日本の知性

5月2日付けの朝日新聞には憲法記念日を前にして興味ある記事が載っていた。
2面には「憲法を考える」という見出しで、署名入りの「エコノミスト」誌東京支局長二コラス・バレリー氏との談話が載っていた。
そして、19面には元新潮社カメラマンの道正(どうじょう)太郎氏が1960年代にとった安保闘争の写真とともに記事が載っていた。
どちらも我々、日本人にとって非常に重い主題である。
道正太郎氏が撮った写真というのは、1960年の安保改定に伴い、当時の岸首相とアイゼンハワー大統領の会談の露払いとして、ハガチー氏が羽田についたさい、デモ隊に阻止されて都内に入れなかったときの抵抗の写真である。
今この問題がクローズアップされる理由は、時あたかも小渕総理大臣が外遊するに際して、あたらしい日米防衛協力のための指針、ガイドラインが、いとも簡単に国会を通過してしまい、先の安保闘争のときのような緊張感が全く見受けられないので、そういう無関心派に対する政治的危機感を煽っているためである。
日米安保条約の改定にも等しい日米防衛協力の指針・ガイドラインについては確かに世間の関心が薄いように感じられた。
しかし、マスコミが報じている内容をよくよく吟味してみると、実にこっけいな内容の質疑が取り交わされている。
周辺有事という言葉で、「その周辺はとは何処までを言うのか」などと、まるで禅問答のような質疑が応答されている。
ここでは自らの国を守るという概念よりも、よその国の印象を如何に心配しなければならないのか、というまるでよその国の国益を心配しているような問答が続いているわけで、こういう点が戦後の日本の平和ボケの所以である。
戦後50有余年、日本が戦争に巻き込まれずに平和のうちに経済発展のみにうつつを抜かせれた背景には、日本の平和憲法として第9条がある、という認識はあまりにも自画自賛過ぎる判断だと思う。
確かに、日本は戦後50年以上、戦争に巻き込まれる事なく、平和のうちに来れたのは事実であるが、その理由は平和憲法の存在よりも、アメリカとの日米安保があったからである。
日本の防衛論議と、日本の憲法問題というのは切り離しては話が出来ない問題で、この二つの問題はお互いにリンクしているわけである。
日本の憲法の成立の過程を見れば、日本がアメリカとの頚木を分かち、独自の自主憲法というものもつとしたら、沖縄のアメリカ駐留の問題も解決するに違いない。
今の日本の在り方、いや戦後50年あまりの日本の在り方そのものがアメリカの属国といわれても仕方がない状況であった。
しかし、それはそれで我々の側は甘受しなければならなかったわけである。
もし仮に、サンフランシスコ講和会議で、日本が独立を世界から認められたとき、自主的な防衛という事をしていれば、おそらくその後の日本の経済発展というのは、数十年の遅延を来たしているに違いない。
今の北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国と肩をならべる程度の発展しかありえないに違いない。
主権国家として、世界から認められれば、自分の国は自分で守る、というのが世界的には常識なわけで、その為には国防というものに国家予算の大きな部分を割かなければならない事は必定である。
戦後の日本は、そういう国家主権の基本の部分をスポイルしてしまって、その部分をアメリカに完全に肩代わりさせてしまったわけである。
こういう事実を見れば、アメリカ側から安保ただ乗り論が出てくるのも何ら不思議ではないし、事実日本はただ乗りしてきたわけである。
新しい日米防衛協力のための指針・ガイドラインが問題になってきたのは、やはり戦後も50年以上経過すると実情に合わない状況が出てきたので、そのギャップをいくらかでも埋めなければ、という発想が根底にあるからだと思う。
この50年間の歴史を箇条書きにすれば
1945年  昭和20年 日本戦争に負ける。
1947年 昭和22年 日本国憲法発布
1952年 昭和27年 サンフランシスコ講和会議
日米安保同時締結
1960年 昭和35年 日米安保改定
1999年 平成11年 新しい日米防衛協力の指針
という風になるわけであるが、日本が戦争に負けてから54年も建てば、あらゆる環境が変化しているのも当然の事で、その為には憲法をはじめ、各法律も、外国との条約も、時代に合わせて実情に合うようのするというのは極々当然の事である。
小渕総理大臣がアメリカを訪問するについて、この新しい日米防衛協力の指針を引っさげていくという事は、クリントン大統領に対する手土産という感はどうしても免れない。事実そうだと思う。
新しい日米防衛協力の指針・ガイドラインというのは、言うまでもなく現時点に照らして日米安保条約の不備を補完・是正しようというものである。 日米安保条約の不備という事になれば、アメリカ側には何もないわけで、日本側にのみ複雑な問題があるわけである。
そこで日本の憲法の第9条の問題との関連が出てくるわけで、アメリカ側には戦争放棄を意味する憲法というものがなく、軍隊というものは主権国家の主権を維持するために必要不可欠な存在という認識が普遍化しているのに反し、我々の側は、戦争放棄を憲法に規定し、言葉上は軍隊という組織を持っていないという事になっているわけで、この二つが同じテーブルについて議論しても結論はありえないように思う。
そこにもってきて、我々の側には、現実と理念の乖離という問題も内在しているわけで、今の自衛隊を軍隊と言わずに、あくまでも自衛隊と称し、その能力たるやアジアでも最大規模の軍隊でありながら、戦争放棄と言う事を憲法で謳っているわけで、こんな馬鹿な話もないはずである。
人間、一つ嘘を言うと、次から次と嘘をならべていかなければならないのと同じで、最初のボタンの掛け違いが何時まで経っても是正されないわけである。
この問題の根源は、現日本国憲法の持つ矛盾を、解釈論で切り抜けようとする所にある。
歴史的にその問題を追求すれば、日本がサンフランシスコ講和会議で独立を認められたとき、既に米ソの冷戦構造が構築されており、第2次世界大戦の覇者としてのアメリカは、日本を自由主義陣営の側に引き入れたかったわけで、そのために日本に主権国家としての体裁を取らせたかったわけである。
ところが、その当時の日本の首相、吉田茂は、日本が独自で主権国家としての体裁を整えるための軍隊の保持という事は、経済的な面から不可能と考え、同時にアメリカ側が押しつけた憲法を盾に、日本が独自に軍隊を持つ事を拒否、その部分をアメリカ側に肩代わりさせてしまったわけである。
アメリカ側の押し付けた憲法を盾に、日本側の軍需費というものを皆無に押さえる、という発想は外交手腕の最も老獪、面妖な部分で、まさしく外交官の最たるものである。
このきっかけを作ったのは1950年・昭和25年の朝鮮戦争の勃発である。
この朝鮮戦争の勃発で、一番困惑したのが日本に進駐していたアメリカ駐留軍で、我々の側は困惑するもしないも、食うや食うわずの生活を強いられていたので、朝鮮で戦争が始まろうとどうしようと、何も出来なかった。
日本全土はまだまだ焼け野原で、我々は焼け野原を耕して、芋や野草を採って食べていた頃である。
自衛も、軍隊も、憲法も、何ら日常生活を潤すものではなく、町にはパンパンがあふれ、鶏小屋まで改造してパンパンに貸していた時代である。
そういう状況下で、日本が独立して自前の軍隊をもつ、という事はいかにも無謀であり、それゆえ吉田茂はアメリカの軍事力を最大限利用する事を考え、日米安保条約をサンフランシスコ講和条約の後独断で締結をしたのである。
この時、既に日本にはアメリカ軍が押し付けた日本国憲法があり、その憲法で戦争放棄を高らかと謳いあげている以上、軍隊という呼称はどうしても使えなかったわけで、苦肉の策として、自衛隊という呼称にせざるを得なかったわけである。
自衛隊、セルフ・デイフェンス・ホース、実に苦肉の策の賜物である。
アーミー(陸軍)でもなければ、ネービー(海軍)でもなく、エアーホース(空軍)でもなく、コーストガード(沿岸警備隊)でもなく、まさしくミリタリーとは別物の呼称ではあるが、実質は軍隊そのものである。
こういう風に解釈で逃げ切るという事は、実に姑息な政治手法といわなければならないが、こういう曖昧模糊とした思考と、民主主義の基本を踏まえた健康な主権国家では、論議がかみ合わない事も致したかたない。
私自身、自衛隊に5年間在籍した経験者として、今の自衛隊が憲法でいうところの戦争放棄の状況と全く乖離している事は明らかで、ならば憲法の方を改正しない事には、何時まで経ってもボタンの掛け違いという事は是正されない。
こういう憲法の成立の過程から、自衛隊の成立の過程を経て今日に至っているわけであるが、50年、半世紀という月日の流れというのは、そういういきさつを超えて現実に即したものに合わせなければならないと思う。
それが今回の新しい日米防衛協力の指針という事だと思うが、自衛隊というものが、実際の軍隊という規範で呼ばれていないので、「危険なところには派遣しない、」などと馬鹿げた議論になるわけである。
軍隊ならば、はっきりと「危険があるからこそ、民間人よりも軍隊が派遣されるべきだ」という事がいえるが、日本ではそれが逆さまになっている。
危険な地域だからこそ、あえて軍隊が飛び込んで、民間人を救出する、というのが基本的な軍隊の使命のはずであるが、戦後の日本人の発想は、それが逆転して、危険なところには民間のボランテイアが行き、後ろのほうの安全なところに自衛隊を派遣するという馬鹿な事になっている。
こういう発想の根源には、自衛隊の自衛という部分に思考の焦点が集まってしまっているわけで、軍隊というものの本質を抜きに議論をしているので、盲人が像をなぜているような議論になるわけである。
50年前の日本というのは、それこそ食うや食わずの生活で、自らが生きるためになりふりかまわず働かねばならなかった。
しかし、それから50年経ってみると、日本はアメリカに次ぐ経済大国になってしまっていたわけで、こうなると50年前の認識では物が語れないわけであり、状況に応じた対応が迫られてくるようになったわけである。
ところが、日本の革新勢力というのは、50年前からアメリカが押し付けた日本国憲法というものを不磨の大典として一切の変更を認めようとしなかったわけで、しかもその言い草が、変更を加えると軍国主義の復活につながる、という取り止めのない根拠で憲法改正を阻止する論議をしているわけである。
日本が戦後50年以上も平和に来れたのは平和憲法のお陰である、という思い込みに浸っているのと同じで、憲法を一句でも変えれば軍国主義になる、というのも誇大妄想的な被害意識以外のなにものでもない。
さすがに、非武装中立論という空想物語を語るものはいなくなったが、それでも現実はなれした被害妄想を根拠に、憲法の改正を拒否しつづける態度というのは、日本の革新勢力のアキレス腱であるように思う。
日本の革新勢力といえども、世界の現実と、日本の置かれている現実の姿というものをもっともっと素直に受け入れて、人としての現実的な選択をすべきであると思う。
カンボジアの選挙の監視活動でも、湾岸戦争の掃海艇の派遣でも、日本が終戦直後のような国力もなく、食料も十分でなく、人々が食うや食わずの生活をしている国ならば、国連からの要請も有り得ず、自衛隊の海外派兵という問題も起きてこないはずである。
ところが日本の現実というのは、世界で1,2位を争う経済大国であり、国連への供出金も世界一となれば、当然その経済力に見合う国際貢献というものが要求されても致し方ない。
日本が戦後50年にして世界でアメリカに次ぐ経済大国になり得たのは、平和憲法のためではなく、世界が日本に対して経済の窓口を開放してくれたからである。
日本に資源がない事は昔も今も変わりないわけで、そういう状況の中で、日本がここまでこれたのは世界各国が日本への輸出に協力し、日本からの輸出品を受け入れてくれたからであって、けっして平和憲法などのせいではない。
日本が繁栄の極みに達してみても、日本の内部では、おかしな憲法が生きているので、日本は国際紛争の解決に何一つ貢献できないでいる。
国際紛争の解決に手助けするという事は、何も軍事力でアメリカ軍の尻にくっついて、全面戦争に参加するという事を意味しているわけではない。
湾岸戦争で何故アメリカが主導権をとって参加したか、コソボ地域の空爆を何故アメリカがNATO軍の先頭に立って行ったいるのか?
アメリカは戦争が好きでやっているわけではない。
アメリカが正義の警察官ぶるのはイラクのフセイン大統領や、ユーゴのミロシェビッチ大統領が人道上許されない行為をしているからであって、彼らがそういう行為を止めれば、自ずからアメリカも手を引くわけである。
イラクのフセインも、ユーゴのミロシェビッチも、国連の言う事を全く聞かなかったではないか。
国連のいう事を聞かない主権国家の首長に対して、誰がどう説得をすれば、人道上の不法行為を止めさせる事が出来るのかと言いたい。
ロシアも中国も今回のコソボの空爆に対して反対はしているが、ならばミロシェビッチに対して、アルバニア人への弾圧を止めさ得たのか、と問えば答えは否である。
アメリカに世界の警察官ぶるな、と言う事は出来る。言いうだけならば誰にでも出来る。
しかし、イラクのフセインや、ユーゴのミロシェビッチに、人道上の不法行為を止めさせるにはどうすればいいのか、という答えを出さずに、アメリカに対してのみ、「空爆を止めよ」ということは事の解決には何らつながるものではない。
湾岸戦争に関して言えば、日本はこの中近東から膨大な石油を輸入しているわけで、そのシー・レーンの確保、維持に、アメリカの将兵の血が流されているとなれば、金だけ出して済むことではないはずである。
この場合、日本の自衛隊が、何処までが自衛で、何処からが戦闘地域か、などと論議していること自体ナンセンスである。
こういうのう天気な議論をしている、ということは如何に我々が民族の危機感に無頓着かという事にほかならず、そのうち何とかなるに違いない、というまことに無責任極まる発想が根底にあるように思う。
如何なる状況に置かされても、政府が悪い、政府の危機管理が悪い、自民党の政策の不備だ、官僚が悪い、と、あらゆる事を政府なり、官僚なり、自分以外の他人に転嫁すれば一応の面目は立つというのが日本の戦後の知識人の発想である。
冒頭に記した道正太朗氏の60年安保の写真のコメントには「民意うねっていた」と大見出しがついていたが、確かに大きな民意の渦が世間を席捲し、あたかも革命前夜のような状況を呈していた。
しかし、この民意は政府当局に押え込まれ、岸首相は安保改定を実施し、革命は不発に終わった。
それから39年を経た今日、あの時の民意として、安保が改定されば日本は戦争に巻き込まれる、というシナリオは嘘であった、といわなければならない。
岸首相は極めて優れた将来を見越す酔眼をもっており、安保反対を唱えて革命をしようとした革新勢力の先見性というのは全くの出鱈目であったということになる。
政治のリーダー・シップというのはこういう事だと思う。
無知蒙昧な大衆というのは、政府に反対ばかりするが、将来を予見することにかけては政府側のほうの言う事が正しく、反対派というのは、政治の場をお祭りの場としているに過ぎない、という自負こそ、政治家のリーダー・シップではないかと思う。
政治家の責任、特に政府の責任という事は、施政に失敗があれば政権交代という形で実にあっさり責任放棄のような現象が起きるが、安保闘争のような大衆運動が間違っていたような場合、その責任というのは一体誰だどう禊を受けるのかといいたい。
安保闘争の後、日本の知識人というのは一切そういう責任という事に関しては口をつぐんでしまい、東大生の樺美智子さんがデモの途中で圧死した事まで政府の責任に転嫁してはばからない人間が、自分たちの先見性が間違っていた事に対して何一つ弁解しないという事は卑劣な行為だと思う。
あの革命前夜のような状況を呈した運動は一体なんであったのかと問い直したい。
それに比べると、今回の新しい日米防衛協力のための指針・ガイドライン法案の国会通過というのは腑抜けの感がしないでもない。
大学生のこの法案に対する無関心さ、というものはあまりにもひどすぎる状況である。
時代によって同じような法案、事案に対して、大学生をはじめとする日本の一般大衆の関心が極端に偏る、という現象は日本の民族の根源に関わる民族性に由来するものではないかと思う。
我々の民族性の特質といえば、いわずと知れた付和雷同である。
アイツがやれば俺もやる、隣がしたので我が家も同じ事をする、グッチが流行れば猫も杓子もグッチを持つ、マネー・ゲームが流行れば猫も杓子もマネー・ゲームにはしる、その結果として、親亀こければ子亀もこける、という結果になるわけである。
明治維新の後、日本が近代国家に脱皮する途中で、軍国主義をとり、軍国主義が一世を風靡したら最後、猫も杓子も軍国主義者であらねば人であらずという状況を呈したわけである。
一旦、物事が世の中の流行に乗ると、もう後先の事を全く考えず、一億火の玉となって奈落の底に転がり込んでしまう、というのは実に不思議な日本人の特性である。
日本に仏教が入ってきた過程を見ても、日本にはもともと八百万の神がおり、神道という宗教が我々の本来の宗教であるにもかかわらず、仏教というものに接したとたん、きれいさっぱり自分たちの宗教を捨てさり、外来文化であるところの仏教に帰依してしまったわけである。
この神道を捨て、仏教に帰依するという事を20世紀の我々の生活に当てはめてみると、アメリカから押し付けられた戦争放棄を含む憲法を後生大事に抱えて自主憲法を作ろうとしない状況と酷似している。
仏教に帰依すると行為は、その当時の大衆レベルの運動ではなく、朝廷、今で言えば政府当局側の決断であり、恣意であったわけで、その当時の日本の政治の根幹を成す部分が率先して外来文化であるところの仏教に帰依してしまったわけである。
そういう外来文化というものが、我々、日本民族の中で、流行という現象を呈すると、他の選択肢をことごとく捨て去ってしまって、猪突猛進という形でまっしぐらに突き進んでしまうわけである。
太平洋戦争の経過を見ても、まさにその通りの事が起きているわけで、あの戦争の経過をつぶさに調べてみれば、敗戦の原因、戦争に負ける要因を作ったのはまさしく我々の内にあり、負けると解っていながら、万が一勝つ事が出来るかもしれないと甘い判断した政治家、いやもっと正確には軍官僚の判断も、過ちも、我々の側から誰一人裁こうとしない。
ということは、我が日本民族というのは、流行という事に非常に弱く、その流行という渦の中での出来事では責任というものを追求しないという不文律があるからだと思う。
その観点から60年代の安保闘争を眺めてみれば、あの革命前夜の状況を呈した大衆運動が政府当局の圧力に屈して挫折したとしても、その運動が一種の流行という現象であって見れば、その責任を深く追及しないということも我が、日本民族という民族性に根差すものだと解釈できる。
太平洋戦争に転がり込む過程でも、日本人の中にも良識を備えた人間はいたわけであるが、そういう声は、軍国主義という流行の渦に掻き消されてしまって、世論を喚起する事が出来なかった。
我々、日本民族が流行に身を任せ、自分では物を考えず、自分では判断せず、隣の人と同一歩調を取っていれば大過なく過ごせる、という状況はある意味で民族の知恵でもあったわけである。
しかし、それにはそれなりのリスクを伴うわけで、自分で考え、自分で判断し、自分の裁量で行動している場合は、そのリスクにも納得がいくが、人の後についていった場合は、自分に降りかかってきたリスクに対して納得がいかない。
だから結果として、政府に援助を依頼し、そのリスクの発生は政府が怠慢だから生じたのだ、という論法になる。
バブル経済の崩壊から金融機関の倒産、はたまた不良債権の問題まで、最近の政治的、経済的諸問題はすべてこういう論法が罷り通っている。
明治維新以降の日本というものをよくよく注視してみると、封建制度を脱皮した後には自由民権運動というのが流行になりかけた。
ところがここで第1次世界大戦の余波を受けて、日本が近代国家に飛躍する直前になって不景気になってしまったわけで、何としてもこの不景気から脱出しなければならないという事になり、それが軍国主義というものに拍車を掛けたわけである。
その軍国主義というものも、最初は緩やかな帝国主義で、武力を背景として地理的に近い中国の植民地支配を有効あらしめようとしたものであったが、中国の抵抗がなかなか手強くて、帝国主義では追いつかなくなり、最終的に軍国主義になってしまったわけである。
問題は、軍国主義というものが流行になってしまい、昭和の初期の頃には、軍国主義者でなければ人で在らず、という風潮が世間に蔓延してしまった事である。
この事が、流行である間は人々はその流行に身をやつし、流行を謳歌し、流行に便乗して、流行に浮かれきっていたわけである。
一般大衆の誰も彼もが流行に浮かれ、沸き上がっていたので、日本がアメリカと戦争をしても誰一人その流行から目が覚めなかったわけであり、仮に斎藤隆夫のように、冷静な判断力で警世の辞を現しても逆に非国民というレッテルを貼って葬り去ってしまったわけである。
事ほど左様に我々、日本民族というのは、自主的な発想、自主的な思考、自主的は判断、自主的な行動という、自主的という事に弱いわけで、他人の尻にくっついてしか行動できないわけである。
54年前日本が戦争に負け、負けた時点で連合国側は日本の戦争責任者を裁いた。
しかし、これは勝った側が勝った側の論理で日本の戦争責任者を裁いたわけで、我々、戦争の巻き添えを食った日本民族の側の戦争責任の追及ではなかったわけである。
ドイツは戦後自らの民族のうちの戦争責任を連合国側の裁判とは別個に裁いている。
そういう事から考えれば我々、日本民族も、我々庶民を奈落の底に引きずり込んだ日本の戦争指導者というものを自ら裁くという発想が出てきても不思議ではない。
ところが我々の場合、開戦の時、閣僚の椅子に座っていた岸信介という政治家は、日本人から何一つ咎められる事なく、GHQが戦犯から開放したとたん、再び日本の政治家として返り咲く事が出来たわけである。
返り咲いた時点では、日本は民主的政治制度になっており、彼は一般大衆から選出されて代議士となり、自由民主党の党首になり、内閣総理大臣という椅子に座れたわけである。
問題は、こういう人物、開戦の時、閣僚の椅子に居た人物を、何故に地元民が再度政治家として選出したのか、という事である。
田中角栄がロッキード事件で被告の席にいるときに、新潟の選挙民は何故に再度彼を代議士として選出したのかというところである。
そこには自分たちの政治的リーダーが犯した行為に対して、何ら反省を促す積極的な意義がないわけで、あるのは地域の利益誘導という自分本位な損得勘定しかないわけである。
流行の渦の中に、統治する側も、統治される側も、いっしょに翻弄されているので、その流行の結果としては誰もが同じ責任者であり、新たに統治する側にのみ責任を追及しない、という不文律があるように見受けられる。
日本民族の皆が皆、人の尻にくっついて奈落の底に転がり込んでしまった以上、我々の内部からは、誰だれが悪かったからこういう結果になったのだ、という事がはっきりといえないわけで、我々の民族の内側から戦争責任を追及するという発想にいたらなかったわけである。
終戦直後、「一億総懺悔」という事が言われた。
たしか近衛文麿ではなかったかと思うが、戦中は「撃ちてし止まん」「鬼畜米英」と言いながら、戦争が終わったら「一億総懺悔」では国民はたまったものではない。
けれどもそういう声に対する日本の民族の内部からの反発は全くないに等しいわけで、当時の日本の政治的指導者が、日本の国益を代弁する形で帝国主義的植民地支配を容認し、軍国主義という流行に乗り遅れまいとして、戦争をおっぱじめておいて、それが負けたから、お前たち「一億総懺悔」せよという言い草はないはずである。
戦後の日本の革新勢力というのも東京裁判史観というものには頑なに固執しているが、この東京裁判というのは連合国側の発想で行われ、実施され、施行されたものであって、決して日本民族の内部からあの戦争を告発したものではない。
軍国主義を実践したのはやはり当時の軍人であり、軍官僚であったが、軍国主義という流行に舞い踊ったのはあくまでも日本の大衆の側の、民族として流行に乗り遅れまいとした潜在意識であったわけである。
戦後の日本の革新勢力があの東京裁判史観から脱却できないでいるのもそれが一種の流行を形成し、反政府の旗を振りまわす事が知識人としての特権であり、マスコミが取り上げてくれるので格好いいポーズであるという浅薄な思考の賜物であったからである。
昭和初期の時代、その当時の世相で優秀な青年が最もあこがれた職業というのはやはり士官学校や海軍兵学校に進み職業軍人になる事であった。
戦後の日本が高度経済成長に邁進していた頃の日本の青年で優秀な人々が最もあこがれた職業は銀行か、証券会社か、官僚である。
この職業選択の違いというのは、いずれも時の流行に左右されているという事にほかならず、流行というのは言うまでもなく移ろいやすいもので流行が去ってしまえば尾羽打ち落とした状況になってくるわけである。
しかし、ここで私が内心面白くないと思う事は、日本の優秀な人間がこういう流行というか、世事の風潮に左右されて、右往左往するという事である。
優秀でない人間は、あきらめと自分の不甲斐なさを心に秘めたまま、流行に媚びる事なく、自らの人生を歩む事が出来るが、なまじ優秀であればこそ、流行に敏感で。流行に乗り遅れまい、とするところが稚拙であるように思えてならない。
60年安保で巷を革命前夜のような状況にした革新勢力、全学連の闘士、、労働組合の闘士というのはいずれも自分を優秀な部類の人間である、という自負のもとにこの闘争に参加していたわけで、こういう人間を総括した民意というのは、今は存在していない。
というのも、この時代、60年安保の時代でも、学生という身分は、明らかに選ばれたエリートの集団であったわけで、今の大学の状況というのは、誰でも彼でも、学校さえ選ばなければ誰でも入学できるわけで、学生の側に選ばれたエリート意識というものが全くないわけである。
その分、政治的にノンポリにならざるを得ない。
政治的にノンポリであるからこそ、無党派層という集団になるわけで、世の中の全部が無党派層といわれる状況というのは日本があまりにも平和過ぎて、血を沸かせ、肉踊るような対象が全くないという事である。
人が教育を受ける、教養を身に着ける、学校に行くという事はすべからく善であるという前提のもと、日本の青年男女はそのことごとくが本人が望みさえすれば高等教育を受ける機会が得られる有り難い世の中になったわけである。
それで、これも一種の流行の感を呈し、猫も杓子も高等教育を受けたがる風潮というものが出来上がったわけである。
青年男女の誰でもが高等教育を受けられる状況というのは、ある意味で社会が成熟してきたという事でもあるわけで、社会が今まで人類が経験した事もない成熟期を迎えるという事は同時に未開の道を突き進むという事でもあるわけで、それは同時に新しい社会の態様が展開する可能性を大いに秘めたことでもあるわけである。
バブル経済が崩壊した後で、日本の銀行とか証券会社の倒産、不良債権の問題等経済的な犯罪があちらこちらで現出したが、これも日本の新しい社会現象ではないかと思う。
大企業、日本の主要銀行、主要証券界社というのは戦後何十年来というもの、日本の優秀な学生を確保しつづけ、そういう優秀な人間が入社以来連綿とその企業で社業にいそしんできたはずである。
ところがその結果として企業の倒産であったり不良債権であったり、リストラであったわけで、数十年前、入社した時点では優秀であった学生が何故にその社内でモラルを欠いた経営者に成り下がったのかという点を注視すべきである。
ここにあるのはやはり日本人、日本民族の本質的に持っている横並び精神で、自分で考え、自分で判断し、自分で決定しない、自主性を欠いた生き方ではないかと思う。
先の大戦にのめり込んでいった軍国主義の隆盛、60年安保闘争に於ける反政府運動の大衆の民意と称するお祭り騒ぎ、バブル経済に踊りに踊った宴の後、というのは日本民族の本質を見事に露呈している。
封建主義から帝国主義、その試練を経て資本主義、自由主義的経済システムという歴史の流れというのは、日本人の本質論とは関係ないと思われるかもしれない。
それは地球上で自由主義経済圏の中ではどの主権国家も経験している事で、日本に限った事ではないという反論は当然あるが、そういう事を自ら反省し、その反省の上に立って、自分で自分を蔑む民族というのは日本だけしかないように思う。
我々の民族的本質というのは、我々の住んでいるテリトリーというものが、四方八方を海という自然条件で隔離されているので、どうしても唯我独尊的な思考に陥りやすいという面がある。
先の大戦の責任者を民族のうちから裁くという事もせず、60年安保闘争で革命前夜のような状況を呈した大衆運動の将来見通しが全く出鱈目であった事の責任追求もせず、バブル経済を煽り、その反動として企業倒産や不良債権を抱え込んだ企業の企業責任も追及せず、こういう失敗の原因がすべて政府の施政の失敗であると、他人事のように片づける発想というのは、日本民族独特なものだと思う。
それはとりもなおさず無責任態勢という事に他ならない。
以前、こういう戯れ言葉があった。「赤信号、皆で渡れば恐くない」まさしく言いえて妙である。
この言葉ほど日本人の民族性を的確に言いえた言葉も他にないと思う。
「赤信号」という規範、モラル、法律、ルールも、皆で手をつないで、大勢一緒になって犯してしまえば決して恐いものではない、と言う事を端的に表しているわけである。
皆で、大勢で、「あいつがやれば俺もやる」という気持ちで、規範を乗り越えれば、それが正義になってしまうという事を単刀直入にあらわしているわけである。
問題は、大勢の人が、従来ならば、悪とされている規範を乗り超えるという事である。
この事は、逆の見方をすれば、大勢の人が一斉にルール違反をした場合には、その責任の所在が雨散霧消してしまって、誰か特定の人を悪人と決め付け、処罰すとことが出来ないということである。
出来ないのではなく、しようとしないところに民族の本質的な欠陥があるように思う。
そういう時には政府の責任にしてしまえば、誰が悪人かは不問に付したまま、時が流れて、あやふやな議論をしているうちに問題の本質が昇華してしまうわけである。
大勢の人が「赤信号、皆で渡れば恐くない」と言いながら規範を乗り超えようとしているとき、日本の知識人の役割というものが、ここで大きく働かなければならない。
知識人の役割というのは、こういう大衆に対して、従来の規範を守り続けなければいけませんよ、と警告を発すべきだと思うが、日本の知識人にはそういうモラルに欠け、自分には知識人としての使命というものが内在している、という自覚をしていないような気がしてならない。
もともと日本では知識人と、そうでない人との峻別が曖昧で、我々はこういう階級制度の存在を否定したがる傾向がある。
しかし、この階級というのは、目に見えない形で厳然と日本の社会には息づいているわけであり、人々はそれがあるからこそ高等教育を望み、上昇志向に陥っているわけで、現実にハイソサエテイーとそうでない大衆の差というのは拭い去れない現実としてあるわけである。
我々の社会では、階級制度があたかも無いように見えるという事には、それがあまりにも流動的で、誰でもハイソサエテーになるチャンスが開放されているので、その意味では階級制度が消滅しているかのように見える。
それが学歴社会というもので、誰でもがハイソサエテーの一員になる事を目指して受験戦争に入っていくわけである。
もともと高等教育の目的というのは、高いモラルを持った人間を形成するというところにあり、教育の原点というのは、そういう人を一人でも多く養成した暁に、そういう人々の影響で国民全部のモラルが少しでも向上する事を願った施政だと思う。
だから基本的には高等教育を受けた人々というのは、従来のモラルを率先して遵守し、従来の規範を乗り越えるような仕儀は心して戒めなければならないわけである。
ましてや、皆と一緒に手をつないで赤信号を渡るような事は厳に戒めなければならないわけである。
ところが昨今の風潮というのは、こういう高等教育を受けた人々が、自分の受けた教育というものを武器として、法の網をくぐり、法の盲点を突き、既存のモラルを踏みにじり、「あいつがしているのに俺がして何が悪い」という発想でもって、私利私欲に走ったのが今日のバブル経済の崩壊につながったわけである。
そこには、自分は高等教育を受けたから社会の中の模範的人間にならなければならない、という自意識は全く無く、味噌も糞も一緒、という戦後の日本の間違った平等主義が幅を利かせ、エリート意識というものを自らかなぐり捨てた浅薄な発想が横たわっていたわけである。
昔、江戸時代という封建主義社会では、士農工商という身分制度がきちんと確立していた。
その中でも、幕末も末期になってくると、士族も没落し、その反対に商人や町人が羽振りをきかせる時代が現出してきた。
しかし、そういう状況下でも「武士は食やねど高楊枝」という武士を揶揄した言葉があった。
これはある意味で、武士は人を統治する側として誇りを心のうちに秘めているので、腹はひもじくとも、如何にも食ったように振る舞っているという、統治する側のやるせない心境を吐露した言葉ではないかと思う。
もっと掘り下げて考えると、統治する側というのは、自分は薄給でも、人を統治しているという誇りで生きているわけで、町人、商人のように、私利私欲、我利我欲で生きているのではない、という心意気をあらわした言葉ではないかと思う。
ところが、明治維新で、この身分制度が否定されると、統治する側に町人出の役人、商人出の役人、同じように軍隊という武装集団の中にも、身分に関わりなく平等に人々は入り込んでくるわけで、そうすると「武士は食わねど高楊枝」というような建前としての誇りというものが無くなってしまって、現実的な発想の利益集団しか残らないようになってしまったわけである。
現代においても、高等教育を受けた人々というのは、ある意味での武士のようなもののはずであるが、ならば当然、彼らには建前上のエリート意識というものを持ち、誇りを持ち、下賎な商売人や、ブローカーや、成り上がり者とおなじレベルの発想をしてはならない、という自負というか、誇りというか、プライドというものが無ければならない。
現代では若者の8割方が大学に行くといわれているが、この事実は基本的に結構な事である。
教育というのは、無いよりはあったほうが良い。
しかし、これだけ大勢の若者が大学に行くとなると、彼らに「エリート意識を持て」といっても無理な事であるが、一言で大学と行ってもピンからきりまであるわけで、自分が名門大学かどうかは本人が一番良く知っているわけである。
ならばエリート意識というのも自然に理解できるわけで、その意識を持ち得ないという事は、その人の本心が下賎そのものだと思わざるをえない。
階級制度がないという事は、心の卑しい人間が混ざり込んでくるという事に他ならない。
戦後の民主的なものの考えでは、心が卑しいというだけで人を差別する事は最も忌み嫌われる事であり、すべきでない事である。
しかし、心の卑しさというものは、その人個人の天性であって、教育とか、訓練とかで後天的に是正できる物ではない。
よって、銀行を倒産させるような経営者、不良債権を抱え込んで国から支援を仰がねばならないような企業の経営者というのは、基本的にその人個人が持って生まれた天性が心卑しき人と言って然るべきである。
こういう天性の心卑しき人が、いくら高等教育を受けたところで、その天性が直るわけではなく、学歴だけが人を見る尺度になっている以上、学歴さえあれば、その人の天性がいくら心卑しき人であっても、経営者にせざるを得ない。
普通に考えて、最高学歴の人が企業内で何十年もその職業に従事し、最終的にその企業を潰すという事は考えられない。
しかも、そういう高学歴の人が一人や二人の企業ではなく、何百人、何千人といる企業がつぶれるという事は、その企業内に勤める人たちが受けた教育というのは一体なんであったのかと問い直したい。
例えば、北海道拓殖銀行の倒産や、野村證券の自主廃業というものを考えた場合、これら大企業の経営者というのは、無学文盲の人物が企業経営していたわけではなく、日本でも有数の大学の卒業生が大勢経営に参画していたわけである。
そういう企業が経営を失敗し、倒産に追い込まれるという事は、社会の動きとはまた別な要因があるように思う。
日本の過去の歴史を振り返ってみると、産業構造の変革で企業が淘汰されるという事は往々にしてある。
養蚕がすたれたり、石炭産業がすたれたり、紡績業がすたれたりする事はあった。
しかし、これは社会の大きなうねりの中での企業淘汰であり、経営の失敗とは別の問題である。
北海道拓殖銀行の倒産、野村證券の自主廃業という場合、これは明らかに企業経営の失敗であり、社会の変革の犠牲になったわけではない。
だとすれば、企業経営者は当然その責を負い、経営の座から降りてしかるべきであるが、企業が倒産した後では、それは遅いわけで、私はこういう場面で経営者の知性が試されるのではないかと思う。
企業の経営者というのは、無学文盲の人がしているわけではない。
にもかかわらず、企業を倒産にまで追い込むということは、知識人、高等教育を受けた人として、ないしは企業経営の責任者として、犯罪に当たるのではないかと思う。
これだけの企業を倒産に追い込むという事は、普通の業務を普通にこなしている限りありえない事で、それが倒産したという事は、経営幹部を一人ずつ現行の商法で叩けば、きっと違法行為の山が現れてくるに違いない。
普通の業務を普通のモラルというか行動規範にしたがって行っている限り、これだけの企業がそう簡単に倒産するわけが無い。
こういう優良企業が倒産にまで追い込まれるという事は、普通のモラルから逸脱し、普通の行動規範からはみ出した、特別な動きをしたからこういう結果を招いたに違いない。
今、金融危機が叫ばれて久しいが、他の銀行、証券会社にも、こういう危機を内在した企業が数多くあるわけである。
これらはいずれも企業経営の失敗であり、経営者のモラルの喪失に大きな原因がある事は火を見るよりあきらかである。
こういう状況下において、国民の預金を守るためと称して、こういう企業の倒産を救済しなければならない、その為には税金を投入しなければならない、という議論はあまりにも虫のいい話で、到底国民の納得できるものではない。
企業の経営者がモラルを欠いた経営をして、その失敗を重ねた根本のところには、やはり日本民族の本質に根差す横並びの精神があったに違いない。
し烈な過当競争の中で、あの会社が違法すれすれのところで顧客を獲得しているのならば、我が社はもう一歩踏み込んで、少々法律に抵触してもかまわないから、利益を上げよという発想でもって競争を繰り返してきたわけで、そこには経営者としてもモラルも、企業としてのモラルも、人間としての倫理も、入り込む余地がなかったにちがいない。
これこそが「赤信号、皆で渡れば恐くない」という戯れ言葉そのものである。
赤信号を皆で手をつないで渡った結果、不良債権を抱え込み、国に助けてくれと言っているわけで、自分が赤信号を危険を冒して渡ったという事を忘れて、その結果として救済を国に求めているわけで、これでは人々が納得しないのも無理はない。
この場合でも、企業の中からその倒産の責任を追及する声というのは全く出てこないわけで、企業の社会的責任という事から言えば、経営者は相当に重い処罰、刑事罰を受けても当然である。
ところがコケにされた側の人々、つまりその会社の社員とか、顧客とか、監督官庁の側から、そういう経営者の責任を追及する声というのが全く出てこない、というのも極めて日本的な現象だと思う。
こういう犯罪まがいの行為に対して、非常に寛大で、責任の所在を追求する事無く、運とか、世間とか、政府の指導が悪い、というような他力本願的な要因に摩り替えてしまって、自分たちが被害者であるにもかかわらず、その責任追及に非常に寛大である。
この体質は、日本人に特有のものではないかと思う。
先の戦争の責任についても、アメリカ軍はアメリカの論理で日本の戦争犯罪者を裁いたわけであるが、日本の内部から、我々の同胞を奈落の底に引きずる込んだ人々を裁こう、という気運は一向に出てこなかった。
これは一体どういう事なのであろうか?
日本が帝国主義に翻弄されて、中国に進出、国際連盟から手を引きなさい、といくら言われてもウンといわず、中国に居直った責任というのは、その当時の日本の政治家、軍人をはじめとする日本の指導者にあったわけである。
しかし、我々のうちから、そういう人たちを糾弾する事を一切していない。
戦後日本を占領したアメリカ軍・GHQはレッド・パージ、とか公職追放という事をした。
これは日本が極端な軍国主義者や共産主義に犯されるのを防ぐ事が目的で、そういう人々を職場から追い出す事が究極目的であった。
その事によって日本が再び軍国主義に凝り固まって他国に戦争をしでかさない、という連合国側の思惑でそういう施策が取られたのであった。
だからその主導権はアメリカ側が持ち、アメリカが行った施策であり、連合国側の占領政策であったわけで、我々の側からの反省の行為ではなかったわけである。
こういう局面において、本来ならば民族の内側から戦争に対する反省というものは彷彿と沸き上がってこなければならないように思う。
戦後50有余年を経る間に、そういう民族のエネルギーというものは沸いてきた事は沸いてきた。
ところが不幸な事に、それは革新という隠れ蓑のうちに、共産主義と混在して沸き上がってきたので、共産主義者と、本来の人間の知性としての峻別が出来なかったところに、戦後の日本の昏迷が潜んでいる。
日本の歴史の中で、戦前、戦後を通じ、日本の共産主義というものは、日本のインテリー層をことごとく取り込んで、日本の知識人といえば、ことごとくが共産主義者となってしまったわけで、ここに戦後の日本の知性の堕落がある。
日本の共産主義者といえば、彼らは基本的に共産主義国、社会主義国の先輩としてのソビエット連邦や中華人民共和国の利益を擁護する事をはばからなかったわけで、此れが戦後日本のインテリー、知識人の日和見なところでもある。
日本においても、戦前、戦後を通じて、知識人という階級は存在していたにもかかわらず、世が軍国主義を謳歌しているときは、軍国主義に共鳴し、それが否定されると、雪崩をうって、反政府、反アメリカが脚光を浴びるわけである。
知識があろうが無かろうが、人々が時世の流れに右往左往、日和見になるのは生きんがための処方としては致し方ない面がある。
問題は国民の知識階層としてのインテリー層が、猫も杓子も、雪崩を打ってメダカの方向転換のように一斉に同じ方向を向いてしまうというところに、彼らの自主性の無さ、自意識の曖昧さ、理性の無さ、自己確立の無さを感ずる。
軍人が幅を利かす時代だと、全部が全部彼らに迎合し、それが終わると、今度はまた明後日の方向、つまりは共産主義に雪崩れうって方向転換する、という節操の無さというのが実に情けない。
此れが日本のインテリーの真の姿であり、これでは知識人としての値打ちは全く無いも同然で、まさしく「烏合の衆」と同じである。
戦後の日本の知識人というのは、軍国主義に迎合した反省として共産主義というものに擦り寄ったわけであるが、共産主義というものが、革命を信条としている限り、既存の倫理が通用しない集団である事を彼らは意識的に頬被りしてきた。
共産主義者が共産主義者である限り、何時まで経っても、政権の安定は望めないわけで、常に時の政府には反対しつづける、というのが共産主義というものの本質である。
革命を信条としている限り、それは永遠に続くわけで、彼らにしてみれば、人間の集団というのは、知識人層と、そうでない層に別れるわけであり、常にあらゆる場面で知識人がそうでない人々を指導監督するというのが彼らの描く社会なわけである。
こういう発想は、いたく戦後の日本の知識人の心を擽ったわけで、今までは軍人が威張りくさっていたが、それに変わる登場者として、知識人、並みの人より高度な、高等な教育を受けた世代が、人々を指導監督、大衆をリードするという事は、実に彼らにとって心地よい雰囲気であったわけである。
戦後のアメリカ軍による大改革で、日本の政治の状況というのは、普通選挙が実施され、それによって選出されてきたのは紛れも無く無学文盲に近い大衆レベルの人たちで、こういう状況を指導監督するのはまさしく日本のインテリ層の使命であると思い込むのも致し方ない。
インテリー層が一般大衆をリードする分には一向に差し支えないが、そのリードすべき内容が問題なわけである。
その内容が、ことごとく共産主義に迎合するものであり、日本の、自分達の同胞よりも、ソビエット連邦や中華人民共和国の利益を優先させるような思考を鼓舞宣伝するところが問題なわけである。
現に60年の安保闘争を見ても、あの安保条約で一番不利益を被るのはソビエット連邦であり、中華人民共和国であり、時の日本の政治指導者にしてみれば、最初からそれを目的としているわけである。
民主政治というのは、すべての国民を政治に参画させる事は物理的に不可能なわけで、どうしても代議員制をとらざるをえない。
国民から選出された代議員によって政治というものは運用されている限り、政治に民意を反映させる手段としては、選挙の際に自分の意見を代表する人に代理に言ってもらうしかないわけである。
だから安保闘争も国会の中で展開されている分には何らかまわないが、それを国会の外でいくら反対と言ってみたところで、それは負け犬の遠吠えでしかない。
ところが国会の中では保守勢力が大半を占めているわけで、民主的な多数決原理で事が決するとなれば、国会の外でいくらその施策に不満であっても致し方ない。
此れが物の道理というものである。
此れを、無理が通れば道理が引っ込むでは困るわけである。
戦前の国会で、軍国主義華やかなりし頃、斎藤隆夫という勇気ある人が反戦演説をしたとき、寄ってたかって彼を封じ込めた我が同胞が、戦後は同じ事を声高々とわめくという事を我々はどう解釈すればいいのであろう。
世の中が変われば、同じ事が全く逆の価値を生むという事は由々しき問題だと思う。
我が同胞の理性とか知性というものは、時代の流れに対して全く無力であった、といわなければならない。
こういう価値観の転換がおきたときにこそ、民族としての理性とか、知性、はたまた教養とか知識というものが大きく作用しなければならなのではなかろうか。
我が同胞の理性とか知性というものが、時の流れに身を任せて、右に行ったり左に行ったり、その根幹が定まらないというのは、我々の持っている理性なり知性というものが、それだけのものでしかないという事に他ならない。
だとすれば、戦後の日本の知識人が、自分達の政府を批判、自分達の官僚をこき下ろす事は、天に向かって自分で唾を吐いているに等しい。
人が作る人の社会というのは、人がそのシステムに介在している限り、絶対に正しく、絶対に正義である、という事はありえないわけである。
ならば、昨今のように、いや60年代の安保闘争のように、反政府運動というのは一体なんであったのかと自問自答してみる必要がある。
あの時、政府に対抗して反政府運動を指導、煽ったのは紛れもなく当時の日本のインテリであり、大学教授を始め、学生から、労働組合から、共産主義者まで、日本のあらゆる知識階級というのが、政府のしようとした事に対して反対を表明したわけで、結果として、その表明は間違っており、政府の行為のほうに整合性があったわけである。
私が今ここで政府の提灯を持つ必要はさらさら無い。
しかし、あの当時、日本を革命前夜のような状況に落とし込んでおいて、それが間違いだった、と解った時点で、そういう勢力の側からの反省の弁というのは一向に出てこないのも無責任の極みだと思う。
尤も、太平洋戦争の責任追及も我々、同胞のうちからは出てこないのを見れば、ある意味で、無べなるかな、という感がしないでもない。
日本を敗北に導いた連合軍側が、勝手に自分達の論理で裁いた東京裁判史観というものを後生大事に抱え込み、我が同胞はあかたも連合軍側のものの見方に偏り、自分はアメリカ人か、さもなくば中華民国、乃至は中華人民共和国の国益を擁護するような態度が戦後の新しい日本のインテリのポーズかのような感を呈している。
目下、我々はアジア諸国から歴史への反省が足らないと糾弾されている。
こういうアジアの人々言う事は、極め人間的で、人間の本質を如実に表している。
その事は、彼らの人間としての理性や知性を称えているのではなく、本来の人間の欲望を素直に表しているという意味で、人間性があふれている、と私は言うのである。
つまり、人間としての欲望をありのままに出しているわけで、そこには人としての理性も知性も何も無いという事を言っているのである。
日本が戦後アメリカに次ぐ経済大国になれば、昔の事を持ち出して騒ぎ立てればいくらかの余録にありつける。
「だめで元々」というきわめて人間的な欲求を表しているわけで、此れを何処でどう勘違いしたのか、戦後の日本のインテリというのは、こういう発言の尻馬に乗っかって、戦後の反省が足りない、戦後処理が不十分だといいたているわけである。
彼らに十分な知性と理性があれば、国と国との関係において、サンフランシスコ講和会議で、日本が独立を認められた時点で、そういう問題は棚上げ乃至はその後の賠償という事で解決済である。
日本が豊かになったから、昔の事でクレームをつければ、何がしかの金銭にありつけるのではないか、という発想は極めて人間的で、自然な発想である。
金持ちが理由の如何を問わず、貧乏人に恵む事が常態となっている民族も、この地球上には存在する。
ところが、そういう行為は、人間の理性や知性でなさしめているものではなく、人間の生きんが為の感情、知恵、処世術として存在しているわけで、自然な人間として、知性や理性の対局にあるものである。
明治以降日本の教育というのは、日本全国津々浦々にいたるまで義務教育が浸透しているわけで、その教育の目的というのは、人が生きるについて、自然のままの欲望ではなく、自然の感情に支配される事無く、理性と知性でもって事を判断して生きなさいというところにある。
戦後50年も経ってから、アジア周辺人々が、日本が戦争中に犯した行為に対して補償を求めてくるという事は、一種の「妬み」である。
日本が敗戦直後のように、食うに食えない状況ならば、どうせクレームをつけても、出ないもの出ない、という諦めがあるが、日本が世界でも1,2を争うような経済大国になれば、「だめでも元々」「言ってみるだけは言ってみよう」という妬み心が起きるのも極々自然な思考である。
ところがそれを受ける我々の方は、そういうのは妬み心である、という事を正面から言い切れない。
たしかに従軍慰安婦の件にしろ、南京大虐殺にしろ、朝鮮人強制労働にしろ、事の大小はともかく、行った事は確かな事実で、その事実を持ち出されると返す言葉を失い、それは既に解決済であるといトーンが小さくなってしまう。

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