ボクの背中には羽根がある。4


ここ数日。
フリックに避けられているような気がする。





穏やかな昼下がり。
ここ、傭兵隊の砦の食堂で、昼食を摂った後のコーヒーを啜りながらビクトールは小さな溜息を吐いた。
告白されて、告白し返して、抱き締めると応えるようになって。
とても綺麗な笑顔を返してくれた筈なのに。
数日前に見た、その笑顔を最後にフリックに避けられまくっている気がしてしょうがない。
「…訳が解んねんだよなぁ。」
何か、怒らせるような事をした記憶が全くない。
いや、怒っている、というのでもないような気もするのだが。
話し掛ければとりあえずは応えるし、必要な事があれば向こうからも寄って来る。
しかし用件が済めば取って返したようにその場を去ってしまうのだ。
そう、怒っている、というよりも。
『素っ気無い』という感じが当て嵌まる。
そうして気が付けば、一緒にいる時間が極端に短くなった。
今だって昼食に誘ってはみたものの、急ぎの書類があるとかで執務室に籠ったままだ。
「じゃあ持って来てやろうか」という言葉も、「今は食べたくない」とにべもなく突っ返された。
そんな調子で、何かと難癖をつけては、フリックは自分の側からするりといなくなってしまうのだ。



「はあ〜〜〜何だってんだろーなー…」
ビクトールが頭を抱えて唸ってカウンターのテーブルに突っ伏す。
その頭元でがちゃがちゃと食器の鳴る音がした。
「隊長、もうこれ片してもいいですよね?」
声に顔を上げれば、ポールが慌しく食器を纏めてレオナに手渡している。
「お?おお・・・」
その返事を聞く間もなく、まだ幼いとも言える少年の背中が他のテーブルの方へと去って行く。
そしてやはりどこか慌てた様子で、食器を集めてはカウンターへと運ぶ。
「…なあ?ポールの奴どしたんだ?」
珍しくそわそわとした様子に、ビクトールはレオナにそっと尋ねてみた。
するとレオナは口の端を持ち上げて、少し意味有りげに笑ってみせる。
「今日はね、酒屋が入る日なんだよ。」
「酒屋?ジョージんとこのか?」
「この時間なら娘も一緒に来るからね。」
「ああ!ジェシカっつったか…?可愛い娘だよな。でもまぁあと5年は育たねぇとな…」
明るい金髪を三つ編みにした、ソバカスの笑顔を思い浮かべたビクトールの顔に笑みが浮かぶ。
良く親の手伝いをするとてもいい娘だ。
「あんたにゃ嫁さんがいるだろうにさ…」
浮かんだ笑みを、やもめ親父の好色とばかりに取ったレオナが呆れたように肩を竦めた。
「はは…嫁さんねぇ…」
暗にフリックの事を揶揄られてますます脂下がったビクトールではあったが、ふと思い立ってレオナに向き直った。
「…っておい?!まさかポールの奴…」
「あんないい娘に惚れない方が、どうかしてると思うね。あたしゃ。」
「へぇ〜〜〜あのポールがねぇ〜〜〜」
いつも歳の割にはどこか冷めた所のある少年だった。
いや、ここで大人に混じって働く以上、無理矢理にでも背伸びをしなくてはならない部分もあるだろう。
しかしそれを置いておいても大人には引けを取らない責任感や面倒見の良さを持っている。
大人張りのいっぱしの口をきく少年ではあるが、それでも普通の少年と同じように恋をしているらしい。
ビクトールは少し感嘆して、細々と働く少年の背を眺めていた。





サンドイッチにコーヒー。
サラダはジャガイモとブロッコリーの温野菜で。

少々時間が経っても美味しく手軽に頂けるメニューをレオナに手渡されて、ビクトールは執務室の扉を潜った。
そこにフリックは居た。
いつものように、大きな窓から一身に降り注ぐ光を背に受けて。
「これ、レオナから差し入れだ。」
「ああ、すまない。サンキュ。」
そう言って、ビクトールが机の端にトレイを乗せると、フリックは素直に礼を述べた。
そうしてほんの少し時間を掛けて書き掛けの書類を終わらせると、ペンを置き紙束をとんとんと揃えた後、蓋のない箱へと放り込んだ。
空いた空間にトレイを引き寄せて、フリックはまずコーヒーを一口飲む。
そして手を伸ばして手早く食事を済ませてしまった。

「ん…美味かった。」
最後に、親指をぺろりと舐めて、フリックは背凭れに体を預ける。
その口元に。
うろうろと所在無げに、あだ名の熊よろしく部屋をうろついていたビクトールが手を伸ばした。
「ついてる。」
ぐい、と指で唇を拭って、先程フリックがしたのと同じように。
当たり前の様に、指に付いた汚れを舐め取った。
「…っ」
その所為を見たフリックの顔が、少し、赤くなる。
そんなフリックの頬に。
また、ビクトールの手が。
「なん…だよ…」
「うん?なあ・・・」
隣に立ったビクトールの体が、椅子に座ったフリックの方へと屈み込む。
「キス、してぇ…」
言い様、ぐっと唇が触れ合うぎりぎりのところまで近寄った。
と、同時にフリックの腕が突き出される。
「だっ!!駄目だ!」
どんっ、とビクトールの体が勢い良く後ろに突き飛ばされた。
「何でだよ…」
「いっ今は仕事中だろ?!」
かなり赤い顔で拒否するフリックの顔には動揺の色が濃く浮かび上がっている。
反して、ビクトールの顔はちょっと、怖い。
「…じゃあ、仕事中じゃなかったらいいのかよ?」
ずい、と懲りずにまた体を進めたビクトールが詰め寄ると、フリックの動揺が更に強くなった。
「あー…う、ん…まぁ・・・そうだな。」
「……」
言った後、何とも言えない表情で顔を益々赤くしたフリックに。
ビクトールの頭に昇った血が、一気に下にと流れ落ちた。



ほんとうは。
自分とのこーゆー風な遣り取りが嫌になったのでは、と思っていた。
男同士で『好き』だの『惚れた』だの。
もしくは、やっぱり違う意味での『好き』にしてしまいたいのかと。
生真面目な奴だから、そんな事を思い悩んでいるのかと。
そんな風に思っていたのだが。

仕事中でなければいい。
と、あんな顔して言われれば。

もう、間違いなく自惚れてしまいそうになる。
その、しぐさひとつで。
些細な、猜疑心など一発で払拭されてしまった。

しかしそうなると。
何故、避けられているのかが、益々もって解らなくなる。



「解った。」
一拍置いて。
ビクトールが溜息と共に返した言葉に、フリックがあからさまにほっとした顔をした。
それを見て、むっとしたビクトールが。
「…っ?!」
フリックの胸元を素早く掴むと、ぐっと引き寄せ、軽く、唇を合わせた。
「お前っ…!今、解ったって言ったよな?!」
唇を拭って睨み付けてフリックは低く声を出す。
けれど耳まで赤くなっていては、そう迫力もない。
「お前、今、飯食ってたろ?だったら休憩時間だよな?」
「?!」
仕事中じゃなきゃいいんだろ?と、ビクトールが悪びれず舌を出した。
揚げ足を取られたフリックの、温度が一気に上がる。
危険、を察知したビクトールが、机に乗ったトレイを逸早く掴んだ。
「ごっそさん!」
フリックが声を上げるよりも早く。
ビクトールは部屋を後にする。
ばたん、と扉が閉まった直後に背中から怒鳴り声が聞こえて、ビクトールは肩を竦めた。
そうして慌てて廊下を駆け抜けて階段を降りて行った。

追い掛けて来てもいいのにな。

そしたら、思いっきり逃げ回って、適当に捕まってやるのに。
そして、思いっきりじゃれ合って、ドサクサに紛れて、またキスしてやるのに。


けれど。
執務室の扉は堅く閉ざされたままであった。





勢い良く駆け下りた階下で、明るい笑い声が響いていた。
「ああ、聞いとくれよ、この子ったらね…」
笑い声の主はレオナで、可笑しくて堪らない、といった風だ。
『この子』のところで煙管の先で指されたポールは、これまでにも散々からかわれたのか、少し不貞腐れている。
「これ、ありがとな。」
「あいよ。ああ、ちゃんと全部食べてるね。」
手にしたトレイを手渡すと、レオナは食べ残しをチェックしてから、また話題に戻った。
「もー可笑しいったらないさ。」
「レオナさんっ!!」
「今しがたね、酒屋が来てたんだけどね…」
「わああああああ!」
咎めてもお喋りをやめそうにもない空気に居た堪れなくなったポールが、耳を塞いで喚きながら駆け出して行った。
それを目を丸くしてビクトールが見送る。
「おいおい、あんま苛めんじゃねーよ。」
「ふふ…だってね、いつも大人ぶってるあの子も、まだ全然子供なんだと思うとねぇ〜」
レオナの瞳が、ふっと優しくなる。
子供を慈しむ母のような。
けれどそれも噂話を楽しむ色に途端に掻き消された。
それはビクトールが何だかんだと言いつつ、話を聞きたがっているのを見てとったからだ。
「で?何があったって?」
「あの子ったらね、あんなそわそわしてジェシカを待ってったってのにさ。」
「おう。」
「いざやって来ると慌てちゃってねぇ…折角挨拶してくれてんのに知らん顔したりしてさ。」
「へえ?」
「ジェシカが重そうに酒瓶持ってんの見て、持ってやろうと思ったんだろうけどさ、無言でそれを引っ手繰って印象悪くしたり…」
「……っ」
「で、それを倉庫につまえてる間に帰っちまって、『ちっとも話せなった』って言って落ち込んでんだ.よ!」
レオナが話す状況を頭の中でイメージしていたビクトールが、堪らなくなって吹き出した。
「はーっはっはっは!自分が悪ぃんじゃねーか!!」
「でしょ?!なのに『親父がガン飛ばしやがるから…』とか訳解んない事言っちゃってさあ!」
「そりゃ当たり前だろ?!可愛い娘に、んなカンジ悪ぃ対応されちゃあガンの一つも飛ばすわなあ!!」
大きな野太い声と高く良く通る声が食堂に木霊する。
カウンターから離れたテーブル席で、遅くの昼食を摂っている隊員も、嫌でも聞こえて来る話題に笑顔になった。
通りかかった者も、何事かと目を丸くしつつも笑顔が見える。


ここはいい。
明るくて、温かだ。
この笑い声は。
この楽しい気持ちは。
上にいるあいつにも届いているだろうか。
そして。
あいつにも。
笑顔が浮かんでいるだろうか。

ここが好きだ。
そして。
ここであいつと過す事が何よりの。


「まったく・・・・意識して素っ気無くなるのはしょうがないけどねぇ…これじゃあ逆に嫌われちまうよ。」
一頻り笑った後、レオナが溜息を吐いて愛用の煙草に火を点けた。
独特の香りが辺りに漂う。
「ま、ポールの奴もまだまだガ…キ…」
ここで。
ビクトールの動きが止まった。

まさか…な。

「…?どうかしたかい?」
「いや…」
訝しんで、レオナがビクトールの顔を覗き込んだ。
なんでもない、と言うビクトールの顔色はしかしちっとも冴えない。

まさか、10やそこらのガキじゃあるまいし。
20代も半ばを過ぎる野郎がそんな。

否定の言葉を思い浮かべつつも、ビクトールの意識下で、ポールとフリックの姿がだぶる。

いやでも、まさかそんな。

ブツブツと、口の中で言葉にならない羅列を持て余しているビクトールに、思い出したようにレオナが呼び掛けた。
「あ、そうそう、隊長さん。」
「ん?」
「まだ外に大きな酒樽が転がってんだ。あれはまだポールには運べなくってね。」
「で?」
「持って来て欲しいんだけど?」
言いたい事は察していたが、ビクトールは敢えて聞き返した。
それにレオナがにこやかに綺麗な笑顔で応える。
「んな事ぁ、暇な奴にやらせりゃいいだろーがよ?」
「…あんたが一番暇そうにしてるんだけどね…」
「あ?」
言われて見回した先々では、隊員が何かしら用事をこなしている。
「……」
「それに…」
言い返せなくて、押し黙ったビクトールに、勝ち誇った笑みのレオナが追い討ちを掛ける。
「その酒は一体誰が一番多く飲むと思うんだい?」
「…俺…かな…?」
「解ってんじゃないのよさ。だったら…」
「あーあー!解ったよ!!運びゃあいいんだろ、運びゃあ!」
勢い良く立ち上がってビクトールが吼える。
所詮女には口では勝てないのだ。
行き掛けた大きな背中にレオナが笑顔で声を掛ける。
「お礼にその酒、2杯奢るよ。今夜にでも飲めばいいさ。」
「おう…そりゃありがてぇな。」
2杯、というのはフリックと1杯づつ、という事なのだろう。
こういう気の利かせ方をするレオナをビクトールはとても気に入っている。
幾分機嫌も持ち直して、重労働に勤しむべくビクトールは酒場を後にした。









「よぉ、フリック、まだ頑張ってんのか?」
執務室の扉が開く。
その向こう側から2杯の酒杯を持ったビクトールが部屋を覗き込む。
もう、夜半に近いくらいの時刻だ。
昼に食事を持って来てからビクトールはフリックに会っていない。
フリックは入れ違いに慌しく夕食を摂って、またこの部屋で書き仕事を続けていたらしい。
「ああ、まだもうちょっと…」
顔も上げずに答えるフリックに、ビクトールはゆっくりと近付いて行った。
「これ、レオナの奢りだ。」
ことり、と机にグラスを一つ置かれる音がして、始めてフリックが顔を上げた。
「…奢り?何で?」
「酒樽を運んだお礼だとよ。」
「なら、お前が飲めばいい。」
そう言って、また興味なさ気に書類に目を落とした。
「…お前と飲みてぇんだよ、俺は。一杯くらい付き合えって。」
「見て解んねーのか?俺は今仕ご…」
フリックが言い終わる途中で。
机にあった紙束が、大きな掌に払われて宙に舞った。
ひらひらと幾重もの白い紙が舞い落ちていく。
「何しやがるっ!!!」
だんっ、と机と叩いてフリックが立ち上がって叫んだ。
その胸元を掴んでビクトールも叫ぶ。
「仕事仕事仕事…って、そんなに仕事ばっかなんておかしいじゃねぇかっ!」
「そっ…それは…お、お前がちっとも事務仕事やんねーからじゃねーか!!」
「ぐっ…」
尤もな返答で怒鳴られて、ビクトールが少し怯む。
その隙にフリックは掴まれた服を奪い返して、ひとつ肩で息を切った。
それを見詰めるビクトールは、手に持ったグラスを机に置きながら呟いた。
「…でもよ…そんでもおかしいだろ?ちょっと前まではそんなでもなかったじゃねぇか。」
ここ数日急に忙しくなった。
夜更けまで執務室に籠りっきりで、夜、酒場にも顔を出す事もなくなった。
「別に…たまたま仕事が重なっただけだ…」
返す声には、勢いが消えていて。
目も逸らして俯いてしまった。
「だとしても、度が過ぎてんだろ…?」
「……」
「なぁ、そろそろ何で俺の事避けてんのか、教えてくんねぇかな…」
近寄って、肩に手を置く。
すると、驚いたような顔をしてフリックが見上げてきた。
「何で解ったんだ?」
「は…?」
「だから、何で『避けてる』って解ったんだ?」
「…何でって…お前そりゃ…」
あそこまであからさまだと解らない方がどうかしている気がするんだが。
続く言葉を飲み込んだビクトールの目の前で、フリックが首を捻った後、不思議そうに覗き込んできた。
「だって、必要な時は話し掛けてたし、そっちから話し掛けてもちゃんと応えてただろ?」
「……」
「なあ、何で解ったんだよ?」

ある意味可愛いっちゃあ、可愛い。
が…
ある意味馬鹿だ…

軽い眩暈を覚えつつも、ビクトールは何とか繕って笑ってみせた。
「愛の力、かな。」
「何言ってんだ?馬鹿じゃねーのか?」
「馬鹿はお前だろーがっ!」
「何だと?!」
「ああ、いや…」
馬鹿に馬鹿と言われて熱くなってしまったビクトールだったが、はっとして我に返る。
ここで言い合って、喧嘩したい訳ではないのだ。
「そんな事より、何で俺を避けてたりしてたんだよ?」
「それは…」
同じように熱くなり掛けてたフリックが、今の問いでまた一歩引き下がった。
大人しくなったのをいい事に、ビクトールの手が、肩から背に回る。
「俺といるのヤになったのか…?」
「そうじゃない…」
「じゃあ、こうやって…触ったり、キスしたりとかは?」
そう言って、背に回した腕を引き寄せ、空いたもう片方の手で頬に触れる。
「…それも、嫌じゃない。」
答えたフリックの腕が伸びて、ビクトールの首に巻きついた。
そうして、少し、伸び上がって。
柔らかく唇が触れ合った。
「嫌じゃ、ない。」
離れて、もう一度、フリックが言う。
照れ隠しで、怒ったような顔をして。
それにビクトールは嬉しそうに目を細めて笑った。
「だったら、何で避けたりなんかすんだよ?」
今度は、ビクトールから短いキスを。
問い質すのではなく、促すようにして訊く。
フリックは困ったように眉を潜ませて、答え辛そうな顔をした。
いや、あまり答えたくない、といった風だろうか。
それでもビクトールに見詰められたままであるのに居た堪れなくなったのか、暫くしてフリックは口を開いた。
「正直、お前と一緒にいると…何てゆーか…変に意識しちまって…」
「うん。」
「どんな態度取っていいか解らないんだ。」
「普通でいいじゃねぇか。」
「普通、ってゆーけどな!一応皆の手前仕事中はケジメつけなきゃとか思うだろ?」
「あー…まーなー」
「なのにお前ときたらそんなのお構いなしにべたべた寄って来るしよ…」
「そー…だったか…?」
「そうなんだよ!だからっ、俺はっ…つい色々考えて意識しちまって…だったら…」
「会わない方がましだって?」
「…ああ。」
「……」
何となく、想像してたのと違わなくて、ビクトールは何とも言えない気分になる。

10も下の子供と同レベルかよ…

そう思ってがっくりとしながらも、思う。

そんなところもまた可愛いんだよなぁ…

思って、相当イカレてると自嘲しながらも、心のどこかに温かい灯が点るのを感じる。
「ほんとに、そう思うのか?」
「え?」
「会わなくて、平気、か?」
「…解んねえ。けど。」
抱き込むようにしたビクトールの胸に凭れ掛かって、フリックが目を閉じる。
ぎゅ、と背中に腕を回して抱き締める。
「今、こうしているのは、すごく幸せなような気がするけど、な。」
「…っ?!」
驚いて、その後すぐに抱き締め返そうとしたビクトールから、ぱっと離れてフリックはそっぽを向いてしまった。
「でも、まだ皆の前じゃ、ちょっとな…」
「じゃあよ、慣れるまで俺の事まだ避けるつもりかよ?」
「うーん…そうだな。そうなるかもな。」
「うぅ…」
抱き締められなかったからなのか、紡がれた言葉の内容のせいなのか。
ビクトールが低く唸って項垂れた。

人を舞い上がらせる程の台詞をさらりと吐く同じ口で、どん底にまた突き落とされる。
これが無意識なのだから、どうしようもなく対処に困る。
良くある『恋愛の駆け引き』とやらの方がまだましなような気がする。

まだ子供並みの青さを誇る相棒にいいように弄ばれてる気がして、ビクトールは益々前のめりになった。
フリックはといえば。
「やっぱり、折角だからこれ貰うぞ。」
「ん?ああ…」
机に凭れるようにして腰掛けて、フリックはグラスを2つ共引き寄せる。
その一つをビクトールに手渡した後、かちりと会わせてグラスを鳴らすと、くっと呷って一息吐いた。
それに習ってグラスを傾けながらビクトールはフリックを見下ろして見詰めた。
あまり酒に強くはないフリックの、首がもう少し赤い。
また、グラスを呷る時に見えた目元も、赤く色付いている。

こんな。
こんな、どうしようもない気持ちにさせられて。
また、明日からは自分を避けようとするのだろうか、この男は。
何も10代の生娘じゃあるまいし。
付き合ってた女も居て、やる事やってた筈の26の男が何で…

「あ。」
「ん?」
思わず出た声に、フリックが顔を向けた。
腹が立つくらい無邪気な顔だ。
「ああ、いや…あのよ…」
「うん?」
「お前、オデッサの時もこうだったのか…?」
「……」
一転して、険しい顔になった。
気に障ったかもしれないが、この問題を解決して明るい明日を迎えるためにはいたしかたない。
「…だったら、どうだってんだ?」
声が低い。
やはり気に障ったらしい、それもかなり。
「あー…いや、だったら、そん時はどーだったんだろーなーと思ってよ。」
「何が?」
フリックの声が益々潜まるのに、冷や汗をかきながらも、ビクトールは尚も食い下がった。
「だからよ、俺が解放軍に入った時はもう普通にオデッサに接してたじゃねぇかよ…そりゃあ、ちっと異常なほど大事にしてた風には見えたけどよ。」
「異常は余計だっ!…そりゃあ、お前が入ったのはもう付き合い始めて大分経ってたからな…」
「ああ。」
残った酒を全部流し込んで、空になったグラスを見詰めてフリックが俯いた。

何かを。
胸の中にしまってあった、大切な思い出を。
思い出そうとしているかのような。

その、傍に寄ろうとしてビクトールが一歩踏み出した時、不意にフリックが顔を上げた。
「それ、お前が片付けろよな。」
それ、と言って、床に散らばった書類を顎で指す。
「ちゃんと順番通りに並べるんだぞ。あと、汚れてたりしてたらお前が責任持って新しく作れよな。」
お前が散らかしたんだから当然だろ、とフリックが憮然として告げる。
言われたビクトールは、ウンザリした顔になったが、それでも落ちた書類を拾いはじめた。
その、背に。
フリックの声が降る。
「オデッサと付き合い始めた時も…最初はやっぱりどんな顔していいか解らなくてな。変に冷たくしたりとか、ぶっきらぼうになったりとか…」
「うん。」
「それで彼女に『何か作戦や軍の方針とかに不満があるの?』って訊かれたりした。」
「……」
「笑ってんじゃねーよ!」
「だわっ!!」
書類を拾う為に屈み込んだビクトールの背が、微妙に震えてるのに気付いたフリックが蹴りを入れる。
「わ…悪ぃ…目に浮かぶようだったからよ…!」
「ふん…」
ひくつく口で、それでも侘びを入れたビクトールに冷たい一瞥をくれると、またフリックが元いた位置に腰掛けた。
そうして、続きを。
「いつから慣れた、とかは解んねー。けど、思い当たるとすればひとつだ。」
フリックの視線は暗闇を移す窓に。
けれど見てるものは、その向こうにある景色でも、移りこんだ自分達の姿でもなく。
遠い、遠い処にあるもの。
それを見るフリックの瞳はいつもより濃く見える。
「レナンカンプの前にもアジトがあって…そこも、帝国軍に見付かって攻め込まれた事があったんだ。」
そこは昔の要塞の跡のようなもので。
入り組んだ迷路のような地下路地が張り巡らされている所だった。
「それで、退路を分けようって事で、リーダーの彼女と副の俺はそこで別れる事になったんだ。」
「ああ。」
「その時、そこでキスされたんだ。」
「……」
別れ間際、振り返って駆け寄ったオデッサが。
ただ、軽く触れるだけの、キスを。
「皆のいる前だった。俺は…それが酷く気になって、後で揶揄れたら、とかそんな事ばっか思ってた。」
だって普段から一緒にいるだけで、口笛吹かれたりとかされてたんだぜ、とフリックが付け足した。
「でも…」
「誰も、何も言わなかった。そうだろ?」
続く筈の言葉を攫って、ビクトールは拾い終えた書類をフリックに手渡す。
それに、少し、目を見開いたフリックだったが、素直にそれを受け取った。
今度は驚いた顔もせず。
『どうして解ったんだ?』と訊きもせず。
手にした書類を机に置いて、また、窓の向こうの、そのまた向こうを見る。
「良く、考えたら当たり前なんだよな。」
目が細まって、辛そうな表情になる。
「ここで今生の別れになるかもしれない者同士が、キスして別れるなんて、当たり前の事、なのに…っ…」
語尾を詰まらせて、拳を固く結ぶフリックの頭に手を乗せる。
「それを見て、笑う者なんか誰も、いなかったんだ…皆…っ、戦いに命を賭けてた。あの、時も…」
「ああ…」
「皆が、それだけの覚悟で、いる時に…俺は浮かれてて…っ、…」
「フリック。」
名を呼んで、ビクトールが頭を撫でる。
優しく、けれど、力強く。
「…俺は、色ボケしてた自分が物凄く恥ずかしくなった。だから、それからはもっと気を引き締めていこうって。」
「うん。」
「その後、別れたオデッサ達と無事に再会できて思ったんだ。どう接するとか、そういうのじゃなくて…そりゃあ、キスしたり抱き合ったりとかはそれは嬉しいけど、でも。」
遠い処を見ていた瞳が戻って、ビクトールを射る。
「ホントに好きなら、もっと他にする事があると思った。もっと彼女を理解して、助けてやりたいと思ったんだ。」
さっきまで闇を見ていた筈の瞳は、それなのに薄青くて、奥に強い光が宿っている。
「あの時、キスしてきた彼女の気持ちが解らなかった。でも、解ってやれるように。そして、解るようになれたなら、今度は、そんな不安な想いをせずにすむように。強くなって『俺は大丈夫だから』と笑って別れられるように…そうなりたかったんだ。」

強い、意志だ。
知っている。
これは、自分がはじめて逢った時のフリックの瞳だ。
そう、自分は知っている。
どれ程この男が、彼女に、彼女の為にと、想って尽くしていた事か。
傍で見ていて、気持ちのいいくらい。
怖くなるくらい。
純粋でまっすぐだった想い。

「まあ、そうはなれなかったんだけどな…」
ふ、と哀しい影がよぎったのを感じ取ったビクトールが、目を逸らしてフリックを抱き締めた。
「すまねえ…」
「……」
低く、短く呟いた言葉に。
フリックは眉を顰める。
「お前が謝る事なんて何もない。」
腕を回して、髪に指を差し入れる。
何度か梳いて。
「こんな話をした事も、彼女が死んだ事も、何も、お前が謝る必要のない事だ。」
梳きながら、静かに、穏やかに。
それはビクトールのとっての免罪符だ。
それを、ビクトールが受け取るか受け取らないかは別として。

けれどビクトールは思う。
こうして、思い出を思い出として話せるように。
痛みを伴っても、最後には笑えるように。
穏やかに語り合えるように。
少しずつ、そうなれるように。

「なぁ、俺は思うんだがよ。」
「うん?」
「ここにいる奴等も、柄は悪ぃが皆いい奴ばっかりだ。」
「ああ。」
「そりゃあ冷やかしたりする奴も、生理的に受け入れてくれねぇ奴も、中にはいるかもしれねぇけどな。」
「……」
「でもな、本心から哂ったり、蔑む奴はいねぇ…筈だ。」
なんせ、俺が入隊を選んだ奴等だからな。
そう言って胸を張ったビクトールに、フリックの表情が少し綻んだ。
「だから、人目は気にしなくていい、か?」
「おう!そ、それにだな、」
少し微笑んだフリックを見て、ビクトールの表情も明るくなる。
「その、解放軍の時よかは大分平和ってゆーか、そりゃあ戦争中だけどよ、休戦条約も結ばれそうだしよ…」
「…そうだな。」
「だろ?だったら、な、ちょっとくらいそのー…羽目を外すっつーか、いちゃいちゃするっつーか…」
「……」
「いや!勿論、お前が言ってたように、相手の気持ちを理解するのも凄く大事だとは思うんだけどよ…」
「…っ…」
「…?」
真剣に言い募っているビクトールをまじまじと見詰めていたフリックが、突然小さく吹き出した。
「な、何が可笑しんだよ?」
「だっ…て、お前さ…っ」
堪え切れなくなって、肩を振るわせ始めたフリックを、ビクトールは心外なとばかりに覗き込む。
「…いつも、余裕かましてるお前が、そんな必死になってるなんてな。」
何とか笑いを収めたフリックが、見上げて違う笑みを作る。
「そんなに、俺なんかといちゃつきたいのかと、思うと、な…」
「ばっ…!何言ってやがる。俺はずっとこうやってたいくらいだ。」
そう言って、ビクトールがぎゅうぎゅうとフリックを締め付ける。
「痛っ!やめろ!この馬鹿!!」
痛みでフリックは怒鳴ったが、振り払おうとはしない。
その、髪に顔を埋めて。
ビクトールが苦笑を漏らした。
「余裕だって、そんなもんある筈もねぇ。今で俺はいっぱいいっぱいだかんな…」
「嘘言え…百戦錬磨みたいな顔してやがるくせに…」
「ははっ…そー見えたなら、それはそれで男としちゃ誇らしいけどな。」
「ふん…それが余裕だって言ってんだろ…」
甘えるようにして、鼻を摺り寄せてくるビクトールに、擽ったそうに肩を竦めたフリックが言う。
それに笑って。
「でもな、とっくり一人の相手と付き合うってのは、俺にとっちゃ初めての事だかんな。」
「え…?」
意外そうな声を出したフリックが顔を上げて覗き込もうとするのを、きつく抱いて阻止する。
「19ん時に仇討ちの旅に出たんだぜ?その後奴を追って各地を転々としたんだ。んな暇ねぇよ。」
「ああ、そうか。でも…」
「旅に出る前は、15の時から傭兵やっててな。金の為に頻繁に出征して、やっぱり一処でゆっくりなんて出来なかった。」
「……」
「留まった先々で、その期間限りの恋人は出来たけどよ…ずっと、一緒に居たい奴なんかいやしなかった。」
「…仇討ちが終わったから、一緒に居たい相手が出来たって事か?」
「そうじゃねぇ。そうじゃねぇ、と思いてぇ…もし、例えまだ仇討ちが終わってないとしても、お前と一緒に居たいと思う。これは、絶対だ。」
「仇討ちは諦めるのか?」
「いや、一緒に行ってくれるよう頼む。それで、もし駄目なら、仇討ちを終えたらまた逢いに行く。」
「…俺はそん時一人じゃねーかもしれないぜ。」
「それでも逢いに行く。俺が、逢いてぇんだ。何処にだってどんな事したって逢いに行くに決まってんだろーが。」
「迷惑な奴だな。」
「おう、それでも逢いにいくぜ、俺は。」
「……馬鹿だな、お前…」
「おおよ。」

フリックからは見えなかったけれど。
ビクトールはまたとないとびきりの笑顔で応える。
そして。
ビクトールからも見えなったけれど。
フリックもまた、困ったような、けれど酷く幸福そうな笑みを。
互いが互いの表情に気付かず、それでも、どちらからともなく口吻けを交わす。
甘く、切なく、蕩けるような。
何度も絡んで、何度も離れて。
そうして幾度も交わって、満ち足りた気持ちで少し、体を離した。


赤い、顔をして。
先程のキスのせいで目も潤んで、唇も濡れて。
そっと視線を落として俯くフリックを見て、ビクトールはこの後どうしたものかと思案した。
出来れば、このまま、部屋へ。
そして出来れば、まだ、もっと、触れ合いたい。
しかし。
まだ『慣れない』というフリック相手に急ぎすぎるのもどうか。




悶々とする頭で、間を持たせようとしたビクトールの目に、さっきまで飲んでいた酒が目に入った。
まだグラスの下の方に少し残っている。
それに手を伸ばした、その時。
「それにしても…以外だったな。お前が『素人童貞』だったなんて…」
「?!!!!!!」
「あーーーーっっ!!!何やってんだよ?!お前っ!!!!」
フリックから発せられた言葉に、ビクトールは思わずグラスを掴み損ねたのだ。
机にあった書類の山に葡萄色の染みがみるみる広がっていく。
「あ、いや、悪ぃ!…いや、ちょ、まて…」
動転しながら、片手でグラスを起こして、もう一方の手の平をフリックの方へ向ける。
「お前今何っつった?!!!」
「え?だってお前付き合った事ないって言ったじゃねーか。つまり今まで相手してたのは皆、そーゆー仕事関係の女だって事だろ?」
「ばっっっか言え!!!俺だって、シロートとヤった事くらいあらぁ!!じゃなくて…っ何か使い方間違ってんぞ!おい?!!!」
「そうか?でもそーゆー筋関係の女以外と付き合った事ねーんだろ?」
「えっ?!いや…どーだったかな…?」
「ほらな。やっぱりそうだ。」
いきなりトンデモナイ事を言われたビクトールは、慌てて否定の言葉を連ね立てる。
が、フリックに珠勝気に笑われて、ビクトールは頭を抱えて仰け反った。
「がーーーっ!!!…まー待て。使い方は兎も角、いいか?絶対他の誰かにそんな事言うんじゃねぇぞ!」
「まぁ、そんな気にするなよ。仕方ない状況だったって話せば皆解ってくれるさ。」
「皆って誰だあ〜〜〜!!…って、話すなっつってんだろーが!!!!」
錯乱して叫ぶビクトールを、フリックがさも可笑しそうに眺める。
「仕方ないな。お前が泣いて頼むなら話さないでいてやるよ。」
「おーまーえー!!」
「いいのか?」
「うう…ぜ、絶対喋るなよ…いや、喋らないで下さい…」
「よし、解った。」
「うー…」
ぎりぎりと歯軋りしながら、ビクトールはふと気付く。
こうして、話すのも、フリックの笑顔を見るのも、えらく久しぶりだという事に。
フリックが、さっき述べた言葉が浮かぶ。

『そりゃあ、キスしたり抱き合ったりとかはそれは嬉しいけど、でも。』

それ以上にこうして、一緒に楽しくいられたなら。
それが、何よりの。

「じゃ、俺はもう休ませて貰おうかな…」
うーんと伸びをして、フリックは満足そうに笑った。
「そ、そうか?なら俺も…」
頭を掻きながら、便乗して一緒に部屋に雪崩れ込もうとした不埒者に、冷たい一言が浴びせられる。
「何言ってんだ?お前はそれを書き直すんだろ?」
「へ??」
視線の先には、もう、使い物にならない書類の束が。
無言で『お前が駄目にしたんだから』と目で告げてくる。
「明日の朝までに直せてなかったら…」
「…たら?」
「半殺し…じゃなくて全殺し、だからな。」
「?!」
フリックの周りに青いオーラが見える。
もしかしたら帯電した電気が漏れているのかもしれない。
「…はい。」
キレた時のフリックの恐ろしさを身を持って知っているビクトールとしては、ここは素直に頷くしか道は残されていなかった。
「じゃ、よろしくなー」
「うう…」
ばたん、と閉じられた扉の向こうで軽やかな足音が響く。
フリックは一人で部屋に帰ってしまった。
それも楽しそうに。

「何で上手くいかねぇかな〜〜〜」

途中まではいい雰囲気だったのに。

「てゆーか、何であの場であの台詞が出るんだかな〜〜〜」

あまり場を読まないで、自分の思った事を正直に言う。
あまりにもフリックらしい。
そこが愛おしくて。
そして憎らしい。

「はー…先は長そうだな…」

目の前に立ちはだかる壁が、あまりにも大きすぎて眩暈に襲われる。
けれど。
それでも。

「ま、長くても、そんだけ一緒にいりゃあいいだけの話なんだけどな。」

目の前にある、やはり難関の書類に手を伸ばす。
丁寧に書かれた字だ。
ここで、一生懸命フリックが書いた。
ここで、何の為に、フリックが一生懸命仕事しているのか。
その、答えはきっと。

「相手の気持ちが解るように、か…」

その相手の機嫌を損ねないように、新しい紙を取り出して書き写す。
出来るだけ、丁寧に。
今晩寝ずにやれば、きっと明日の朝には間に合うだろう。
そしたら。
笑ってくれるだろうか。
それとも、憮然とした顔で当たり前だと言うだろうか。
きっと、そのどちらでも。
フリックらしいと思って、そして、またフリックを好きだと思うだろう。

そうなるように。
ビクトールは両手で頬を叩いて気合を入れると、ペンを握り直したのだった。



す、すみません…続きます… 2003.07.25



うわー…に、2年経ってるよ…(滝汗)
ご、ごめんなさいー!!!しかもまだ続いちゃったりしてー!!!!!(いい加減にしろ…)
ええとね、言い訳は山程ありますけどね…やめときます。ええ。
しかしやっぱりフリックさんヲトメですな…いやもーほんっとすみません。
続き、待ってて下さった方(いらしたんだよこれが…)、申し訳ありませんでした。
まだ完結しそーにないですけど、お付き合い下さいますと嬉しいです…
いや、忘れて下さっても…文句も言えないんですけども…




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