奇妙な事件の続発

悪用される文明の利器

9日年が明けてからというもの、おかしな事件が立て続けに起きてマスコミを賑わしている。
一つは、インターネットで、毒物を売買して、それで双方が自殺してしまうという、妙ちきりんな事件であり、もう一つは、携帯電話の伝言ダイアルで知り合った女性に薬を飲ませて金を取る、というこれも如何にも世紀末にふさわしい事件である。
インターネットとか携帯電話等という文明の利器が犯罪に使われるということが我々、旧世代の人間にはどうしても不可解なことに思われて仕方がない。
しかし、よくよく考えてみれば、究極の兵器といわれる核兵器やミサイルも、人間の文明の究極の終着点であったわけで、インターネットや携帯電話のみが文明の利器ではないわけである。
しかも、こういう文明の利器を使いこなせる世代というのは、非常に若い世代で、若い人ほど文明の利器を使いこなすことに長けているわけである。
そして、1月10日のNHKの教育テレビで、12時間にわたって放映された、「教育テレビ40周年記念番組」を見ていたら、この中で、小中学生と彼等の先生達が両方にわかれ、それぞれ本音で議論する場面を見た。
この番組を見ていたら、つくづくと旧世代と若い世代の意識のずれというものを身をもって感ずることが出来た。
若い世代というのは、口だけは達者であるが、まことに物を知らないということであり、彼等の先生にあたる人達といえども、私から見れば、一世代若い人達であり、その生徒ということになれば、私から3世代前の人々ということになる。
妙な事件を引き起こした人々というのも、私達世代から見れば一世代間隔があくわけで、この世代間の違いというのは、それこそカルチャー・ショックそのものである。
今の小中学生というのは知識というものをすごく豊富に持っているわけで,彼らの議論は大人顔まけの議論をしてくるが、如何せん、半人前の人間という自覚に欠けている。,br> その欠けた部分を、彼らの先生方も認識しておらず、彼ら小中学生と同じ土俵で相撲を取ろうとしているところに議論の軋轢が存在している。
小中学生を前に、誰一人、お前達は半人前の人間だから教育を施さなければならない、という説明をしないものだから、彼らが付け上がるわけである。
人間、18歳前の人間と、18歳以上の人間では、自ずから人間としての違いがあるのだ、ということを誰一人彼らに対して説明しないものだから、世の中全体がおかしな方向に走ってしまっているわけである。
少中学生が「何故、因数分解を学校で習わなければならないのか、それが社会に役に立つのか」とい云う質問に対して、彼らを納得させるだけの答えを出し切れていないので、彼らは衆を頼んで傍若無人にのさばってくるわけである。
「お前達は半人前の人間だから、今これを習うのであって、これらは将来何かの役に立つことがあるからこそ、今習っているのだ」とはっきり言えばいいのである。
こういう風に、大人の盲点を突いてくる若い世代が、その実、案外友達同志の陰口を気にして、贔屓のことで執拗に先生方に食い下がっていたが、贔屓されないものが羨んで贔屓の事を言っているのかと思うと、そうではなく、贔屓されると友達同志の意思の疎通に齟齬を来たすから困る、というものである。
ここに見られる青少年のあり方というのは、大人と子供という在り方よりも,乃至は、先生と生徒という人間社会の縦の関係よりも、子供同志という横の関係が彼らにとってはより大事なわけで、こういう社会というのは極めて成熟した社会ということもいえると思う。
硬直した封建社会では縦の関係が重視されたわけで、それが極めて民主化された社会では、横の関係がより重要になってくるのであって、それを突き詰めれば、最期は衆愚政治に行きつくものと思う。
我々が幼少の頃には自動車もテレビも電話も、それこそ文明の利器としてまだこの世に存在していないか,していても高嶺の花で、とても庶民の手に入らない代物であった。
それが今の小中学生というのは、そういうものに囲まれて生活しているわけで,それらの代物から得る情報量というのは、我々の子供の頃の比ではない。
小中学生が公開の場でどうどうと物怖じすることなく自分の意見を述べるということは、我々の子供の頃には考えられないことであった。
その意見が間違っていようがいないが、臆することなく自分の意見を言う、ということはある意味で素晴らしい事であるが,こういう世の中になったということは、戦後の民主教育の賜物に違いない。,br> しかし、この有り余る情報の中で、こういう小中学生に代表される若い世代に対して、大人の側の意識が立ち遅れているような気がしてならない。
大人が子供に対して自信を喪失しているところがある。
子供が大人も顔負けするような議論を仕掛けて来たとき、大人の側が、彼らを自分と同じ大人として扱ってしまい、同じ土俵での議論に引き回されているので、議論がかみ合わないわけで、彼ら小中学生というのはあくまでも半人前の人間で、学校教育というのは、立派な社会人を養成するための機関である、ということを知れしめるべきである。
18歳にも満たない人間が、自分の通知表とか内申書を気にすること自体が精神的にいびつで不健康である。
日本人の平均寿命が80歳になろうとしているときに、15や16の人間が、中学校の成績や内申書の中身を心配すること自体、育ち盛りの子供の精神構造上おかしな事で、子供らしくなく、大人の、しかも非常に老獪な生き方の見本のようなものである。
冒頭のおかしな事件の被害者も加害者も、共にこういう世代を代表しているわけで、インターネットにしろ、伝言ダイアルにしろ、縦の関係を否定し、横の関係で成り立っている代物であり、若い世代というのは、そういうものに依存しがちであるという事を端的に示しているように見える。
そのことは学校現場にも普及しているわけで、それが学校の現場に浸透するということは、その後ろにいる父兄の影響が大きく作用しているということを強調しなければならない。
文化的な生活というのは、大衆の願望が叶えられたということと同一なわけで、自動車も、テレビも、インターネットも、携帯電話も、子供が弄ぶ前に大人、つまりは大衆が先に手をつけているわけで、子供は大人の鏡でもあり、大人が買い与えなければ子供は手がつけられないわけである。
アルバイトをして子供が自分で買ったといったところで、そのアルバイトを認め、子供が自分で買うことを良しとする風潮を改めないことには、何時まで経ってもこういう風潮は是正出来ないに違いない。
戦後の民主化の風潮の中で、戦前の封建制度下の社会と大きく違った点は、父権の失墜だと思う。
父親の権威、一家の主の権威の失墜だと思う。
戦後の食うや食わずの時代、一家の生計のためにという大義名分でもって、専業主婦というのが成り立たなくなってしまい,主婦といえども働かざるをえず、働けばそれなりの収入を得、収入を得れて家計を助ければ、それについて発言権もそれなりの拡張するのは致し方ない現象であった。
そのことがとりもなおさず父親の権威の失墜に直結していたわけである。
父親が権威を失墜させると、子供に対する発言権も、それに応じて弱くなり、自分の子供に対して何も言えない父親となってしまったわけである。
如何なる民族であろうとも、親に逆らわない人間、などというものは文明を逆行させるだけのものでしかないとは思う。
人類の進化というのは、親を乗り越えて始めて達成されるものに違いないとは思うが、今、我々、今日の日本人の置かれている立場というのは、そういうものとはあまりにも掛け離れた現象ではないかと思う。
今回の妙な事件の被害者も加害者も、20歳代前半の若い世代であることから察すると、彼らの親というのは、当然、私と同世代になるのではないかと思うが、その親がどういう子育てをしたのかという点が、大いに気になるところである。
インターネットを使うには自分のコンピューターが必要であるし、携帯電話にしても、他から購入しなければならないわけで、それを彼ら彼女らの親がどう見ていたのか、という点が一番気になるところである。
20歳を過ぎた子供に親が説教したところで子供の方で無視することはわかっているが、ここのところに最大の問題が潜んでいるのである。
コンピューターにしろ、携帯電話にしろ、その物自体はまさしく文明の利器で、我々の日常生活をより豊かにしてくれるものである。
問題は、その使い方であって、彼や彼女達の使い方というのは、それこそその物自体の使い方としては邪道のほうで、そういう文明の利器を邪道の使い方をしてまで横のつながりをしようとするところが極めて現代的というか不健全な発想である。
そういう不健全な発想をする育て方をしたところに大きな問題が潜んでいるのではないかと思う。
もう一つ、その前に、日本の戦後の経済発展というのは、あまりにも物を作りすぎて,それをあまりにも安く庶民に提供しすぎたように思う。
20歳にも満たない人間が、アルバイトをして車を買うという事を考えただけでも、日本の物、日本の工業製品というのは、安すぎるように思うし、20歳前後の若者が車を買うという事を万人が認めていること自体、本来のモラル、本来の人間の生育に反しているのではないかとさえ思う。
つまり、日本の経済競争というものが、若者の精神を蝕んでいるのではないかとさえ思える。
20歳前後の青二才が、車を持ち、コンピューターを持ち、携帯電話を持ち歩くこと自体が社会の歪みであり、そのことは日本の経済成長そのものが、今日の日本の若者をいびつな人間に仕上げているのではないかとさえ思える。
20歳前後の若者には、車もコンピューターも携帯電話も不要だ、という事を大きな声で言う人がいないし、世の人々が暗黙のうちにそのことを認め、それが分不相応なあり方である、という事に何の不満も言わず、危惧も示さず、迎合しているからこそ、こういう奇妙な事件が起きているに違いない。
今の小中学生というのは、こういう物質文明の中で生を受け、こういうものに囲まれて成長しているわけで、これらから得る情報量というのは、それこそすさまじいものがあるように思う。
未完成な人間が、すざましい情報の嵐に晒されながら、縦の関係を否定し、横の関係に生きようとしているわけで、そういう状況であってみれば、学校の教育も大きく変わらなければならない時期に来ているように思える。

義務教育の終焉

日本の過去を振り返ってみれば、250年間も継続した江戸時代を脱却した直後の日本にはまだまだ字の読めない文盲も多く、全国民に初等教育を施すことが近代化の一番の早道であった。
それで明治時代にはいって、日本人の全部に同じような教育をしなければならない、というわけで日本の津々浦々まで小学校が出来、中学校が出来,それを文部省が管理運営して来たわけである。
日本人の全部に同じような初等教育をしなければならない、と思われた時代は今から100年以上も前のことで、今の日本の現状というのはその当事,夢想だに出来なかったことである。
こういう日本の教育の発展段階を見てみれば、教育の発想そのものが今の日本にはマッチしていないということは一目瞭然で,今の教育問題の根幹は、教育に対する発想の根源にかかわっている問題だと思う。
戦後だけでも54年を経過しているので、その間に教育に対する意識も、要求も、意義も大きく変わっているはずである。
それを100年前の発想のまま今日に生かそうと思うこと自体間違っているように思う。
人が宇宙に飛び出し、それを世界中の人間がテレビで見る時代に、ペリーが黒船に乗って横浜に来たときと同じ発想でもって人を教育しようとしても時代感覚に合わないことは当然な事であり、やはり人工衛星が地球の周りを飛びまわっている時代には、それにふさわしい教育というものをそれなりに構築しなければならないと思う。
戦後の54年間の教育というのは、その制度が終戦直後に進駐軍の圧力で出来上がった、という事を考えれば,システムそのものを見直す時期にきていることは論を待たない。
そのシステムを再構築するときに問題となってくることが、戦後の日本の民主主義というものだろうと思う。
今の我々を拘束している思考といえば、いわずもがな、戦後のアメリカ流の民主主義なわけで、今教育が崩壊の淵に立たされている根源のところにも、この戦後民主主義の影響が多々あるわけである。
子供が臆面もなく先生を批判する、ということも戦後のアメリカ流の民主主義の賜物には違いないが、そこにはアメリカ流の民主主義というものを履き違えた部分があるようの思えてならない。
自分の意見を率直に堂々と人前で言える、というところは戦後の教育の素晴らしいところであるが、この批判精神というのは、見方を変えれば、その前提条件として、人間の普遍性としてのモラル、長幼の功というものを否定している部分があるように思う。
その第一は、親が子育ての本質を忘れているということだと思う。
子育てばかりではなく、親が親として生き方、在り方、そのものを忘れ、自己の幸福のみに安住し、自分だけが良ければそれで良し、という風潮に顕著に表れているように思える。
先に、一家の稼ぎ手が父親だけでは生きていけれないので、母親も働くことによって何とか戦後の家庭というものは糊口をしのいで来たと述べたが、母親も稼ぎに出ることで、生活は少々ゆとりを持てるようになった、というのは歴史的な事実であろうと思う。
だとすれば、人間は貧乏よりも少しでもゆとりある生活がしたいわけで、戦後の日本人の欲望というのは、経済的なゆとりを確保することは何にもまして「善」であるという認識に日本人が汚染されてしまったわけである。
そういう精神的な洗礼を受けた戦後2世乃至は3世の世代というのは、夫婦で働くことで人並みな生活を享受しようとしたわけである。
夫婦で一生懸命働けば子育てがお留守になることは理の当然で、勢い、子育てのうちの躾という問題も、社会の問題とか、学校の問題として責任転嫁してしまうわけである。
今の日本では夫婦で働くことを美徳とする風潮が普遍的で,新婚夫婦で家に子守りがいない場合、社会で赤ん坊の守りをするのが当然である、というような思考が大手を振って罷り通っている。
しかし、これはあまりにも身勝手過ぎる発想であり、誰かがそれは間違っていると言う事を言わなければならないと思う。
母親が働きに出、収入を得てくる以上、父親の発言権はそれだけ下がる事は致し方ないし、一家の中で父親の権威がそれだけ失墜することも致し方ない。
戦後強くなったものに女と靴下といわれた時代があったが、女が強くなる事は結構なことで、男女平等という理念も素晴らしい事であるが、平等ではあってもそこには役割分担というものまで否定したわけではない。
男と女という性差にまつわる役割分担をきちんと認識することは、今後とも必要なことだと思う。
何でもかんでも平等にすれば人間は幸せになれる、というのは間違っていると思う。
学校という教育システムというのは、当然、そこには教える側と教えられる側という立場の違いというものが永久に存在しつづけるわけで、この立場というのは教育にかかわっている間はついて回ることである。
今、1月10日の教育テレビを見ていて末恐ろしいと思うことは、小中学生が先生に対し,すなわち教える側に対し、注文を付けているという事である。
教育テレビ40周年記念ということで、全国から集めた小中学生に意見を言わせたわけであるが、教育、特に義務教育ということであれば、教えられる側、教育を受ける側が教える側に対して文句を言うこと自体おかしな事で、人間として半人前の人間ならば、年長者である先生方に対して、だまって教育を受けていればいいのであって、そういう立場の子供が、通知表の中身や内申書の中身を気にする事自体がすでに子供の領域を逸脱した半大人の世界である。
よって、大人の側が子供に擦り寄って、今、子供達が何を考え、何に悩んでいるか、などと聞く事自体がすでに子供に迎合しているわけである。
人間はこの世に生れ落ちたときから悩み、苦しみ、迷い、煩悶し、絶望し、悔しい思いをしながら成長するわけで、そういう生き様に対して、いちいちハウツウを授けれるわけがない。
それを乗り越えるのは、本人の能力と知性とやる気しかないわけで、小学生や中学生が通知表や内申書の中身を気にして生きること自体、不健全であり、子供らしくなく、大人びた生き様であるように思う。
そのこと自体が大人の社会の生き写しでもあるわけで、今、日本の社会を構成している人々の考えがそのまま現れているように思える。
同じ番組の中で、先生方だけの討論の中において、「タイタニック号と同じで、先生も、生徒も、親も学校も全部船と一緒に沈みつつあるのが今の日本である」と言われた先生がいたが、まさしくその例え話の通りである。
生徒同志の議論では、いじめの問題にも大きな時間がさかれたが,人の集まりからいじめをなくしようという発想そのものが戦後の日本の民主主義の、皆一様に、平等に、という発想の延長線上にある思考だと思う。
人間の集団にはいじめは付いて回ることで、それを跳ね除け、克服し、超越すること自体が人の生き様であるわけで、決して勧められることではないので無くすに越したことはないが、根絶できるものではない、ということ大人はもっと言うべきである。
いじめという言葉で問題提起がなされているが、そのこと自体が既に社会の縮図である、ということを大人はもっと声を大にして言うべきである。
政治家の派閥抗争から、会社内の出世競争に至るまで、いじめの構造はついて回るわけで、人は生きている限り、大なり小なりいじめは付いて回る、ということを人はもっともっと言うべきである。
決してそれは良いことではないが、良いことではないけれど人間の習性として解決出来ない問題というのもあるわけで、その最たるものが戦争であり、泥棒である。
人は生きる上でそういうものから逃れては生きられない、ということをもっともっと我々は知るべきであるが,戦後の民主主義というものはそういうことを否定し,人は本来善意に満ちた存在だ、という事を強調しすぎたためと思う。
人は生まれながらにして平等だ、という発想の中には、この世の人間はすべて善意の塊ばかりで、悪人は一人も存在しない、という思考が根底に横たわっている。
我々の戦後の民主主義、アメリカから強要された民主主義というものは、アメリカン・デモクラシーが根底にあるが,アメリカン・デモクラシーというのは性善説を根底に秘めたものではなく、性悪説がその根底に横たわっていたにもかかわらず、その真髄を見抜くことなく、その表層部分のみ早飲込みをしたがゆえに、こういう思想が日本に蔓延したものと思う。
アメリカン・デモクラシーの根底には、悪人から身を守るために、多数の意見を集約して対処しましょうというもので、その思想、思考の向こう側には、常に悪人の存在というものが隠されているわけである。
ところが、我々はその思想や思考の向こう側にある悪人の存在というものを無視し、民主主義の向こう側に横たわっているのはバラ色の天国だという発想でもって,それに少しでも近づこうとするところが戦後の我々の民主主義であったわけである。
戦前の我々の先輩諸氏の生きた時代に比べれば、戦後に育った我々の生活というのは数段と民主化され、自由であり、開放的であり、何をしてもお咎めなく、言いたい放題したい放題で、全く自由奔放という中で育ったわけである。
そういう環境であれば、当然そこには自然の摂理というものが入り込み、自然の原理に支配され勝ちになるのは致し方ない。
今の日本の現状というのは、社会的な規範が崩れ,社会は自然界に近づきつつある状況のように思われてならない。
人間の社会というのは、人の理性でお互いを拘束し合い、秩序をつくり、自分たちで作った秩序の中で生きましょうというものである。
今、その秩序というものを皆で否定しようとしているのが今の日本の現状である。
社会を構成している秩序、社会の骨組みであるところの秩序、社会的規範というものを否定する、ということは自然界に戻るということにほかならず、自然の摂理に身を任すということである。
20歳前後の若者がインターネットで薬物の売買をしたり、中学生が学校の先生に暴行を加えたり、という現象は既にそうした一部の人間が自然界に戻ってしまっているわけで、精神的に農耕民族の元祖なり、狩猟民族の元祖に、先祖がえりをしてしまっているわけである。
まさしく縄文時代の人間であり、弥生式土器の原始人の精神構造である。
今、差別用語が厳しく規制されているので、こういう言葉は使いきれないが、昔は「土人」という言葉が有り、「野蛮人」という言葉があったが、まさしくそういう言葉でしか言い表わせない人種である。
人間として、社会人として、ごくごく普遍的な常識とか、規則とか、秩序とか,社会的規範というものが通用しないという意味で、そうとでも言わなければ言い表わし様がない。
今の日本は全国津々浦々に至るまでこういう自然人、原始人になってしまったので、こういう国を再建しようと思えば並大抵のことでは成し得ない。
アメリカン・デモクラシーというものには歴史がない。
わずか200年足らずの間において、人々の生き様を規制するというか、より良い生き方を模索する中で民主主義というものが出来上がったわけで、その成り立ちの裏には、ヨーロッパにおける何千年にもわたる歴史の糟、歴史のスラッジ、濁り、ヘドロのようなものが有り、その上民族間の軋轢も重なり、そういうものを超越して人々が生きていく手法、手段として民主主義が生まれたのではないかと思う。
それに比べると、日本では、日本という国ができる以前から狩猟民族がおり、農耕民族がいたわけで、その歴史の延長線上に今の我々がいるわけであるが、ここに至るまでには大きな歴史の波をかぶり、外来文化の洗礼を受け、様々な試行錯誤の末、現代に至っているわけである。
そういう歴史上の試行錯誤の中でも、今の日本の程、規制の網のゆるい時代というのは過去にはなかったことだろうと思う。
江戸時代を経て、文明開化の明治維新を経、近代化の道をまっしぐらに突き進んだつもりが、け躓(つまず)いて、元の無一文に舞い戻ったのが1945年、昭和20年の敗戦であった。
この時の世直しというのがアメリカ主導のアメリカン・デモクラシーの押し付けだったわけであるが、このことは戦後の日本人にとっては非常に有利に作用していたはずである。
私のような昔のことを知っている人間にとっては、このことは非常に有りがたいことに見えたが、その後の世代にとっては、日本が無一文からここまで立ち上がったという経過がわからず、日本は最初からこういう豊か国であったに違いないと思い込むのも無理はない。
この無一文から豊かな国になる過程において、行なわれた教育が今日の若い世代に大きく影響していると思う。
無一文から豊かな国になる過程において、我々は経済復興に血眼になり、自分たちの子孫を立派な社会人に養育する、という観点に欠けてところが有るように思われる。
確かに、食うや食わずの環境の中で、生きんがためにまず最初にしなければならないことは、働いて金を得、それで食料を買うことであった。
子供の教育などにかまっているわけにはいかず、ついつい学校任せにして、気がついたときには親に反抗する年頃になってしまい、親のいうことなどに耳を貸さない時期に達してしまっていた、ということもままあったに違いない。
子供の時期に親に反抗するというのは、ある意味でその子が正常な精神の発達をしているということでもある。
問題は、こういう風に正常に発達してきた青少年の精神に対し、大人の側、親の側、学校の側、社会の側の対応がまずかったので今日のゆゆしき問題が派生してきたのである。
青少年に対する対応の拙さ、というものを助長したのが戦後の民主主義を旗標にした一部の偏狭な主義者、いわゆる戦後の日本で、肩で風切る勢いでのさばった左翼といわれる人々である。
この左翼に活動の場を提供したのも、いわずもがな、進駐軍と言われるアメリカであり、アメリカが日本の古い封建制度というものを粉みじんに粉砕したが故に、左翼と呼ばれる共産主義者どもが日本を混迷の淵に引きずり込んだのである。
戦後の日本で、オピニオン・リーダーとして言論界をほしいままに牛耳ったのは、旧ソビエット連邦や中華人民共和国を桃源郷と見間違えた日本の共産主義者と、それに同調した、いわゆる付和雷同の輩たちである。
そういう人達が、民主化とか、民主主義というものの本質を知らないまま、その表層のみを鵜呑みにして、真の民主主義というものを最期まで理解することなく、50有余年というものを過ごして結果として今日の混迷があるわけである。
いわば、天に唾して其れが自分自身に降りかかって来たわけである。
いわゆる団塊の世代が、自分の子育ての結果として、こういう自然人に帰ってしまったような精神の人間を作り上げたわけである。
この現象は明らかに戦後の民主教育の結果であると思うが、今の日本人でそういう事を公の場で発言する人がいない。
それを言ってしまえば、戦後の我々の生活を全否定しなければならなくなってしまうので、それを言うわけにはいかず、さりとて、今後教育制度をいくら弄くってみたところで、いまさら規制を強化し、老幼の序を説いたところで、それを受け入れる場が存在していない。
縄文時代の人間や、弥生時代の人間が車を乗り回し、インターネットを使いこなし、携帯電話を弄んでいるわけで、彼らの精神の荒廃というのは、まさしく前時代的なものである、ということを今の日本の大人は知るべきであると思う。
先ほど、土人という差別用語を使用したが、今は発展途上国の人といわなければならない。
こういう、発展途上国の人が、いきなり車やインターネットや携帯電話を使ったとしても、これほど悪意に満ちた使いかは恐らくしないに違いない。
そういう土人並の精神からは、こういう事件は恐らく起きてこないと思う。
こういう事件が起きることの背景には、やはり原始人にも劣る精神に蝕まれてしまっているが故の行為だと思う。
先のNHKの教育テレビを見ていて散見できることの一つに、子供が大人を大人として、自分とは違う立場の人間である、という意識が最初から存在していない風に見える。
小学生も中学生も,先生としての大人を、大人として見ず,人は皆平等と言うつもりでか、子供が大人を自分と同じ人間という視点で物を言っている。
戦後の民主教育というのは、こう言うことを強調し、子供をこういう風に躾て来た訳で,こういう風に躾られた世代の2世なり3世が今の小中学生であるわけである。
「分をわきまえる」という言葉があり、「子供の分際」という言葉もかっては日本に存在していた。
教える側と教えられる側が同じ土俵に上がってしまっては相撲にならないわけで、そこにはきちんとした身分の違い、立場の違い、規制、規範、しきたり、躾というものがなくてはならない。
それをきちんと維持することが教育であり、立派な社会人を作ることであり、立派な大人を作ることである。
が、しかし、それが無いものだから、学校の現場というものが知識の切り売りの場になってしまっているので、生徒が暴れ、先生が苦悩しなければならなくなるわけである。
先にも述べかけたが、もう今の日本では義務教育の使命というのは終わっていると思う。
義務教育の精神、その意義というのは、貧しい農民が国民の大部分を占め、近代化以前の農耕社会で、封建制度が未だに生きているようなところでは無学文盲を無くすという意味で義務教育も必要であったに違いないが、今の日本のように飽食の社会で教育を親の義務として、国家が親に義務付ける必要はさらさら無いように思う。
戦後50有余年の日本の民主教育の結果として、日本は世界第2位の経済大国になったわけで、教育の結果として、日本の伝統もさることながら、人としての道を教えることさえも反動とか、旧体制に戻るとか、戦前の精神の復活という烙印を押すことによって遺棄した教育の結果が今あるわけである。
人の形をしていればすべからく平等に扱う、という発想が根底にあるから、小中学生が先生を舐めてかかり、中高生が先生に暴力を振るうのを見て、彼らの言い分も聞かなければならないという馬鹿な発言になるのである。
教育の名を借りて、自然人とか、原始人を養っているのが今の教育の現状ではないかと思う。
そのもう一つ裏には、父兄の存在というものがある。
これらが又、戦後教育の結果を如実に表しているわけで,この父兄らが戦後の民主化教育を受けた2世代目3世代目に当たるので、その効果がてき面に現れている。
自分で自分の子供が躾れずに、学校に子供の躾を強要するところに、民主教育を受けた世代の無責任さが如実に現れている。
そういう彼らの特長は、何事も自分に不利な状況は他人のせいにしたがるということである。
「個性を尊重する教育」という事があるが、この言葉は非常に耳障りが良く、如何にもハイソサイテーなニュアンスがあるが、個性を尊重してテストに点数をつけると、それは平等の精神に反すると反発し、一人一人の生徒にあった教育をすると、差別をするというし、ああ言えばこう言うという訳で、教育に父兄が口を差し挟むということはまことに困ったことである。
日本人は1999年代において、世界でも有数な豊かな国であるので、もう国家が親の義務として教育を国民に押し付ける時代は過ぎ去ったに違いない。
片一方で小学校中学校が日本全国津々浦々に存在し、片一方では学習塾というものが同じ割合で存在している現状を見、子供達にとって学習塾のほうが面白いということになれば、何も無理に統率の利かない公立の学校を維持する必要は無い。
日本が明治時代に全国津々浦々に小学校中学校を作ったのは、文明開化の波に乗らねばならない、無学文盲の農民に少しでも文明開化についてこれる知識を与えなければならない、という社会的欲求に答えるためであったわけで、今の日本ではそういう社会的欲求そのものが消滅してしまっている。
子供達が学校よりも塾のほうが面白いという背景には、学校サイドの管理、子供達に対する管理教育の部分が面白くない、という印象を与えているに違いない。
学校が子供達を管理しなければならないという背景には、当然のこととして、各家庭で行うべき躾の欠如という問題が潜んでいるわけで、各家庭における躾がなっていないから、学校でその躾の部分まで教えなければならなくなっているわけである。
そのための方便として、忘れ物をチェックしたり、服装点検をしたり、という学業のほかのことに時間が裂かれてしまうわけで、塾というのは、そういう部分が無くて、本来の授業がそこに存在しているから子供達が学校よりも塾のほうを面白いと感ずるわけである。
自分の子供を躾れない、という事自体、本来ならば親業失格なわけであるが、今日のマスコミとか知識人というのは、世間に対して「あなたは親として失格ですよ」という事が言い切れないでいる。
それを言わずして、親の側に迎合しているので、親は自分の欠陥が見えず、自分は正しいことをしていると思いこんでいる節がある。
子供が学校で叱られると、親が先生にねじ込んで来るし、来たら来で、先生の側が簡単に謝ってしまう、ということの繰り返しがこういう風潮を蔓延させたわけであるが、その背景には、やはり戦後の日本の民主主義の履き違いの部分が大いに作用していると思う。
日本もこれだけ豊かな国になったのであるから、子供の教育、特に初等教育の部分は、各家庭の責任に任せ、18歳時点で大學入試検定試験に合格すれば、それによって上級の学問に道を開くという風に改めるべきだと思う。
18歳という年齢を規定する必要はないかもしれない。
何歳であろうとも年齢に関係無く、大學入試検定試験に合格さえすれば上級の学問への道を開き,いわゆる飛び級をもっともっと拡大解釈して、本当の意味での学問への門戸を広げた方が21世紀の発展のためには有意義なのかもしれない。
今の学校現場では、才能のある子はその才能を伸ばしきれず、才能のない子は授業についてこれず、それを何とか同じレベルにしようとするものだから所詮無理なわけである。
無理なことを無理といくら学校現場が叫んだところで、システムとして存在する今の学校制度をすぐに改革するということはなんびとにも出来ないので、学校現場は荒れるにまかせるしかない。
今の日本の教育システムというのは、制度疲労をし、義務教育の義務の部分の意義を失ってしまっている。
今日の過剰な情報化社会の中では、それに見合う教育システムというものを考え直さなければならないように思う。


人間の習い性としての怠惰

話変わるが、最近読んだ新聞記事に、ある自動車会社がマニュアル・ミッション車にもニュートラルでなければエンジン・キイを廻してもエンジンが懸からないうように改善するという事が乗っていた。
オートマチック車は相当以前からそうなっていたが、マニアル・ミッション車というのは今までそうなってはいなかった事は事実である。
が,その理由というのが実に現代的な理由であったので私の琴線に触れたわけである。
というその理由は、カー・エヤコンを作動させるため、車の外から,つまり車外からエンジンを始動させた時、車が発進して事故を起こしたので、それを防ぐための措置である、という理由でそういう事にしたと発表された。 自動車会社の措置に対してとやかくいう必要はないが、問題は、その前提条件である車のエンジンを車の外から掛けるというところにあると思う。
車というもの、自動車というのは、運転免許証がなければ運転できないわけで、その免許証を取る段階では、車の外からエンジンを掛ける等ということは決して教えもしなければ、逆に禁止事項として堅く戒められている事項なはずである。
そのことは運転免許証を持っている人は全員が周知徹底している事項のはずである。
かって、オートマチック車でも同じ理由でそういう風に改善されて、今ではすべてのオートマチック車で車外からエンジンキイを廻しても誤作動がないようになっている。
そのことは技術の進歩であり、より安全に、一歩でも、数歩でも近づいたわけであるが、そういう技術の発展の裏に人間の傲慢さ、我侭さ,ものぐささが潜んでいるというところが非常に興味を引くところである。
車を運転するということ、運転免許証を持っている事の前提には、自動車学校で始業点検が義務付けられている、ということを知識として教わっているわけである。
自動車学校で教える始業点検というのは、車を運転する前には、その車の異常をエンジンを掛ける前に調べなさいという事で、それをして異常がなければ始めて運転席に座り、シートを合わせ、それからエンジン・キイを回しなさいと教わるはずで、それは安全のための基本的事項のはずである。
エヤコンを早めに作動させるために車の外にいてエンジン・キイを回すなどということは、車の運転の基本を蔑ろにした行為に他ならないが、こういう部分が技術革新の前にかすんでしまって、基本を無視して前に進もうとしたのが戦後50有余年の日本人の姿ではなかろうか。
基本動作が便利さの前に隠れてしまい、安全性の名のもとに技術革新が前に進み、人命尊重の美名のもとに人間の怠惰な発想を容認してしまう、というのが現代の日本の大方の風潮であったに違いない。
技術革新というのはある意味で人間の怠惰な精神を助長する物であり、人が楽をしたいがために発明、発見されたものが多いと思うし、それが本来の目的でもあるわけだが、日常生活の中で、車のエヤコンを入れたいために車の外からエンジンを回す、という発想は究極の怠惰であり、それを受け入れる業界の有り方というのも末恐ろしいものがあるように思えてならない。
それともう一つ心しなければならないことは、自動車学校で教える始業点検の意義は完全に失われてしまったのか、という事である。
人が文明の利器として自動車というものを使いこなすためには、その安全、乗る人の安全と同時に歩行者として車とのかかわりを持たない人の安全をも考慮に入れて、車を道具としてみた場合、やはり始業点検というのは欠かせない安全策でありつづけると思う。
使う側の横着で、車の外からエンジンを掛けるなどということは、許されてはならないと思うが、業界はそれに人命を絡めて、こういう怠惰を助長するような技術革新をして商品価値、附加価値を高め、拡販に協力しようとしている。
運転免許証を持っている人ならば当然知っていなければならないような基本的な事項を無視し、むしろそれを否定するような技術革新というものが罷り通る、というところが極めて今日的な日本人の発想だと思う。
物事の基本を蔑ろにするという事は、今の日本人にとって最大の弱点である。
今まで縷縷述べて来た教育の荒廃も、その元の所には基本を蔑ろにしてきたという点に尽きると思う。
基本を尊重するということと、伝統を墨守するということは、非常に似た点があるが、我々日本人の思考というのは、しばしば基本動作の応用という言い方で、基本動作から逸脱する事に寛大な面がある。
よく役所の窓口や銀行の窓口で、印鑑がないので書類が受け付けてもらえなかった場合、「役人や銀行員は杓子定規で融通が利かない」という非難の声を聞くことがある。
しかし、これも庶民の側の甘えから出た非難の声であって、印鑑を押すべきところに押してなかったので書類が受理されなかったわけで、基本的な事項の欠如を棚に上げて、相手を非難するさもしい根性である。
こういう事は法律の運用にも言えることで、昨今、規制緩和がやかましく、規制を解除すれば経済がもっともっと発展するという言い方がなされているが、これも基本的におかしな事である。
緩和しなければならない法律というものが何故この世に存在するのか、と考えた場合、法の網を潜ってでも金儲けをする輩が掃いて捨てるほどいるから、法の網目を細かくして規制しなければならないわけである。
一旦出来てしまった法律は、国会でその法律が廃止になるまで守らなければならないわけで、今有る法律が日本の現状や世界の情勢にマッチしているかどうか、四六時中目配り、気配りするのが国会議員の基本的な姿のはずである。
戦後の日本の民主主義というものの基本をしっかり我々が認識していれば、今の我々の姿というものは、もう少し違ったものになっていたに違いない。
戦後の50有余年の中で、その最初の頃は、それこそ食うや食うわずの時代で、生きるだけ、生物的に命をつなぐだけで精一杯であったので、とても生きんがための基本を模索している余裕は無かった。
しかし、飽食の時代に入ってしまった今は違う。
今の日本ならば、ゆとりを持って生きんがための基本が何であるか模索する時期であるように思う。
今まで縷縷述べて来たように、日本の教育現場は荒れるに任せ、義務教育というものは意義を失いかけており、一方情報というのはあふれかえって、あまりありすぎてその中から真の情報を詮索することさえ困難な状況に入ってしまっている。

Minesanの辛口評論