石原慎太郎氏について

H11・4・21 石原慎太郎氏について

先の統一地方選挙で東京都知事に石原慎太郎氏が選出され、その当選が確定された。
彼は告示直後に立候補を表明し,見事当選をさらったわけであるが,今回の東京都知事選というのは異様な雰囲気の中で戦われたように見うけられる。
一番最初に名乗りをあげたのは鳩山邦雄であったが、そこに柿沢が自民党の慰留を振り切って、なりふり構わず立候補したとおもいきや、自民党はもと国連の職員であったところの明石康を味方に引き込んで柿沢に対向しようとした。
そもそも、この東京都知事というのは、あまりにも東京という地方の規模が大すぎて、地方という言葉の範疇を逸してしまっている。
東京都がこれだけ大きくなると、もう愛知県とか岐阜県という範疇では語れないわけで,沖縄に沖縄開発庁という役所があり,北海道に北海道開発庁という役所があるように,東京都は政府の中の直接的な所管にしないことには政府の側も東京都の側も相互に支障をきたすのではないかと思われてならない。
石原慎太郎というのは過去にも、都知事選に挑戦して,その時は美濃部亮吉氏に破れている。
それに彼のキャラクターというのは、戦後の日本の保守勢力としての自民党の枠に収まりきれない部分があり,それを形作っている要因として、彼は小説家として若い時に名を成し効を成してしまったので,人の管理下であくせく働く必要が無かったからだといえる。
そのため自分の思ったことを自由闊達に言う習性が出来ていたからに違いない。
官僚から転出したり,労働組合から政治家に進んだ人は、組織の力を利用する才には長けているが,その分,組織に対して思いきった事が言えない重荷を背負わされている。
石原慎太郎の場合,組織におもねったことがないので、そういうプレッシャーを感ずることなく、思ったことを何でもあけすけとしゃべれる立場であったわけである。その事が逆に相手の立場を考えないという風に取られかねないわけで,戦後の日本人というのは、あまりにも八方美人を装おう事に窮糾していたわけである。
戦後の我々というのは、物事の黒白をはっきりさせる勇気を失ってしまったとしか言い様がないぐらい腑抜けになっている。
丸いものを丸いという事を恐れ,赤いものを赤いという事を恐れ,黒いものを黒いということ恐れ,曖昧とした、誰をも傷つけないように、わかったようなわからない言い回しで、角の立たないことばかりを念じてしゃべっているので,論点がどこにあるのか全くわからないことになってしまっている。
その一番典型的な例が、日本国憲法の第9条で言うところの戦争放棄という条項である。
主権国家として、戦争を放棄する等ということが理論的に成り立つわけがないはずである。
この条項は、時の日本の統治者としてのマッカアサーが個人的に持っていた理念であり,理想の具現化であり,現実の世界とは全く別のものであったはずである。
それを真に受けて,押し付けられという意識も無く,自らの自主憲法であるかのように思い込もうとするところに大きな矛盾であるにもかかわらず,その後の我々はその矛盾を矛盾として受け入れずに来たわけである。
矛盾を矛盾と認識しないということは、あらゆる行動の基盤を失っているわけで,その基盤のないうえの行動というのは、浮き草の上の楼閣のようなもので,自己のアイデンテイテーの確立の仕様がない。
それが戦後の我々の姿であって,だからこそ我々は経済成長にのみ価値観を見出し,金儲けさえしていれば満足であるという思考に陥っているわけである。
ただただ生きんが為に、名誉も,誇りも,自らのアイデンテイテイーもかなぐり捨てて,四方八方に平身低頭、謝り続けて、金儲けに邁進してきたのが今日の我々のなれの姿であったわけである。
こういう状況というのは、人々が自己の信念をはっきりと言うことなく,解ったようなわからないような議論のみをして,相手を極力怒らせないような行動をしなければならなかったわけである。
それが戦後50有余年継続していたわけで,こういう状況下で、地方のリーダーとして求められる能力というのは、誰に対しても寛容で,包容力のあるという言葉が当てはまるような人でなければならなかったわけである。
個性的で、自分の信念を押し通すような人では、行った先々でトラブルを引き起こして事が前に進まないわけである。
石原慎太郎という人物は、かなりのナショナリストである様に見える。
つまり,彼は民族の誇りとか,民族のアイデンテイテイーというものを大事にする人間かと思う。
となると,当然,現行の日本国憲法というものに大きな信頼を置くことなく,我々,日本民族が潜在的に持っている深層心理に訴えるような事をしてくるように思う。
ところが,今,21世紀に差し掛かろうとするときに,日本において、我々,日本民族の潜在意識というものの存在そのものが危ぶまれているような気がしてならない。 今の中高生の姿を見ていると、果してこれが我々の子孫として生きていけるのかと不安でならない。
彼らを前にして、民族の誇りや、民族のアイデンテイテーや、我々の潜在意識や、深層真理に根ざした行動様式を説いたところで,彼らは聞く耳を持たないと思う。
ある意味で、日本民族というのはもうこの世には存在していないという感がする。
日本が何かをすると中国が敏感に反応して,内政干渉まがいのことを言ってくるが,彼らは、過去の日本の亡霊に取りつかれているのであって、日本の現実を見れば、逆に彼等からの侵略を我々は心配しなければならない。
石原氏の発想の原点には組織の力学が作用しておらず,組織というものの軋轢を経ずして身を成し,効を成しえた人であるので,農耕民族としての習性が彼には欠けている。
これは我々が日本という土俵で物事の解決を願っている限り、極めてまれな生き様で,我々、普通の人は組織の習性のままに流されやすく生きているのに比べると、極めて優ぐれた事といわなければならない。
彼が若くして小説家として効を成し、名声を得たということは、並の人間に出来る事ではなく,組織というものと無縁な生育をして来たわけで,その分歯切れの良い発言が彼には可能であったわけである。
だから、従来型の日本の社会では浮き上がってしまうわけである。
そこが又彼の良いところでも有るわけで,浮いた立場で、歯に衣を着せぬ事を堂々というものだから、それを聞く立場として心に忸怩するものがあるわけで,それが又反発を呼ぶわけである。
彼は 過去において、自主憲法案というようなものを書いた事があるが,この事は彼が今の憲法に満足していないという事にほかならず,彼としてはあの押し付け憲法が我慢ならないわけである。
今の日本人は、あの憲法を心から自分達の自主憲法と思いこんでいる節がある。
だから憲法改正という事を言えば、右翼と見られ,保守派と見られ,懐古趣味と思われ,知名度のある人ならば、それこそ中国から反発を食らう事が必定で,それが恐ろしくて憲法を考え直した方がいい、と言う事を言い出せずにいるわけである。
これは臆病以外のなにものでもないが、こういう臆病さが今の日本のあらゆる階層に浸透してしまっているわけで,学校教育の現場で起きている不祥事,いわゆるいじめの問題も、この臆病さに原因があるように思う。
子供が喧嘩をして怪我をしたとすると,怪我をさせた方は無条件で「悪」とみなされるわけで,その理由の如何や、その過程というのは全く考慮されずに、その結果だけが一人歩きして,「悪」と認定された人に責任をかぶせるという風潮が、こういう臆病さを蔓延させた理由である。
悪さをした生徒を先生が処罰すると,処罰をした先生の方が悪人になってしまうわけで,こういう馬鹿げた現象を容認するところに、日本人の農耕民族としての属性が伺えるわけである。
あの憲法がアメリカの押し付けたものである以上,もうそろそろ日本の独自の憲法というものを考えても良い頃であるが,一言憲法改正と言うと、今にも戦争をおっぱじめるかのような勢いで反発をする勢力がまだ日本の中に残っている。
そういう状況下で、石原慎太郎という人は、当たり前のことをさも当たり前の如く言うものだから、逆に新鮮さがにじみ出てきてしまうわけである。
日本人の中の大部分の人が、こういう批判を恐れ,心とは裏腹なことを身の保身のために言っているので,そこを中国が突いてくるわけであり,石原氏の言っていることは一言たりとも中国から文句の言われる筋合いのないものではない。,br> 石原氏がいくらタカ派だとしても、彼一人で憲法改正が出来るわけでもなく,彼が心の中で思っていることをすべて実施に移すわけでもないので,そうそう心配することは無いわけである。
中国側が彼が東京都知事に選出された事に対して、こういうアクションを取ってきたということは、中国流の挨拶の仕方で、日本を牽制して来たわけである。
先の青島幸男都知事というのもいい加減な知事で,石原氏との交代の時の挨拶でも「自分は100点満点だ」と自我自賛して憚らなかったかが、こういう人物を知事に推した東京都民というのも、かなりいい加減な存在である。
選挙に際しても、自分は立候補だけしておいて、街頭で選挙演説というのは一切ボイコットしていたわけで、ただ「意地悪ばあさん」というテレビの知名度だけでトップ当選をしたという事自体不見識であり,不道徳であり,世紀末の現象だと思う。
青島の選挙公約は「都市博を中止する」という事だけで、ただその事のために,青島幸男を当選させた有権者というのはまさしく「烏合の衆」というほかない。
こういう馬鹿な選挙が罷り通るというのは、世紀末現象としか説明がつかないと思う。
都知事がいて,都議会議員がいて,都議会がきちんと運用されていて,そこで決定したイベントを中止するという事は、民主主義というものから考えて見るとまことにおかしな事とである。
議会の審議には当然反対意見も存在し,賛成意見と反対意見が両立した場合は多数決で事を決めましょう、というのが民主主義の基本であるはずであるが,一度決まったものを中止するということは、この民主主義の基本的なルールを無視すると言う事に他ならない。
実施する方の賛成意見が多かったから 都市博の開催という事が都議会で可決されたわけで、新しく選出された都知事が、一度可決されたものを中止するとなれば、都議会というのは怒って当然で,黙っていたら逆におかしな事になっているとしか言い様がない。
議会の議決というのは、そうそう安易に変更できるものではない様に思うが,あっさり知事の言う通りの事が通ってしまうということは,東京都には民主主義というものがないに違いない。
もともと我々,日本民族には、真の民主主義というものは根付いていないと思う。我々には、元来、民主主義に極めて近い談合体質というものを内在しているようにおもうが、近代国家ならばそれにふさわしい民主主義というものを構築してしかるべきではある。
我々の先祖というのは、まぎれもなく農耕民族であり,農耕という生業をする以上個人の独断専行は許されず,話し合いの精神というのは骨の髄まで染みこんでいるし、潜在意識として民族の構成員の一人一人に内在しているものである。 だから多数決原理に頼るしかないが,この多数決で決めたことをひっくり返すということは、一種の横暴としか言い様がない。
限られた人数の議員が賛成派と反対派と分れた場合,多数の方が正しいとは必ずしも言い切れないことは論を待たないが,何処かで決着をつけないことには事が前に進まないわけで,決まったことが正しいか正しくないかということは又別の議論になる。
結果的に正しくなかったならば、その責任者が責任を取るというのが普通のことの成り行きで,その時はその時で、再度首長選挙をして、首長の交代をしていくというのが民主主義の民主主義たる所以だと思う。
結果が出てからでは遅いという反論も当然出るであろうが,どういう結果になるのかはやって見なければ判らないことで、判らないことを前提にして不用論を鼓舞するというのは、ただの思い上がりに過ぎない。
こういう思い上がりというのは、我々の歴史の中には掃いて捨てるほど有るわけで,ここで行政の在り方が大きく問われる場面である。
行政サイドの失敗と言うのは目に見える形で露呈するが,反対派の失敗,思い上がり、というのは目に見える形では露呈してこないわけで,仮に東京都が都市博を強行し実施したとしたら、低迷していた景気が浮上していたかもしれないが,これを中止したことにより、最初から経済効果というものがないのであるから失敗であったのか失敗でなかったのかは判らないわけである。
この都市博を止めさせる事を公約に掲げて当選してきた青島知事であるから、その公約を果たしたという意味で、大見得を切ったまでは良かったが、それが正しい選択であったかどうかは藪の中である。
今,東京都は大きな財政難に陥っていると聞くが、行政の財政難と言うのは、八方美人的に金をばら撒けばどんな組織でも財政難に陥るわけで,金と言うのは打ち出の小槌を振れば出てくるものではない以上,何処かで出す金をセーブしなければならないわけである。
東京都ばかりでなく、昨今は何処の自治体でも福祉が重点項目になっており,福祉というのはそれこそ金食い虫で、金を庶民にばら撒けば、一時的な人気は維持できるかもしれないが最終的には財政難に陥ることは必定である。 こういう人から見れば、金が無くなれば増税して再度庶民の税金を上げればそれで済む、という安易な発想があるのではないかと思う。
役人,官僚,公務員にはコストの意識というのは全くないのではないかとさえ思えてならない。
費用対効果という経営の基本は、官庁には関係のない発想で,彼らにあるのはただただ福祉という名目のもとに、金をばら撒けば、行政としての面目は保てるというものである。
東京都の財政難というのは、世間の景気が低迷しているので、企業が払うべき事業税が少なくなってきているからに他ならない。
こんなことは東京都ばかりでなく、一般企業ではバブル崩壊後どこの企業でも切実な問題として、これを乗り越えなければならないというわけでリストラと称する首切りが横行しているのである。
今更財政が苦しいなんてのんきなことを言っているのは、まさしくノー天気な証拠である。
財政が苦しければ出る金をセーブするしか方法はないわけで,そのためには職員の給料も少々減らして当然である。
職員に率先垂範を示すために、知事が率先して給料の減額を申し出たことは当然な事であるが,もう一つ踏み込んで、職員の給料もカットすることを考えるべきである。
公務員の我慢ならないところは、景気の良いときは民間並の給料をと言いながら、景気が悪くなり、民間企業が不景気の波をかぶって青息吐息しているときは口を噤でいるところである。
日本の景気が低迷し,民間企業が苦しんでいるから、我々も給料を少々我慢しましょうと言う声が、官僚,公務員,役人,公務員組合,官公労の側からは決して出てこないところである。
誰しも自分の給料を下げる決定には承服しかねる、という事は人間の心理というものが判っている以上当然なことには違いないが、他に解決の道がなければ、最後はそういう結論に至るのも致し方ない。
だいたい,公務員の給料を決める人事院勧告というのが隠れ蓑になっており,人事院たるものが、民間企業の給与体系を知らないはずはないわけで,民間企業というのは、コスト管理が厳しく、出るものは厳密に管理していることを知りながらその総枠と自分達の給与をスライドさせているわけで,民間企業の月10万円と公務員の月10万円の給与では、その中身が全く違うわけである。
ところが人事院の発想というのは、民間が10万円払っているから公務員も当然それと同じ額だけ支払うべきであるという発想で,その10万円の中身については全く考慮の外に置かれているわけである。
公務員の月10万円の給料というのは丸まる基本給が10万円であるが,民間企業の月10万円というのは、基本給は3万円,勤務給が3万円,時間外手当が4万円、これを全部合わせて10万円という数字になるわけで、同じ10万円でもその中身は全く違っているわけである。
こんな初歩的な数字のマジックは、私のような素人でも一目瞭然とわかるのに、人事院という給与計算のプロフェッショナルがわからないはずがない。
そういう内情に頬被りして、総額で民間と同じ給料という大儀を振りかざしているわけである。
石原新都知事も、自分の知事としての給料は早速減額することを決断したが、それはそれとして立派なことだと言える。
しかし都の職員に対して、それをどこまで浸透させれるか大いに腕の見せ所である。青島知事も無所属で、政党に属せず、都議会では誰も援護してくれるものがいなかったという風に聞いているが,石原氏も政党との関係では無所属で、政党の援護は期待できないので先行き不安であるが、青島氏のように八方美人的な人気だけの人物ではなさそうなのでその手腕が問われる。
都市の問題として、財政難というのは、どこの自治体も同じ悩みを抱えているが、これにごみの問題というのも財政と同じくらいに厄介な問題である。
東京ばかりでなく名古屋市もごみの問題では頭を悩ましているが,海を埋め立てれば環境が破壊されるとして、うるさく反対され,それかといって周辺の市町村に処理場を作れば、これまた大反対が起きるわけで,まさしくごみ戦争である。
東京でも品川の旧国鉄の操車場跡には広大な土地が遊休地として再開発を待っている状態であるし,名古屋市でも同じように笹島の旧国鉄の跡地が遊んでいるが,この土地をごみの処理場として活用すべきである。
ごみとか原子力発電所というような公共性の尤も高い施設を地方に持って行くということは、本来ならば許されてはならない問題だと思う。
基本的に東京のごみは東京都内で,名古屋市のごみは名古屋市内で処理すべきである。
嫌な施設を全部周辺の市町村に押し付け,近代的で文化的な都市と言ったところで、それは大都市の横暴というもので,周辺市町村としては、そういうものを受け入れる筋合いは全くないわけである。
品川の操車場跡にごみ処理場を作れば周辺の地価が下がる、という心配が当然出てくるが,地価など下がった方が良いわけで、そのことによって別の場所の地価が上がることになれば,トータルで考えた場合、相殺されるわけである。
嫌な物は全部他に押し付けて、自分達だけ良い目を見ようというのは、あまりにも利己的な思考である。
ごみの問題と言うのは、その根っ子にこういう利己主義が潜んでいるが、昨今の人々というのは、口先ではこういう本音を口にすることなく、環境問題とか、ダイオキシンの問題に摩り替え,ひいては人権とか生存権とかいう曖昧な概念で煙に巻いてしまうわけである。
品川の跡地でも、笹島の跡地でも、現地に行って見ればわかるが、実に広大な土地でごみの処理場なり埋立地にするには最適な場所である。
ごみとか原子力発電のように、都市生活をするために不可欠は施設は、その恩恵の浴する地域に作るべきで,それを人里離れた場所に作ろうとするから環境破壊を引き起こすわけである。
既に自然環境など微塵も残っていない場所にこそ作るべきである。
日本の政治というのは、実に不思議なもので、今ごみの問題がクローズアップされている事は周知の事実であるが、このごみがどうして発生しているのか、というその根本の所を追求することに腰が引けてしまっている。
我々の日常生活で、毎日当たり前に生活しておれば、ごみというのは無尽蔵に量を増してくる。
人が息をして食って寝て糞をするという基本的な生活をしていれば自然とごみの山になる。
このごみの山を解消するのは明らかに行政の仕事のはずである。
ごみ処理場を何処に作るか、という問題は行政の根源的な問題にもかかわらず、日本の行政というのは、それに解答を出し切っていない。
行政と政治を何処で区分けするのか、という問題はきわめて微妙なことであるが、物事の事後処理が行政の部分で、物事の事前防止が政治の範疇ではないかと思う。だからゴミの問題で言えば、ゴミ処理場を何処に作るかは行政の問題であり、ゴミが出ないようにするのは政治の問題ではないかと思う。
今問題になっているごみの大部分は、発砲スチロールや包装パックのプラスチックの扱いであるが、これが多くて困るのであれば、これの製造を禁止すれば済むことである。
ところが政治の力でこれを禁止する事は出来ないわけである。
何故出来ないかといえば、製造業者の側は業者としての生活が懸かっているわけで、国民の一部としてのプラスチック製造業者の死活問題として、製造中止を迫るような施策は出来ないわけである。
要するに、政治は八方美人的に、誰も敵にしたくないわけで、一番敵を作らなくても済むように、国民全般に少しずつ犠牲を分かち合うような手法を講じてくるわけである。
これは敵を全く作らないという点ではきわめて時宜を得た手法であるが、物事の根本的な解決には至らないわけである。
こういうところが日本民族の曖昧な所である。
だからすべての問題を政治が悪いと言う一語に追いやってしまって、後は野となれ山となれ、という無責任体制で過ぎてしまうわけである。
そして物事の責任は一切問われないわけである。
ごみの元を断つ事は、プラスチックの製造業者を死に追いやる事で、それは政治のすべきことではない、というのも一理ある論理ではあるが、そのしわ寄せがごみを出す方に降りかかってきているわけで、こちらの方は少々規制を強化しても死に至らしめる事はないので、皆で少しずつ義務を分かち合えば良い、という発想は一応整合性があるかに見える。
しかし、その一方でごみの処理場の建設は、人里離れた迷惑のかからない所に持っていけ、という論理である。
ところが今時、人里離れた誰にも迷惑のかからない土地というのがこの狭い日本で見つかるわけがない。
海岸べりの葦の野原を埋め立てようとすれば、渡り鳥の休息地を壊すなとか、雑木林の不毛の土地で万博しようとすれば、大鷲の営巣地を壊す事は自然破壊であるなどと、人よりも渡り鳥や鷹の住まいを優先させるような事が声高に叫ばれてはばからない時勢である。
確かに、自然というのは、未来永劫子孫のために残しておかなければならない。
しかし、その前に人間の住環境をもっともっと良くする方の努力が為されて然るべきだと思う。
ゴミの元凶であるプラスチックの製造が許されて、どうして埋め立て地を作る事が許されないのか、もう一度考えて見る必要がある。
渡り鳥の休息地である葦の野原を埋め立てていけないのならば、都会の真ん中の遊休地をゴミの処理場にすれば良いと思うが、こういう発想も全く出てこないのはどういうわけであろうか。
自然保護団体というのは、こういう発想を展開して然るべきではなかろうか。
ここにあるのは、今の我々の同胞というのが、全く自分勝手に、自分の都合でしか物を言っていないという事に他ならない。
今、ゴミの埋め立て地の建設予定地になっている人々は、自分に降りかかってくる将来の環境の悪化に備え反対しているわけで、こらは誰しも納得いく部分であるが、政治というのは、より多くの人々のために犠牲になる人々に対して説得をしなければならない場面もあるわけで、それこそが政治の使命ではないかと思う。
どんな施策でも、常にその犠牲というか、その施策により不利益を被る人はいるわけで、常に万人が大歓迎する施策などというものはあるわけない。
人が反対するからその施策を止めるというのでは人類の進歩というものは一切ないわけで、これでは政治が無いに等しい。

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