続・靖国神社参詣

靖国神社を考察する

  

靖国神社

東京都千代田区九段北に鎮座、1869年、明治2年、戊辰戦争の戦没者を招魂鎮斎するために、明治新政府により創祀された。
東京招魂社がおこり、各府藩県で設けられていた地方の招魂社が廃藩置県以降、国家的な統制を受けるに従い、中央の招魂社も正式な神社として整備が進められ、1879年には靖国神社と改称、別格官弊社に列格した。
陸海軍両者の所管となるが、その管理は創建の由来から、主に陸軍省が当たった。
別格官弊社の制は1872年に始まるが、国家的な功績のあった人を祭神とする事を特色としていた。
当社の祭神は、その後、1853年以降の国内の戦乱又は対外戦争である日清・日露の戦争、第1次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争などの戦没者を合祀して現在246万柱の英霊が眠っている。

別格官幣社

    

1871年、明治4年、神社の社格制度が「神社は国家の創祀」という理念のもとに整備され、官幣社が定められた。
1872年、湊川神社等28社が出来た。
祭神は国家的見地から見て功労があり、広く国民から尊敬を受けている人臣であることが特徴である。

となっていたが、戊辰戦争といえば鳥羽伏見の戦い、上野の彰義隊の戦い、仙台の白虎隊の戦い、北海道の五稜郭の戦い等を指すわけで、旧幕府軍と新政府の戦いであったわけである。
これはいみじくも同胞同志の血で血を洗う戦いであったわけである。
敵も味方も同胞であったわけで、その「戦没者の霊を弔うように」というわけで、敵味方双方を同じように合祀するという考え方は、やはり日本民族固有のものではないかと思う。
たまたまその招魂社をこの地、つまり九段に作ったわけで、それがその後の神社の制度改革で別格官幣社となったわけである。
この別格官幣社というのは、要するに田舎の鎮守の森とか、地方地方でそれぞれに地方の功労者を祭っているお宮さんとは別ですよ、という意味で出来たものと想像する。
だから日本という国家を中心に考えた場合、地方に貢献した人たちよりも、国家に貢献した人を優先してお参りしますよ、という意味ではないかと思う。
いわば国家神道の発想の原点ではないかと思う。
しかし、こういうものの考え方というのは占領軍、マッカアサーによって徹底的に拒否され、国家神道の否定と宗教の自由というのはマッカアサーによって保証された。これも占領中は致し方なかった。
ところが独立を回復(1951年)して50年、半世紀も経って今尚マッカアサーの遺言を後生大事に守らなければならないのかどうか、という事は我々自身の問題である。
今までのいきさつはともあれ、今では国家的な功労のあった人と言った場合、戦死した人々というのは、まさしくそれに当たると思う。
問題は、今の時点で、この「国家的な功労」と言う部分で、その意義が問い直されつつあるので、その部分で国内的にも国際的にも意見が分かれているわけである。
ところが歴史というのは、その時代時代で価値観が変わってしまうわけで、昔の価値観を今の価値観の尺度で測ってしまうから話がややこしくなるのである。
昔の植民地主義が「悪」だとか、軍国主義が「悪」だと言ったところで、それは過ぎ去った事なわけで、今更改めよと言ってみたところで何とも致し方ない。
それを承知で外国はそれを政治のカード、外交のカードに使ってきているわけで、それを我々は考えなければならない。
国内の議論と言うのは、これはあくまでも井戸の中の蛙の大合唱のようなもので、人畜無害であるが、外交の場に価値観の混同を巻き込むということは注意を要することである。
中国はこの日本の中の喧騒を外交の切り札にしているわけで、「お前の所の同胞・日本人でも歴史への反省が足らないと言っているではないか」という論法で、日本の政府に迫ってくるわけである。
日本の進歩的知識人の発言は中国の国益に貢献しているわけである。
しかし「国家に功労のあった人臣」という言葉は、今の時代には馴染まないものと思う。
やはり此処は、忠君愛国の「天皇に対して功労のあった」と解釈せざるを得ない。
今の時代、「国家に功労のあった」という言辞を使うとしたら、名もなく貧しく美しく人生を全うした人をさすべきで、国の根幹と言うのは、こういう人にこそあるべきだと思う。
春、秋の叙勲をみても、公務員が非常に多いが、これもおかしな風潮である。
公務員というのは法律で給料が保証されているわけで、そういう人がルーチン化した日常業務を大過なく過ごした結果、勲章がもらえると言う事は、ある意味では名もなく貧しく美しく生きてきたかもしれないが、給料が保証されていたと言う意味でそれは当然の行為である。
それに引き換え民間企業の人々と言うのは、何時不況が来るかわからないし、何時リストラに会うか解らないし、何時会社が倒産するか分からないし、退職金もあるかないかどうか分からない、という不安の中で日夜汗水たらして働いているわけである。
公務員の働き方とは精神のストレスが雲泥の差である。
そういう人々が、民間企業だからというだけで、叙勲の対象にならないというのはどう見てもおかしいと思う。
お巡りさんは無給で勤務しているわけではない。
郵便配達印は無給で手紙を配達しているわけではない。
そういう人たちが勲章を受け、魚屋さんやクリーニング屋さん、鍛冶屋さんが勲章をもらえないというのはおかしいと思う。
無いならないでさっぱりしているが、叙勲制度を維持しつつ、公務員のみに勲章を与えるというのは、不合理だと思う。
「国家に功労」という場合、こういう民間の人々ほど国家の基幹をなしている人たちだと思う。
軍人が敵を倒すのは魚屋さんが魚を売るのと全く同じなわけである。
お巡りさんが泥棒を捕まえるのは、鍛冶屋さんが鋤きや鍬を作るのと全く同じなわけで、各人がそれぞれの立場持ち場でそれぞれに自分の職業に忠実に生きていれば、それこそ「国家に功労」する生き方なわけである。
それなのに軍人だけが特別に別格官幣社に祭られるというのは不合理この上ない。
しかし、この考え方は21世紀における私の個人的な考え方であって、昭和の後半までは、そういう考え方はマイナーなものでしかなかった。
しかし、戦いで死ぬということは、紛れもなく国家に功労する生き方である。
その御霊が英霊となる事は至極当然の事である。
戦後の日本人の中で、進歩的と称する人々は、この「国家のために死んだ」という部分を、「天皇のために死んだ」と言い換えて、そのことを非常に冒涜した言辞を弄しているが、これは如何なる心境であろうか。
どんな気持ちで、自分の同胞を、自分の先輩諸氏を、自分の父や祖父の行為を冒涜しているのであろう。
日本のためにと思って戦いに出かけ、その挙句が英霊となって白木の箱に収められて帰ってきたとき、「あなた方は侵略者である」とか、「他民族を抑圧し、罪深き行為をした」などと言われた日には全く浮かばれないに違いない。
法律用語に「事後法の禁止」ということがある。
ある行為を裁くとき、その裁く法律がなく、行為の後で法律を作って裁いてはいけませんよ、ということである。
太平洋戦争の後で、日本の戦争指導者たちが裁かれた極東交際軍事法廷では、この事後法の問題が提起されたけれども、あの裁判というのは勝った側が勝った側の倫理で行ったわけで、復讐裁判の感が強く、負けた側の日本側としては、なんとも抵抗の術も無かった。
今、我々の同胞が、わが国がアジアの諸国を侵略し、抑圧して申し訳ありません、という謝罪の念を臆面もなく言っているのは、この「事後法の禁止」ということを綺麗さっぱりと頭の中から消えうせているからである。
人類の歴史というものが封建主義から重商業主義になり、植民地主義になり、帝国主義になり、第2次世界大戦の終了と共に、自由主義と共産主義というものに分裂したわけであるが、この人類の思考の流れというものを「善」とか「悪」、「正義」とか「不正」という言葉では言い括れないものと思う。
2001年の自由主義の立場から、20世紀初頭の植民地主義を「あれは間違いだった」と言ってみたところでなんとも致し方ない。
やはり自然の川の流れのようにただただ受容する他ないと思う。
明治維新以降の日本の国の在り方というのも、この流れに乗っていたわけで、明治以降の我々が富国強兵を願い、帝国主義に埋没し、植民地支配を由としたのも、地球規模の人類の思考の流れに乗っていただけで、これを「正邪」「善悪」では決め付けれないと思う。
それをするものだから「事後法の禁止」という矛盾に引っかかるわけである。
時代時代には、それぞれに、その時代のニーズにあった整合性を持った認識があったわけで、その時代には極く普通の認識であったものを、時代を経た後から「あれは悪かった」「間違っていた」と言ってもなんとも致し方ないわけである。
問題はこの致し方ない苦情に対して、金を払って解決しようとしたものだから、次から次とそういう声があがってきたわけである。
その当時はあたりまえの事をしたまでであるが、それを「悪だ!」「間違いだ!」と言い立てると金になる、ということはマスコミにとっては大きなニュース・バリューになるわけで、それを大々的に報道すると、日本人の全部が「そうだなあ!」という気分に浸ってしまうわけである。
小泉首相が靖国神社参拝を公約した事は、何ら不思議でもなければ軍国主義でもなく、過去の植民地政策を肯定するものでもない。
国の礎となって命を落とした英霊に弔意を表するだけの事で、それは当然、「あなた方のような不幸な目に会うような事は今後決して致しません」という不戦の決意の表明でもあり、今後の日本に幸あれと願うことである。
それを軍国主義の復活とか、植民地主義を肯定する、などというふうに解釈するということは、悪意に満ちた邪推に過ぎない。
過去の人間の不幸というのは、こういう悪意に満ちた邪推、憶測、思い違い、とり越し苦労というものから戦争という事態になるわけで、相手が勝手に思い違いをし、誤解をしているのを解くということは、非常に困難なことである。
要するに、相手がこちらの言っていることを信じるか信じないかの問題で、信じないものに無理に信じよと言っても始まらないわけである。
主権国家どうしの駆け引きでは、往々にしてこの信頼関係というものが裏切られたわけで、その代表的な例が独ソ不可侵条約であり、日ソ中立条約であったわけであるが、日本の首相が靖国神社に参る参らないという問題は、極めて日本の国内問題なわけである。
アジアの国々が信じようと信じまいと、外交、経済、その他国際関係には全く関係のない話である。
諸外国がどう思おうと、それは先方の勝手である。
しかし、それを外交のカードとして使うとなると、穏やかではなくなるわけで、明らかに内政干渉の匂いがするようになるわけである。
今回の中国や韓国の小泉首相の靖国神社参詣に対する発言は、明らかに内政干渉に当たるものであるが、これも一種の外交のパフォーマンスと考えるべきで、それには毅然と反論すべきである。
それには価値観の転換も同時に反論すべきで、あの時代、あの戦争中のものの考え方は、世界的にも整合性があるものであって、それに対する戦勝国の制裁は既に済んでいるということを声を大にして強調すべきである。
こういう本音でものを言わないものだから、相手は益々つけあがってくるわけで、その後中国に行った山崎拓などは、「靖国神社参詣の話とODAの話は別のものだ」と語っているが、こういう発想そのものが軟弱である。
「内政干渉するならODAは切ります」とはっきり言えばいいわけである。
日本の首相が、日本のために命を落とした英霊に弔意を表するのに、誰に遠慮がいるものか。
先の戦争で日本が悪い事をしたという説が正しいとすれば、それは極東国際軍事法廷で戦勝国側によってきちんと結論を出し、それは既に裁かれたではないか。
我々はその戦勝国の出した結論に従い、恭順の意を示し、6年半に及ぶ占領を甘受したではないか。
極東国際軍事法廷でも、6年半の占領にも、中国は戦勝国側の一員として名を連ねていたではないか。
戦勝国の中で、中国の発言権が弱かった事は事実であろうが、それは勝った側の内輪の事情であり、負けた側の我々としては蚊帳の外の話である。
その事を半世紀も過ぎて外交のカードにしてもらっては、テーブルにもつけないとはっきり言えばいいわけである。
ここで問題となってくる事は、我々の同胞の中から、中国の肩を持つ発言が出ていることである。
これが又立派な意見のように見えるわけで、自分の祖国の先輩諸氏の英霊を足蹴にしておいて、他国の利益に貢献する事が、さも進歩的文化人であるかのように錯覚している輩がいるということである。
自分の祖国を愛せないものは、何処の国に行っても馬鹿にされるだけであるが、恐らく本人はその事に気がついていないであろう。
中国に行って、自分の祖国日本を馬鹿すれば、恐らく信用されないであろう。
何処の国に行ったとしても、自分の国を悪し様にすれば、それはおそらく人間として信用されないに違いないと思う。
日本の首相が靖国神社に参詣すると、軍国主義の復活につながるだとか、植民地主義を肯定するとか、戦争を肯定するなどという発言は、まさしく悪意の邪推の域を通りこして、反政府宣伝そのもので、デマゴーグに匹敵する扇動活動以外の何物でもない。
関東大震災のときに、「朝鮮人が暴れている」というデマを飛ばして、朝鮮人を虐殺した発想と同じである。
こういうデマを飛ばして、日本を混乱の極みに導こうとするのが、戦後の進歩的文化人であり、戦後の知識人であり、戦後の日本のオピニオン・リーダーとしての声であったわけである。

千鳥が淵戦没者墓苑

境内は人はまばらで、上が開けて明るい広場なので、あまり人の姿が目につくという感じはしなかったが、その大部分はやはり地方からのおのぼりさんではないかと思われる人達が多かった。
それで第1鳥居まで戻り、歩道橋を渡り、堀に沿ってなおも進むと、千鳥が淵戦没者墓苑にきた。ここは二度目である。
靖国神社から堀に沿って歩いてきて、右手に折れるとそこに看板があり、この墓苑の主旨がかかれていた。
その前を通ってほんの少し歩くと、休憩所というべきか、待機所というべきか、そういう感じの施設の前に大きなアジアと太平洋の地図が掲げてあり、何処何処の地から何柱の遺骨を集めてきた、ということが一目瞭然と解るように記されていた。
その図は、同時に、日本が先の戦争で戦域を何処まで広げたか、ということを物語ってもいるわけでもある。
それを見ると、日本の戦域はアジアの全域から、太平洋の全域を含み、オーストラリアにまで広がっているわけで、恐らく地球の1/3以上を占めているに違いない。
今、考えてみると途方もなく広大な戦域であるが、逆に醒めた冷ややかな発想に立つと、この広大な戦闘区域の拡大はあまりにも無謀というか、無茶というか、身の程知らずという事にもなる。
当時の戦争指導者の中には、この無謀さに気がついていた人が果たしていたのであろうか。
ところがこの無謀さが部分的には成功しているので、当時はその無謀さというものに気が付かなかったに違いない。
例えば、真珠湾攻撃の成功に見られるように、はたまたラバウル航空隊の歌にもあるように、ラバウルといえばほとんどオーストラリアである。
部分的には一時的とはいえ、そこまで戦果が上げれたわけで、これらの成功はあくまでも部分的であったが、どの計画も皆このようにうまく成功すると思ったところが、我々の浅はかなところである。
この休憩所の前方50mぐらいのところに、6角形のモダンなコンクリート製の堂があり、そこが納骨堂になっている。
6角形の3方は立ての校倉式の壁になっており、他の3方は開放されたままである。
中央にはうすい茶色の長持ちのような陶製の棺が井桁に組んだ大理石の上に安置してあった。
正面には当然の事、献花台と賽銭箱があったので、傍らの菊の花を献花し、参拝しておいた。身の引き締まる思いがした。
靖国神社が御霊を祭っているとするならば、こちらはその骨を祭っているわけである。
靖国神社が戊辰戦争の御霊を祭ったのが最初だとすれば、こちらは第2次世界大戦と限られているわけで、そのあたりはなんとなくしっくり行かないような気がしてならない。
6角堂はかっての日本の戦跡を6つの区画に分類して、フイリッピン、東南アジア、太平洋・ソ連、中国、満州、内地と区分して、それぞれの区画の地下に納骨されているということである。
現時点で212万柱の遺骨が眠っているとなっていた。
周囲は鬱蒼とした森で、とても東京都内の地とは思われないような静寂の中にあった。
このあたりのお堀端というのは、遊歩道としてよく整備されており、マラソンをしている人が多かったが、如何せんホームレスの多いのが玉に瑕である。
先ほど述べた日本の戦跡を示した地図を見ていて、よくもこれだけ広汎な地域で無謀な戦をしたものだと感慨に耽った。
今の日本人は、あの時代、日本は悪い事をしたという認識をなんとなく持っているが、戦争が「悪」であるという認識は、第2次世界大戦後に生まれたの認識なわけで、その認識は言うまでもなく、日本を敗北させた側の連合国が、日本を裁いたから出来上がったものである。
これが即ち事後法なわけで、第2次世界大戦が終わる前までは、戦争は「正義」であったわけである。
これは、この時代に地球規模で普遍化していた世界の常識であったわけで、勝った戦争は正義であり、負けた戦争は失政であったわけである。
だから主権国家として「戦争に勝つ」ということは、主権国家の大儀として立派に通用していたわけである。
アメリカ人も、イギリス人も、フランス人も、オランダ人も、オーストラリア人も、ソビエット人も、皆この国家の大儀のために戦ったわけである。
しかし、アジアの諸国家の中には、この国家の大儀があったかどうかは大いに疑問である。
なんとなれば、彼らは植民地の人間として、主権というものを持っていたのかどうか疑問だからである。
だから彼らに対して何をしても良いということにはならないが、この時代に日本がアジア、太平洋でこれだけの戦いを演じたということは、人類史上まれに見る大きな出来事ではないかと思う。
十字軍の遠征、ナポレオンの遠征、ジンギスカンのヨーロッパ席捲にも匹敵する出来事ではないかと思う。
太平洋の海戦などはまさしくトラファルガーの海戦に匹敵する出来事ではないかと思う。
19世紀までのアジアの人々というのは、ヨーロッパ人の植民地でとして、抑圧を受けるだけで、反発はできないという思い込みから抜けきれなかったわけで、その事はアジアに住む黄色人種というのは、ヨーロッパ系の白人にはかなわないという先入観を打ち破る事ができなかったわけである。
ところが日本はその先入観を見事に打ち破ったわけで、黄色人種でもやればできる、ということを実証する効果があったに違いない。
この地域の地図を広げてみると、日本というのはまさしく小さな国で、この小さな国が地球の1/3を舞台として白人、ヨーロッパ系の人々と戦ったということは、他の黄色人種に大きな希望を与えた事は確かだと思う。
軍隊という組織の末端では、不合理な行為も多々あったことは認めざるを得ないが、それは進駐した我々の側の人の資質と、それを受けて立つ相手側の出方によって大きく左右されるわけで、不合理な行為の場合もあったが、相手から感謝される場合もあったわけで、日本の軍隊の全部が全部相手を抑圧したわけではないと思う。
お互いが殺しあっている最中の事で、相手の出方とこちらの指揮官の人間としての資質の違いで、明暗が大きく分かれたことは事実であろうと思う。
21世紀に至っても、黄色人種でヨーロッパ系の白人に対してあれだけの抵抗を試みた民族はいない。
朝鮮戦争でも、朝鮮人がアメリカの軍艦を沈めたわけではなく、自分の国に帰ってもらっただけだし、ベトナム戦争でも全くそれと同じで、ベトナム人がアメリカの空母を一隻なりとも沈めたわけではない。
飛んでくる飛行機を打ち落とす事は出来ても、軍艦を沈める事は出来なかったわけである。
これだけ物資の乏しい日本が、世界を相手にこれだけの戦いをしたということは、人類史上極めて稀有な事だと思う。
そんな事を思いながら、この千鳥が淵戦没者墓苑を後にして、再びお堀に沿って戻ってきた。

昭和館の見学

再び田安門を通り九段下に向かう途中、白亜の超モダンなビルがあり、それが昭和館となっていた。
入り口を入ったすぐのところで、案内係の若い女性がいてパンフレットを渡してくれたが、このロビーが既に博物館の縮図になっており、昭和の文物が並べてあった。
その中でも童謡の汽車ポッポの歌が、元は戦意高揚の軍歌だった、というのは驚きである。
「僕等を乗せてシュッポシュッポシュポポ」という部分が「兵隊さんを乗せて」となっているのは驚きである。
そんなわけで、この博物館を見ることにした。
金300円也を払ってまず7階に上り、そこから見ながら降りてくるというシステムになっている。
順路にしたがって見ていると、私の世代では懐かしいものばかりである。
昭和の時代の主婦の姿、生活用具、学徒動員の姿、働く姿、戦後の生活を記した写真等の展示物、その全てが始めて見るものではないが、今は失われたものばかりである。
千人針から慰問袋、5球スーパーのラジオや電蓄等々、見るものは懐かしい品物ばかりである。
始めて見るという物はほとんどないが、それにしても我々がこんな生活用具・道具でよくも生きてきたものだと思う品物ばかりである。
電気パン焼き器など、傑作中の傑作だと思うが、電気関係の仕事をしていた私の父親は、これらを全部自作していたので、私にとっては懐かしい品物である。
5球スーパーも電蓄も私の家には以前からあったので、まことに懐かしい品物である。
7階から6階が展示室で、5階が映像と音響の展示室になっていたが、此処ではコンピュータの検索ができるというので試みたが、使い方が解らず何も検索できなかった。
それで、その下の図書室に行って、この日に巡りあった銅像の人物について調べたわけである。
この図書館は結構利用する人がいたが、恐らくもの書きか研究者であろう。
我々よりも若い世代というのは、体験していないので、文献を調べるほかないわけで、そういう人が利用しているものと想像する。
この時点で15時くらいで、これから東京駅までぶらぶらと歩いて、そこで遅い昼食を取った。
私の癖で、旅先で取材に没頭すると昼飯を忘れてしまうので、家内と一緒の旅行ではこれが元ですぐに喧嘩になってしまう。
それでもまだ帰りの時間までかなりあるので、八重洲口近辺を歩き回ったが、帰りの列車を指定すると、こういうデッド・タイムが出来てしまうので始末に終えない。
時間がないときは、これまた心配で慌てなければならないし、予約をすればしたで時間が余ったときの所在無さがもったいないし、人間というのどこまでも浅はかな生き物のようだ。
帰りの列車では、席の近くで子供が騒いで最悪の状況であった。
この日は戦争について思いを巡らし、思考を練った一日であった。

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