小さな旅・靖国神社参詣

靖国神社  平成13年8月30日

小さな旅・靖国神社参詣

何時もの通院

平成13年8月29日、再度通院のため上京した。
先回から2ヶ月以上経っているが、術後の経過を見ながらの通院の間隔が段々広くなっていったという事はまことにありがたいことだと天に感謝しております。
お天道様も恨まれたり感謝されたりでさぞ大変ではないかと思います。
病気になった時は本当に天を恨みました。
「よりによって何故俺がこんな病気にならなければならないのか」、恨み骨髄に達したというか、自分の不運を嘆きましたが、病気を一応克服できた今、その恨みもどこかに行ってしまいました。
まことに生身の人間というのは利己的で、これではお天道様も苦虫を噛み潰して苦笑しているに違いない。
術後、今までは自分の体をいたわって指定席で上京していたが、近頃は自由席に乗る事にした。
あらかじめ乗る列車の席を指定すると、何が何でもそれだけしか乗れないが、自由席であれば、何時どの列車にも乗れるので、自由度が大きく、早く出発できたときは早く着き、それにつれて診察も早く済ませる事が出来るからである。
この日は夏休みも終わりの時期で、新幹線は子供連れでまことににぎやかというか騒々しく、少々閉口した。
例によって車内では本を読んでいたが、今朝は早起きしたので途中で眠ってしまった。
病院に着いたら何時もより1時間も早く着いて、その分診察も早く終わった。
先生の目視の検査と触診のみで、それこそ1分診療であるが、診療費もわずか140円也であった。
例によって薬も一切なく、まことにありがたいことである。
診察が終わって会計を済ませ、病院の玄関を出て、その左手にある屋外の喫煙所で、「やれやれこれで少しばかり生き延びたか」と思いつつ、一服くゆらせる紫煙のうまさといったらまさしく至福の時である。
この喫煙所の前が駐車場になっているが、この駐車場がいつも混んでいて、駐車待ちの車が列をなしている。実に不思議な光景である。
こんな都内のど真ん中に、車で来れば駐車場がない事は最初から分かっていそうなものなのに、それでも来るという事は、何か特別の事情があるのかもしれない。
入院の荷物、退院の荷物があるのかもしれないが、それでもタクシーを使うという方法もあるわけで、自分の車で来て延々と待っているというのは馬鹿げているように思えてならない。
東京都内というのは公共交通機関が発達している点においてはまことに便利である。
それで此処で一服してから、この日は靖国神社に行く事にした。
これは前々からそう考えていたわけで、小泉首相が首相になった時に公約した、靖国神社参詣というものが、その後隣国の内政干渉によって、参詣の日を変更した事に鑑み、私自身、靖国神社には一度も行った事がないのに気がつき、一度自分の目で見てみたいと思っていたので、この日は迷うことなくそこに出向いた。

都市の再開発について

病院を出て、新橋の駅に来るまでの途中に、道路の左側に大きな都市再開発の工事が行われている。
病院に通い始めた頃はまだ囲いのみで、空き地のままの状態で、こんな都心の真ん中にもったいない事をしていると思ったものである。
此処は元の汐留貨物駅の跡地で、名古屋でも笹島がまだ手つかずの状態で残っているが、笹島よりも先に再開発の工事が具体化してきたわけである。
出来上がれば大きなビルが林立するに違いないが、この様子を見る限りにおいて、日本の景気の低迷というのは信じられない。
日本中を歩き回れば、あちらでもこちらでも大きな建設工事が行われているわけで、いわゆる設備投資が行われている。
しかし、この工事を見てみると、東京一極集中になっている事がよくわかるが、これは大きな問題だと思う。
旧汐留貨物駅という広大な跡地を付加価値のある空間にするには、やはり再開発という事をしなければならないことはよくわかるが、そういう金を東京にのみ投入するという事に対して、世論はもっともっと真剣に考察する必要があるように思う。
物事をこう考えた場合、東京対地方という図式になってしまうが、地方を再開発しようとした場合、必ず環境とか自然破壊との軋轢が生まれるわけで、東京対地方の問題が、再開発対環境の問題にすりかわってしまうわけである。
元の汐留駅を再開発しようといったとき、大鷲の巣をどうするのかとか、地域固有の植物をどうするのか、メダカの絶滅をどうするのかという問題は浮上してこない。
ところが瀬戸の雑木林を万博で使おうとすると、こういう環境の問題が浮上し、諫早湾を埋め立てようとすれば、おなじような問題が提起されるわけで、地方の開発は環境の面から挫折してしまうわけである。
勢い行政、つまり政治をする側というのは反対のない問題を先に解決するわけで、その結果として都市は益々都市化し、東京の一極集中はますますエスカレートするわけである。
地方は益々過疎化するが、それは確かに環境にとってはこの上ない良い事ではある。
しかし、その中で生きる人間にとっても果たして本当に幸せかどうかは分からない。
地方の開発に反対する人々というのは、その過疎の地に住んでいる人ではなく、都会に住んでいる人たちである。
過疎地に住んでいる人の声というのは、過疎なるが故に大きな声にはなりにくいものである。
東海地方では名古屋という都市が大きな都市として機能しているが、東京に比べればまだまだ大いなる田舎の感を免れない。
公共交通機関の不備が致命的な欠陥である。
名古屋の場合、公共交通機関を整備しようとすれば、真っ先に地権者の反対があり、その次に環境保護と称する偽善者の団体が反対ののろしを上げ、遅遅として計画は進まない。
笹島の跡地なども、早急に再開発すればよさそうに思うが、それが目下計画があるのかないのかさえも我々にはわからない。
名古屋市の場合、目下ごみの処分場を探して、あちらの市町村、こちらの市町村に打診しているが、そういうものこそ笹島に持ってくれば良いわけである。
皆が嫌うものこそ都心に持ってきて、嫌われないような合理性に富んだ施設にすればいいわけである。
皆が嫌うものを、嫌われても仕方がないような状態のまま、周辺の地域に押し付けようとするから摩擦が起きるわけで、皆が嫌うなら嫌われなようにすれば、都心に施設を作ってもおかしくないわけである。
この汐留の再開発も出来上りがどのようなものになるか想像もつかないが、とにかく立派なビルが林立する事は間違いない。
40年前、東京で過ごしたとき、新宿西口というのはバラック建ての闇市そのままの姿で、何処から見てもドヤ街の域を出るもではなかったが、今では都庁になっている。
40年前に今の都庁を想像した都民が居たであろうか。私自身信じられない。
まあそんなことを考えながら板塀に沿って新橋まで歩いてきて、そこからJRで東京駅に出た。
東京駅に着くと、いつもは八重洲口に出るのだか、今回は皇居側に出た。

東京駅から九段下

こちら側が本来ならば東京駅であるが、この半世紀というもの、八重洲口の方がメインになってしまった。
この東京駅の赤レンガの建物も時代の波にはついていけず、あちらでもこちらでも内装工事をしており、おしいというか、無秩序というか、時代の変わり目というか、とにかく混沌とした情況を呈している。
私はこの地あった一丁ロンドンという景観をまだ記憶に中にとどめている。
東京駅の対面に、東京駅とマッチした景観として、三菱村と称せられる赤レンガの建物が並んでいた。
今、その面影は微塵も見当たらないが、この瓦礫の赤レンガの東京駅の北口から皇居の堀の方に歩いていった。
靖国神社というのは、未だに一度も行った事はないが、目星はついている。
先回、何時頃か忘れたが、やはり通院の帰りに、皇居を一回りしたとき、千鳥が淵の戦没者慰霊碑を参詣した折り、場所だけは確認しておいたが、その時は時間がなくて割愛した事があった。
今回はその逆周りで行ったわけで、おおよその見当はついているので、大体の感で行くことにした。
それで東京駅を出て道なりにまっすぐ皇居の方に歩くと堀りにぶつかり、これが和田蔵門であった。この門の脇には交番があった。
この堀りに沿って右手の方に歩いていけばたどり着けるわけであるが、その途中クランクになっており、堀りに沿っては歩けない部分があった。
そこには何とかホテルがあり、それを過ぎて再び堀りに向かい、角を曲がったところに竹橋という地下鉄の降り口があった。
この周囲が小さな公園になっており、手入れが行き届いているとは言い難いが、そこには大きな立像があった。
青銅が苔むして緑色になっていたが、その足元の銘板を見ると和気清麻呂公の像という主旨が記されていた。
和気清麻呂という名は聞いた事があるような気がしたが、さっぱり記憶の糸を手繰る事が出来ないので、帰りに昭和館なるところの図書室で調べてきた。
それでもあまり要領を得なかったが、要するに君に対して非常に忠実であったが故に、皇紀2600年の記念に、その忠君愛国を鼓舞宣伝するため、皇居の傍に立像として奉られたもののようである。
こういう歴史上の真偽も定かでないような話を、軍国主義に結びつける発想というのは、今から考えると実に姑息な政治手法なわけである。
が、これを受け入れる側の心というものを、深く深く考察し、我々は自分達の持つ民族性というものを再度認識しなければならないと思う。
それは戦後の民主主義についても同じ事が言えているわけで、我々はそういう政治スローガンに極めて弱く、信じ込みやすい性質を持っているようだ。
和気清麻呂の像の銘板を見ていてそういう感じを持った。
ただそれだけの事で立派な像を建立するというのも大いなる無駄のような気もした。
その傍には不細工なイチョウの木があり、それには「震災のイチョウ」と記され、関東大震災のときに生き残った木と書かれていた。
関東大震災で東京が焼け野原になった中で、泰然と立っていたので、被災した人々に希望の火を灯し続けた、という意味の事が書かれていた。
それからほんの少し離れた場所、平川門には畳一畳ほどの大きな石の碑があった。
まるで石舞台のように素朴で大きなものであるが、これは又実に質素な太田道灌の碑であった。
太田道灌といえば江戸城を作った人であるが、その人の碑がこんな城の外にあるというのも不思議な気がする。
考えてみると、江戸城というのは日本の統治の象徴として作られたわけではない。
あくまでも室町時代に関東、いわゆる武蔵野の地に、地方豪族の居城として作られたわけで、その後徳川250年の間に色々改修・改築されたに違いない。
大田道灌の作った最初の城というものは、当時の時代状況にあったものに違いない。
江戸時代においては、皇居というものは京都にあったわけで、明治維新で遷都したから、それまでの徳川家の統治の象徴であった江戸城というものが、新制日本の国家統一の象徴として利用されたわけである。
明治維新当時、日本がもっともっと力があれば、今の皇居とは別の場所に新たな皇居を作っていたかもしれない。
太田道灌が江戸城を作ったというと、我々は今の皇居を連想するが、案外それは我々の早飲み込みだったかもしれない。
だから道灌の碑が質素なものになっているのかもしれない。
皇居のお堀もこのあたりになるとかなり深いところに水面があり、中では大きな鯉や亀がおよいでおり、水鳥もいるわけで、片一方はまぎれもない近代都市でありながら、道路一本挟む事でまるで別世界である。
しかし、このお堀も人間のモラルのない行為の犠牲になって、水面にはビ二―ルらしきものや、発泡スチロールが浮遊しているのは見るに忍びない。
そう思いながら歩いてくると、又地下鉄の降り口があり、これにも竹橋となっているところを見ると、恐らく地下鉄のホームの両端が出入り口になっているに違いない。
この竹橋というのは、皇居の方に入る道と、堀の周辺に沿っての道との大きな交差点になっており、車の往来が殊のほか激しい。
で、私は堀に沿って歩いたわけであるが、これから少しばかり登りになっていた。
その途中に千代田区役所というのがあり、中に入って何か参考になるパンフレットでもないかと思ったが、一向にそれらしきものは置いてなかった。
その次ぎに現れた建物が九段会館である。
これも由緒ある建物で、表面はまさしくレンガ作りで、明治の威風を誇っているようにも見えたが、如何せん時代遅れという感は免れない。
此処には結婚式場も備わっているが、果たして今時此処を利用する人はいるだろうか、と要らぬ心配をしたものである。
この九段会館の横に昭和館なるものが超モダンな建物として出来ていたが、要するに昭和の文物を陳列したものであった。
此処には帰りに立ち寄って、いろいろ調べものをした。
この隅に「蕃書調所の跡」というの碑が立っていたが、これは要するに江戸幕府のシンク・タンクであったわけで、それを遡れば東京大学の元と考えてもいいのではないかと思う。
此処で左に折れると登り坂となり、いよいよ靖国神社になるわけであるが、此処は九段下で、坂の上は田安門であった。

田安門界隈

皇居の側から見れば、田安門を出た端に靖国神社が祭られている事になる。
此処から皇居の方に向かえば武道館に行けるわけであるが、今回は武道館は割愛することにして、靖国神社に行く歩道橋のたもとに2,3モニュメントがあったのでそれを見てみることにした。
第一に目に付いたのが灯台のような建築物で、木造の大きな燈篭の上の部分が灯台になっており、その上の屋根にはこれまた大きな擬宝珠がついており、その部分がまたまた金色に輝いていた。これは高燈篭というものであった。
この金色の擬宝珠というのは、私の感覚からすると一番嫌いな色彩である。
燈篭のような灯台と言うか、灯台のような灯篭というかわけのわからない建築物の横に、これまたフロックコートを着た青銅の像があり、これには品川弥次郎の像となっていた。
この人名も聞いたような知らないような名前なので、帰りに例の昭和館で調べた。
それでおおよその見当はついたが、要するに昔の長州の出身で、吉田松蔭の松下村塾の塾生であり、尊皇攘夷論者であったが、新政府に帰依してからは洋行したりして内務大臣にまでなり、そのこ功績としては皇室財産というものを確定したり、藩兵を解体したり、帯刀を禁止したり、徴兵制度を採用したりと近代日本の礎を築いたわけである。
しかし、不平士族の反感を買い暗殺されたというものであった。
そしてこの像のとなりには大山巌の騎乗した銅像があった。
大山巌といえば日清戦争で活躍したという事は知っていたが、これについても念のため調べてみると中々面白い経歴の持ち主である。
出身は薩摩で、西郷隆盛・従道兄弟とは従兄弟同士になるという事である。
それでいて西南戦争では政府側についていたわけで、田原坂・城山の戦いでは勝利を収め、日清戦争では第1軍の山縣有朋に対して第2軍の司令官として活躍したわけである。
後には参謀総長にまでなったわけで、まさしく軍神というにふさわしい人物のようだが、その後妻というのがこれまた傑物で、捨松という女傑で、岩倉具視の第一回のアメリカ視察に同行して、あちらで教育を受け、津田梅子と同じ時に帰郷したという事である。
その上、彼女は仇敵の会津藩士の娘と来ているので、当時の常識からすれば破天荒の夫婦であったに違いない。
そして、その像というのは、馬にまたがったまさしく凛々しいという形容がぴったりの威風堂々としたものである。
しかし、おしいかな、その足元というのはホームレスの寝場所となっており、ダンボールやビニールが散乱して、まともな人間は近寄りがたい光景である。

靖国神社境内

此処まではまだ靖国神社の中ではなく、境内の外である。
その間には大きな道路があるわけで、車の往来が激しく、大都会そのものである。
それで歩道橋を渡ってみると、靖国神社の第1鳥居が現れたわけであるが、この神社の正面というのは、我々が持つ伊勢神宮や熱田神宮の趣とは全く違って、実にあっけらかんとした佇まいである。
私は伊勢神宮や熱田神宮のように、鬱蒼とした森に囲まれた、荘厳な趣の中にあるものと思い込んでいたので、まるで意表を突かれたという感じである。
鳥居は天空にそびえ、両側に並木があるとはいえ、真ん中の参道が非常に広く、太陽はさんさんと照り輝いている神社である。
今まで私が靖国神社に関心を持たなかったのは、やはり、あの島倉千代子の「東京だよおっかさん」のイメージが払拭しきれず、なんとなくおのぼりさんの集まるところという感じがして、生意気盛り若者(40年前の若者)の関心を引き付ける要素に欠けていたからである。
しかし、知識としては戦没者が祭られているという事は知ってはいたが、厳密に言うとこの認識は少しばかり本旨から外れていたわけである。
その事は今回改めて調べてみて解った。
第1鳥居を潜ってみると、右手にはいくつかの碑が建立してあった。
最初のものは常陸丸殉難記念碑というもので、これは日露戦争のとき軍需品及び兵員を輸送していた常陸丸という輸送船が、敵の軍艦三隻に攻撃を受け、海に沈んだ同胞の鎮魂を願うものという事であった。
次に出てくるのは、田中支隊忠魂碑というものであった。
こちらの方は大正7年から8年にかけてのシベリア出兵中の戦闘の犠牲者を弔うものであった。
その次に出てきたのは碑ではなく泉で、これはこういう場所にはそぐわないようなデザインだと思うが、四角の超モダンな構築物の奥から水が出てくるというものであった。
戦地で倒れた兵士達は、皆末期の水を求めながら死んでいった事にちなみ、その願いをかなえるという意味が含まれているものらしい。
此処よりほんの少し進むと、参道の真ん中に立派な大村益次郎の立像があったが、広大な参道の真ん中の、しかも木々があまり大きくない中で泰然と立つ旧日本陸軍の創始者としての彼の像というのは、いささか時代錯誤の感がする。
旧ソビエット連邦で、あちらにもこちらにもレーニンの像があった(テレビの映像でしか知らない)のと同じで、こういう偶像崇拝にもつながりかねないような像をこうも大々的に、これ見よがしに設置するのはあまり芳しい事ではないと思う。
しかし、靖国神社というものの本質を考えると、こうならざるを得ないのかもしれない。
これを過ぎると参道を横切る道路の前に休憩所があり、そこではビールを売っていたので、汗もかいたことだからと思って小さい缶ビールを求めたところ、金400也と言うのでいささか腹が立った。
が、「まあ仕方がない」と、言うなりに支払ったが、これだから私は観光業者というものが大嫌いである。
自販機で買えばわずか230円のものに随分吹っかけている事に腹が立った。
此処は今でも恐らくおのぼりさんが真っ先の来るところだろうと思うが、地方から出てきた素朴な人を相手に、こういうあくどい商売をしているわけである。
この道路を渡ると第2鳥居があり、その左手に手洗い場があった。
ここで口をすすいで拝殿に向かった。拝殿では神妙にお参りをしておいた。
しかし、考えてみると、私には戦争で犠牲になった親族というものがいない。
父親の兄弟、つまり私から見て叔父さんに当たる人は、戦没している事は確かであるが、私自身はその叔父さんたちとは全く面識がなく、記憶にもないので、身内に戦死者がいるという感じがしない。
父は兵役免除で、戦争には全く行っていない。
私の父が五体満足でありながら何故戦争に行っていないのか子供心にも不思議であった。
本人は軍需産業に携わっていたから召集がなかった、といっていたが、軍需産業にいたことは確かだとしてもやはりその人その人の運があったのではないかと思う。
近所の年寄りは、3回も召集されながら3度とも無事に帰還し、生き残っている人もいるわけで、此処に祭られている人たちというのは、きっと運がなかった人たちに違いない。
私自身は戦争犠牲者という関り方は全くなかったけれども、数多の戦争で、日本のために戦った挙句、此処に祭られた不幸な人たちのために、心から参拝をしたわけである。
そこで、この靖国神社とはそもそもどういうものか、ということが知りたくなって、家に帰ってから図書館で調べてみようと思いつつ、ぶらぶらとあっちを見たりこっちを見たりしながら、もと来た道を戻ったわけであるが、これも先ほどの昭和館でついでに調べてみた。
此処の図書館の大日本百科全書というもので調べてみた。

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