ユーゴスラビアの混乱

ユーゴスラビアの混乱 平成11・4・11

4月10日、朝日新聞の天声人語の報ずるところによると,旧ユーゴスラビアは日本の本州と四国を合わせたぐらいに面積に2300万人ぐらいの人口で,7つの国境,6つの共和国,5つの民族,4つの言語,3つの宗教,2つの文字を持つモザイク国家であると記されている。
日本からはるか遠い異国の地であることに変わりはないが,ここでこの数年というもの大きな騒動が持ちあがっており,先日から国連軍というかNATO軍というか,いわゆるアメリカ空軍が爆撃を繰り返している。
1989年のソビエット連邦共和国というものが崩壊してからというもの地球上のあらゆる地域で民族紛争が噴出して来た。
ソビエット連邦というものが崩壊した後の紛争というのはもう冷戦時代の共産主義と自由主義陣営の代理戦争ではなくなって,自らの意思によるが我欲の噴出とでも表現するしかない。
陸続きの大陸国家では自分の国のすぐ隣は既に敵国であるわけで,我々の日本のように海という自然の要塞に囲まれているわけではないので,人類の誕生以来民族間の紛争というのは連綿と継続していたということが云えると思う。
こういう地域を押さえつけるにはやはり強力な実力をもって武力で押さえつける以外に平安をもたらすことは不可能に違いない。
20世紀に勃興した共産主義というのはこういう民族間の紛争,民族紛争を共産主義の発展のためと称して武力で押さえつけ,民族間の争い事を押さえつけたという意味では大きく貢献していたことは認めざるを得ない。
ソ連崩壊後のユーゴスラビアの実情がどうなっているのか定かに知るわけではないが,マスコミの報ずるところによると,新ユーゴスラビアのミロシエビッチと称する大統領がアルバニア人を不当に弾圧していると報じられており、その不当行為をやめさせるためにNATOの一員としてのアメリカ空軍が出撃しているという風に理解している。
この天声人語には「民族浄化」という言葉が使われているが,その言わんとするところは民族の純潔を尊重し,他民族を誹謗,中傷することだと理解してよいと思う。
この報道が本当の事実だとするとまさしく由々しき問題で,先のドイツのヒットラーと同じ事をしているとしか言えない。
ヒットラーというのはまさに民族浄化を計ったが故に罪もなきユダヤ人のアウシュビッツとなったわけである。
戦後の日本人というのは民族の誇りとか,国家の主権の尊厳というものを完璧なまでに喪失してしまって,主権国家という概念そのものを認めようとしていないかに見える。
しかし,地球上の諸民族の間には未だに民族の誇りを失わず,他民族と協調,迎合,協力する事を由としない人々が存在していたわけである。
この世に共産主義勢力というものが存在していたときは,それが強力な軍事力とそれを根底にした拘束力で持って,民族の誇りも自尊心もことごとく踏み躙ってしまっていたが,ソビエット連邦と言う共産主義の殿堂が崩壊してしまった後は,こういう民族間に竹の根のように潜在的に潜んでいる民族の誇りとか自意識とか優越意識というものを払拭し得なかったわけである。
社会が強権力で上から押さえつけられた状態ならばそういう意識は表面に出てこれず,問題化しないが,そういう強力な力が取り除かれてしまうと民族独自の潜在意識が表面化してしまうわけである。
冷戦時代の世界の状況というのは共産主義を信奉するソビエット連邦というのが自分の,つまり共産主義の勢力を拡大しようという意図のもとに自由主義陣営にその領域を少しでも広げようとする構図であった。
ソビエット連邦の共産主義というのは20世紀の初頭に確立された新しい思考方法,統治の基本的理念であったわけであるが,その理念は立派であったとしてもそれを司る側の人間はいずれも太古以来の精神的な進化のない人間がその立派な理論の上に乗っかってほしいままに今までと同じような搾取をするというのが巨大な実験の結果であったわけである。
一方,共産主義の侵略を受ける側というのは一応言葉の上では自由主義陣営というもっともらしい表現が成されているが,なんの事はない大昔の自然発生的な人間の欲望剥き出しの社会ということにほかならず,欲望の赴くまま自由に金儲けをする事が許された社会であったわけである。
人間の理想と理念で理論的に武装された共産主義と人間の欲望剥き出しで金儲けをしてもいい社会の競争では完全に人間の理想と理念を絵に描いたような共産主義陣営というのは人々の人望を裏切ってしまったということがははっきりしたわけである。
それがソビエット連邦の崩壊という現実であったわけである。
今のユーゴスラビアの混乱というのはまさしくソビエットという強力な力が無くなったことによる被圧迫民族の反動、,跳ね返りだと思う。
この地で紛争が起きてからというものテレビの画面によく表れるこの当たりの状況をよくよく見てみるとやはりまだまだ未開の地という感を免れない。
未開という言葉よりも未開発と言う表現の方が適切かもしれない。
未開というとなんとなく人跡未踏という印象が強いが,人は太古から住んでいるわけだが,開発に取り残されて18世紀か19世紀の生活をしているという感が免れない。
生活の面では前世紀の有り様であるが,戦争のための道具,いわゆる武器に関しては決してそうではなく,アメリカの最新鋭のステルス戦闘機をも墜落させるほどのものを持っているわけである。
この辺りのバランス感覚が我々には理解しがたいところである。
民族の誇りを維持する為に最新鋭の武器を整備するというのは我々の感覚からすれば全く理解に苦しむところであるが,そういうことが極当たり前に行なわれているというのが世界の常識でもある。
ユーゴスラビアでも,イラクでも,北朝鮮でも決して豊でもない国が武力だけには非常な金を割いている訳で平和ボケの我々からすれば理解しがたいところである。
我々,日本人の平和ボケもなんとも不可解な事であるが,金もないのに武器を購入して民族の誇りと自意識の維持に現を抜かす行為というのも如何にも馬鹿げた行為である。
そういう意味ではインドやパキスタンの核開発からミサイル開発に至る行為もすべからくばかげた行為の象徴であるが,当人同志は一向にその馬鹿さ加減に気がついていない。
民族の浄化という問題も人類の陥っている大矛盾の筆頭であるが,当人同志は一向にその馬鹿さ加減にきふぁついていない。
人間は片一方で月に行く程の技術を持ちながら,もう片一方では人類誕生以来一向に進化することのない精神を持っているわけである。
テレビ・ニュースの背景に垣間見るユースラビアの情景を未開発と表現するのは東京や名古屋や大阪のような日本の大都会のような光景ではないと言う点からすればいかにも未開発な地域であるが,今はやりの環境という面からすればいかにも大自然のままの光景で,逆に羨ましい限りである。
事ほど左様に我々人間というのは自分の都合で物事を自分の都合の良い様に解釈しがちである。
我々,人類というのは自分の置かれた環境,状況,周囲との軋轢の中で自分にとって最適と思われる行動を起こすもので,ユーゴスラビアで起きている民族浄化というおぞましい行為も,新ユーゴスラビアのミロシベッチ大統領の政治的発想の潜在意識が働いての行為に違いない。
隣接して生息する民族間の軋轢というのは人間の潜在意識として内在しているわけで,これは人の理性ではどうにもコントロールできないものではないかと思う。
好きなものが嫌いになることはままあるが,嫌いなものを無理やり好きになれといわれても人間の感情と言うのは早々安易の変るものではない。
言う事を聞かなければ牢屋にいれるぞと脅かせば多少言う事を聞く振りはするけれども,そういう脅しがなくなれば又元の木阿弥に戻ってしまうのが人間の潜在意識というものである。
しかし,人間が今世紀まで生き延びて来たということは人間の理性と知性に負う力で生きて来たと言うよりも人間の自然な感情の赴くままの行為の連続によって我々は生き延びて来たのではないかと思う。
人間の知性や理性は科学技術の発展という方向に花開いたが,人間の潜在意識というのは隣人,隣の民族,隣の国,隣の主権に対する反抗という差別意識,対向意識というものが今日の近代国家を形成しているのではないかと思う。
第2次世界大戦後の地球というものを見てみると明かに共産主義陣営と自由主義陣営の二つに二分されているわけで,そこにあった意識の違いというのはお互いの不信感であったわけで,人の理性は原爆やミサイルの開発に如何なく発揮されたが,精神的な融合に関しては非常に遅延していたわけである。
1989年のソビエット連邦の崩壊というのは地球上の片一方の雄が自然崩壊してしまったわけで,それは共産主義というシステムの崩壊でもあったわけである。
人間が精神の安定を目指して理性と知性の粋を集めて構築した思想に宗教というものがあるが,この宗教というのは案外民族の危機,民族間の軋轢の解消に際して無力である。
その事は宗教が人間作ったという点で基本的に矛盾を含んでいるわけである。
共産主義がシステムとして崩壊したというのもその根本のところには人間が人間の理性と知性で練り上げた仮想現実、いや仮想未来に過ぎないということが暴露されてしまったからである。
マルクスとエンゲルスという2人の人間が知性と理性で構築した物の考え方というものは、人間の知性と理性が介在しているという点が最大のアキレス腱となり,わずか70年という短期間にその欠陥を噴出してしまったわけでる。
それに比べると自由主義,資本主義というのは人間の欲望をその基本においており,人間の知性や理性よりも人間の基本的欲望に重きを置く発想である。
人は誰でも金持になりたい,豊な生活をしたい,楽がしたいという欲望を持っているわけで,その欲望を刺激することによって人間の向上心を促すシステムである。
馬や犬の前に欲望という餌をぶら下げてそれらを一目散に走らせるのと似ている。
共産主義というのが人の理性や知性でもって上から押さえつけ、下々を指導監督するというシステムであるとすれば,資本主義,自由主義というのは人を欲望の赴くまま自由に泳がせて自然の成り行きに任せるが,その根底に有るのは人間の感情であるところが大きく違っているわけである。
人間は感情と理性の両方を持ち合わせている。
人間の感情というのは己の経験,知育,教育という後天的な条件では如何とも致し方ない。
ところが人間の理性というのは経験や知育,教育という後天的な条件でコントロール可能な部分があるわけで,それが感情と理性の違いである。
しかし,人間というのは一人の人間の中のこの両方が共存しているわけで,感情だけで理性のない人間とか,その反対に理性だけで感情のない人間というのは存在しないわけで,一人の人間の中にその両方があるということが人間の相克をより複雑にしているわけである。
人の存在を示す言葉に「百人百様」とか「10人10色」という表現があるがそれは人間の中に内在している感情と理性のバランスの割合でこういう表現が成り立っているわけである。
20世初頭においてロシアが共産主義に傾倒して,共産主義社会のみが人類を幸福に導く最短距離だと思い込んだのは人間の理性がなさしめた思い込みであったわけであるが,政治というシステムを司るのは有史以来連綿と続いて来た人間の感情の部分で,人を統治するという行為は理性のみで出来るものではなく,人が人の上に立つということには感情に左右される部分が非常に多いということが歴然としたわけである。
それが1989年のソビエット連邦の崩壊であり,共産主義という壮大な実験の終わりでもあったわけである。
ユーゴスラビアにおいても共産主義という人間の理性でコントロール出来ると思われていたものが無くなってしまったからには、赤裸々な人間の感情が露呈して来たわけで,それが気に入らない民族は自分の近くから追いやってしま追うと言う人間の基本的な感情が露骨に表れたわけである。
セルビア人とアルバニア人がどうしてこういう険悪な雰囲気になったしまったか、ということは我々東洋の島国の人間にはわからない面が多々あるが20世紀の終わりに近い日本人の感覚からすれば,いくら気に入らないからといって他民族をあからさまに弾圧するということは我々には想像も出来ないことである。
我々,日本人の生き様を見ていると,我々の中にこういう意見が出てきたとすると必ずそれに対向する意見が出てきて、そういう意見を牽制する動きが出る。
こういう対抗意見を黙殺する雰囲気が世の中に蔓延すると、我々の民族というのは雪崩を打ってある一定の方向に崩れ落ちてしまい、そうなると我々の理性といえども、それに持ちこたえることが出来なくなったしまう。
端的に表現すれば流行という言葉で表すことが出来るが,それが流行であれさえすれば、もう人の理性も感情もないわけで,「あいつがやれば俺もやる」という安易な雪崩現象になってしまう。
ソビエットが崩壊してすぐに東西ドイツは統一を果たしたが,共産主義が失墜したということでこういう風に統一に向かうところもあれば,分裂に向かうところも有ったわけで共産主義という重石が取れて分裂に向かう民族というのは実に惨めな存在である。
人間の生業の中で人が人を管理するシステムが政治であるとすれば,政治のリーダー如何によってこういう二つの選択のうち悪い方向に向く場合もあるわけで,この方向を是正する術というのはその中の人々には存在し得ないわけである。
もし,その集団の中からより多くの幸福を導き出す手法があるとすればそればそれは民主主義というものに違いないが,北朝鮮のような場合、朝鮮民主主義人民共和国という呼称を鵜呑みにするとすれば北朝鮮の人々は幸せな日々を送っていなければならないことになる。
ところが外部から窺い知る限りにおいては北朝鮮の人々はさほど幸せな日々を送っている様子は見当らない。
天災とか,飢饉とか、この20世紀にはかなり克服された部分が垣間見られるところを見ると北朝鮮の民主主義というのは疑ってかからねばならない。
基本的に政治のリーダーが世襲しているところに真の民主主義というのは存在し得ない。
ユーゴスラビアにおいてもミロシェビッチと称する大統領が如何なる手段で選出されたのかは不可解な部分があるが,いやしくも今日において他民族を故意に弾圧するという行為は糾弾されて然るべきである。
我々,平和ボケの日本人から見るとNATO、その実態はアメリカ軍としても、それがこの紛争地域を空爆することはどんな理由があろうとも悪であるという認識を拭いきれない。
これは実におかしな事で,ミロシェビッチというユーゴの大統領がアルバニア人に対する弾圧を止めさえすればこういう空爆というのはあり得なわけで、それをしないからアメリカが出ていっているわけである。
国家の主導者が国際世論に一向に従う気のない場合,話し合う余地は全くないわけで,実力行使あるのみである。
湾岸戦争の時のイラクのフセイン大統領にしても国連の勧告を一切聞き入れなかったのであの戦争が起きたわけで,フセイン大統領が国連の言う事を素直に聞き入れていればあの戦争はありえなかったったわけでる。
日本が太平洋戦争にのめりこんでいったのも,中国から手を引けといういアメリカの勧告を無視したからにほかならず,あの時点では日本側にも中国から手を引けない事情があったわけであるが、それは日本の内部事情であり,アメリカとか他の西洋列挙から見ればまことに説得力に欠けるものがあったわけである。
戦後の日本人の発想では物事は話し合えば必ず解決できると単純に思い込んでいるが世の中には話し合っても一向に解決できない場合も五万とあるわけである。
アメリカが地球上のあらゆるる紛争に乗り出してくる背景というのは矢張りアメリカこそ世界の警察官だという自負からではないかと思う。
西部劇に登場するガン・マンの発想そのもので,それが出来るというのもアメリカの底力としか言い様がない。
ロシアもアメリカに代わる行動はあり得ないし,イギリス。フランスとなればそれだけの国力がないには火を見るよりあきらかであるし,ドイツや日本はこう言う火中の栗を拾うような行為は臆病になりがちで,とてもアメリカのように正面からどうどうを国連の代理をする気概はないと思う。
正義に反する奴は生かしておけないと言う発想そのものを前面に押し出すことが出来る国というのはこの地球上ではアメリカ以外に存在しえない。
第2次世界大戦後の日本の知識人というのはアメリカの行動にはことごとく嫌悪感を露にすることが知識人のステータスとでもいう感を示しているが,戦後の我々はアメリカに如何に救われたかということに感謝しなければならないと思う。
そういう援助というか,日本人を救ってくれたアメリカ人の精神的背景にはやはり 今述べたガン・マンの精神というか,俺が世界の警察官だという自負というか,露骨な正義感といべきか,民主主義の防波堤と言うべきか,とにかく正義に根ざした価値観というものが横たわっていたに違いない。
アメリカに対して堂々と正面から批判が出来,アメリカもその批判をどっしりと受け入れるとき度量の深さというものが有るわけで,これが旧のソビエット連邦とか,中華人民共和国に対して正面から批判した暁には猜疑心の塊となって故意に歪曲した解釈に取られ友好関係が一瞬にして失われかねない。
地球上の大国の間でこういう差異が出てくるということは、そこに住む人々の教育に根ざした思考の深さの違いが有るように思える。
もっと端的な言葉で表現すれば文化の度合いの違い,文明の利器の発達の違いと言う事に尽きると思う。
これだけではなく,こういうものの上に乗った教育の違い,国民全般の知識の違いというものが国家の懐の深い行動となって現れているように思う。
西部劇のガン・マンのように俺が世界の警察官だという態度は我々から見ると如何とも滑稽に見え,軽佻浮薄に見えるが,アメリカが正義を振りかざして地球上の悪に敢然と戦いを挑むという構図はそう馬鹿にした行為ではなく,生真面目そのものの行為である。
イラクのフセインやユーゴのミロシエビッチのしている行為を傍観し,何もせずに彼らの成すままにさせておき,口先でアメリカを非難するよりも,どれだけ勇気ある行為か計り知れない。
ベトナム戦争でもそうであったが,北から押し寄せる共産主義者の侵略をだれが食いとめるのかといった場合,アメリカ以外のそれを受けてたつ国が無かったではないか。
その国のことはその国の国民が決めれば良いというのは基本的には間違っていないが,共産主義者が暴力で統治しようとしていた事を黙認して,主権の尊重と言ったところで人々の虐殺が終わりをつげるわけではない。
結局の所ベトナムというのは南北とも共産主義の国になってしまったが,なったとたんにその共産主義というものが崩壊して又もとの木阿弥の戻ってしまったわけで,アメリカが死力を尽くして南ベトナムを救おうとした行為は徒労に終わってしまった。
その意味からすればアメリカの俺が世界の警察官だという態度は我々の目から見ると一見滑稽にさえ見えるが,アメリカの信ずる正義に対して力いっぱい立ち向かうという態度は見上げた行為だと思う。
イラクのフセインにしても,ユーゴのミロシェビッチにしても国連の言う事に一向に耳を傾けようとしない。
我が日本が太平洋戦争を始めるときもそうであったように,主権の代表者が国連とか国際連盟とか主権国家の連合に対して言う事を聞かない場合最後には武力行使しかないわけである。
イラクのフセイン大統領のときもフセインが国連の言う勧告を受け入れなかったので湾岸戦争になったわけであり、今回のコソボの紛争も,ユーゴのミロシェビッチ大統領は国連の言う事に鼻も引っ掛けないわけで,その事はアルバ二ア人に対する弾圧を止める気遣いが全く無いと言うことである。
こういう状況であってみれば我々部外者としてもアメリカの肩をもつ意外に選択の余地が無い。
アメリカに対して空爆を止めよと言う事は,ミロシェビッチのアルバニア人の弾圧を黙認することになり、それは人道上許されることではないし、なんの解決にもならない。
何もせずの傍観するということは悪魔に手を貸すようなものである。
ベトナム戦争でも,湾岸戦争でも,今回のコソボの紛争でも相手の主権の代表者、つまり今回の場合ユーゴのミロシェビッチというのは人民を盾に使っている。
これも主権国家の統治者として非常に由々しき問題で,自分の国の国民をアメリカの空爆の盾に使うという発想は統治者にあるまじき行為だと思う。
先の太平洋戦争のとき,我々の先輩諸氏はアメリカの空襲が予想され,その空襲の被害に遭わないように児童,学童を田舎に疎開させた事から考えて見ると,我々には考えも及ばない野蛮な行為である。
その前に我々、島国の感覚からすれば民族が違うという理由で他民族を弾圧するという発想そのものも理解しがたい行為である。
我々の過去にも関東大震災のとき一部のデマに惑わされて朝鮮人を一般市民が弾圧した例も無いとは言えないが,我々の長い歴史から見れば他民族を圧迫したという例はあまりない。
尤も我々が圧迫する意思がなくても弾圧されたと感じた朝鮮人や他のアジアの人々がいたかも知れないが,こういうことは口先でどういう風にでも言い包めれることで,一つの出来事というのは良い風にも悪い風にでも解釈することが出来るわけでその意味からすれば真偽の程というのはよくよく確かめなければならないが。
所詮この世には絶対の真実と言うのも無ければ絶対の正義というのもあり得ないわけでる。
その事は逆に絶対の悪と言うのもあり得ないということになり,悪と思い込むのも表層の現実を眺めていっているだけということも云える。
だからミロシェビッチの行っている事が絶対の悪でない限りアメリカは関与する必要はないという論法は少々飛躍し過ぎだと思う。
まず最初にしなければならないことはミロシェビッチがアルバニア人を弾圧することを止めさせなければならないわけで,それが継続して行なわれている限り人殺しが何時までも続く事になる。
ミロシェビッチの人殺しは良い人殺しで,アメリカの空爆は悪い人殺しと言っているようなものでこんな馬鹿な論法もないわけである。
しかし,日本の知識人の発想はこういう類のもので,アメリカのやることは悪く,アメリカに対抗する勢力の行う行為は善であるという馬鹿げた論理に陥っている。
そこに輪を掛けた状況というのがアメリカという国は何を言われても鷹揚に構え、一言目には内政干渉だとか、批判が足りないなどという過去の事を持ち出してこちらを牽制しないという点である。
まさしく大人の貫禄で、女子供がいくら騒ごうとも大人の風格を示している点である。
「俺が世界の警察官だ!」という自負と自信に満ち溢れているので、何人もこの国の言う事には一応傾聴せざるを得ない。
日本はこの国の属国のようなありさまに写っているようだが、日本がこの国のくびきから離れ日本独自の見解を露にしたら世界は今まで以上に混乱の極みに達するに違いない。
第2時世界大戦に日本が巻き込まれた過程を見ても、独立国として日本が独自の見解で行動した暁が太平洋戦争、大東亜戦争というものになったわけで、その歴史を見るにつけ日本はアメリカという国とあくまでも強調をとり、お互いに相互理解をしながら進んでいく方が世界にとってもより安全な道である。
とは言うものの日本からこのユーゴスラビアの状況を見るという事はあまりにもかけ離れた場所の出来事でいささか現実味に欠けている。
しかし、ニュースというのはまさしく国境を越えてあたかも隣の出来事の如くはいってくるわけで、当然無関心ではいられない。
そして、日本の知識人にとってアメリカの悪口を言うという事はいとも安易な処世術で、アメリカの悪口さえ言っていれば食いはぐれはないわけである。
アメリカの金で、アメリカに留学し、帰ってきてアメリカの悪口を言ってはばからない人間が五万といるのが今の日本の状況である。
恩を仇で返すというのも戦後の日本の知識人の新しいモラルなわけで、それが新しい民主主義でもある。

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