■ビクフリリレー小説 第三話 (作:有涼) ■
「金が……、ない」 返ってきた言葉は、いつになく低く掠れていた。 え?と二人が目を丸くする。予想していたはずの台詞のはずだが、これ以外に取るべきリアクションはない。 「何ですか?」 リーダーの少年が聞き直してきた。利き手と話し手との間はそんなに離れてないのだが、これは決して嫌味ではない。信じたくない言葉とは、とにかく耳に入 りにくいものだ。 えっと、とフリックはらしくなく口ごもった。例え二度目であっても、やはり言いにくいようだ。 くっきりと眉間にシワを寄せ、彼はしばらく躊躇していた。いきなり敵兵やモンスターと遭遇した、そんな困難にでもぶつかったかのような顔をしている。 「……落とした……」 「落としたって、何をです?」 「……だから……」 「まさか、……やっぱり……?」 「――すまん」 ぶんっ、と勢いの良い音がした。呆然としている二人に対して、青年は精一杯頭を下げる。 リーダーの少年はまだ目を丸くしていた。ただ、それだけだった。口はぽかんと開いたまま、声が出ないと言った調子だ。 「――おいっ」 フリック、と相手の名を口にしたのは大男の方だ。つかつかと歩み寄り、下がったままの相手の頭を無理に上げさせる。 「何やってんだお前っ。本当に無くしちまったのかよっ?」 「……すまん……」 「すまんじゃねえよ、もっと確かめてみろっ。どっかに紛れ込んでねえのか、ポケットん中とか、荷袋ん中とか、ああ?」 「もう探した……けど……」 弱々しく言い返しながらも、フリックはもう一度自分の身体を探った。ビクトールの手までが伸びてくるのも、払いのけようとはしなかった。 「あの」 最後にはマントや肩当ての類まで解いて探そうとする大人二人に、ようやく少年は声をかけることができた。 「公衆の面前で、そういう真似はさすがに止めた方がいいと思うんですけど」 「……あ」 「……おう」 ふと気付けば、往来には人だかりが出来ている。何だ何だ、というざわめきこそは小さく波打っているが、特に彼らへと声をかけてくるのではない。 どちらかと言えば皆息を飲んで、服を脱がされかけている青年を見つめている。 我に返ったフリックが慌てて上着のボタンをはめ直すのを見て、どこからか舌打ちが聞こえた。 「とりあえずですね。……フリックさんがその、僕たちの財布を落としたのなら」 ビクトールが周囲を威嚇する前に、リーダーは話を進めることにする。とりあえずこれ以上の騒ぎはごめんだ。 「まずはそれを探さなくちゃいけないですよね、僕たち」 「あ、ああ。……すまない」 「もう謝らなくたっていいです、フリックさんにお金を預けさせた僕の方にも問題があったのかもしれないし、……ああだからそんなに落ち込んだ顔しないで下 さいってば!」 「……すまん……」 「だからそれはもういいんです!それよりもフリックさん、思い出して下さい。さっきの雑貨屋さんを飛び出してから、どんなルートでここまで来たんです か!?」 「あ、ああ。 ……そんなあちこち歩き回ってはない。店を出てからそのまま、こっちの道をこうして、ここまで」 「ほとんど一直線だな」 ビクトールが唸った。先ほどのフリックの勢いからして、いかにもなコースだ。何があったかは分からないが、脇道が目に入らないほどの衝動に駆られていた らしい。 「だけどよリーダー。俺とお前とだって、同じ道を辿ってきたじゃねえか。途中で財布を見かけたりしたか?」 いいえ、リーダーは首を横に振る。 シュウから今朝渡された革袋には、かなりの大金が入っていたためそれなりの大きさがあった。 「そう言われてみれば、そうですよね……」 ああいうものが道に落ちていたのならば、間違いなく自分は気付くだろう。少年にはその自信はある。 「ええ、僕のもビクトールさんのも、絶対に道には落ちてなかったです。でもフリックさんは財布を持ってないんだし」 「俺たちが追いかける前に落としちまったか、――だったらとっくの昔に拾われちまったんだろうなあ」 「だったらこの街の役場に届けなくちゃいけませんね。拾われてるんだったらもう届けられてるかも知れない――」 「そいつはどうだか。あれだけの大金だぜ?ネコババされちまってるに決まってるだろ」 「そんなこと分からないだろ」 う、と思わず口ごもっている少年の代わりに、フリックが口を挟んだ。いつまでも落ち込んでいる場合ではないと気付いたようだ。 「リーダーの言うとおり、届けてる人だっているかもしれない。俺が今から行ってくるから」 「無駄だって無駄。んなことしなくてもいいぜフリック」 「……でも。無駄じゃないかもしれないじゃないか」 「何言ってんだよ、無駄に決まってんだろ」 「無駄だってまだ、分かったわけじゃないじゃないか」 「分かり切ってるって。よく考えてみろ、何たってあんな大金だぜ。俺だったら絶対届けねえ」 「拾った奴がお前みたいな奴だなんて、まだ決まってないだろっ」 「……とりあえず、役場には届けましょう」 はぁ、と少年は歳には似つかわしくない息を吐いた。リーダーとしての立場や責任というものについては充分わきまえているつもりだが、こういう時はどうし ても溜め息が出てしまう。 というか、こんな場合でどうしてそんなものに拘らなければならないのか。大の大人二人の痴話喧嘩に、何故子供の自分が首を突っ込まなくてはならないのか。 つくづく自分の星回りの悪さが身に染みる。 「親切な人が拾ってくれてるかもしれませんし、……というか、そんな人に拾ってほしいものですけどねえ……」 「おう……」 「そうだよな……、っと」 はーっ、ともう一度大きく溜め息を吐き出されれば、さすがに大人二人は決まりの悪い顔をした。フリックがもごもごと何かを言いかけたのは、大丈夫だとで も声を掛けてやりたかったのだろう。 もちろん、今はまだそんな気楽なことを言うことはできない。この事態が自分の責任であるというのなら、尚更だ。 「じゃ、じゃあ。俺、すぐに行って来るから」 「あ。フリックさん待ってくださいっ」 素早く踵を返そうとする青年の背を、何かを思いついたらしい少年が呼び止めた。 「あのですね、その前にちょっと確認なんですけど。その、財布をうっかり落とした以外のことって、あり得ますか?」 「え?」 「いえ、フリックさんくらいの戦士だと、あんまりそういうことってないと思うんですけど……その、例えば落としたんじゃなくってスられた、とか?」 こうして口に出してみると、ますます馬鹿みたいな話にしか思えなかった。 日々数が増えていく同盟軍の中でも、フリックは一、二を争う戦士だ。そんな人間の懐に手を差し入れることなどできるだろうか、とリーダーは思った。 そんなことはないだろう。そんなことがあるはずがない。 「……って、そんなこと……」 やっぱりあるはずがないですよね、と少年は笑おうとした。 だが予想に反して、二つ名という栄誉を持つ数少ない戦士の一人は、あ、という顔をした。 「ああ、そりゃあり得るなかもな」 その隣で、青年の相棒である大男はうんうんと頷いている。 「というかそっちの方があり得る話だ」 「――何だと。おいビクトール」 「だってよ。あれだけの大金が道に落ちれば、じゃらんじゃらん音がするはずだろ。お前、それでも気付かなかったなんて言えるか?」 「……」 「……そう言われてみれば、そうかもしれませんよね……」 「こいつ、戦いの時はそりゃあどこにも隙がなくなるけどな。こういう普通のところだと、てんでガードが緩くなっちまうんだよなあ。そうだよなあ、懐に手ぇ 入れられるどころか――でっ!!」 ごんっ、と青年の肘が見事にこめかみに入った。 話を続けるどころではなく思わず悶絶する大男を見て、少年は同情するのではなく溜め息を付く。その隙とやらをついてかつてこの男が何をしたのか、青年の反 応を見るだけでもよく分かるというものだ。 一体何をしたのか、ぜひ聞きたいものだと思ったがそれは止めておく。これ以上通行人の注目を浴び続けることも、暴力のとばっちりを食うのも避けたいもの だ。 「もしその、スられたとすればですね」 それに何よりも、お金が惜しい。苦しい台所事情から、無理に出してもらった資金だ。悪党に気前よくくれてやるつもりなどない。 とすると、時間を無駄に使っているゆとりはない。ぐずぐずしていれば全額使われてしまうかもしれない。 「それは多分、さっきの大道芸を見てたときなんかじゃないですか?ほら、フリックさん結構真剣に見入ってたじゃないですか。ほんのちょっとくらい隙が出来 てたかもしれませんよ」 「それは……その。そうかも……」 「確認しましょう。あの店を飛び出した時は、ちゃんとお金はあったんですよね?」 「ああ……」 「とするとやはり、大道芸を見てた時じゃないかなあ。……あ、さっきの女の人とか!」 「おう!」 呻くことしかできなかったビクトールが、突然むくりと起きあがる。 「そういやあの女、確かにこいつにべたべたしてやがったよな!おう、そうかもしれねえ!」 「きっとそうですよ、――だとしたらそれこそ早く!」 「さっきのところまで戻るか!おいフリック、べたべた触られたってのはあの女だけだな!?」 「……」 「……そういやゴツイ男にも肩に手ぇ回されてたって言ってやがったよな……はっきり言えよ、その二人だけか!?」 「……」 「……おい……」 現場へ走り出すのではなく、ビクトールはフリックへと向き直った。その表情は今までになく剣呑なものだ。 「まさか、まだいやがんのか?」 「……えっと……」 「てめぇって奴はどうして、そうやってすぐ隙だらけになりやがんだ。気を付けろっていつも言ってんだろっ?」 「……う……」 「誰かからじろじろ見られてても、馴れ馴れしく触られても、いつだってちっとも警戒しやがらねえよなあ。だからこんなことにもなっちまうんじゃねえのか よ、ええ?」 「……うう……」 「いい勉強になったろ、今度からは気を付けとけよっ。ったく、俺ん時はちょっとでも触ればすぐに雷落としやがるくせによ」 「……」 フリックがビクトールに対して珍しく項垂れるだけだったのは、ここまでだった。 端正な輪郭の端が、ぴくりと動いたのに気付いたのは少年だった。あ、と思わず声を上げかけるが、それはもう遅かった。 「お前の場合は例外だ、……いや、」 論外だ、と呟く言葉は今日一番の気圧の低さを孕んでいた。 「何だとっ?」 「お前に対してのことだったら、仕方ないだろ、……だったら今までのことを思い出してみやがれっ!いつだってただ触るだけで終わらねえじゃねえかよ!」 「スリってもただ触るだけじゃねえだろ!――今はそんなこたぁどうだっていい、大体だな、俺って男がいるくせにお前って奴は!」 「訳の分かんねえことほざくんじゃねえ!お前がいるからってどういう意味だこの熊!」 「どういう意味かって聞くようなことか!」 「たり前だ!お前がいようといまいと、俺が何をしようとされようと、お前に関係なんかあるか!」 「んだと!」 あの、とリーダーが口を差し挟む隙はもはやどこにも見いだせなかった。一時弛みかけていた人垣は、ますます厚くなっている。年の瀬の中、忙しいはずの通 行人たちは皆立ち止まり、好奇心も露わに二人の成り行きを見守っている。 「今の台詞は聞き捨てならねえな!お前のことで俺が今更無関係ってことがあるか!いい加減自覚しやがれ!何だったらこれからとっくり教え込んでやろう か!」 「真っ昼間から何言ってやがる!てめぇこそいい歳していい気になってんじゃねえよ!」 端から見ればこれはただの痴話喧嘩だ。関わるのはただの馬鹿にしか見えない。けれど、他人の振りをすることもできない。大体こんなことをしている時間など ないはずだ。 なのにこの大人二人は、一体何をやっているのか。 「……まったくもう……」 腐れ縁とは良く言ったものだ。係わっているだけで、こちらまで絡め取られて同じ目でみられることになる。 確かに自分もただの子供だとは思っていない。けど、ここまでまだ腐ってはいない――はずだ。 二人の言い争いは全く終わる気配がなかった。それどころか内容が段々低レベル化しているような気がする。いい加減終わらせなければならない、少なくともも うこれ以上恥はかきたくない。 大人たちを怒鳴りつけようと、リーダーは大きく息を吸い込んだ。 「いい加減にしやがれ!お前の手なんか誰が借りるか!」 「――っ!?」 鞭を打つようなフリックの声に、少年は思わず声を出すのではなく思い切り咳き込んだ。 今、この青年は何て言った? 「もういい、ついて来んな!俺一人で探す!お前なんか必要ない!」 「てめぇ!」 「お前はそこでリーダーの護衛でもしていろ!必ず俺だけで見つけてやる、それで文句はないな!」 「何粋がってやがるてめぇ!一人でできるもんか馬鹿!」 「うるさい、やってみせてやる!――見つけたらもうこれ以上文句は言うなよ!俺が何をしてたってされたって、今後一切口を出すな!」 「おう、やれるもんならやってみやがれ!」 ビクトールも怒鳴り返す。 「その代わり、俺が先に見つけた時は改めてこっちの言い分聞いてもらうからな!分かるまで許してやるつもりはねえぜ、その時は逃げんなよ、分かったか!」 「てめぇなんかに先越されてたまるか!」 「てめぇより間が抜けててたまるか!」 「やれるもんならやってみやがれ!いいさ、てめぇに出し抜かれた時は、土下座でも何でもしてやる!」 「よぉし、今の言葉忘れんなよ!」 なあ、とビクトールは少年を振り向く。勢いに押され思わず頷く少年と男を残して、フリックは足早に立ち去っていった。 あとに残されたのは大人と子供が一人ずつ、そして大勢の野次馬ばかりだ。 「……ビクトールさぁん……」 下らない言い争いを最前列で眺めていた少年は、がっくりと肩を落とした。 「僕たちが今やるのは、みんなで協力して早く無くし物を探し出すことなんですよ……何だって、こんなことにしちゃうんですか……」 「お、おう。まあ、売り言葉に買い言葉ってな。――もちろん、気合いを入れて探し出してやるからよ、いいだろ」 「何が‘いいだろ’ですかっ。大体見つけ出すのだって、一番得をするのはビクトールさんだけじゃないですかっ!」 今の今まで圧倒されていた分、溜まっていた鬱憤を吐き出すことができなかった。その機会がようやく訪れた今、リーダーは大古に対して傲然と顔を上げた。 「僕たち今、無一文なんですからねっ!手ぶらで帰ったってシュウさんがもう一度資金を用意してくれるわけじゃないですよ、それどころかどれだけコキ使われ るか分かんないですよっ!それ、分かってんですかっ!」 「おう、そりゃあ分かってるって」 「分かってんならですね、どうして――!」 「何してんの?」 顔を真っ赤にして詰め寄る子供の背後から、少女の声がかかった。あ、と思わず少年は肩を竦めた。 「何してんのねえ。どうしたのこの人だかり」 人混みを掻き分けながら、ぱたぱたと軽い足取りで少年の義理の姉が駆け寄ってくる。その背後からは大荷物を抱えた騎士服姿が二人分、ゆっくりと歩み寄っ てくる。 「こっちはもう大体買い物終わったよ、そっちは――ねえ、あんた何やってんの?」 「え、ええっと。えっと」 「……まさかサボってたんじゃないでしょうねえ?」 「ぼ、僕。そうじゃなくって、ナナミその」 「だったら何よ一体、まだ手ぶらのままじゃない!もおお姉ちゃんが目を離すとすぐこれなんだからっ!――ビクトールさん、あんまりうちの弟に悪いこと教え ないでよねっ!もう、フリックさんも付いてるのに、……」 大男に食ってかかった少女は、ふときょろきょろと周囲を見渡す。 「……あれえ?フリックさんは?」 「フリック殿はどうされましたか?」 大荷物を担いでやってきた騎士団長が丁寧に少年へと尋ねる。 「……それが……」 その、と少年は口ごもって、まずちらりと自分の姉を見た。この辺りはリーダーというよりも、ナナミという少女の弟に過ぎない。 ナナミはきつい目で弟を見た。言いなさいよ、と視線だけで既に厳しく叱っている。 「そのですね。僕たち――」 「それがだなあ。実は」 少年が訥々と語り出した頭で、ビクトールがこの話に割って入った。今回の件はフリックだけのせいとは言い切れないが、だからといってこの少年に全てを被 せるつもりもなかった。 ナナミたちと別れてからの経緯を、男は分かりやすく説明した。もっとも、フリックとの言い争いの内容などについては、あらかた省かせてもらったが。 「なるほど」 それでも語った内容に偽りはないし、辻褄が合わないということもなかった。 やれやれ、とカミューは話を聞き終わると同時に肩を竦めた。フリックとはまた違うタイプの美青年は、こんなさりげない仕草だけでも様になる。 「そちらの事情は分かりましたが、……失礼ですが、こういう話はやはりフリック殿一人だけでは、荷が重いのではないでしょうか」 「そりゃああいつだって分かってるって。ただ引っ込みがつかなくなっちまってるだけだろ。――で、俺たちも今から失せ物を探すつもりなんだが」 「はい。我々もお供させてください」 マイクロトフが生真面目に受け答えをする。フリック以上に融通の利かない男であるが、頭の回転は同僚と同じようにかなり速い。 「まずは誰か一人、この町の役場に念のため届け出た方がよいかと思います。それから手分けして探そうではありませんか」 「おう。まあ念には念を入れた方がいいよな。――ナナミ、悪いがお前の弟と一緒に役場まで行ってくれるか?お駄賃くらいは弾んでやるよ、こいつで途中何か 買って食っとけ」 ほれ、と男は腰に下げている小袋ではなく、ズボンのポケットから取り出した硬貨を子供たちへと投げる。フリックに渡した財布の中身はほぼ彼の全財産では あったが、だからと言って今が全くの無一文と言うわけではない。路銀を所持するのに分散させるのは、旅をする者としての当然の知恵だ。 わあ、と少女と少年にそれぞれ年相応の笑みが浮かんだ。 「ビクトールさんありがとうっ!あっちでね、美味しそうなお菓子売ってる屋台があったんだ――あ、でもあたしたちも用事が済んだら、すぐに戻ってくるから ね!」 「おう。俺たちはあっちの広場から始めるからな、お前らもあの辺りから適当に聞き込みをしてくれ」 「分かりました。誰か大金で買い物してる人とかいたら、すぐに取り押さえますね――行こうナナミ!」 「うん!」 行ってきます!と子供二人は勢いよく駆けていった。まだ成長しきっていないその姿は、たちまちの内に人混みの中へと埋没していく。 「悪ぃな」 彼らを見送ってから、ビクトールは騎士二人に苦笑を向ける。 これは何せ、自分の相棒のしでかした不始末だ、フリックがここにいない今、自分が替わりに詫びを口にするのは間違ってはいまい。 「いいえ。そんなことはありません、お気になさらず」 「とんだ災難ですが……まあフリックさんらしいですよ」 赤青両騎士団長もまた、このアクシデントを軽い苦笑を浮かべるだけで受け流す。 言い合いをするつもりはないし、しているだけの時間もない。自分たちの任務はこの町で買い出しをするのであって、ここに滞在することではない。任務が終 わればすぐに戻らなければならない。 ならば、やることはいつまでも話し込んでいることではない。マイクロトフとカミューは、近くにあった店の主人と話をして買った荷物を置かせてもらった。 「ところでビクトールさんには、お心当たりはおありですか?」 「さっき話した通りだ。大道芸の辺りの人混みが一番怪しいだろうな」 「ではそこから始めましょうか」 そして、身軽になった男たち三人は歩き始めた。 フリックが覚えている限り、預かった金を落としたという記憶はない。 ビクトールが指摘した通り、それなりにまとまった額の財布はかなり重いものだった。うっかり落としたとしても、地面に落ちた瞬間音で気が付くはずだ。あ の時の自分が動揺していたのは認めるが、かといってこんなことまで気が回らなくなっていたとは思えない。 とすると、金は落としたのではなくスられたという可能性の方が強い。 あの店から飛び出し、広場に流れる大道芸の音楽につい足を止めるまで、自分はほぼ全力で走り続けていた。その途中、誰も自分を追い縋ることなどなかっ た。通行人たちは確かに多かったが、ぶつかるほど自分は迂闊でない。 とすると、立ち止まってからの時間が怪しい。 「……ええと……」 人の多さを見込んでやってきた旅芸人たちの出し物は、まだ終わることなく続いている。明るく賑やかな音楽や芸の類に惹かれかかる気を引き締め、フリック はさっきの自分を思い出そうとした。 ビクトールに引きずられていく前に、見知らぬ女が付きまとってきた。 あの女は確かにべたべたと引っ付いてはきた。だが、ニナのように容赦なくこちらが身につけているものを、引っ張ったり奪ったりまではしなかった。肩や胸 にやたらと触られた気はするが、衣服の中まで手を入れられた覚えはない。 ビクトールがやって来るまでの間、他の女性にも同じように声を掛けられてはいた。だが、彼女たちとのやり取りはどれもその程度に留まっている。 どちらかといえば、女たちよりも男たちの方が図々しかった。 肩に手をかけてくる、腰に腕を回そうとする。接触ということに関しては女たちよりも男たちの方があからさまだった気がする。 ただし、手が身体に触れる寸前にどいつも思い切り地べたに叩き付けてやった。とても金を抜き取るコトは出来なかったはずだ。 多分、どちらも違う。 「……あとは……」 あと自分の周囲にいた者といえば、ごく普通の見物客たちばかりだった。自分のように思わず足を止めてしまったという男や女、子供が立ち止まっているのに 付き合わされている親や老人。こんな平和な光景に相応しい、そんなごく普通の人間たちばかりだ。 確かにこういう人間には、自分は警戒してなかったと思う。 「……」 フリックの顔にやや影が差した。悪人を叩き伏せることも、敵を斬り倒すこともためらいはしない。だが、それ以外の者たちによる悪事については、考えるだ けでも気が重くなっていく。 交易ルートの一つでもあるこの町は、賑わっている。だが、今はまだ戦時中だ。リーダーの少年が楽しそうに語ってくれたイベントの数々も、士気を上げるた めという理屈があってこそのものだ。今は町中に満ちているこの賑わいも、明日は引き裂かれるのかもしれない。 生活が安定してなければ、犯罪にどうしても手を染めなければならないこともある。剣を手に世を渡り歩いてきた者として、そのくらいのことはよく分かって いた。そういう事情を、自分はトランにいた頃に何度も目の当たりにしたものだ。この町の中にも、そういう影があるのかも知れない。この賑わいが華やぎすぎ て、目に付きにくくなっているだけかもしれない。 ――仕方ないとは言わないけどな。お前だけで抱え込むなよ。 「……っ」 男の声がふと蘇って、フリックは思わず我に返った。もちろん、ビクトールの姿は今とどこにもいない。あの男の手を弾いて、自分は独りで立っている。 それなのに、この体たらくだ。意味のない気恥ずかしさを感じて、頬が熱くなるのが分かった。 「何だってんだ……」 ぶんぶんと青年は頭を振った。 今回の件とそれ以上のことを、今の自分は抱え込もうとしている。端から見れば、そう思われてもおかしくはない。あの男ならそう口にして、――あるいは何も 言わないまま、苦笑いをして手を差し出そうとするだろう。 「何だってんだ」 けれど、あいつに肩代わりしてもらういわれはない。 考えすぎだ、俺。フリックは苦々しく呟いた。考え込み過ぎて、つい暗い思考に陥りかける悪い癖が出ただけだ。戦争とか平和とか、そんな大きなことまで今 考えなければならないはずがない。 何せこれだけの人混みだ、スリが多くて当たり前だ。スられた自覚は全くないが、もしかしたら引っかかってしまったのかもしれない。それにもしかしたら落 としてしまって、役場に届けられているかもしれない。 そういえば、役場にまだ行っていない。フリックはそのことを思い出した。 ビクトールの言うとおり、これはただの甘い考えかも知れない。けれどもしかしたら、届けられているかもしれないじゃないか。そう考えた瞬間、彼はまず役 場へと向かうことに決めた。 ハイランドと国境を接している町や村はともかく、ラダトはまだ安定している。トランとの交易も盛んなこの町は、人々の暮らしもあまり困ってはいない。町 中が生活に追い込まれて、他人の事情を考えることができなくなっているのでもない。 ならば、誰か親切な人が届けているかもしれない。こんな楽観的な考えは、青年の足を速めていった。彼は人混みの中を滑るようにして歩いて行った。 広場から離れても、人々の賑わいは続いている。新しい年を迎えるために、いつにも増して活気づいている。 新年を迎えるための飾り、食べ物や飲み物。そういったものが店の軒先を埋め尽くしていた。華やかな色をしたそれらを前に、大人より子供の方が張り切って いる。きゃあきゃあと甲高い声を上げ、忙しく通り中を走り回っている。 とある一軒の出店の前には、子供たちがたくさん群がっている。その数にフリックの足が思わず緩んだ。 「へぇ」 風に乗ってくる甘い香りに、青年は思わず顔をほころばせた。子供たちがこうして集っている理由は言うまでもない、この店が作っている菓子が目当てなのだ ろう。これだけの人数が集まるくらいだ、きっと味は美味しいに違いあるまい。 ふと思いついて、フリックは自分のズボンのポケットを探った。自分のミスで金はあらかたなくしてしまったが、小銭程度なら持ち合わせがある。 ビクトールはともかく、迷惑をかけてしまったあの少年に菓子を渡してやるくらいのことはできる。リーダーとしての重責を逞しく担っていくあの少年を子供 扱いするのはどうかと思うが、こういう時くらいは年相応に対してやってもいいだろう。 店に近付けば、子供たちの笑い声が大きくなる。 背後から青年がやって来ることにも、子供たちは気付いてないようだった。皆目を輝かせて、菓子が新しく出来上がるのを待っている。いっぱい食べようね、 みんなにも持っていこうね、――そんなあどけない言葉が聞こえてくる。 「!?」 列に並ぶには中途半端な位置で、フリックは思わず立ち止まった。 子供たちの内の一人が持っている財布には、見覚えがある。よく使い古された革製のそれは、リーダーから預かったものではない。――ビクトールから取り上げ たものだ。 「ねえねえ」 フリックはとっさに声が出なかった。ただ目を丸くして見つめている彼の耳に、子供の声が入ってくる。 「こんなにいっぱい注文して、本当に大丈夫なの?本当に僕たち、買えるの?」 「まかせとけって!」 話しかけられたのは、他の子供たちよりもしっかりした顔立ちの子供だ。多分彼らのリーダーらしい少年は、ビクトールの財布を手に握りしめて胸を張る。 「ちゃんとお金はあるからな、心配なんかするなよ!」 「ホントに……?」 「本当本当!」 な、と他の子供たちに笑いかけている少年の顔自体が、まだあどけない。少年と言うより、子供と言った方がいいだろうか。 「ほんとうにいいの?」 「当たり前だろ!」 「ホントにホント?こんなことして、怒られたりしない?」 「いいの?ねえ、だって、ぼくたちお母さんもお父さんもいないのに、いいの――」 「いいに決まってるだろ!そんなこと関係なんかあるもんか!」 子供が、子供らしく笑っている。 「それにここのお菓子だけじゃないからな!この次は、あっちの店でジュースも買いに行くんだからな!」 もちろん全員分だ、と言う声と、思わず出たはしゃぎ声の両方がまだ幼い。すごいねすごいね!と子供たちの目が更に輝きを強くする。 お菓子の次は、ジュースの次は――、玩具がいい、大道芸をもう一度見たい、違うお菓子がもっと欲しい、と子供らしい声が次々と上がる。 彼らを受け止めるべき大人の姿は、周りにはいない。子供たちは自分たちだけで話し合い、盛り上がっている。 「任せとけ、――今日から新年まで、みんなでうんと騒ごうな!」 わぁ、と弾けるように上がった歓声を、フリックは立ち止まったまま聞いていた。 もう一歩、彼は前に出ることができなかった。 「ビクトールさんのお話を伺う限りでは」 町の中心に位置するこの広場は、人の数も殊の外多い。旅芸人たちが奏でる楽の音は流れてくるが、どこから聞こえてくるのかは行き交う人々に阻まれて見通 すことができない。 スリがいてもおかしくないところですね、とカミューは息を吐いた。 「フリックさんはこちらで大道芸をご覧になっている時にその、色々な方に声をかけられていたようですが」 「まぁな。フリックの奴、ほんの一人二人だとしか言わなかったけどな」 「その倍の数は考えた方がいいと」 「いいや。三十倍だ」 「……数はさておき、あの方につい声をかけたくなるという気持ちは分からないでもないのですけどね……ああご心配なく。私はフリックさんとは、実に清く正 しいお付き合いをさせていただいてますから」 反射的に向けられた視線を苦笑で受け流して、華麗な騎士服姿は細い顎に指を当てる。 「それにどうせ、フリックさんに絡んできた男というのは皆、返り討ちにあっているのでしょう」 「おう。それは賭けたっていいぜ」 「だとしたら話はそんなに難しくありませんね。顎やこめかみ辺りに殴られた痕のある男を我々は捜せばいいのですから。いくらこの人混みでも、そんな人はさ すがに大勢いないでしょう」 「犯人は男の方だってのか?」 「女性を疑うなどということは、私の信条に反しますので」 歯が浮きそうな言葉だが、相手によっては本当に聞こえるから不思議なものだ。あくまでも騎士道に則ろうとする美青年を前に、ビクトールはひょいと肩を竦 めた。 「お前さんらしい言い分だけどな。残念だが、俺は女の方が怪しいと思うぜ」 「どうしてですか?」 「あいつも言ってたけどな。女はともかくとして野郎が手ぇ出してきた場合は、すぐに殴り飛ばすからな。そいつらが財布をスってる暇なんざ、絶対にあり得ね えはずだ」 「はあ」 「まさに電光石火って奴だぜ。端から見てても、目で追いかけるのが難しいくらいだ」 「今度拝見させていただきますよ。なるほど、男性の可能性はそうであるならば低そうですね」 己と違う意見ではあるが、カミューは反論はしなかった。その電光石火とやらの報復を喰らったらしい男の言葉は、実に説得力に溢れていた。 それに、ビクトールの意見はいつも耳を傾ける価値がある。フリックのことについてはどこかネジが外れるかブレーキが利かないかする男であるが、人間に対 しての洞察力はただ者ではない。とカミューは常に思っている。 「女相手の方が、あいつは隙だらけになるからな。――まあ、あいつに手ぇ出そうとしたヤロウを見つけだして叩きのめす、ってのも悪くはねえがな」 「今は先にすることがありますからね。それは後回しにしましょう」 話がずれそうになるのをさりげなく元に戻して赤騎士は微笑む。 「いつまでも本拠地から離れたままというのも誉められた話ではないですからね。早く資金を回収して、任務を終了させなければ……とはいえ、女性となると捜 し出しにくいですね」 「あいつ、女には手をださねえからなあ……手がかりになるものと言えば……」 ビクトールは周囲を見渡す。 「……女が金を手に入れたとしたら、やっぱり……」 「買い物に走るでしょうね。おそらく」 何せ年明けの支度に追われるこの時季だ。懐にゆとりさえあれば、買っておきたいものは増える一方となる。 「とすると、我々は買い物をしている女性を捜せば良いのか?」 「そうだね、マイクロトフ。それが妥当だと思うよ」 「盛大に金を遣ってくれれば、人目に付きやすいんだがなあ」 その辺りは微妙なところだ。スリの常習犯である場合、そんな人目に付くことをするはずがない。 しかし今は、手がかりはそのくらいしかない。 「では三人で手分けすることにしますか。それぞれが道に沿って捜して、またこちらへと戻ってくるということで」 「では俺はこちらの道を」 「そうだな、そうしてくれ。んじゃ俺はこっちから行くとするか――ああ、フリックを見かけたらついでに説得して連れてきてくれよ。そろそろあいつも頭が冷 えて来た頃だろ」 「分かりました」 「ええ。ビクトールさんも今度は怒らせないようにして下さいね」 では、と騎士二人は歩き始めた。その姿を見送る形となったビクトールは、やれやれと肩を竦める。 揶揄された通り、今日はフリックを朝っぱらから怒らせっぱなしだ。喧嘩など今更のことだが、決して気分のいいものではない。 言いたいことは色々とある。あの青年に関して、決して曲げたくないものもある。けれど今回はそろそろ、こちらが折れてやるべきかもしれない。 町は今、隅々まで賑わいが広がっている。戦争中であることを忘れ去れてくれるくらいに、明るい活気に満ちあふれている。影のないこの場所で、フリックに 旅芸人の出し物をもう一度楽しませてやるのもいい。出店に出ている料理や菓子の味見をさせてやるのもいい。 そのためにも早いところ、失せ物を見つけ出すとするか。――ビクトールは何気なく周囲を見渡しながら呟いた。こちらが先に見つけた際に相手へ突きつける 条件も、こんなものにしようかと思いながら。 「……ん?」 ビクトールはふと目を留めた。 広場から伸びる通りの一角で、若い女が買い物をしている。ぱっと見たところは、ただの買い物客だ。もう一人傍らに似たような顔の女がいる辺り、姉妹でやっ て来たといったところか。 ビクトールの目はその女たちの顔ではなく、手元に吸い寄せられていた。 取り出しているあの小袋には、見覚えがある。しっかりとした作りのそれは自分のではないが、リーダーが軍師から言い含められ渡されたものではないだろう か。 「――あいつらっ」 間違いない。あれは自分たちの財布だ。 そうと思い至った瞬間、ビクトールは大股に歩き出した。駆け寄りたい気持ちが沸き上がるが、ここで大騒ぎをして逃げられては困る。走り出されても捕まえ られる距離まで、背後に忍び寄るまで気付かれてはならない。 気配と足音を殺している大男の存在に、女たちは気付く様子もなかった。商品を包んだ大きな紙袋を抱えて、顔を見合わせて幸せそうに笑っている。 よかったあ……、と女の一人がしみじみと息を吐いた。 「ほんとうに、よかった……」 歳の加減からして妹だろうか。近付きながらビクトールはそんなことを思う。 「これで、……これで母さんのために要るものは、もうみんな揃ったわよね」 「ええ」 姉らしき女も笑う。彼女たちの身なりに相応しい、素朴で決して飾りのない笑い方だ。 長く放浪を続けたこともあって、ビクトールには自分の目というものについて自信がある。人を見る目というものに関して、今まで間違えたことはほとんどな い。 この姉妹はどちらとも、決して悪人ではない。化粧っ気のない顔や着ている服からして貧乏ではあるだろうが、根っからの悪党というのではない。純朴さだけ が取り柄の、そんなありふれた町娘たちだ。 「昨日まで、明日はどうしようかと思ったのに……本当によかった……」 「これで母さんもきっと、元気に新年が迎えられるわよね……」 もう駄目かと思ってたのに、と妹は涙ぐんでいる。姉は力づけるようにその肩を叩く。 「大丈夫よ、こんなに暖かくて柔らかな服も、栄養のあるものもたくさん買えたし。部屋も暖かくできるように手配してもらったし――そうそう、お医者さまの お薬もそろそろ出来上がってる頃かもしれないわ」 「あんなに高いお薬、とても手が届かないと思ったのに……これで母さんもきっと良くなるわよね」 「ええ。兄さんたちが帰ってくるまでに、きっと良くなってるわよ」 「そうよね。……このままだと明日にはもう飢えて死ぬしかないと思ってたけど……、これなら兄さんたちが戻ってくるまで三人でがんばれるわよね」 「もちろんよ。もう大丈夫、これからも姉さんに任せなさい、ね」 行きましょう、と姉妹たちは歩き始める。その足取りは軽い。 ビクトールはそのあとを追い始める。だが、声を掛けるタイミングというものを、彼はまだ掴めなかった。 NEXT |
<作者コメント> 参加メンバー構成と順番を教えて頂いた時、逃げ出したくなりました。この方の後ですか、この方の前ですか…というような(笑)私が普段書いているものはあ まり笑いも色気もないため(をい)、今回は仕様を少し変えてみたつもりですが、如何でしょうか。ストーリー的には風呂敷を広げるだけ広げて次の方に渡す無 責任ぶりですが、ごめんなさいどうぞよろしくお願いします!m(__)m |