江沢民の来日に思う

江沢民の来日に思う

中国の江沢民主席が11月26日、日中首脳会談でかなり言いたい放題の事を言っている。
彼が日本の過去に対してはなはだ面白からぬ印象を持っていることは致し方ない。
           何と言っても彼らは過去において日本から侵略され、日本の軍国主義と言うものが彼らの土地を蹂躪したことは歴史的事実である以上、彼らがその点を外交の場で突いてくることは致し方ない面がある。
問題はそのタイミングである。
戦後50年を経過した時点で、なおかつその点を問題視しなければならない中国の実状と言うものは、日本が謝るか謝らないかの問題とは別な意味合いがあるように思う。
我々の歴史認識では其の問題は既に解決済みの問題であるわけで、今更何を言うかという感じである。
彼らはそれ以外に日本に対して有力な外交上の切り札を持っていないわけで、日本の過去の落ち度と台湾の問題しか日本と対等に話のできるカードを持っていないわけである。
彼らの言う侵略と言う概念もかなりいい加減なもので、中国の人々に対して日本がしたから侵略であったわけで、彼らが彼らの人民にした日本と同じ行為、いわゆる無辜の人民を殺戮するということは侵略とは言わないわけである 。
彼らの国、彼らの民族が中華人民共和国と中華民国に分裂している状況というのを我々はどう解釈すればいいのかと問いたい。
これは明らかに中国の国内問題であるが、この中国の国内問題を外側から見るにつけ、どちらにどう荷担しても彼らにしてみれば難癖を付ける格好の材料となってしまう。
しかし、世界の経済というのは第2次世界大戦以降というもの,一国だけの範疇では収まりきれず、文字どおりグローバル化しているわけで、中国大陸から切り離されて台湾だけが絶海の孤島に泰然と浮かんでいるわけではない。
今の台湾の人々というのは元々が中国大陸の人々であったわけで、日本が中国・かっての清朝と戦争して支配下に収めた日本の領地であったわけで、その意味からすれば日本の領分を中国人が占有しているとも言える。
日本が侵略した中国というのは、今の台湾にいる人々の中国であって、今の中華人民共和国というのは共産主義革命によってその後樹立された中国であって、その人々から日本が過去において中国を侵略したと言われる筋合いはない。
中国という土地で行った、という意味ではそう言われても致し方ないが、この共産主義革命と云うのも平和的な政治変革ではなかったわけで、人命の軽視という点では日本の侵略の時のトラブルなど問題ではない。
だいたいにおいて、中国人に人命尊重などという概念は馬の耳に念仏であって、日本の対する外交の切り札として、そういう体裁をとっているだけのことである。
中国が日本に対してこういう切り札でもって迫ってくるということは、これ以外に日本に対して有効な手段を持っていないということにほかならず、日本の一番弱いところを突いているわけである。
日本側としては、相手の突いてくるところが一番の弱点なわけで、相手はそこを十分に承知した上でこういう手法を取ってくるわけである。
そこを考えれば、その事でもって、我々はいかなる思考をしなければならないか、ということは自明な筈であるが、日本の知識人というのは、相手がこちらの弱点を突いてくることに対して非常に寛容で、日本の国益よりも相手の国益を尊重するという風なところがある。
馬鹿げた話しだが、日本の現状である限り、我々自身の問題としてどうしょうもない現実である。
日本にこういう気風がある限り、先方としては彼らの同調者が日本の国内にいるという心強い気持ちになるのも致し方ない。
江沢民のいう日本の軍国主義というのは日本のマスコミの報ずるところを鵜呑みにしているだけのことで、彼ら中華人民共和国としての相手国の実情の考査に不勉強なだけである。
この地球上のあらゆる主権国家というのは大なり小なり情報収集の努力をしている。
かってはソビエット連邦のKGB、アメリカのCIAなどという情報収集機関が大手を振って暗躍したものであるが、中国ではそういう組織が手薄であったにちがいない。
今の日本に軍国主義の亡霊がいる、などという論拠はあまりにも日本の実情を知らないということである。
ただし我々の側として心にとめておかなければならないことは、そういう口実が彼らの外交上の手だということである。
一種のハッタリで、自分の方の主張を通すためにハッタリをかましていると言う事も考慮に入れて考えなければならない。
中国の人々というのは潜在的に中華思想にかぶれているわけで、それは政治とは別の次元のことであり、日本人が潜在的に天皇制を何とも思わずに生きているのと同じで、彼らには中華思想というのが意識の外にあるわけであり、そういう彼らの側からすれば我々、日本というのはあくまでも夷狄なわけで、野蛮人に他ならないわけである。
その野蛮人がアジアで大きな顔をしていることに生理的な嫌悪感を覚えているわけであり、それがこういう風に日本に対して高飛車な態度を取らせる大きな原因に違いない。
戦後の日本は、昔の日本のように、意識して大きな顔をしているわけではない。
今の日本は、アジアで何か事が起きると、周囲の目を気にして気にして、それこそアメリカの顔色を伺い、中国の顔色を伺い、韓国の顔色をうかがい、四方八方に気配りをしながらアジアの雲行きを見つめているわけで,昔のように一部の日本人が政府の手綱を振り切って独断専横するということは考えられない。
それが証拠に、閣僚の不適切な発言でいとも簡単に閣僚の首が据えかえられているではないか。
閣僚の不適切な発言というのも 本当はそうたいした問題を含んでいるわけではない。
相手国に対して個人的にそういう感じを抱いているというだけで、その線に沿って政治をするということとはまったく違うわけであるが、日本の知識人と称する人々は、閣僚という立場の人間がそういうことを言うことそのものが不穏当とみなしているわけである。
よって、閣僚の元締めであるところの総理大臣が引導を渡さなければならないということになり、閣僚は閣僚で、その地位をいとも簡単に放棄してしまうわけである。
日本の閣僚が権力の座をいとも簡単に降りてしまう、ということは彼ら中国人から見ると信じられないことに違いない。
彼らから見ると、権力の座を降りなければならないということは相当な罪悪を犯したと映っているのかもしれない。
ところが日本の政府の座、つまり大臣という閣僚の座というのは、彼らが考えているほど我々、日本人の意識ではたいしたことはないわけで、そうそう固執するものではない、ということが彼らにはわかっていないに違いない。
大臣を辞めなければならないほど悪いことをした、不穏当な発言をしたという点で、日本人と彼ら中国人の間には大きな意識のずれがあるに違いない。
閣僚が失言をして大臣の職を辞す、ということは彼ら中華人民共和国の実情にてらしてみると、それこそ反逆罪に等しいことをしでかしたときぐらいでなければありえないわけで、そういう人物が次から次へと現れるということは、日本には未だに軍国主義の亡霊が住んでいる伏魔殿のようなところだ、と思い込むのも致し方ない面がある。
しかし、それは日本の実情を如何に知らないか、ということでもあるわけで、それを意識的に利用して、日本にハッタリを掛けるという外交手段というのは中国の伝統的な手法であり、伝統的なものの考え方である。
外交というものは、いわゆる政治そのもので、20世紀初頭までの外交というのは、いかなる主権国家も武力を背景に行ってきたわけであり、今日の中国も日本に対してこういうハッタリをかけてくるというのは、その背景に武力があるからである。
外交の一番上手なやり方というのは、相手にこちらの言い分を100%飲ませることであり、そのためには衣の下に鎧をちらつかせて、いう事を聞かなければ武力を使うぞ、という意思を言外に先方に判らせる事である。
日本と中国という場合、古代から文化面においては中国のほうが川上で、我々、日本というのは東の果ての地の果てであったわけで、日本の文化というのは、すべからく大陸から流れてきたものである。
そのことは彼らも百も承知で、そうであるからこそ中華思想があるわけで、20世紀に入って、日本が清朝を戦争で負かし、ロシアを戦争で負かしたことが彼らにしてみれば虫唾が走るほど不快なわけで我慢ならないわけである。
15年戦争といわれた日中戦争も、中国の人々の結束で彼らが勝ったわけではない。
あれはたまたま彼らが連合軍に組していたから勝ち組みにいれられただけのことで、中国人の実力でもって旧日本軍を海、東シナ海に追い落としたわけではない。
こういう事実を知るにつけ、彼らには日本の戦後の復興が我慢ならないわけで、その嫌悪感というのは日清、日露の戦役の勝利のときと同じ気持ちが蔓延しているに違いない。
文化の下流の日本が、自分たちよりも先を歩んでいることに対する不快感というのは、我々の想像を絶するものに違いない。
我々の側はそういうことにまったく無関心で、無関心だからこそ不用意な発言となってしまうわけであろうが、今の日本に軍国主義の徴候などと言うものがあろうはずがない。
閣僚の失言というのも、失言であればこそ、失言したことに対する処遇の一環として責任を負うかたちで辞任するわけで、本人の思っていることをそのまま政治問題化することとはわけが違う。
ところが、中国の側からすると、あらゆる面で彼らよりも文化的に下流でいた我々が、彼ら以上に進んでいる事に対する苛立ちというのは、何とも解消の道がないわけで、その極端な発露が歴史認識の強要というかたちであらわれているようの思える。
日本が中国を侵略、進出したというのは紛れもない事実であり、中国の人々を多数殺めた事も事実にはちがいない。
しかし、主権国家の戦争の是非を論ずることが果たして可能かどうかという事を、我々はもう一度深く考えてみる必要があるのではなかろうか。
我々が、今こういう愚にもつかないことを議論できるというのは、今の我々の置かれた状況というのが極めて平和的で、内憂外患の恐れがまったくないという事にほかならず、まさしく平和ボケの情況を満喫しているからこそ、こういう太平楽な議論が可能なわけである。
何時、政治的ライバルに寝首をかかれるかわからない状況、何時政変が起きて自分の権力が剥奪されるかわからない状況ではこういう太平楽な議論はしておれないわけである。
中国の政治の状況というのは常にこういう状況の連続で、内憂外患というのは彼らの潜在意識に中に埋め込まれ、刷り込まれているわけで、そういう人々から日本を見ると、日本の状況というものが理解できないのもある面では致し方ない。
彼らの民族的痛恨事というのは海の向こう、いわゆる彼らの認識からすれば夷狄から同胞を殺戮された、ということが我慢ならないわけで、同じ事を自分たちがするぶんには罪の呵責を感じないわけである。
彼らは共産革命で彼等の国を築いたわけで、そのときの犠牲者、つまり革命の死者の数と、旧日本軍が大陸で行ったとされる行為の死者を比較したとすれば問題にならなかったに違いない。
革命というのは死を伴いがちなもので、そのことは殺すほうも殺されるほうも同じように愛国的であり、ナショナリスチックなものであり、ある意味では無為な行為に他ならない。
今まである既存の国家体制を力づくで否定するわけで、そこには前に進もうという意見と、それに抵抗する力が拮抗するのは当然なことである。
中国の近代史においては、蒋介石の率いる国民党と、毛沢東の率いる中国共産党が拮抗していたわけであり、そこに日本軍が割って入ってきたものだから三つ巴の戦争になってしまったわけで、そういう状況下において、中国の大衆が数多犠牲になったことは論をまたない。
が、その責任を全部日本に押し付け、戦後50年も経過した時点で、その責を全部日本に負わせようとする中国共産党の首脳というのはあまりにも唯我独尊的な態度ではなかろうか。
戦後の日本の知的進歩人が中国のことをこよなく愛するその根底には、彼の国が共産主義国家であるからこそ、自分たちの理想社会がそこには存在しているに違いない、という彼らの錯覚がそうなさしめているわけである。
だからこそ、戦後の日本の知識人というのは共産主義国家を励賛し、ソヴィエット連邦共和国万歳であり、中華人民共和国万歳 であったわけである。
そして、戦後の日本のマスコミというのも、この知識人の発想と軌を一つにしているわけで、日本国中、反政府の宣伝が行き渡っている。
この状況を中国の側、つまり中華人民共和国の側から見ていると、日本の中には現行政府に対する反乱分子があたかも沢山いるように見え、日本の人民は現行政府の圧制に押しつぶされているかのように見えるのかもしれない。
そのように見えるということは日本の実情の把握が不充分で、自らの情報収集能力、情報分析の手法が間違っているということの証左でもあるわけである。
人間誰しも自分の欠点というのは自分ではわからないわけで、いわゆる「裸の王様」の体をしているわけであるが、それが異民族、異文化と接したとたん、自己顕示欲にかられて威丈高になってしまうわけで、そこのところが人間としての本質をあらわしているわけである。
日本の歴史上の過去を50年経った今突つくことによって、日本に対して高飛車に出るということはそういうことだと思う。
過ぎ去った過去のことを取り上げ、しかもその当時、既に解決をしていることを蒸し返して、謝罪を要求するということは、如何にも外交上手な彼等の発想である。
相手から謝罪を要求されるとすぐにそれに応じてしまうのは我々、日本人の浅はかなところで、これではあまりのも歴史認識が不足しているということになる。
相手はハッタリをかましてきているわけで、そのハッタリも見抜けぬようでは、政治家としては落第である。
政治というのは言葉の戦争なわけで、昔のように武力による戦争がいけないのならば、言葉による戦争というものを我々は深く考察する必要がある。
先の湾岸戦争のとき、我々は160億ドルもの金を出したにもかかわらず、世界からその貢献度においてはかばかしい評価を得られなかった、というのは言葉の戦争において既に成す術を持っていなかったからに他ならない。
台湾の問題においても、中国側は日本に対して、台湾と付き合うなという事を言っているが、そんなことはある意味で主権の侵害である、という事をはっきりと相手に言うべきで、共産中国が台湾と付き合おうが付き合うまいが、それは我々の関知するところでは無いが、我々には我々の経済上の理由から、台湾とも付き合わなければならない事情がある、という事をはっきりと相手に言うべきである。
今や世界の経済というのは一国至上主義では通らないわけで、経済というのは世界中にリンクしているわけで、この輪がどこかで欠落すれば、その影響というのは世界中に広がってしまう状況である。
中国の言う通りの事を頑なに守っていたら、日本のみならず世界中が大恐慌に陥ってしまうわけで、そういうこともわからずに中国の江沢民という共産主義者の衣を着た現代の皇帝は、唯我独尊的な思考に陥っているわけである。
そういう非はわからせてやらなければならにわけで、そのためには折角日本に来たこの機会にこちらが説得すべきである。
日米安保条約で、極東の範囲に台湾を含むか含まないか、ということで日本の左翼系の政治家が論議をかもし出しているが、日米安保条約というのは紛れもなく軍事同盟であり、軍事同盟には秘密の部分が当然含まれるのが常識である。
特に地域の限定という点では「秘」の部分が存在するのは当たり前である。
戦後の日本人というのは、完全なる平和ボケに陥っているので、軍事的な発想というものになじんでいない。
ところが21世紀になろうとしている今日においても、19世紀の戦争という発想から完全には脱却できないでいるわけで、事を処理するにあたって武力に頼る傾向というのは未だに残っているわけである。
事を処理するにあたって、話し合いで出来ない場合は武力に訴えるという解決法は下火になったとはいえ、まだまだ世界の常識として通用しているわけで、この常識が日本だけでは全く通用していないわけである。
こういう常識が通用しない日本人が、中国の指導者というだけで大歓迎をするものだからおかしな事になるわけである。
今の日本人に50年前の戦争の反省が不足している、などと言わて「ごもっともです」などという馬鹿がいる限り、日本は何時までたっても金だけ取られて虻蜂取らずということになりかねない。
中国の指導者が日本に対してこういう高飛車な態度で対応するのも、その後ろには膨大な軍事力が控えているからで、それは50年前に日本が彼の地で行ったことと瓜二つである。
しかし、今の日本は、そういうことを超越して、事の解決を軍事力に頼るということは考えることも出来ない。
そして、その事は日本全国、津々浦浦にまで浸透しているわけで、今の日本に軍国主義者が一人でもいる、ということは日本の現状を知らない人間の単なる妄想に過ぎない。
これはひとえに戦後の日本の民主教育の賜物であるが、今の日本は昔の日本とは大いに違っているわけで、これは日本が戦争に負けたことの効用の一つであり、そのことが日本を世界でも一二を争う経済大国にならしめた大きな要因でもある。
「金持ち喧嘩ぜず」ということは、我々が言う場合、自嘲的なニュアンスで言う場合があり、軟弱な思考のように見えるが、これほど人畜無害な発想もこの世に二つとは無い。
中華人民共和国の軍事費というものが、全中国の国民生産の何割を占めているか定かには知らないが、もし中国においても軍事費というものが限りなくゼロの近いとすれば、人々の生活はもっともっと豊かになるに違いない。
ところが、中国の12億になんなんとする人々は、平和な生活をエンジョイすることは至難のことで、自ら紛争の種をまき、紛争に明け暮れるのが 彼等の人生であるように見受けられる。

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