」 抑えきれなかった声が聞こえたのか。 それとも何か気配を感じたのか。 ビクトールが訝しそうに振り返る。 そして。 「おっ…おい?!何だ?どうした?!!」 自分の涙に気付いて驚いたビクトールが声を掛ける。 「何かあったのか?!どっか、痛ぇとか…?」 肩を掴み、慌てて顔を覗き込んでくる。 そうすると、酷く心配そうな顔が目に映った。 いい奴なんだ、本当に。 群れからはぐれた猿を、独りは辛いだろうからと助けてやったように。 オデッサを失くし、その遺志を果たして独り取り残されたようだった自分の傍に居てくれた。 「ち、がう…」 「何だって?」 「違う…何でもないんだ」 「何でもねえって事ぁねぇだろ?」 「ほんとに、何でもないんだ」 「いやでもよ、フリック…」 涙の訳など言える筈もない。 だから誤魔化そうとした。 けれど明らかに何でもないであろう事なんて、ビクトールには見抜かれているだろう。 当然訊いてくるのを躱すように、掴まれていた手を振り切って川の向こうを見遣った。 「なあ、それよりさっきのあの猿」 「あぁ?!猿がどうしたって?」 答えない自分に、苛立ったような声が返る。 それでもビクトールの方は見ずに続けた。 「あの猿…ほんとに恩返しに来るんじゃないか?」 「はああ?!何だってそんな事…んな事よりよ」 焦れたような声がして、がつと肩を強く掴まれた。 そしてそのまま、無理矢理ビクトールの方へと体を向けらされる。 まだ何か言おうと口を開くビクトールに。 「だってな、俺はあの猿の気持ちが解るんだ」 「は…?」 「俺も辛い時、ずっと傍に居てくれて、独りから救ってくれた奴がいたから…」 笑って、そう言ってやった。 いや、自分では笑ったつもりだったけれど。 上手く笑えたかどうか解らない。 唇が震え、歯の根がうまく合わない。 そして。 そんな自分を見たビクトールが固まってしまったので。 「ふー…」 暫し固まっていたビクトールが、長くて深い溜息を吐いた。 そしてがりがり頭を掻いた後。 困ったような笑顔になって、こっちを見たのだ。 「そうか…なら、じゃあ、俺にも解るぜ」 優しい瞳だ。 「…猿の気持ちか?」 「おうよ。だってなぁ、俺にもそんな奴が居るからな」 「え?」 そして、嬉しそうにも見える。 「居て…くれんだろ?フリック」 「…っ!」 言われた、意味が。 解って。 また、目頭が熱くなった。 けど。 無理矢理笑顔になって。 「当たり前だろ…バカ」 震える声でそう言うと。 堪え切れなかった涙が零れる。 滲んだ視界をよく凝らすとビクトールは。 笑ってるけど、どこか今にも泣き出しそうな。 そんな顔をしていた。 |
互いに助け、助けられて生きてる。
2010.03.19