>

自分史 1

がんの告知

四年前の今ごろ、舌がんを患って、大手術をした。
自分が「がん」だと告知された時には左程のショックは無かった。
というのも、うすうす自分でもそう思っていたからである。
最初、口の中に妙な違和感があるなあと思い、会社の付属病院の耳鼻咽喉科に行ったところ、そこの若い先生が「これは精密な検査をしなければならない。ここで検査をするには日数が掛かるから名大病院に直接行きなさい」といわれた。
それで親切にも紹介状を書いてくださったので、それを持って言われたとおりに名大病院に行ったところ、ここの先生も、妙に首をかしげていた。
この名大病院では、患者の口の中を多数の学生が閲覧できるようにマイクロスコープというのかどうか正確には知らないが、テレビのモニターと、黒い管の先に小さなカメラのついたものを口の中に入れ、口の中の映像がモニターに映る仕掛けがあった。
複数の先生がその映像を見ながら頭を寄せ合ってひそひそ話していたのを聞き耳を立てて聞いたし、自分でもモニターの映像を見てしまった。
モニターの画面が丁度私の見える向きにおいてあったので、自分で自分の舌の映像を見て、その上先生方がひそひそと話している状況から察して、これはただ事ではないなと心から実感した。
私の舌の淵の辺りが白く爛れて、誰が見ても潰瘍であることは一目瞭然と分かった。
だからこそ前の病院もここに送り込んだわけである。
それで先生の診断は「腫瘍が出来ているのは確かだから、その腫瘍が良性のものか悪性のものか検査しなけならない」というものであった。
当然といえば当然な言い方である。
口の中にカメラを入れる前、私の舌を万力のようなもので挟んで引っ張り出して、ノギスで患部の大きさを測ったり、目視で確認したりしていたので、この場の診断としては当然の成り行きであった。
私は自分の舌ががんかもしれないという気がしたけれども、先生方は決してがんという言葉は使われなかった。
あくまでも腫瘍という言葉で押し通されたが、私の頭の中の概念では腫瘍イコールがんということになっていたので、早速東京の国立がんセンターに勤めている友人に連絡して、そちらで検診を受けることにした。
ところがここはがんの専門病院で、一見の客は取らないわけである。
「紹介状を持ってこい」というアドバイスであったので、名大病院からその紹介状をもらうのに少々手間取った。
名大の方も検査のスケジュールを立て、手ごろな研究材料を捕まえるか逃がすかの瀬戸際であったに違いない。
「ここでも充分対処できる」ということを強調していたが、私に付き添ってきた家内が執拗に食い下がって、とうとう紹介状を書いて貰うように先方を説得することに成功した。
家内のこのときの病院とのやり取りというのは、それこそ理屈とか、条理とか、常識というものを全く無視した論理を展開して、女性独特の支離滅裂な論理で相手を屈服させてしまった。
その紹介状をもって千葉県柏市の国立がんセンター東病院というところに行った。
初診の手続きを済ませ、最初に先生と対面したときの一言というのは強烈な印象であった。
口の中のがんでしたので、口を大きく開けて、アーンとしたところ、口の中を覗いた先生は「これは立派な舌がんですね!」というものであった。
その時、私から出た言葉は「私もそうではないかと思っていました!」というものであった。
がんの告知というと世間ではすべきかすべきでないかと論議が姦しいが、病名の告知などというものは、隠すも隠さないも、隠していれば本当の治療と言うものが出来ない事は理の当然で、本人に病名を隠して治療せよといっても、土台無理な話だと思う。
先生が本人に告知したから死期が早まった、などという論議がにぎやかになされているが、その人はもともとそれだけの寿命であったわけである。
がんを告知されたからそれを悲観して死期を早めるような人は、そもそも最初から自己の生命力が弱かったに違いない。
運命の赤い糸が最初から短かったわけで、それとがんの告知とは別の次元の問題だと思う。
がんの告知はあっけらかんとしたものであったが、問題は治療法である。
その時先生は「治療には三つの方法がある。
「一つは手術、二つ目は薬による方法、三つ目は放射線照射による方法である」と言われ、それぞれのメリット、デメリットを列挙され、さてどれにしますか?というニュアンスで語られたが、私は躊躇することなく一番最初の手術でお願いしますと答えてしまった。
それから一旦家に帰って病室の空くのを待っている間というものが、がんの治療の間で一番つらい時期であった。
結局一ヶ月近く待たされたが、この間に病気がどんどん進行してしまうのではないか、と、それが一番怖かった。
自分ががんと解ってしまえばいくらじたばたしても始まらないわけで、なるようにしかならない。
しかし、病院からの通知が来るまでの一ヶ月というものは、家のことや子供のことや家内のことが全部重なりあって「俺がいなくなるとどうなるのかなあ!」と、いう不安にさいなまれたことは事実である。
しかし、手術そのものには全く不安というものを感じていなかった。
事態がここまで来れば、もう「まな板の上の鯉」と同じで、運を天に任せ、先生を信じるほかない。
それで手術は成功したとはいうものの、舌きり雀のような状況に陥ってしまった。
最初は言葉も呂律が回りきらないという感じで、周りの人にとっては多少聞き取りにくかったと思うが、これも日数が経つに従い、舌の肉が盛り上がってきた。
天が人間に与えてくださった自然の治癒力というものは実に素晴らしいものである。
しかし、しかしである。首に手術の大きな傷跡をのこしながら退院して、術後のフォローの為、一ヶ月後の最初の検診の時、顔を先生の前に突き出したその時である。
先生が首筋を触診した時に発した先生の一言には正直言ってショックを受けた。
先生は「これは駄目だ!自分でも気が付きませんでしたか?」と言った。
つまりがん細胞が首のリンパ節に転移しており、触診でも充分に確認できる程しこりがあったわけである。
この告知を受けたときは正直言って自分の顔から「血の気が失せる」という感じを体験した。
最初の手術を受けたときは、それこそこんな事でへこたれてはいけないと思い、体を動かせるようになると、自分流のリハビリをしてやろうと思い、病院内を歩き回った。
中も外も二周も三周もして体力を一刻でも早く回復させるように努めた。
そして職場にも復帰して、その最初の通院で再度入院しなければならないと分かったときには、それこそ「神様仏様の馬鹿野郎!」という心境であった。
そして一ヶ月も経たないうちに、又同じ病院に舞い戻るというのは、看護婦さんに対して非常に恥ずかしい感がしたものである。
病院というところは「毎度有難う御座います」という所ではないし、「又お起し下さい」という所でもない。
そこに一ヶ月も経たないうちに舞い戻るという事は、私にとって屈辱以外のなにものでもなかった。
けれども、その屈辱も克服して早や四ヵ年を経過した。
今でも通院は続いているが、その間隔が広くなって、体力も年相応に充実しているので有り難いことだと、天に感謝している次第です。
今度再発したらもう大それた手術は敬遠してホスピスに入るつもりです。
この年になって、そろそろ娑婆との未練を断ち切る時がくれば、それには逆らわず素直に従うつもりです。
延命措置は厳に拒否するよう家族にも言い渡してあります。
それよりも、それまでの余生を如何に満ち足りたものにするかが、今の私の課題であります。

Minesanの自己紹介に戻る