sweet and bitter pain



ネクロードが生きていた。
ビクトールの、何もかもを奪った吸血鬼が。
それを知ったその時。
一緒にいたヤマトの話では、ビクトールに死者を冒涜した酷い仕打ちがされたという。
自分はその場にいなかったから。
ビクトールが、そこでどんな顔をしていたのか。
それを知る事は出来なかった。





ノースウインドウ。
嘗てこの土地で非道の限りを尽くした化け物が、いつの間にかここを根城にしていた。
奴を一旦退けると、荒れ果てた城が残っていた。
膨大な湖に面するこの城は、戦術的にも戦いの拠点にするには最適だと解ってはいる。
けれどここは一度滅びた町。
その、生き残りのビクトールは何でもないような顔をしている。
でも。
復讐の為、十年近くもネクロードを追い続けたのだから、胸中穏やかな筈がない。
それに、その倒した筈の仇敵は生きていたのだから。
それなのに。
何でもない顔をして、ビクトールは笑う。
そんなビクトールを見ると、どうしてか無性に腹が立った。





「ほら次!踏み込みが甘い!!」
突き出された剣を薙ぎ払って、流れた背中を蹴る。
がいん、と刃が鳴った後に兵が倒れ込む音が続く。
それを捨て置いてこちらに駆け出した兵に振り向き様に剣を走らす。
いつもの細身の愛用の剣ではない。
訓練用に刃を潰した少し太身のものだ。
その身根が太刀を受ける事も侭ならない新兵の腹に打ち据えられた。
「無闇に突っ込む馬鹿がいるか!!次っ!!!」
倒れ込む体をやはり蹴り飛ばしてスペースを空け次を促す。
しかしそこに現れる者はなくて。
舌打ちして兵の塊りを見遣ると、怯えた面に出喰わした。
「何してる?!来い!」
「ひっ…!」
叫ぶと、そのまだ若い兵士は飛び上がって身を竦ませた。
「……」
その後ろに控える他の兵卒達も、同じように首を竦ませオドオドとしている。
ここにいるのは、先日仲間になったばかりの、所謂有志の兵というやつだ。
大抵が戦いを知らない農夫や商人やこれから職につくような若者だった。
皆、ハイランドとの交戦で町や村を失ってここへ逃げ込んで来たのだ。
当然武器など手にしたことなど一度もないだろう。
そんな彼等に、はじめから何かを期待するのは間違っている。
解っている。
その為の訓練なのだから。
けれど。
この苛々とする焦りに似た気持ちは何だろう。
剣を握る手に力が篭る。
このまま、滅茶苦茶にこの腕を振り回したい衝動がじわりと這い登って来た。
そこで。
兵達の後ろからぱんぱん、と手を打つ音が響いた。
続いて低いのに良く通る声が。
「はいお疲れさん!今日の訓練はこれまでだ!」
「ビクトール…っ!」
人々を掻き分けて現れた大男に、兵達の顔が緩んだ。
ほっと張り詰めた空気が崩れ、ざわざわと群集が動き出す。
「ほら、さっさと帰りな。」
兵士の肩を押して、ビクトールが笑う。
それが、酷く勘に障った。
「何、勝手やってんだよ。」
「まあそー言うなよ、フリック。あいつ達殺す気か?」
「こんなんで死ぬくらいなら、戦場じゃまったく役に立たないだろ。」
「おいおい、ひでぇ言い草だな。」
「本当の事だろ。」
「……」
まだ笑う、ビクトールに怒りさえ、湧いてくる。
殺気を、押し留めない自分にビクトールが不審な顔をした。
先ほどまで溢れていた兵達の姿はもうない。
二人きりになった空間に冷たい風が通り抜ける。
「お前、何イラついてんだ?」
「…ほんとにイラついてんのは、お前の方だろ?ビクトール。」
差し出された手を叩き落として睨み付けた。
少し、ビクトールの顔色が変わった。
知っている。
本当は、自分よりずっとずっとこの男の方が苛ついてるのを。
獰猛な、獣のような憎悪を無理矢理体の中に押し込めている事を。
「それとも、腑抜けてしまったのか?」
「何だと…?」
ビクトールを取り巻く空気が変わる。
ゆっくりと、不穏なものに。
「まぁ、それも仕方ねーかもな。」
自分の中にも、炎が燈る。
それは瞬く間に広がって、体中を嘗め回す。
「倒したと思った相手が…」
「……」
「まだ生きていたんだもんな。」
「黙れよ…」
「怖くなっちまったんだろ?」
「煩せぇ…」
「自分じゃあ敵わないって、びびってほんとは逃げ出したいんだろう?」
「煩せぇっ!!っつってんだろーが!!!」
ビクトールが、吼えた。
眠っていた獣が目醒めたように。
ここに現れた時の陽気さは欠片もない。
今はただ、色さえ解るかのような、怒気を孕んで空気を震撼させている。
何より、目の色が違う。
深く、濃く、黒い炎のようだと思う。
「何だ?図星指されて気に障ったか?腑抜け野郎。」
「…腑抜けたかどうか…確かめてみるか?」
「いいのか?そんな事言って…」
ビクトールが背中の星辰剣に手を伸ばした。
ぞくり、と背に寒気が走る。
凶暴な野生の獣に対峙した気分になる。
そして、自分の中にも獣がいる事を知る。
血が、滾る。
「後で後悔しても知らないぜ?!」
手にしていた駄剣を放り投げて研ぎ澄まされた愛剣の柄を握る。
投げた剣が地に刺さるのが、合図となった。



長閑とさえ言える、青い空の下。
城の中庭にあたるこの場所は、俄かに小さな戦場と化した。
絶え間なく、刃のかち合う音が響いている。
振り下ろされるのを留め、払い、返して薙ぐ。
ぶん回される大剣は、空気さえ切り裂くようで。
けれどそれをかわし僅かな隙間に剣を捻じ込んだ。
しかし、それも大きな体らしかぬ動きでかわされ、また剛剣が唸る。
何回か訓練という名の下、手合わせした事がある。
けれど、本気で、というのは今迄なかった。
敢えてそれを避けていたのかもしれない。
この男は強い。
その強さを認めている自分がいる。
だからこそ、本気で勝負して、その結果を知るのが怖かった。
どうしても、この男に負けたくない自分がいる。
どうしても。
「おら!さっきまでの威勢はどーしたあっ?!」
「煩せえ!お前のは剣がいいんだろ?!」
「ああ?!この老いぼれなんぞ関係あるかあっ!」
「貴様!誰が老いぼれじゃと?!」
「黙ってろ、じじぃ!今相手してらんねぇんだよ!」
「…後で憶えておれよ…」
それきり真の紋章の化身は口を噤んだ。
紋章の力を宿すこの剣は絶大な力を秘めている。
今、こうして振り下ろされるだけでも只の剣とは違う重みを感じる事が出来る。
そしてその剣にビクトールは選ばれた。
選ばれるだけの、男なのだ。
「…っ!」
突き出された剣が、風に孕むマントを穿った。
そのまま音を発して引き裂かれる。
その太刀が今度は横から滑って胴へと切り込んできた。
咄嗟に後ろに反り返って手を付く。
そこから勢いで飛び上がって、剣を振り切ったビクトールに踵を蹴り落とした。
「っこの!」
首をずらして、踵を肩でがっしりと受け止められる。
その衝撃にも大きな体躯は揺るがなくて。
止まった足を掴まれて放り投げられた。
空中で体勢を整えて、腕を伸ばす。
その切っ先がビクトールの頬を掠めて、一筋の赤い傷を作った。
傷から血が流れる。
その血を舌で嘗めて、ビクトールが、嗤う。
そして、冥く光の宿った冷たい瞳がこちらを射抜く。
ぞっとして、着地した地点から飛び退いた。
敵として対峙して、その存在に冷や汗が伝う。
けれど、その一方で酷く昂揚する。
とてつもなく、強い。
この男を本気にさせているのが、自分であるという事実。
自分もまた、本気になれるという事実。
気付くと、口の端が上がって嗤う自分がいた。



暫く、一進一退の攻防をしていた。
切り合っているのに、楽しいとさえ思う。
その悦びに、無我夢中でのめり込んで、ビクトールの動きだけを追っていた。
そして、それが災いしたのだ。
ここが戦場であったなら、違っていただろう。
自分を取り巻く総てに気を張り巡らせていただろうから。
けれども城内だからと安心しきって、仕合いだけに二人とも集中していたのだ。
その、足元に。
転がるボールに気付いた時には遅かった。
自分の真後ろにそれを子供が取りに駆け寄ったのと同時に、ビクトールの剣が振り落とされていた。
迫り来る剣を横に避けたそこに子供が居て、心臓が止まりそうだった。
ビクトールはきっと自分が避けるか止めるかと踏んで剣を出したに違いない。
この剣は止まらない。
「っ…クソがあっ!!」
それでも必死で腕を止めようとしているビクトールの顔が目に映る。
その、顔を見て自然に体が動いた。
「ばっ…!」
「あ…」
がつん、と耳の近くで音がした。
視界が真っ赤に染まる。
そこで意識が途切れて、後の事は何も解らなくなってしまった。






目が覚めると、ビクトールの顔があった。
「…なんて顔してるんだ…お前…」
酷くやつれた様子で、髪はいつもに増してぼさぼさだ。
おまけにうっすら無精髭までついている。
「大丈夫か…?」
ほっとしながらも、心配そうに訊いてくる。
「大じょ…っつ!」
起き上がろうとして、後頭部に痛みを感じて顔を顰めた。
そして思い出す。
振り下ろされる刀身。
子供に当ると思った自分は、咄嗟に乗り出してそれに身を晒したのだった。
それが頭に当ったのだろう。
死んでないところをみると、ビクトールが上手く力を加減出来たに違いない。
もしくは、星辰剣が何らかの力を貸してくれたのか。
「む、無理すんな!」
ビクトールが、頭を押さえる自分の肩を押して寝台に寝そべらせた。
「すまなかった…」
黒い瞳が、不安げに自分を見下ろしている。
本当に申し訳なさそうに、ビクトールが項垂れている。
しおらしいビクトールはあまりお目に掛かれなくて、まるで別の生き物を見ているみたいだ。
「それで…あの子供は無事だったのか?」
「ああ、掠り傷ひとつ無かったぜ。ちゃんと親元にも送り届けたしな。」
「そうか…」
「それより…お前はほんとに大丈夫なのか?」
「……」
酷く自分を労わるビクトールを見ていると、なんだか可笑しくなってきた。
「大丈夫だ。だから、そんな気にするな…俺も…悪かったし…」
「怒ってねぇのか?」
「ああ。」
叱られる子供が親の顔色を窺うかのような仕草に、思わず笑みが洩れた。
「はは!」
笑った自分を見て、ビクトールが嬉しそうに目を細めた。
そして、手が伸びて頭を撫でてきた。
「やっと笑ったな!ここんとこずっと難しい顔してたからな。」
そうだっただろうか。
「俺はお前さんには、笑ってて欲しいと思ってるんだがなぁ。」
「だったら…」
「ん?」
言い淀んだ先を促されて、けれどその続きは言えなかった。
言えない、というよりも、自分でも何を言いたいのか解らない。
黙っていると、ビクトールの掌が無尽蔵に髪を掻き回している。
さっきまで叱られた子供のようだったくせに、今はこっちが子供扱いされてるみたいだ。
「何でもない。」
ちょっとむっとして手を振り払いながら応えた。
目を逸らせると、明るい空が窓越に映り込む。
昼近いくらいだろうか。
まだ空気は温まりきってないようなのに、肌に刺さる日の光は眩しくて痛い。
いつもならとっくに起き出して、忙しくしている時だろう。
そんな時間にこうして寝台に横になっている。
それだけでどこかしら非現実な感覚にさせる。
目に入る光が、色を飛ばして白味掛かっているのもそれを加担させているのかもしれなかった。
「なあ…何をそんなに苛々としてたんだ?」
間があって、ビクトールが控えめに訊いていた。
問われて仰ぎ見た顔は、どことなく神妙だ。
「…そっちだって、苛々してるだろ。」
「そりゃあまあ、そうなんだが…俺にはちゃんと理由…があるだろ?」
理由、については敢えて触れない。
言わなくても解ってるという暗黙の了解からだろう。
勿論、あのビクトールの仇敵のせいだ。
「でもな、お前がそんな怒るような事があったとは思えなくてよ…」
「……」
「何かあったのなら、言ってくれ。俺で力になれるならなってやるから。」
「…っ」
その言葉に、何かの琴線が触れた。
鈍痛の走る頭を抱えて起き上がる。
「俺が…怒ってんのは、そんなにおかしいか?」
「いや、だから理由があるんなら…」
「理由なんかねえよ!」
「はあ?!」
「理由なんかねえ!でも、お前が…っ!」
気付いたら声を荒げていた。
胸に、醜い塊りがせり上がる。
それが、どうしようもなく辛くて、吐き出すように言葉を出す。
「…倒した筈のお前の敵が生きてた事を、俺が一緒になって怒るのはそんな変か?」
「……」
「相棒のお前に、酷い事した奴を、俺も憎々しく思うのはそんな変な事かよ?」
「いや…」
「『言ってくれ』ってお前は言うけど、何も言ってくれないのはそっちの方じゃねーか!」
「フリック…?」
「俺だって、お前の力になりたい!…けどっ!!」



あの時。
ネクロードが生きている事を知る羽目になった時。
自分はビクトールと共に行動していなかった。
はじめノースウインドウの偵察には自分も同行するつもりだった。
けれど。
直前になってリィナがピリカの面倒を一人で見るのは嫌だと言い出した。
自分に一緒に残っていて欲しい、と。
ノースウインドウへ行けなくなった直接の原因はそれだ。
でも、自分は知っていた。
ビクトールが、リィナに何か耳打ちしていた事を。
後でリィナに確認を取ってそれは明らかになった。
ビクトールに、自分をここに足止めして欲しいと言われたのだと。

「お前はいつだってひとりでっ…俺には何も言ってくれないじゃねーか!!」
ビクトールの胸倉を掴んで力の限り引っ張った。
引き寄せた顔は、驚きの色に染まっている。

あの時。
どうしてビクトールが自分を引き留まらせたのかなんて解らない。
けれど、ただ言える事は。
ビクトールにとって、自分は本音を見せられる相手ではない、という事だ。
自分の領域には踏み込ませる事はしない。
『相棒』だと、そう口では言っても、自分に心を許している訳ではない。
自分を認めてはくれてない。



「フリック、ちょっと落ち着けって…」
服を掴む手をやんわり握って、ビクトールが制した。
「お前がそう思ってくれんのは、すげぇ、嬉しい。でもな…」
そして、笑って肩に手を置いた。
その、笑顔を見て、打ちひしがれた気分が襲った。
この城で生活するようになって。
ビクトールはいつも何でもないように笑っていた。
何でもない筈などないのに。
けれどこの男は、他人に気遣われない為に仮面を被っている。
そして、その仮面の笑顔で。
自分にも、笑う。
それが、何よりも辛かった。
自分にだけは本音を見せて欲しかった。
辛いのだと、苦しいのだと、言って欲しかった。
言って、その想いを一緒に分け合いたかったのだ。
でも。
自分はビクトールにとって特別ではなかった。
他の人々と同じ気を遣われた笑顔を向けられる、そんな存在だったのだ。

「…あのな、フリック…」
「行けよ…」
「あ?」
「ここを…出て行けよ…」
「な、何でだ?」
俯いた自分を肩に手を置いたままビクトールが覗き込んだ。
その目を見返して、心を決める。
「ほんとはお前、ネクロードを追い駆けたいんだろ?」
「それは…」
核心を突いたのだろうか、ビクトールが息を呑んだ。
「後の事は上手くやるから。ちゃんと皆も説得する。だから…」
「……」
「お前は敵を討って来いよ。」
ビクトールが、じっとこっちを見ている。
その視線を受け切れなくて、目線を外した。
間違ってない。
自分の言った事は、きっと。
なのにどうしてこんなにも居た堪れないのだろう。
ビクトールに、敵を討ってほしい、と思うのは本心からだ。
その為にここを出て行く事も当然だと思ってる。
だけど。
心の、どこか奥底の方で何かが燻っている。
じわりと身を焦がす、何か嫌なものが。
肩に掛かる圧力がふっとなくなった。
手を引いたビクトールが、深い溜息を吐く。
続いてがりがりと頭を掻き毟る音も聞こえてきた。
そして短い痛い沈黙の後。
ビクトールは応えた。



                            つづく 2002.11.28



next→



CLOSE