Act.1 「…うまい。」 ビクトールが、フリックの口からその言葉を聞いたのは、それがおそらく初めての事だった。 そう短い付き合いではない。 食事を共にする機会など幾らもあった。 けれど、今迄およそ食事を楽しむような素振りを見たことが無い。 酒の席でも、それは同じくで。 特に、オデッサが逝ってからはより一層に。 食べ物も飲み物も、無機質に口へ運ぶ。 要るものを要る分だけ。 ただ、体を生かすその為だけに。 食べる事は生きる事に通ずる。 つまり、食欲のないフリックは、ビクトールには生きることにも意欲がないように見えていた。 「だろ?酒好きなお前さんにはもってこいだと思ってよ。」 「ああ…最初ワインを甘くして温めるなんて、勿体ねー事しやがってと思ったけどな…」 「はははっ!確かに上等な奴じゃあ勿体なくって出来ねぇよ。」 笑うビクトールの脇には、消えたストーブに掛かった鍋がある。 中身は安いワインにオレンジの皮、蜂蜜に幾つかの香辛料。 沸騰寸前までに温まったそれは、人の体の隅々に行き渡り温もりを与えてくれる。 「後はぐっすり朝まで眠りゃあ、明日には熱も下がってらあな。」 「ああ、そうだな…」 フリックは両手で包み込んだまだ暖かいカップを見詰めて頷いた。 フリックと二人きりになって、もう3ヶ月。 グレッグミンスターは脆くも崩れ去り、帝国も名を変え『トラン共和国』となった。 その立役者の一人となった自分達は、そこへは戻らず国境を越えようとしている。 命に関わる重大な傷を負ったフリックは、順調に回復しつつもたまにこうして体調を崩す。 別に先を急ぐ訳でもないし、仕方のない事だから自分はそう気にも留めないのだが、フリックはそれが歯痒いらしく、こんな時は大抵いつも苛立っていた。 その、フリックが、だ。 「なあ、もう一杯くれないか?」 この3ヶ月。 いや、オデッサが死んで幾許か。 オデッサの遺志を叶えるために、ただ生きていた。 望みを果たして、生きる目的を失くし、それでもただ生きていた。 ただ、それだけであったフリックが今。 穏やかに笑い、温めたワインをいう奇抜な飲み物を「うまい」と言い、もう一杯を強請っている。 それは、ビクトールに、ちょっとした身震いを起こさせた。 何をも目に映さず、ただ、生きていたこの男が、初めて『生きる』事を見出したのではないのか、と。 「あー…もうやめとけ。一応これでも酒だからな。また明日も作ってやっからよ。」 「…解った。そのかわり、明日も必ず作れよな。」 「ああ、必ずな。」 素直に頷いてフリックは掛け布を引いて横になった。 それを見て、ビクトールの顔が綻ぶ。 また明日。 その言葉がフリックの口から出た。 未来を、ちゃんと捕らえての言葉だ。 「何だよ…?気持ち悪りぃ。」 「別に。早く、良くなれよな。」 「…っ!言われなくても解ってるさ!」 緩む顔を見てフリックが不審がったので、ビクトールは慌てて口元を引き締めた。 誤魔化しついでに手を伸ばしてフリックの額に手を充てて前髪を梳く。 その仕草を嫌って、フリックはビクトールの手を払い退けると背中を向けてしまった。 「ゆっくり休めよ。」 背中越しに伝えて、凝りもせずビクトールはまた、フリックの髪を掻き回した。 無視を決めこんだのか、諦めたのか。 振り向きはしなかったけれど、フリックは今度はその掌を払い退けはしなかった。 目を細めて笑うと、ビクトールは立ち上がる。 そして部屋を出た。 フリックと、何故、今、こうして共に旅しているのか。 明確な理由はなかった。 ただ、死に掛けてる人間を捨て置けなかったからかもしれない。 それとも、他に理由があるのかも知れない。 自分が気付かないだけで。 けれど、自分でも思う。 本当は、フリックの事はずっと気になってはいた。 オデッサの事も。 その事で、フリックが死んだように生きていた事も。 生きる目的を失ったら、どうなるのかという事も。 そしてまた、自分も今、生きる目的を失っている。 念願叶って長年追い続けた仇敵を倒した。 なのに喜びはありはしないし、胸の闇が消えるわけでもない。 空っぽになった自分を自覚している。 だから。 フリックが、この自分と同じ状況の男が、どうするのかを見たかったのかもしれない。 自分と同じフリックが、生きる気力を持ってないのが、許せなかったのかもしれない。 傷を舐め合うのではなくて、理解し合える者同士として、向き合って話しをしたかった。 その上で、一緒にいて、肩を並べられたらと。 「まぁ、なんだな…」 要はただ単にフリックという人間が気に入ってるだけの事なのかもしれない。 そのフリックが、快方に向っている。 体も、心も。 何がフリックの心を溶き解したのかは解らない。 けれど、確実に『生きる』方向に目が向いているのだと確信する。 そう思うと、体の奥底のほうがむずむずとして叫び出したい衝動に駆られた。 「…っし!!」 それを何とか押し留めて、ビクトールは拳を握り締める。 嬉しい、のだろうか。 気付けば口が笑みを象っている。 酷く昂揚する気分でビクトールは酒場の扉を開けた。 明日、またフリックに飲ますためのワインを仕入れるために。 また、フリックの笑顔が見えるように、と。 |
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