自分史11
1997(平成9年)7月16日〜8月13日
7月9日 中央病院
またまた国立がんセンター東病院への入院ということになってしまった。
退院以来、2回目の診察で、リンパ節への転移が露呈した結果である。
悔しいやら、自分の運の悪さに嫌気がさすというか、何とも表現の仕様がなかった。
退院後の最初の診察が6月13日(水曜日)で、この日の診察では異常なしという診断であった。
ところが2回目の診察が7月9日(水曜日)で、この日は藤川君に自分の作った野菜を届けてやろうと思って、娘が中学時代に使用していた赤いリュックサックに、ジャガイモや、たまねぎを入れ、重さ約30kgほどになったが、勇んで出掛けたものである。
まるで終戦直後の買出しスタイルであった。
スタイルについては、今時、どんなスタイルをしていても誰も咎めるものがいないので安心である。
買出しスタイルと言っても、我々の世代以上の者でなければ理解できないだろうと思う。
国立がんセンター中央病院というのは東京、築地にある。
ここに藤川の細君が勤めているので、彼女に荷物を渡せば、こちらの意思が通じると思っての仕儀であるが、あの30kgの荷物を持って帰る奥さんもさぞかし大変であったろうと思う。
この日は、中央病院に着いたら、すぐに再来の受付をし、すぐに彼女の職場に行って、荷物を手渡し、診断が終わったら断ることなしに帰る旨、彼女に伝え、待合室でまっていた。
柏の東病院を退院するさい、中央病院への通院を約束しており、その目的は術後のフォローのためということは理性では理解していた。
その意味からすれば、2回目の通院で転移が見つかったということは妥当な成り行きあり、誰も恨むわけにはいかないが、それにしても、退院後たった1ヶ月足らずで、再び病魔に蝕まれたか思うと「神様、仏様の馬鹿野郎!!!!」と叫びたくなる心境であった。
しかし、先生の話や、医療関係者の話を総合してみると、舌の癌に関しては必ずリンパ節郭清ということがつきものであるらしい。
最初の手術の段階で、リンパ節への転移が見つからなかったので、2度手間になったきらいがあるが、基本的には舌の患部の除去と、リンパ節の郭清というのはセットになっているものらしい。
このことも、2度目の手術を宣告された後、いろいろな解説書を読んで、ようやく納得した次第であるが、先生から話を聞いている段階で、私自身、自分の都合の悪い状況は上の空で聞く癖があるので、いざ真実に直面すると、天をも恨むことになってしまうわけである。
確かに、先生は、最初の手術の前に、こういう事態を予告していたような気がするが、まさかそれがモロに自分に降りかかってくるなどとは思ってもみなかった。
自分が癌になることだって想像だにしていなかったので、その延長線上の心理として、癌の患部さえ取ってしまえば、あとは出るとしてもしばらく後ではないかと、自分にとって都合のいい、安易な思考に陥っていたことは事実である。
7月9日(水曜日)、中央病院の頭頚科の待合室で、自分の名前を呼ばれて斉川先生の前に座ったら、作業の流れとして、先生は匙のような器具で私の口の中を調べ、ここは問題なしとみなして、その器具を置き両手で私の顎の下を触診した。
そして、その時、先生の発した言葉が、「これは駄目だ!この前とは少し位置がずれているが、これは取らなければならない!」というものであった。
つまり、顎の下にしこりがあったわけで、このしこりは家に帰って家内が触っても歴然と識別でき、家内が「自分の体なんだから!、今まで気がつかなかったのか?」と言うのも無理ない。
言われてみれば確かにその部位に歴然としたしこりがあったが、自分ではそれまで全く気がつかなかった。
こういうところが私のドジなところで、家内から非難されても仕方がないところである。
先生が、「前とは少し位置がずれている」といったということは前の検診のとき既に兆候があったということだと思う。
専門家の立場からすれば、舌がんの手術をすれば、次にはリンパ節の郭清をしなければならないということがわかっている以上、その兆候の出るのを待っていたわけで、ただ単に時間の問題に過ぎなかったわけである。
ただ、患者の側からすれば、そういう知識がないがゆえに、天を恨んだり、神仏を恨んだり、自己の不運を嘆いたりするだけで、病理的には必然の流れであったわけである。
先生は人の体だから笑ってそう言われたが、私は顔から急に血が引くのを自分で感じた。
この宣告を受けたときは、最初にがんと認識したときよりもショックが大きかった。
先にも述べたように、最初にがんと知ったときのショックというのはさほど感じなかったが、この再発の告知は大きなショックであった。
茫然自失という言葉や、頭の中が真っ白になる、という表現があるが、そういうものとも違ったもので、自分の運命に対する恨みとか、あきらめとか、そういう類のもので、誰も恨むことが出来ないだけに、鬱憤のぶつけようのない苛立ちが募ったわけである。
ここで言う「郭清」という言葉も、リンパ節への転移に関して、参考書を読んで知った言葉であるが、耳慣れない言葉であり、おおよそ、「取り除いてきれいにする」というニュアンスは感じ取れるが、正確な定義はと思って、「広辞苑」を引いてみると、「これまでたまった悪いところを払い、除いて清めること」となっていた。
大体の大意は間違っていなかったが、要するにリンパ節を取るということに他ならない。
先生は2週間ということを言われたが、先回のときよりも入院日数が少ないので、それだけが救いであった。
しかし、結果から見ると、日数が少なくても今回のほうが大変な手術であった。
リンパ節への転移ということは、体全体へ拡散する可能性が心配なわけで処置も、早急にしなければならない。
先生は、その場で入院の手続きをしてくださったが、早々すぐに入院できるわけもなく、結局、病院からの連絡待ちということになった。
先生の言い方は、「短期入院病棟のほうが混雑しているので、前のときと同じ、頭頚科の方を探してみる」という言い方であった。
この短期入院病棟というのが不思議で、東病院にはそういう病棟などなかったのに、と思いながら診察室を退出してきた。
そして、すぐその足で入院手続きをして、申請書と連絡先リストを書いてから会計を済ませた。
この時支払った料金というのがたったの100円で、明細を見ると、診察費1010円となっており、健康保険の本人1割負担で、100円という数字になっていたが、全く有り難いことである。
この国立がんセンター中央病院というのも大きな建物で、建物の全体像というのが全くつかみきれない。
先回来たとき、新橋から歩けばいいと思って、駅を下りて、駅前でお巡りさんに道を尋ねたら、訝しそうに「歩いていくのか?」と言うものだから、「そうだ!」と言ったら、いかにも大変なことだよ、と言わんばかりの態度を示すので、「タクシーで行ったほうがいいですかね!」と再度聞くと「そうだ!」と言うものだからタクシーに乗った。
そうしたら何のことはない、タクシーのメーターが一度も上がらないうちについてしまった。
初乗り料金で着いてしまったわけで、よくタクシーの運転手が黙って運転したものだ。
乗車拒否されても仕方がない距離であった。
しかし、道順は理解できなかった。
大きなビルの間をぐるぐると潜り抜けた感じで、遊園地の巨大迷路の中を走ったようなものだ。
それで2回目の今回は、本屋の店先で
診察が終わって憂鬱な気持ちで新橋駅まで戻ってきたが、帰りの新幹線まで時間があるので、如何にその時間を埋めるかが大きな課題であった。
第一回目のときは八重洲口から日本橋まで歩いて、日本の道路原標、東海道53次の基点としての日本橋というものを見てきた。
そう改まって見てきたというほどのことはなく、そこまで行ってみただけのことであるが、その意識の底には、東海道53次の完全踏破、完全制覇の野望を潜ませての行為である。
で、今回はどこに行こうかと一思案したが、前に見た東海道63次の参考書に載っていた、江戸東京博物館に行ってみようと思った。
江戸東京博物館
これは参考書によると、両国にあるので、山手線と総武線で、秋葉原で乗り換えていかなければならない。それで、両国に行ってみた。
駅を降りると、どうしなくても両国国技館が目に飛び込んできた。
その奥に、だだっ広いモダンな建造物があって、それが江戸東京博物館であった。
古代の穀物蔵のように、床下の高い、巨大な建造物という印象であるが、この時は風が強くてまっすぐに前に歩けないほどの強風が吹きまくっていた。
床下の部分は巨大な空間になっているので、そこを風が吹き抜けているわけであるが、それこそ吹き飛ばされそうであった。
チケットを購入して、エスカレーターで5階だか6階だかに上がったところが入り口であった。
入り口を入って、だんだん下がってくる仕掛けになっていたが、入った正面は大きな吹き抜けになっており、そこに江戸日本橋の模型が展示してあった。
全体として、看板が示すとおり、江戸時代から今日に至るまでの東京の姿が一目瞭然と理解できるように展示してあったが、それ程感動するものではない。
その時代、時代の風俗がわかる仕掛けになっているが、いずれもミニチュアの模型で示されており、実物の威容を肌で感じるには犬山の明治村のほうがはるかに迫力があるのではないかと思う。
「百聞は一見にしかず」という俚諺からすれば、見ないよりは一度でも見ておいたほうが良いには違いない。されど、それまでのものである。
この時点でもまだ時間が余っていたので、今度は東京駅の近くで見るものはないかと思い、
かってのGHQ、占領軍総司令部を見ることにした。
私のうろ覚えの記憶では、かっての占領軍司令官マッカアサー元帥は、第一生命ビルにその事務所を置いていたと記憶する。
よって、JRで東京駅、丸の内方面に出て、皇居に向かって歩き、お堀に出て、その堀に沿って左のほうに歩いていくと遠方に第一生命ビルが見えた。
しかし、私の記憶している雰囲気とはいささか違うようで、このビルはいかにも建て直されたという感じがした。
それよりも、その手前にある明治生命ビルのほうが私の記憶しているGHQの記憶により近い感じがした。
第一生命ビルは遠めにしか見ていないが、どう見ても戦後に建て直された何の変哲もないビルであるが、明治生命ビルのほうは、しばしば映像で見るロココ風の大理石の柱の存在などから見て、マッカアサーがコーンパイプをくわえながら出てきそうな雰囲気を漂わせていた。
GHQ、占領軍、マッカアサーという単語も、今の若い世代にはなじみのない言葉かもしれないが、これが今の我々の生活の根底に流れている、ということを正確に後世に伝えなければならないと思う。
50年前の映像に残っている建物が、果たして第一生命ビルか明治生命ビルか、はっきりと認識しなければならないと思いながらも、第一生命ビルははるか向こうのほうであるし、明治生命ビルは目の前で立派な大理石の門柱を構え、固く入り口を閉ざしているので、歴史的価値はこの前にある明治生命ビルのほうが有利ではないかと、自分勝手に決め込んで帰ってきた。
その前に、夏の暑い日差しと、転移のことで気が滅入って、意気消沈していた。
東京駅、丸の内南口に戻ってきてもまだ時間が余っていたので、悪いとは知りつつタバコを一箱購入、立て続けに3本ばかり吸って後は捨てた。
翌日、会社に出勤したら、女の子が「昨日の検査はどうでしたか?」と陽気な声で聞くものだから、こちらも「最悪の結果で、リンパ節に転移しており、又入院ですのでよろしく」と陽気に答えたら、声を詰まらせていた。
隠すわけにもいかないので上司にもありのままに報告し、再入院の事を事前に知らせておいた。名誘の職制のほうにも並行して連絡しておいた。
7月16日 再入院
がんセンターからの連絡は7月15日火曜日にあり、仕事中、家内からの連絡で知り、その場で関係先に連絡し、翌16日水曜日、即入院した。
この日は例によって朝5時に起床、コーヒーを飲んで、食事をし、6時半に娘が勝川駅まで送ってくれた。
中央線経由で名古屋7:20分の新幹線に乗り、東京、上野と経由し、柏の国立がんセンター東病院には10:40分頃ついた。
正直なところ早く着きすぎた。
病院への到着の指示は午後1時ぐらいであったが、時間調整するのが面倒で、早く来すぎてしまった。
到着後、入院受付で必要書類を提出したら、すぐに先回と同じ4B病棟に行くように指示された。
4B病棟のナース・センターで再入院の旨告げるときはいささかきまりが悪かった。
ついこの間退院したのに又入ってきたのか、と思われているようで、穴があったら入りたい心境であった。
それに退院予定者がまだチェックアウトも済ませておらず、ベットもあいていなくて、ナース・センターの前の面談室でしばらく待機していた。
この間、9階のレストラン、「オレンジ」で食事を済ませ、2階の図書室で本を借りてきてむさぼり読んだ。
入院受け付けでは、連絡先名簿、手術合意書、保険証、印鑑、診察券を提出、保険証はその場でコピーをしてすぐ返却してくれた。
印鑑も、手術合意書に捺印したらすぐ返してくれた。
診察券というのは、いまどきどこの病院でもキャッシュ・カードのようなプラスチックのカードであるが、それら書類一式出したら、今度はA4サイズより一回り大きいファイルを渡され、それと診察券をナース・センターに提出するように言われた。
先回のときは、こういう事務の流れを観察するゆとりがなかったので、ついつい見逃してしまったが、この診察券というのは入院の期間を通じてナース・センターの真ん中に設置してあるスタンドに収納されていた。
検査に行くときに限り、そこから持ち出し、ファイル入れ(カルテ入れ)のビニール袋ごとを抱えて検査室に行くというシステムであった。
面談室でリラックスして本を読んでいたら、可愛い20歳前後の看護婦さんが面接に入ってきた。
彼女も職務上の必要から質問しているに違いないと思い、聞かれることには素直に返事しておいたが、なんだか自分の娘から尋問されているような感じであった。
その後、1階の病理検査室に行かされ、心電図の検査やら、呼吸器の検査やら、X線写真やら、小便の採取などいろいろな検査を受けさせられた。
それが済んだら413号室に案内された。
前のときとは廊下を挟んだ反対側であったが、同じように4人部屋であった。
この日の16:00頃、海老原先生が病室に来て、顎の下のしこりの部分を触診し、納得した様子であった。
翌日(17日)は朝一番、6:00に血の採取があった。
例によって、入院の最初の一日分の尿をためて、何かの検査をするらしいが、その理由は最後まで分からなかった。
この日は、病棟の診察が海老原先生の担当であったらしく、10:30頃診察を受けた際舌のほうには異常はなかったが、午後に超音波による監査をするといわれた。
指定された時間(14:00)に、指定された場所に行くと、海老原先生が待機しており、超音波による患部の検査を受けたが、この器具も腎臓結石のときからたびたび世話になっているにもかかわらず、正式の名前を知らない。
超音波で患部の映像を見て診断するという大まかなことはわかるが,その名前がわからない。
これは、見ようと思う幹部にヌルヌルの、軟膏のような薬を塗って、その上をセンサーを押し付けながら移動させるというもので、その画像は地震計のグラフのようなものから判断するというものである。
横になってジーットしていると、海老原先生と他の研修生2,3名がぼそぼそと話しながら観察していた。
話の内容から、患部の状況を把握しようとしたが、これは無理であった。
いずれにしても、素人が超音波の画像を見たところで、その画像が内蔵する情報を確実に引き出すことは不可能に近い。
これが終わったら9階にある大浴場で入浴した。この風呂は実に感じがいい。
まさしく温泉そのもので、毎日でも入りたいがそうは問屋がおろさない。
一日おきにしか入れない。
しかし、手術をしてしまえばその間は入ることが出来ず、手術前のほんのわずかなチャンスしかない
17:00頃、斎川先生が病室に回診にきて、手術は7月22日の2番目に行う旨、話してくれた。
昨日の入院の際、会社に提出する診断書の件を依頼しておいたので、この日昼頃それを受け取った。
18日に家内が来てくれるので、家内から井沢金属と名誘のほうにFAXを打ってもいいが、それだと時間的にいくらか遅れると思って、こちらから直接打ってみようと思った。
診断書を持ってまず1階の入院受付のカウンターに行って、「これをコピーしてくれ!」と言ったら、「そんなことはやれない!」というものだから、うんと下手に出て、何とか頼み込んでお願いした。
受付の担当者としては当然のことで、そんなことを頼む方が間違っていることは重々承知しているが、そこを一押しするのも要領であろう。最初は嫌がっていた。
「診断書の本紙のままではFAXの字が不鮮明になるから、一枚だけコピーしてくれと」頼んだら、「本紙のままでも十分だから」と言って最初は嫌がっていたが、最後にはこちらの押しの強さに根負けして、しぶしぶやってくれた。
そんなことは判っていたが、コピーを一部手元においておきたかっただけのことである。
それを持って今度は地下の売店に行ってFAXを打った。
こういう作業も、毎日の仕事の一環としてなれた機械で、慣れた作業ならば、なんら支障はないが、一度も触ったことにない機械ではいささか勝手が違い、店の人にやってもらった。
診断書は最初、名誘に送っておいて、そこから井沢金属に転送してもらうことにした。
われながらうまい方法を考えたと自己満足した。
夫を気遣う妻の姿
7月18日(金曜日)、11:00頃、家内が見舞いに来てくれた。
この時間につくということは、家を私と同じ頃出発したに違いない。
目的地の位置が確定すれば、時間を逆算すれば、大体家を出た時間が推測できるが、次の日から3連休に入ってしまうので、先生から診断の結果を聞かなければならないため、遠路はるばる駆けつけてくれたわけである。
家内は、私の病気にもかかわらず、「夫婦で共にがんと戦う」という気概にあふれている。
そのことは、ありがたいと思うと同時に、自分自身のわがままを押さえつけねばならない、という矛盾した感情が私の中で交差している。
夫婦間の愛情というのも、愛の押し売り、一方的な愛情過多というのもあるような気がしてならない。
家内の場合、「がんと戦う」ことを、私を差し置いて楽しんでいる節がある。
目の前の課題を克服するということ楽しむというのは、元来、私の生き様で、くよくよ悩むことなく、その事態解決に積極果敢に前向きに行動するという生き方は、私の信条とするところであるが、そのお鉢を家内に取られてしまった感がする。
家内が名大付属病院に付いてきて以来というもの、本人の私を差し置いて、癌との戦いで私よりも前に出よう、前に出ようとしている風に見える。
再入院の再、私は一人でこの病院に来たが、これはたまたまこの日に家内に抜けられない仕事があったからで、それがなければおそらく私について来たに違いない。
こういう些細なことに私がこだわるのは、私は気が小さく、家計のことを心配しているからである。
われながら小心者だなあと思うが、サラリーマンとして、入ってくる金の多寡を知っている以上、金の出方に注意しなければならないのは当然だと思う。
家内の場合、その辺りが鷹揚で、太っ腹というか、楽天的というか、「金よりも命だ!」というのは正論かもしれないが、傍目にはいささか危なっかしく思われる。
家内が見舞いに来てくれたので、9階のレストランで食事をし、その後、先生の説明を聞くまで時間があり、4階病棟のロビーでくつろいでいたら、この病棟の上杉看護士(男の看護夫)が来て、その場で面接があった。
この上杉看護士というのがいまどき珍しいなかなかの人物で、家内の言うところによると、手術を受けた直後、私の意識が朦朧としているとき、この看護士が相当世話をしてくれたということだ。
この場で、この看護士の行動に好感を持ったのは、たまたまそこに設置してあった6脚のソファーのひとつが痛んでいた。
彼はその時までそのソファーの痛み具合、損傷には気がついていなかったようで、それを発見すると、直ちに職制を通じ報告し、自ら率先してその6脚のソファ−を交換してしまった。
これは一見当たり前のことで、そう驚嘆するに当たらないと思うかもしれないが、こういう極当たり前のことが、当たり前のこととして通用していれば、世の中はもっと住みよいものになっているはずである。
病院の看護婦さんといえば、当然、女性の職場で、その中で自分が男であるという自覚あればこそ、率先して力仕事を買って出るということは、これほど当然なこともないはずであるが、それを実にスマートにこなしてしまった。
彼は私たちが見ている前で、患者運搬用のストレッチャーを持ってきて、それにソファーを積み込んで、いともたやすく交換してしまったが、当然な行為が極自然に行われて、それに感動するというのもおかしなことであるが、今の世相では当然な行為が、自然の流れとしてさりげなく行われると妙に感心してしまう。
彼を見る私の視点というのもいささか古い固定観念に束縛されているようだ。
というのも、看護婦というのは女性の職業で、それを男がするなどということは想像だにできなかった。
何という女々しい男か、という観念が先に立ち、どうにもそういう男性を容認する気になれなかったが、彼の姿と、その働き振りを見ていると、そんなふるい観念は捨てなければならないと思った。
その後で斉川先生から手術の説明があった。
先回のときと同じように、まず治療計画書なるものに大まかな概要を記し、それから細部の説明を受けたが、その時にも舌がんを処置すれば、リンパ節の郭清は必然的なことであるということが強調された。
初歩の初歩、教科書どおりの処置である旨強調されたが、それは何も手術が容易であるという意味ではなさそうで、手術そのものは舌のときよりも何倍も時間がかかるらしい。
こちらに医療に対する知識が不足しているので、リンパ節なるものがどう言う形状で頚の周りにあるのか判らないので、黙って聞いるほかないが、私にとって一番恐ろしい事態は、さらに転移していないかどうかである。
先生の診断では、私の頚の周りの2箇所にしこりがあるようで、右の方のしこりが固いので、これは郭清しなければならないが、左の方はやわらかいので問題ないだろうというものであった。
果たして本当に問題がないのかどうかが最大の関心事である。
先生と面談しているとき、家内は自分で仕入れた情報を先生にぶつけて、先生の意見を聞きたがっていたが、それは家内の出鼻をくじくような回答しかえられなかった。
中でも、家内が、鮫の軟骨の話を持ち出したときには頭から否定されて、簡単に論破されてしまい、やはり先生の勝ちという印象である。
さすがに、がんセンターの先生だけあって、巷の情報にも精通した上で、日々の業務、手術をこなしているわけで、素人が小耳に挟んだ知識の断片を並べ立てたところで、太刀打ちできるものではない。
しかし、先生の側から、我々夫婦を眺めると、きっと面白い夫婦だと思っているに違いない。
我々夫婦ばかりでなく、一般論として、男性は先生の話をじっと聞いて納得するにちがいないが、女性は納得する前に自分の我を押し通し、陳腐な質問をしでかすのではないかと思う。
治療に関する主導権はあくまで患者の側にあるのだろうけれど、医療に関する知識の面では治療する側にあるわけで、治療を受ける側としては選択のチャンスしかないわけである。
選択をするのは患者の側の意思であろうが、選択肢を患者の前に披露するのは、治す側の良心に他ならない。
つまりは、医師を信ずるか、信じないかの問題になるわけである。
私の頭脳はきわめて単細胞だから、医師の言葉を心から信用しているが、家内は、私のような単細胞ではないので、いろいろは選択肢の中から最良のものを選ぼうと思っているわけである。
夫として、妻のこういう気持ちは有り難く受け止めなければならない。
しかし、ちょっとばかり滑稽でもある。
風車に立ち向かって行くドンキ・ホーテの感がある。
この日は、これで家内は家に帰ったが、後で聞くところのよると、まっすぐに家に帰ったわけではないとのことであった。
柏の駅まで出るに時間がかかって、家には帰れず、相模原の彼女の友人の家に転がり込んだとのことである。
この友人も癌で私と同じように闘病生活を強いられており、先日、夫婦で見舞に行ったときは案外元気そうであった。
癌の部位が私とは違うので、同じように比較することは出来ないが、北里病院で私よりも長い闘病生活に耐えている。
以前から、親戚同様行き来していた仲で、何とか癌を克服してもらいたいと思ういのだが、こちらも同じ病気なので、同病相哀れむという心境である。
この日から世の中は3連休になるので、病院生活もいくらか息抜きが出来る。
闘病生活、病院の入院生活というのは、まさしく人生の浪費以外の何物でもない。
立派な大人が、病院のベットの上で、本を読むか、テレビを見るしか出来ないというのは、時間の浪費以外のなにものでもない。
健康なときは、たまには入院して、骨休みしたいと、入院患者を羨んだこともあるが、実際に自分の身をその場においてみると、これほど無意味な行為もない。
特に、先回も、今回も、体そのものは重大なダメージを受けておらず、はたから外見だけを見れば、健康体と全く変わらず、何でも食べれるし、何でも出来、何一つ病気らしい兆候というものが表面に出ていないので、それにもかかわらずベットの上でこうしていなければならないのかと思うと、実に憤懣やるかたない。
病院での休日
7月19日、20日、21日と3連休であったので、病院でもなんとなくゆっくりとした雰囲気の中で過ごせた。
病棟内においても生活がルーチン化しており、そのリズムをつかんでしまえば、自主的な行動がかなり許される。
3度3度の食事は黙っていてもベットまで運ばれ、食っちゃ寝、食っちゃ寝の生活というのも楽といえば楽だが、健康な肉体を持った働き盛りの人間にとっては、これは一つの苦痛である。
ベットで寝て本ばかり読んでいても仕方がないと思って、積極的に体を動かすことを考え、病院の構内をフェンスに沿って散歩することにした。
これは前の入院のときから実施していたが、病院の構内を2周すると丁度40分を要する。だから午前1回、午後1回散歩していた。
エレベーターを出来るだけ使わないようにして、体を動かすようにしていた。
しかし、これも手術前の体が元気なうちだけで、手術後はそんな元気はなくなってしまった。
例によって、図書室から手当たり次第本を借りてきてはむさぼり読んだが、本を読むという行為も、年をとると思うようには行かなくなる。
特に、入院中の読書というのは、どうしても固い本は向かない。
気楽な読み物ならふさわしいが、それでも同じ姿勢を長いこと続けることが加齢とともに苦痛になってくる。
その意味から、テレビが気晴らしには一番いいということになるが、これも漫然と見ていると、見るに耐えない番組が多すぎて嫌になってしまう。
けれども、そうして漫然とチャンネルを回していたら、武道館でブラスバンドの演奏をしている番組に出会った。
最初の方は見逃したが、途中から、小中学生の演奏になってきたので、それこそ漫然と見ていたら、どういうわけか胸が熱くなってきた。
私は以前からこういうものに感情移入する癖があるらしく、青春時代には高校演劇を見て涙を流す純なところがあった。
テレビで見たブラスバンドの演奏というのは、小学生や中学生が一生懸命、演技、演奏する姿に、ついつい感情が引き込まれて、意味もなく感動してしまったわけである。
演技が上手だからとか、演奏が上手だから感動するというものではない。
演技や、演奏の上手下手で感動するわけではなく、それよりも前に、一生懸命やっている姿に感動してしまうわけである。
演技や演奏の上手下手というのは、一生懸命行為をした結果であって、傍観者である観客にとっては、それはどうでもいいことである。
小学生や中学生、高校生が一生懸命、演奏なり、演技をする姿というのは実に敬虔な姿だと思う。
私が上杉看護士(夫)に感動したというのも、自分の職務を一生懸命遂行しようする、その姿に心を打たれ、好感を寄せているわけで、そこに男の美学、職業人としての美学があるように思う。
小学生や中学生、高校生が一生懸命ブラスアンドで演奏するというのも、そこに人間としての美学があると思う。
音楽の演奏、特に学校教育の中での音楽というと、どうしても不動の姿勢で演奏するという場面が多いが、ブラスバンドの演奏というのは、不動の姿勢ではなく、動きのある動作の中で、楽器を演奏し、演技をしなければならない。
体全体からその一生懸命さというものを発散させなければならないわけである。
そこに私の涙腺を緩ませる何かがあったに違いない。
ものに感動するということは、感動する側の感受性の問題か、それとも人を感動させる側の演技の結果としての感動かどうかは定かに知らないが、その両方が火花を散らせて衝突したときに、大きな感動というものが生まれるのではないかと思う。
歌舞伎や商業演劇を見ても、さほど大きな感動を覚えるということはない。
高い料金を払って、仮に、自分の金ではないにしても、プロの演技というのはどこまでもプロの演技で、目頭が熱くなるという感動とは違う。
見るものを感動させて当然という醒めた見方が出来るが、小学生や中学生、高校生の演技にはそういうものがない。
不思議なことに。退院して家で新聞を読んでいたら、新聞のコラムに、やはり私と同じ番組を見て感動したという趣旨の記事が載っていた。
その記事は、神戸の小学生殺傷事件の犯人の中学生との比較までしてあり、片一方でこういう生徒がいる一方で、同じ世代でありながら、こんなすばらしい演奏をするのはきっと先生の指導の違いではないかと述べていた。
昼下がりのテレビ番組というのは概してつまらないものが多い中でこれだけは光っていた。
この病院で休みの日に困ったことといえば、9階のレストランと地下の売店が早めに閉まってしまうことである。
9階のレストランは見舞いに来てもらった人に対して、病室の隣人に気兼ねすることなく話が出来るので、非常に便利な存在であったが、これが休日には開店していないということはきわめて不便である。
レストランの従業員も、売店の従業員も人並みに休日は与えなければならない時世なので、休むなとはいえないが、病気の見舞い客も休日には多くなるわけで、その意味からしても、何とか勤務体制を考えて、休日でも開店するようになれば便利だろうと思う。
休日には一切店を開けないというわけではないので、既にそういう配慮はなされているわけであるが、たまたま自分がそういう場面に遭遇してしまったので、一くさり文句を言ったに過ぎない。
手術の前日。
19日には、抗生物質のアレルギー適応検査があったが問題なし。
20日には、麻酔の担当医師の説明を受けたが、前に手術の経験があるということで、これも問題なく、簡単な説明で終わった。
21日には、右の耳の後ろの髪の毛を少しばかり切り取られた。
手術後、ここにガーゼが当たるということであった。
この日は手術の前日ということで、風呂に入って身綺麗にしておきたかったが、あいにくと男性の入浴日ではなかったので、病棟のユニットバスのほうで我慢せざるを得なかった。
手術の前日というのは、手術室に持ち込む荷物の検査がある。
これは先回の時にも同じようにあったが、
その時は、手術を受けるということは誰にとってもそうたびたびあることではないので、患者に対する親切心から、持ち物をリスト・アップして箇条書きにして、わかりやすく明示しているものだと思った。
しかし、内容的には幼稚園の持ち物検査と同じで、きわめて幼稚なことである。
けれども、この病院で手術を受ける人はすべからくこの関門を潜るわけで、何となく滑稽な気がしてならない。
こうした人を茶化したものの見方は慎まなければならない。
しかし、世の中にはこれだけのことが出来ず、看護婦さんから厳しく言われている人がいるので不思議でならない。
たった5点か6点の品物が揃えられない人がいるわけである。
地下の売店に行けば、ほんのわずかな金額で全部そろうのに、それが出来ない人がいるわけである。
持ち物の何一つ欠けても、医師の側も患者の側も困るわけで、その必要性があるがゆえに事前に看護婦がその有無を確認するのである。
ここは患者側の自分勝手な判断は厳に慎むべきである。
とは言うものの、2度目ともなると、なんとなく又かという心境になる。
私の場合、家内が用意万端、そつなくセットしておいてくれたので、何のトラブルもなく、家内の心使いに感謝するのみである。
そして、足の大腿部の前のほうの毛を剃れという指示があったが、これは何のためにするのか聞き忘れてしまった。
痔の手術のときは陰毛を剃られたが、これはなんとなくその理由も推測できる。
しかし、今回のように、頚の周りの手術をするのに、大腿部の毛などなんら関係がないような気がするが、それを剃れということは、何らかの理由があるのだろうとは思うが、それは聞き漏らしてしまった。
その件に関し、4階のナース・センターの前に「清拭室」という部屋があったが、この字が読めなかった。
特に、手偏に式というつくりの字が読めず、看護婦さんに聞いた。
「セイシキ」と教えられたが、それだけでは字の持つイメージがわいてこず、退院後、家で「広辞苑」を引いてみた。
すると、「入浴できない病人の体を、寝台に寝せたまま拭いて清潔にすること」と100%完全に納得する答えが記されていた。
道理で、この部屋の中にはユニットバスや、床屋の椅子のようなものがあったわけである。
まさしく、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」の俚言どおりである。
この日は、高島章生(弟)夫妻が見舞いに来てくれた。
そして、犬山の義理の姉と、家内をはじめ息子と娘がそろってきてくれた。
嬉しくもあり嬉しくもなしというところである。
人間の感情の起伏というのも実に不可解なものである。
高校演劇や、小中学生のブラスバンドに感激の涙を流すのに、肉親の愛情表現にはそういう感激の気持ちが高揚してこないというのは。私の性格が如何に捻じ曲がっているか、ということではないか我ながら心配である。
入院中、前のベッドにいた人は、手術も大変だったらしく、手術の当日は、自分のベットに戻らず、集中治療室に留め置かれたらしい。
翌日、自室のベッドに戻ってきたが、彼の肉親らしき人が手術後2,3日付き添っていた。
私に言わせれば、そんな付き添いは徒労に過ぎないように思えた。
基本的に完全看護であるわけで、介護に対する知識のない人が、肉親だからと言う理由で、患者に付き添っていたところで、患者のために何一つ力にはなりえない。
患者の傍にいるということは、患者にとっても、肉親にとっても、タダの気休めに過ぎない。ある意味では無意味である。
私にはこういう冷静さがあって、一族郎党が打ちそろって見舞いに来てくれても、それほど嬉しいという感情にならない。
手術の立会いということでも、これは患者に対する見舞いとは少し意味合いが違っていると思うが、傍に居たところで、肉親のなすべきことは何もないわけで、もし何かのとき、緊急に連絡し、家族の意思を確認するためにだけ、傍に居るわけで、手術前に合意書を取り交わしている以上、肉親が傍にいたところで無意味である。
その意味からして、肉親の病気見舞いというものに、私はきわめて冷淡な感情を持っている。
冷淡な感情というよりも、合理的な思考というべきかも知れない。
ここのずれがあるので、本来、悲しかるべき時に冷静でいたり、何でもないときに涙腺が緩んだりするわけである。
自分の妻や、息子、娘が遠路はるばる見舞いに来てくれても、天にも昇るほどの嬉しさという実感は沸かなかった。
一応、俺のことを心配してくれているのかなあ、という気持ちはあったが、肉親に会えた
嬉しさというほどのことはなかった。
基本的に私は孤独な人間のようで、どんなときでも一人で居たい性質である。
つまり、我侭で、人から干渉されたり、干渉したりすることが嫌いなわけである。
闘病生活も、病院を信用し、医師を信用し、看護婦を信用し、一人で居たいほうである。肉親といえども、治療の素人が、自分の近くに居たとしても、何一つ役に立たないという合理主義が、自分を一人にして置きたいという我侭な気持ちに駆り立てているに違いない。
この日、家内は柏のビジネス・ホテルに宿を取り、翌日の手術の立会いに付き合ってくれたが、娘と義理の姉は当日に帰った。
今回の手術
手術の当日というのはあまり記憶に残っていない。
朝はいつものように起床したが、この日は食事は抜きで、排便が重要な行為であった。
しかし、これは順調であった。
寝巻きに着替え、T字帯という褌をつけ、ベットで呼ばれるのを待っていた。
手術に必要なものに、T字帯というものがあったが、これも意味深長な命名である。
ものの格好から見て、T字帯とはよく名付けたと思って感心する。
しかし、昔の褌のことで、この病棟では若い看護婦さんが何の違和感もなく、褌という言葉を口にしているので、私のほうが何となく妙な気持ちにさせられる。
手術に際しては、私は実に気が小さく、小心者、臆病者であるので、もうストレッチャーに乗ったときから目を固く閉じており、手術室の中とか、手術の器具とか、周りの状況というものを全く知ることが出来ない。
麻酔が効いているかどうか調べるために、誰かがさかんに名前を呼ぶので、片目を薄く開けてみたら、テレビ・ドラマの手術室と同じ照明が見えた。
後は何が起きたかさっぱり知らない。自分の手術に関しては見ざる聞かざるである。
よって、家内の話では、手術後、意識が戻るまで、私の看護をあの上杉看護士(夫)が一生懸命してくれたということである。
額から汗をぼたぼた垂らし、ストレッチャーから病室のベットに移し、細々とした看護をしっかりしてくれたらしい。
手術室から出てきた私は、点滴をいくつもぶら下げ、リンパ液を吸収する器具をつけ、オチンチンには導尿の管をつけ、見るに耐えない姿だったらしい。
これらのことは病室のベットで麻酔が切れ掛かった頃、なんとなく意識の隅に記憶しているが、手術というのは術後2,3日が一番つらい時期である。
病室に戻って、意識が戻り、最初にしたことがオシッコに行きたくなったことである。
自分でトイレに行こうと思って起き上がるのであるが、体が自由にならない。
誰かが「そのまますればいいよ!」と叫んでいるが、何のことか理解できず、尚も起きようとするので、自分の頭が混乱したのかと思った。
その後、麻酔がきれいに覚めてくると、自分の置かれた状況が把握でき、そういう意識の混乱は収まったが、体中に細いビニール管が巡っているのでびっくりした。
気がついてみると、大きな点滴が二つもぶら下っており、これではオシッコが近くなるのも致し方ない。
しかも、体の自由が効かないので、自分一人でトイレにもいけず、尿瓶の世話にならざるをえない。
この尿瓶の使い方にもコツがあり、下手をすると折角入ったオシッコを外に漏らしてしまう危険がある。
というのは、これは立てて使うべきもので、その基本を忘れ、オチンチンの先を入れただけで、瓶そのものを横にしていれば外に漏れてしまう。
尿瓶一つ使うにも、これだけのことを麻酔明けの頭の中ですばやく計算しなければならなかった。
自分のオチンチンに導尿の管を入れられたことには全く気がつかなかった。
ベットに戻ってきたとき、どうもオチンチンに違和感があると思っていたが、「そのままオシッコをしてもいい」といわれたとき、何のことか理解できなかった。
こういう仕儀になっていたとは知らなかった。
このオチンチンの痛みというのは2,3日続いたが、そのカテーテルが何時とられたのかも自分では判らない。
先回に手術は小1時間で済んだが、今回は相当長時間の手術であったらしい。
その当日が私にとっては一番苦痛な時間であった。
トイレに行こうとベットの上でもがいていたとき、わき腹から何かが落ちて、ベットを汚した。
誰かがすぐ処置をしてくれ、その場は収まったが、それが何であるかがわからなかった。
翌日、よくよく自分の体を見てみると、わき腹におかしなプラスチックの。子供の弁当箱のような器具があった。
細いビニールの管が頚の後ろ辺りから出て、その箱につながっていた。
看護婦さんに「これは一体なんですか?」と聞いたら、器具の固有名詞は教えてくれなかったが、リンパ液を回収する器具である旨教えてくれた。
そして、その器具の蓋を開け、中身を紙コップに注いで、「こういうものですよ」と見せてくれた。
術後、落ち着いたとき、その器具をつらつら見てみると、J―VACサクション・リサーバーとなっていた。
看護婦さんの話と、自分の想像力をかきたてて考えてみると、体中を巡回してきたリンパ液が、リンパ節が取られてしまっているので行き場を失い、このJ―VACサクショ・リサーバーンに戻ってくるというものではないかと思う。
その液を取らないと、その廃液(?)が体内にたまり、ハレの原因になるのではないかと思う。
この器具の中身は、一晩で、トマト・ジュースのような液が紙コップに半分ほどたまる。
今回の手術は、先回の手術に比べると格段に大手術で、その一番顕著なしるしが、術後の後遺症と傷跡の痕跡である。
後遺症としては、事前に斉川先生のほうから箇条書きにして予知してもらっていたが、それの全部が露呈して、顔はポンポンにハレ、肩はパンパンに凝り、呂律は回らず、全部の後遺症が見事に出たという感じである。
中でも、切開した傷跡の痕跡が一番痛々しく、ここに包帯を巻いているが、首が全く回らない。
首を回そうとすると体全体が回ってしまう。
顎の下をT字形に切っているので、それを縫合した跡が、火星や月のクレーターのように不気味な形状に盛り上がっている。
包帯の隙間からそれが覗いており、自分で自分の顔を鏡で見ると、いかにも痛々しく感じられ、あまり気持ちのいいものではない。
術後、落ち着いてから自分の顔を洗面所の鏡でつらつら凝視してみたら、われながら面妖な顔に変わってしまったなあと思った。
包帯の隙間から傷口が見えるが、クレーターに沿って、ホッチキスの針が突き出ており、それはあたかも万里の長城に並んだ狼煙台のようだ。
国立がんセンター東病院の4階の病棟に最初に来たとき、このフロアーにいた患者の顔に大きな傷跡のある人が大勢いたので、どういう恐ろしいところに来たのかと度肝を抜かれた感じがしたものであるが、今回は自分がそういう姿になってしまった。
首の傷が恥ずかしいとか、人に見られたくない、というものではないが、今まで5体満足に来れたものが、この年になって傷物になってしまったのかという無念さがある。
傷そのものは、癌との戦いの勲章であろうが、ただ一つ困ったことに、髭が剃りにくくなって、電気剃刀にしろ、普通の剃刀にしろ、傷口がでこぼこしているので、非常に髭が剃りにくい。
今回の手術で有り難いことは、食事が口から普通に摂れたことである。
先回のように、継管食ではなく、術後の最初の一日だけおかゆさんであったが、次の日からはもう普通の食事が出されたので、体力の消耗ということがなかったので助かった。
翌日の病棟の検診で、診察台に座ったさい、首が回らないので正面を向いていたら、正面の棚に「イソジン」という薬のビンが目に付いた。
この薬は、先回のとき、口の中を消毒するようにわれ、これを薄めてうがいをするようにといわれた薬だと思い、漠然と眺めていた。
すると先生が包帯を交換するとき、「イソジン」と叫ぶと、看護婦さんが先生に綿に染み込ませた黒いものを手渡し、先生はそれで私の傷口を消毒した。
つまり、この「イソジン」という薬は、うがい薬であると同時に消毒液でもあるわけである。
だからこそ、それを薄めてうがいせよということであった。
昔、我々が子供子の頃、「赤チン」という薬があった。
子供相手の切り傷、刺し傷、虫さされ、ほとんど何にでも、これ一つで間に合わせたものである。
「赤チン」という言葉を使わなくなったと思ったら、「マーキロ液」という言い方に変わったような気がした。
が、しかし、「赤チン」と「マーキロ液」というものが同じものなのか、それとも全く別の物かどうかは定かに知らない。
外見は同じようなものであったが、この「イソジン」というのもその類の薬のような気がしてならない。
それにしても、いくら我々の子供時代に滅茶苦茶なことをしてきたと言っても、「赤チン」や「マーキロ液」でうがいをするなどということはなかったような気がする。
傷口に脱脂綿にしみこませて塗るということはしたが、これを薄めてうがいをするという使い方はしたことがない。
ここでの入院生活というのは、基本的に朝の9:00から入院患者の検診がある。
それは、ナース・センターの隣にある治療室で行われるが、その担当の先生が毎日変わるので、きちんと確定したものではない。
けれども、入院患者を毎日誰かがきちんと検診するという風にはなっていたようだ。
入院患者の側も、手術の前の人と、手術後の人と、さまざまな経過の人がいるので、一律に律することは出来ないが、午前中に先生の検診を受けるということに変わりはない。
そして、この検診が済んでしまえば、後は食っちゃ寝、食っちゃ寝の生活であるが、これが前にも述べたように案外苦しいものである。
手術の後遺症で、体の動作が重苦しく、活発に動けないとき、出来ることといえば、本を読むことぐらいしかないが、手術後はこれがなかなか思うように出来ない。
じっとしているだけだから出来そうであるが、体の自由が効かないということは、既に精神の自由な動きも失っているわけで、そういう気持ちにならない。
よって、ただただ横になっているだけで、そのうちにうたた寝してしまう。
すると今度は夜眠れなくなってしまう
健康なときは、昼間は体を酷使して働いているので、夜には快適な睡眠に陥り、眠れないということはないが、病院のベットの上で、体を休め、うたた寝などした日には、体の疲労というものは全くないわけで、夜眠れなくなるのも当然なことである。
生活のリズムが悪いほうに悪いほうに転がってしまい、それを元に戻すのが大変である。よって、体を出来るだけ動かして、そのリズムを是正しようとしたが、思うように出来なかった。
その最大の理由は、首の周りの切開した部分を縫合したところが、桶や樽に填められたタガのような感じがして、首を自由に回すことが出来ないからである。
このタガの填まった感じというのは、退院後もとれず、いまだにその部分に違和感がある。
それも当然といえば当然なことで、一枚の皮膚を切り開いて、その後それを縫い合わせてあるわけで、その縫い目に皮膚が張ってくるときには、切り開く前とは同じ状況にはならず、そこに段落が生じるのは致し方ない。
しかし、傷口がふさがる、切り口が再生するということは、皮膚の両側から細胞が迫ってきて双方がくっつくのか、それとも傷の内部から肉が盛り上がってくるものなのか、どちらであろう?
2枚の鉄板を溶接でくっつけた場合、溶接した部分というのは丈夫になるということを聞いたことがあるが、人間の皮膚の再生というのもそういうものであろうか?
傷口が盛り上がるというのは鉄板の溶接とよく似ている。
しかし、人間の体というのも実に不思議な存在である。
顎の下をあれほど切り刻まれても死なずに、傷跡が残るとはいえ、生きていられるということは驚異である。
もっと不思議なことは、これほど自分の体を切り刻まれても、自分では全く意識していないということである。
そのことは、麻酔が効いている間に息の根を止められても、全く知らずにいるということで、いわゆる安楽死が可能だということである。
安楽死について、
術後、ベットの上で、眠れぬ夜をこの安楽死についていろいろ考察をめぐらした。
そして、死についても色々と考えたが、それも所詮、「下手な考え休むに似たり」の域を出るものではなかった。
死を考えることは生を考えることと同じである。
「如何に死ぬか」ということは「如何に生きるか」ということと同じだと思う。
これは生き様についての考察であるが、安楽死ということは死のテクニックの問題だと思う。
私はつまらない、些細なことにすぐ感情移入して涙を流すが、肉親の情にはいささか冷淡である旨、前に記したが、「死」に対してもかなりユニークな発想に陥っている。
特に、安楽死については法律で容認すべきだと思っている。
世間の人々は、自ら死を選択することを罪悪と考えているが、私はそう思わない。
自ら死を選ぶということは立派な生き方だと思う。
今話題の「失楽園」のような死の選択でも立派な生き方かと問われると、答えに窮するが、無意味な人生を無目的に生きるということは、人間にとっては罪悪だと思う。
世間の人は、命ある限り、無意味な人生や、無目的な生き方と言うものはありえない、と思い込み、それは人の命を冒涜するものだと思っている。
がんの告知と同じで、他人に対して「お前の人生は無意味で、無目的だから、早く死ね」といえば、残酷な行為であるが、そうではなく、自分で自分の人生の巻く引きを認知するだけのことで、個人の意思をこれだけはっきりと具現化する行為は他にありえない。
人は息をしている限り、それを継続させることこそ意義がある、という認識の仕方は間違っていると思う。
人は、自分の人生の意義を、自分で認識し、生きる目的もきちんと自覚すべきだと思う。
それから外れたときは、いつでも安楽死ができるという、社会システムを容認すべきだと思う。
そういう環境が整って始めて、個人の人間としての人格というものが確立すると思う。
今言われている人権というのは、生まれたての赤ん坊から、死にかけの老人まで、人間の形さえしていれば、一律に同じ人権として認知されているが、これは大きな矛盾だと思う。死に方と生き方というのは一枚の紙幣の裏表と同じで、人としての裏表の関係にあるわけである。
生まれたての赤ん坊と、死にかけの年寄りには、この裏表というものが存在しないわけで、そういうものは社会の構成員として別のものと認識すべきであると思う。
自ら死を選択できるということは、個人の意思を最優先に考えているわけで、それこそ人を人として認識すべき最良、最高の行為だと思う。
「失楽園」のような死の選択であろうと、汚職の責任を背負い込んだ死の選択であろうと、個人の意思というものが最高に具現化された行為なわけで、ひところはやった小中学生のいじめによる自殺というのも、本人の意思という点で同じ視点に立ってみればいいと思う。
問題は、その手段である。
自分で死を選択するまではいいが、いざその方法となると、首吊り自殺、服毒自殺、入水自殺、睡眠薬自殺、飛び降り自殺等々、あまりスマートな死に方というものがない。
死ぬのにスマートもダサいもないだろうと思うのが世間の人々の無神経なところである。
全身麻酔というものを経験すると、これこそ実にスマートな死に方だと思わずにはおれない。
このまま天国に行けるのならばそう悪くないと思ったものだ。
ベットの上で、眠れぬまま、死について考えていると、色々ことが走馬灯のように頭の中を駆け巡っていった。
今、このまま安楽死してもいいと思いつつ、今、私というものがこの世から抜けてしまったら、家族はどうなるだろうかとか、会社はどう対応するのだろうかとか、思い巡らしてみたが、会社はともかくとして、家族のためにはもう少し生きてやらねばと思い直した。
自殺願望というわけではないが、安楽死というものを、これからの社会は十分に真剣に考える必要があると思う。
私の場合、がんになって生きる希望を失ったというわけではないが、なんとなく、これから先の闘病生活が鬱陶しくなった。
大体、若いときに、自分が57歳まで生きるなどということを考えても見なかった。
57歳という年齢に実感がわかなかったが、今の私は現実にこの年齢に達してしまっているわけで、そのこと自体が不思議な気がしてならない。
何歳まで生きればいい、という具体的な目標があったわけではないが、思えば、ただなんとなく、寄る年波を重ねてきたに過ぎないような気がしてならない。
日々の仕事というのは、ある意味で惰性の産物で、仕事に行くというという行為は、ただ単に惰性を積み重ねているに過ぎないとことでもある。
その惰性でしている仕事の中に、日々の喜怒哀楽があるわけで、それが又、惰性の歯車を回す原動力になっている節がある。