平成12年12月2日
平成12年12月1日付けの中日新聞では「21世紀、あなたの選択」という趣旨でアンケート調査を行なっていた。
20世紀も後一月という段階に来ると、こういう主題が多くなるのも致し方ないし、時宜を得た記事だとは思う。
こういう時期を迎えてみると、新たに20世紀という時代を自分でもじゅっくりと考えたくなる。
それでアンケートに答えながら、自分自身でもこの20世紀というものを振り返って見た。
マスコミというのは実に不思議なもので、このアンケート調査の設問にも時代の背景というものが如実に現れて、「この設問を作るに当たって、識者の意見を参考にした」旨記されていたが、既にその段階から、時代の偏向というものが介在している。
そして、その偏向には、これに答える人も、設問を作った人も、新聞の読者も、恐らく気が付いていないのではないかと思う。
最初の設問で「子供は家庭だけでなく社会の宝でもあり、地域や社会がより積極的に子育てを支援すべきである、という考え方があります、あなたはどう考えますか?」という質問に対して
1、 そう思う、
2、 どちらかというとそう思う、
3、 どちらかというとそう思うわない、
4、 そう思わない、
5、 どちらともいえない、
という解答欄が用意されている。
この設問の中で、「地域や社会が積極的に支援すべきである」という考え方がある、という点が私にとっては問題なわけで、確かにそういう考え方があることは事実であろうが、その対極にある考え方というものが示されていないので、その後の5つの解答欄から一つを選んだとしても、その人の考え方というものは偏向されてしまうわけである。
この問題の設定そのものが既に偏向されているわけで、それはこの問題を作った人そのものが、この主題、つまり「子供の教育には社会や地域が大きくかかわりを持たなければいけない」、という主観に冒されているわけで、その考え方に対して賛否を問うているわけである。
当然、答えは1番の「そう思う」という答えを期待しているわけである。
このアンケートの趣旨を説明した記事には、この設問を作った人が記されている
心理カウンセラー 三沢直子さん、
東京大学大学院教育学教授 佐藤 学、
東京工業大学大学院社会学教授 今田高俊、
名古屋大学政治学教授 後房雄
の4名の方々が、この設問を作ったと記されているが、この方々の肩書きを見れば、日本の知性の代表のような人達ばかりである。
その事は一目瞭然であるが、問題は、20世紀の最後の時代において、後一月で21世紀に差し掛かろうという時期において、日本を代表するかのような日本の知性が、子供の養育に地域や社会がより積極的に係わりを持たねばならないかどうか、問うていることの不自然さである。
私のこの辛らつな批判の根源は、こういう問題に関して、つまり子育てとか、初等教育に関して、社会や地域の事は話題に提供されているが、そのもっともっと根源的な、親の責任に関しては全く議論されないのが不思議でならないからである。
この現況をもっともっと解り易く表現してみれば、戦後の日本というのは、男も女も、勝手にセックスをして、勝手に子供を作って、出来た子供は地域や社会が責任を持って育てる、という構図を目指しているとしか言い様がない。
セックスをするのも自由、子供を作るのも自由、しかし出来た子供は社会や地域が育てなければならない、と言っているということである。
これはまさしく共産主義の世界であり、旧ソビエット連邦のソホーズやコルホーズ、はたまた中華人民共和国の人民公社の構図そのもので、人類の待ち焦がれたユートピアそのものである。
まさしく酒池肉林の世界で、人間の理想の楽園である。
人間は自由で、義務も責任も負わず、セックスはし放題、出来た子供は社会や地域が育ててくれれば、個人としては最高に生の快楽をエンジョイ出来るわけである。
日本の知性の代表としての偉い大学教授というのは、日本をこういう社会にしたいと思い、こういう偏向したアンケート調査を考え出したに違いない。
その対極にある考え方というのは、子供の教育は親の責任で、自分の子供が社会に対して迷惑をかけるようなことがあったら、子の親として断固たる処置、処罰をするし、親自身もその償いを辞さない、という心意気だと思う。
自分の子供の教育に、社会や地域の干渉などきっぱりと断るぐらいの頑固さを持たなければならないという自覚である。
戦後の民主主義では、親が子供の将来を決定付けることが非民主的な事のように語られてきたが、何処の国の親も、どの時代の親も、全て、親として自分の子供の幸せを願っている事には変わりはないわけで、親の言う事を聞く聞かないは、子供の方の選択であったわけである。
親が自分の子供にとって良かれと思って言う事が、子供にとって重荷になることは、何時の時代にも変わることのない普遍的な事である。
次の主題の教育改革についても、設問の方が偏向している。
例えば、「地域の保護者と住民、学校の3者が日常の授業も含め、積極的に協力する事が望ましい、という意見がありますが、あなたはどう思いますか?」という設問である。
私に言わしめれば、学校というところは「読み書きそろばん」を教える事に徹すべきで、その他の余分な事を教える必要はないと思う。
こういう考えが出てきた背景というのは、世代の老齢化で、健康なお年寄りが巷にあふれ、その人達が子供に昔の生活を体験させる事によって、子供の好奇心を喚起させる事がたまたまあったからこういう発想に繋がっているわけである。
その事自体は悪い事ではないので、日常の授業に余裕があれば、大いに実施しても構わないと思う。
ところが、この設問で言っていることは、それを義務化というか、強制しようとしているわけで、「そうすれば子供の教育により効果があるであろう」、という推測にもとづいて、こういう発想になっていると思う。
こんな事はある種の思いつきであって、ただ単なるその場の思いつきが成功したからといって、今までのやり方を全面的に変える必要は全くないと想う。
大体、今の大人、成人というのは、学校というところを過大評価しすぎている。
高等学校に行けば誰でも彼でも大学に進めて、大学を卒業すれば、誰でも彼でも就職できると思い込んでいる節があるが、こういう発想は、今の現実の自分たちの国、自分達の社会というものを知らなすぎるから、こういう発想になると思う。
自分の子供さえ満足に躾けれない親が、学校に子供の躾を頼る事自体が可笑しいわけである。
その次の設問もこの躾に関するものである。
「教育改革の柱として、奉仕活動を子供に義務付けるべきだ、という意見があります、あなたはどう思いますか?」、と言う設問であるが、これも実に子供じみた発想である。
奉仕活動などということは基本的にボランテイアで行うべきもので、私に言わしめれば、このボランテイアにも我慢ならない。
弱い者や、幼児や、妊産婦、身体障害者、年寄りを見れば、自然に手助けするのが普通に成育した、普通の人間の、普通の感情でなければならない。
自分の子供を、そういう風に成育させることが、親としての義務であり、それでこそ普通の親である。
子供に奉仕活動を教える前に、親自身がその奉仕活動を実践すれば、子供は自然にそれを模倣するに違いない。
そういう事を棚に上げて、子供に奉仕活動を義務付ける、などということは主客転倒している。
公的に奉仕活動を義務付けなければならないのは、国立大学の医学部を卒業して医者になった人達で、高額な学費を税金で賄ってもらったお礼として、それこそ何年間かの奉仕活動を義務付けなければならない。
前にも述べたように、弱者に手を貸す事は、ボランテイアなどでことさら改めてすべき事ではなく、普通の人が、普通の日常生活の中で、普通にすべき事である。
そしてそれは親が子供に「そうしなさい」と諭し、教えるべき事で、学校や地域がことさらそれを教えなければならない事の方が異常な事態である。
問題は、そういう事がわからないまま、この日本で、知識人と呼ばれる立場に立ってしまった人である。
例えば、このアンケートの設問を作った人達と言うのは、その類の人達と言わなければならない。
そもそも、もう義務教育という時代は過ぎ去ったのかもしれない。
今の日本でも、日本の全域が都市化しているわけではないので、田舎では過疎の問題と合わせて論じなければならないが、都市においては、もう明治以降の義務教育というものを根本から見直す時期に来ていると思う。
江戸時代から大革命によって出来あがった明治時代においては、都市化も進んでおらず、人々も士農工商の階級制度に縛られて、町人階級では読み書きそろばんもママならない人々が多かったから、義務教育というものの価値があった。
ところが昨今では、子供がコンピューターを操る時代なわけで、こういう時代になれば、教育も明治時代のままでは、いろいろな不都合が出てくるのも致し方ない。
それを明治時代のままの感覚で論じていても、論理の空回りが起きているだけで、物事の解決にはつながらないわけである。
だから、義務教育に奉仕活動を入れるか入れないか、という低レベルの論議になるわけである。
子供がコンピューターを操っている時、その親は何をしているかといえば、高級車に乗ってゴルフ三昧に耽っているわけで、親の方も明治時代の親とは様変わりしているわけである。
要するに、時代が変わってしまっているわけで、その時代の変化をそのままにしておいて、教育のみ明治時代の感覚で論じていても、事の解決にはならないわけである。
新しい時代には、新しい発想で、子供の教育という事を根本から見直す必要がある。
子供が不登校になって、学校に行きたがらない、等と云う事は明治時代にはありえない事で、子供が学校に行きたがらない、ということは子供にも問題があり、当然それに付いて親にも何らかの原因があるわけで、親に原因があるとすると、これは社会問題ということになり、社会と地域で協力して教育を考えなければならないという発想につながるわけである。
こういう発想に至る過程で、このアンケートの設問を考えるような知識人というのは、その意識の下で、社会が変わったという事を忘れてしまっているわけである。
これはある意味で当然な事かもしれない。
なんとなれば、自分自身が変化の渦の中に身を置いているので、変化の度合いというものが体感できていないからである。
義務教育を根本から考え直すという事は、義務教育の比重を極力減らして、民間の教育機関をもっともっと充実させる、ということに他ならない。
義務教育というものは、徹底的に基礎教育、特に「読み書きそろばん」という基礎の中の基礎に重点を置いて、それ以上のものからは、一切手を引くわけである。
勿論、部活も廃止し、課外授業も減らし、運動会、学芸会のような、本来の教育目的以外の事も一切合切やめてしまうわけである。
そうすれば先生の負担も大いに軽減する事が出来、その分本来の基礎教育に手を加えるようにするべきである。
小中学校の授業というのは午前中の4時限だけにして、後は全部帰宅させてしまうわけである。
そういう中で進学したい子や、もっともっと勉強したいという意欲のある子には、民間の教育機関、塾でもいいし、スポーツクラブでも良いわけで、とにかく学校意外の施設に通って、自分の隠れた能力というものを最大限引き出せる状況を作ればいいわけである。
学校に行く事を嫌う子に、無理に学校行かせる必要は全く無いわけで、好きな事を好きなだけさせて、その事で将来社会に貢献できる人間を作れば、社会全体として健全に回転して行くことになる。
問題は、社会に貢献出来る人間を作る、というところに主眼がなければならないが、今日の状況というのは、社会に貢献するということが如何にも「馬鹿なこと」という印象を皆が持っているからこそ、ボランテイアという事をことさら大声で言わなければならないわけである。
教育を受けた人間が、その受けた教育を生かして、社会に貢献しなければならない、という意識を持っていれば、官僚の汚職や、民間企業入の杜撰な経営などということは起こり得ないはずである。
社会に貢献するということは、ことさらボランテイアをこれ見よがしにする事ではない筈で、八百屋サンや、床屋サン、魚屋サンが真面目に商売に励めばそれが社会に貢献している事であり、お巡りさんがきちんと勤務に励み、公務員がきちんと仕事すれば、それが即ち社会に貢献している事である。
ことさら特別な勤労奉仕する事が社会に対する貢献ではない筈である。
問題は、社会に対する貢献をし得る人間を如何に作るか、という点が教育の基本になければならないが、今日のように、それを義務教育の中でしようとしても、社会そのものが昔の社会とは違ってしまっているし、その社会を構成している今の大人の方も、その意識そのものが、昔の日本人の意識を持ち合わせていないわけである。
教育を挟んで、人間の方も、社会の方も、両方が昔とは懸け離れた存在になっているので、その枠の中でいくら制度を掻き回しても答えは出てこない。
こういう社会、つまりIT革命が叫ばれるような社会になったならば、人作りとしての教育も、時代に則した物にしなければならない。
それには義務教育というものを最小に縮小し、英才教育としての民間の教育機関を充実させるべきである。,br>
勿論、それに付随して、高等教育、大学のあり方も必然的に変わらなければならない。