自分史3

朽ち果てた我が家

物心ついた頃、私は小牧に住んでいた。
正確に云うと愛知県東春日井郡小牧町小牧二五五一という所に住んでいた。
今は町名変更で変わっているに違いないが、どういうわけかこの頃住んでいた家が今でも残っている。
残っているとはいうものの、もう完全に崩れ落ちて廃屋を通り越して、ごみの山と化しているが、今でもその位置にうずたかく残っている。
こういう自分の家の熟れの果てを見るというのは実に忍び難い気持ちで、悲しくなる。
更地になっているのならばまだあきらめもつくが、建ったまま朽ち果てたかっての我が家を見るのは実に惨めな気持ちである。
といっても当時から借家だったので、如何とも致し方ない。
サラリーマンの年季奉公を終え、失業給付を受ける身になったので、暇に任せて子供の頃の思い出の場所を巡っているとき、元の我が家はどうなっているのだろうかと思って行って見たが、あまりの変わりように驚愕してしまった。
思えば私の人生はここから始まったようなものである。
その場所は昔の電話局、今のNTTのビルの東側の細い路地を入ったところにあった。
入り口には東海ビルという小さなビルがありそのビルの後ろ側、つまりNTTのブロック塀に沿って奥に入ったところである。
この東海ビルのあったところは以前Sさんの二階建ての家屋があり、それに続いて四軒長屋がその路地に沿って建っていた。
本通に一番近いところ、つまりSさんの真後ろがIさんで、それからWさん、我が家、Kさん宅であった。
Wさんと我が家の間にはカンショという細い通路があった。
そしてこのカンショを通ってその奥にも一軒住んでいた。
このカンショという言葉は子供の頃なんの疑いも持たずそのまま使っていたが、その漢字と意味を知ったのは人生もかなりたそがれてきてからである。
「閑所」と書いてカンショとは文字通りの発音であり、意味も広辞苑によると「人気のない静かな場所」となっているが、まさしくイメージとおりの場所であった。
けれども私たちは「通路」という意味で使っていた。
露地は北から南と通っていたので、この四軒長屋の開口部は東と西に向いているわけであり、四軒とも玄関は西向きであった。
そして四軒とも東側と西側に板塀をめぐらし、それぞれにプライバシーを確保していた。
トイレは各戸とも東側に別棟でそれぞれ独立して作られていたが、我が家のものに限っては建物は傾き床は抜けそうで、今から思うととても使用に耐える代物ではなかった。
トイレだけが古かったわけではなく家全体、長屋全体が既にこのときに相当に老朽化していた。
当然日本古来の様式で、月に一度くらいの割で集めに来ていたが、あの当時あれを農家は作物に蒔いていたと思うと、回虫が沸くのも無理もない話である。
そのトイレの周囲にかぼちゃの種を蒔いたところ、かぼちゃにとっては栄養満点の環境であったと見えて、屋根の上で実によく成長し、戦後の食糧難に大いに貢献したものである。
そんな不便で汚らしいトイレなら早いところ補修すればいいものを、汚いがゆえに誰も手をつけず、結局引っ越すまで昔ながらのままで済ませてしまった。
その上、井戸といえばそのトイレの脇に共同の手押しポンプがあって、このポンプで水を汲んではバケツで流しの傍の瓶に移していた。
この作業がなんとも苦痛で、ポンプの傍で洗い物をすればよさそうに思うのだが、それがどういうわけかそうはなっていなかった。
我が家ではその水汲みが長男である私の仕事であった。
共同ホンプには屋根がなかったので、雨降りなどは片手で傘を持ち、片手で汲まなければならず、ずいぶん難儀をしたものである。
雨降りといえば,この長屋全体が袋小路になっていたものだから,水の逃げ場がなくて,少しの雨でもすぐに床下浸水になった。
今の都市整備のように道路の両側をきちんと側溝で整備されていたわけではなく、申し訳程度の素彫りの溝があるのみで、下水というものの行き場がないわけである。
町の真ん中でよくもこんな状態が許されたものだと思うような有り様であった。
終戦直後のことで行政もこういうところまで手がまわらなかったとは言うものの、今考えてみると如何にも非人間的な状況であった。
縄文時代の人間の方がまだ綺麗な生活環境で住んでいたに違いない。
なんとなればトイレにしても広大な原野で済ませば衛生上より人間的でありえたが,街中なるが故にそれもかなわず、限られた空間で逃げ場のない生活を余儀なくさせられた我家族に比べれば、よほど健康的な生活が満喫できていたに違いない。
北側の道路は完全舗装され、西側は完全にブロック塀で囲まれ、東側は商店街の裏になっており、南側にしか水の抜け道がなく、それが限界をオーバーすると否応なく長屋の周辺は床下浸水になったわけである。
街中にありながら、我家の周辺のみ、あたかも隕石の落ちた後のクレーターのように、周りの地面より低くなっていたので、そこに水がたまるという図式である。 こんな原始的で非衛生な生活が、終戦直度とはいえ町の真中で行われていたわけである。
番地だけでは理解しがたい面があるが、私の住んでいたところは小牧の町のド真ん中であった。
小牧の町はあの当時戦災にもあわず、それこそ江戸時代から明治時代の尾張地方の主要都市であった。
その中心部に住んでいてこの有り様であった。
そして不思議なことに家の中に防空壕があった。
家の中に防空壕を作っても意味をなさないのではないかと、子供心にも思ったが、作った本人もそう思っていたらしく半分作り掛けであった。
部屋の床を抜いて、そこに穴が掘ってあった。
住まいの真ん中にあったこの部屋は、部屋の真ん中に大きな穴があったわけで、結局最後まで使われことなく終わった。
物置にもならなかった。
大雨のときにはここも水浸しになっていたに違いないが、その場面を覗いたことはないので本当のところは分からない。
けれどもいつもじめじめと湿っていたので、水が入っては自然に地下に浸透していたのではないかと思う。
しかし、こんな妙な家であったけれども、人生の一番多感な時期をここで過ごしたので忘れることが出来ない。
その家が今朽ち果てごみの山となっているのを見ると居たたまれない。
それから父が小牧と春日井の境に家を新築し、そして私が自分の家を又別の場所の作ったので、その家を出てからというものは健康的な住まいに住んでいる。
日のあたる家、水はけの良い家というものがこれほどありがたいものか、ということは身に沁みて感じている。
父も私も家を構えるときにはそのコンセプトの最重要課題は、日当たりと水はけと素材の丈夫さということであった。
父の選択した素材は鉄骨系プレハブであり、私はコンクリート系プレハブ住宅で、木の家というものには懲りた。
日本の風土には基本的に木造住宅がベターであることは十分理解しているが、納得のいく木造住宅を得ようとすれば、恐らく他の素材を使うよりも高価になるに違いないと思い、その面での妥協をしたわけである。
あの終戦直後の混乱の時期とはいえ、我家族の住んでいた家というのはまさしく人間の住む家としてはミニマム以下のものであった。
大体が入居した時点でかなり老朽化していたにもかかわらず、当時は家族5人が何とか生き抜くためには、こういうところで妥協せざるを得なかった。
今思うと貧乏もまた懐かしい思い出となってしまった。

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