自分史12
息子の見舞い
先回の入院と今回の入院に関し、我が愚息がこまめに私を見舞ってくれた。
例によって、きてくれたからといって大感激するわけではないが、彼は彼なりに私のことを心配してくれていたらしい。
今年になって、私がこんな大災害に出会ったのも、今年の正月に彼と大喧嘩したバチがあたったのではないかとひそかに思っている。
迷信とか、霊魂を信ずる私ではないが、今のような立場に立たされると、そういう思いが沸々とわいてくる。
しかし、あの喧嘩は私と彼にとって不可欠なものであった。
成人した大人同士である以上、親子とはいえ、本音で自分の意見をぶつけ合うことは必要であろう。
今の世の中がひずんでいるのは、この親と子供の間で真剣な話し合いを欠いているからではないかと思う。
親子というのは、どうしても世代の相違ということを免れないわけで、それを埋めようと思えば、話し合うほかないわけである。
世代が違うということは、考え方も、生き方も、価値観、感受性まで、ことごとく違うわけで、その違いを乗り越えて冷静に話し合うことはおそらく不可能に近い。
親子であるからこそ感情の起伏を抑えきれず、喧嘩越しの話し合いになりがちだと思う。
つまり、最終的には親子喧嘩になってしまう。
問題は、この親子喧嘩を日常的にしていれば、親子の断絶というものを回避することができるのではないかと思う。
今は少子社会で、一家の中での子供の数が少ないかめ、一人一人の子供がみな大事な子供であり、親が子を本音で、しかも喧嘩越しで話し合うことがない。
大人のほうも変に物分りのいい風を装い、子供に対して妥協をしがちであるが、親子とは言っても、子供が成人してしまえば、もう個として、大人の人間の個として扱ってやらなければ、大人と大人の話し合いにはならない。
我々は、どうしても親子の関係というものを断ち切ることができず、何時までも親子の関係の上に立った甘えの構造から抜け切れないでいる。
それは、我々、日本人というものが、理性に立って物事を判断するのではなく、感情に支配され、理性よりも感情で物事を判断するところに原因があると思う。
先に述べたように、術後のフォローで、家族が何時までも患者のそばに付き添っているというのは、ファミリーの間の情が厚いからだと思うが、そのことは同時に、理知的な思考を巡らせるのではなく、ただ単に人間の感情に支配されているだけで、傍にいてやれば患者が安心するであろうという、ただの思い込みに陥っているだけである。
こういう家族の場合、案外、患者本人も家族が傍に居てくれることを期待しているのかもしれない。
それに反し、私は傍に居ても意味がないという見方をするほうなので、これは明らかに感情の起伏が乏しく、情に冷たい発想である。
病院のロビーでは、成人した我が子とゆっくり話し合う機会があったが、いざ、そういう場面に直面すると、何を話していいのかわからない。
しかし、我が愚息が、曲がりなりにも成人して、親が病気のときは、こうして見舞いに来てくれている、という現実を思うにつけ、有り難いことだと、感謝の気持ちには素直になれる。
息子本人に感謝するわけではなく、息子をこういうふうに育て、育んでくれた世間というか、お天道様というか、そういうものに対する畏敬の念に、感謝の気持ちが一杯になる。
親と口泡飛ばして喧嘩できるまでに育った息子というのは、やはり親として一種の誇りを感じてもいいと思う。
他の動物にたとえれば、立派な巣立ちであり、親離れをしたということであるから、これはこれで有り難いことだと思わなければならない。
親子という関係が頭から抜け切れず、何時まで経っても親子の情に流されていると、巣立ち、親離れの機会を失ってしまい、親が子の言いなりになってしまう可能性がある。
息子は1日の仕事が終わってから駆けつけてくれるので、病院に着くのは19:00ころで、面会したとしてもそう長い時間会っているわけにも行かず、10分か15分で帰ってしまうが、それでも顔を見せにくるということは、彼なりに親のことを心配していたのであろう。
ここは素直に有り難い気持ちにならなければならない。
生きるための復帰
顎の下の抜糸は、29日火曜日の朝の検診で行われた。
その時は女医さんで、包帯を取ってホッチキスの針を全部抜いてくれた。
最初から全く痛くないので、先生に「今、抜糸しているのですか?」とこちらから尋ねた。
「全然痛くないですね!」と言ったら、「痛がる人もいますよ!」ということであったが、当然であろう。
私の場合、痛みというのは全く感じられず、有り難いことであった。
その後、イソジンを塗ってわずか10分足らずで終わってしまった。
手術後、日が経つにつれ、いろいろなものが要らなくなり、段々と元の体に戻っていくのを見るのは嬉しいものである。
まず最初、大きな点滴が要らなくなり、その後、J−VACサクション・リサーバーが取れ、又痛み止めの点滴が不必要になり、最後に抜糸をし、同時に首の周りの包帯が取れたということは、健康への回復であり、生きる事への戦線復帰であり、希望の継続へとつながるものである。
抜糸をし、包帯が取れると実にさっぱりとした気分になった。
しかし、手術の傷跡がモロに人目に晒されるので、見る人が逆に困惑するのではないかと思った。
抜糸をし、首の包帯も取れたが、肩の凝りと、首の周りのタガの填まった感じというのは一向に良くならず相変わらずであった。
それと、顔のハレも一向によくなる気配はなかった。
これらは最初から先生が指摘されていたことで、手術の後遺症であり、異常でも何でもなく、日が経つにつれ引いていくということであるから、気長にその日の来るのを待つほかない。
が、現実に首が回らず、体ごと向きを変えるというのも不便なことである。
顔のハレというのも不快なもので、右のほっぺたがパンパンになってしまって、ものをしゃべるにも呂律が十分に回らず、自分では舌足らずの言葉になっているような気がしてならない。
肩の凝りというのも相当なもので、右肩から背中にかけて、痛みが取れず、鈍痛が残っているような気がしてならなかった。
入院以来の私の病気というのは、舌と首の周りのリンパ節郭清というもので、体全体から見ると部分的なわけである。
体の他の部分の機能というのは、きわめて順調に機能しているようであり、内蔵とか神経、脳というのはどこも悪くはなさそうだ。
これはこれで有り難く、天に感謝しなければならないが、本来ベットで寝ていなければならない病人の立場に立つと、体の一部が機能不全でも、他の部分は正常そのものというアンバランスな状態というのは、睡眠の不規則な状態を引き起こす。
手術後、一通り、機能が回復しだすと、今度は不眠症に悩まなければならないようになった。
私は、元来、不眠症気味で、夜、納得のいく睡眠というのは取ったことがない。
そこで、手術で、寝ることが仕事のような生活を強いられると、昼間うたた寝でもしようものなら、夜完全に眠れなくなってしまう。
よって、今回、看護婦さん「夜、眠れないので!」といったら、スイカの種ほどの睡眠薬を持ってきてくれた。
そしてこれが又極端によく効いて、このスイカの種一粒で本当に熟睡したという気分になった。
不眠症気味でも睡眠薬というものを一度も使ったことがないので、その効用というのは実に素直に効いて、その後の入院期間というもの手放せなくなってしまった。
睡眠薬というのも使い続けると習慣化するということをよく聞くが、退院後は、薬が手元にないものだから自然と遠のいてしまった。
このように、悪しき習慣というのは全く困ったものだ。
タバコも飲酒も、ある意味では習慣として継続することに弊害が潜んでいるわけで、一度や二度の行為ではさほど問題はないと思う。
睡眠薬の使用というのも同じことだと思うが、私の体の悪いところというのは、きわめて部分的なところのみで、後は健康そのものであったので、体力をもてあまし気味であった。
更に、手術後、口から食物を摂取できたということは、きわめて体力の温存に有効であったわけで、その意味からしても夜眠れないということが起きたわけである。
夜、眠れないというのも結構苦痛で、何度も寝返りを打ったりはするが、そのうちに背中が痛くなってきて、自棄くそで起きだしたりしてしまう。
起きて水を飲んだり、トイレに行ったりして気分を紛らわせると、その後眠れることがある。
こういう時というのは、色々なことが頭の中を走馬灯のように駆け巡り、昔のことや、家族のことや、仕事のことが次から次へと頭の中に沸いては消え、消えては沸いてくる。
これを全部文字にして、書き留めてみたら面白いものが出来るのではないかと思うが、不思議なことに翌日になると何一つ覚えていない。
するとあれは夢だったのかと思うが、眠れなかったという事実は、きちんと記憶に残っており、頭の中を走馬灯のように駆け巡って行ったことだけが綺麗さっぱり消えうせている。
自分の体がだんだんと元の体に近づくと、やはり身だしなみとして、身奇麗にしておきたいと思うようになり、髯を剃らねばと思ったが、これがなかなか難しい。
傷口が凸凹しているので、電気剃刀が滑らかに皮膚の表面を滑らず、あちこちに引っかかり、思うように出来ない。
普通の剃刀を使えばなおさら剃れない。
よって、地下の床屋さんに行って剃ってもらったが、やはり後遺症で、顔の表面の皮膚がパンパンの張ってしまっているので、綺麗になったとはいうものの、顔の形そのものが変わってしまっていた。
髭剃りに関しては退院後もしばらくは苦労しなければならないであろう。
退院後しばらく自宅療養して8月6日から会社に出、仕事をしたが、私の顎の下の傷跡を見せると、皆同様に、その痛々しさに恐れをなすといった感じであった。
しかし、この暑いさなかの仕事で、体を動かすだけでも汗が出るのに、この汗が嫌だなあと思っていたが、それほどでもなかった。
家から持っていったタオルで、こまめに拭けばさほどのことはなく、傷に汗が染みるということはなかった。
人間というものは、病院のベッドで寝ているよりは、汗はかいても、元気に仕事が出来るほうがよほど幸せかわからない。
健康なときは時々病院のベットで休んでみたいなどと思うときがあるが、あれは健康な人の贅沢な悩みである。
病院の窓から外を覗いて、健康な人があくせくと働いている姿を見ると、自分だけがこうして働けないのは何と不公平かと、天をも恨む思いがする。
人が社会に出て、普通に仕事が出来るということは、これほど幸せなことは他にないわけである。
自分との戦い
仕事が出来るようになったとはいうものの、これでがんが完全に克服されたかといえば、まだまだ油断は出来ない。
さまざまな書物を読み、体験者の話を総合すると、そう簡単に克服されるものではなさそうである。
特に私にとって最大の難点は禁酒禁煙を強いられていることである。
この二つがなければ私の生きる意味がない。
朝、誰もいない部屋で本を読むとき、タバコがなければ本を読む意味がない。
仕事で汗を流し、その後に、よく冷えたビールを飲むことにより、一日の労働に感謝し、翌日の英気を養うことになるわけで、それがないことには生きる意味がない。
しかし、最初のがんの認知からこの二つを極力セーブしてきたが、全く完全に禁酒禁煙をしていたわけではない。
癌でタバコが吸えず、ビールが飲めないということは私にとって最大の苦痛であった。
私に言わせれば、タバコやアルコールが癌に悪いというのは。この二つが人間の肉体に習慣性の刺激を与えるからだと思う。
そういうことは自分でも理解できるが、癌との戦いということが、自分の意志との戦いとなるわけで、こういう場面になると私は極端に意気地がなくなる。
要するに、一言で言えば意志薄弱ということである。
自分の欲望に打ち勝つことが出来ず、ついつい自分に都合のいい言い訳をして、安易な妥協に走るということである。
けれども、禁酒禁煙を確実に実行したからといって、今後、確実に癌から逃れられるということにはならないと思う。
その時、私に禁酒禁煙を迫った人たちは、どういう言い訳をするのか今から楽しみである。
私が自分の意思を抑えつけ、周囲の人々の勧告を忠実に実行し、禁酒禁煙に成功しても、なおかつ癌の転移が現れたとしたら、その人たちがどういう弁解をするのか楽しみである。
私は、最初の癌の認知から完全なる禁酒禁煙というわけではないが、おおよそ限りなくゼロに近い状態で来ている。
限りなくゼロに近い状態でおれるならば、いっそのこと完全なる禁酒禁煙まで行けばよさそうにと、他人は思うかもしれないが、それが出来ないところが私の私足る所以である。
踏ん切りがつかないというか、未練がましいというか、潔くないというか、そのほんの少しの逃げ道をふさぐことが出来ないところが私の意志薄弱なところである。
癌のメカニズムにおいて、喫煙と癌の因果関係は立証されているわけではない。
統計的に喫煙者に頭頸部のがん患者が多いということであり、そのことはタバコを吸うと、がんになると言う事の直接的な因果関係を示すものではない。
医療に携わる立場の人は、その統計的な結論から、喫煙と飲酒はだめだよという、警告を発する使命があるわけで、病人に対して喫煙と飲酒を奨励するわけにはいかない。
これは私が完全に禁酒禁煙が出来ない言い訳なわけで、こういう言い逃れのもと、自己の欲望に負けたときの口実にしているに過ぎない。
理論的に考えても、タバコが人間の体に良いわけはないし、アルコールも適度の量なら良薬になる、という言い分もあるが、これもたぶんに酒飲みの都合の良い言い訳に過ぎないと思う。
問題はこれら二つの行為がいずれも習慣性の行為で、タバコを吸うことが習慣となり、アルコールの摂取が習慣になるところに問題があると思う。
もしそうだとしても、私の喫煙の習慣、飲酒の習慣というのは20歳頃からの習慣で、既に30年40年近く継続しているわけで、癌もその頃から温存していたとなると、今更禁酒禁煙したところで、全く意味を成さないのではないかと思う。
癌にはストレスがよくないといわれているが、私が禁酒禁煙しなければならないという強迫観念に束縛されること自体、大きなストレスになる。
それ自体が癌を誘発する遠因になりかねない。
要するに、癌の原因というのは、今日まだ解明されたわけではないので、どんな理由でもこじつけられるわけである。
一言で言えば、運次第ということに他ならない。
癌になるもならないも、運次第ということなれば、禁酒禁煙を確実に実行したところで、癌から逃れれるものではない。
癌の原因が喫煙、飲酒の習慣にあるということならば、胃がんや、子宮がんの人にはどういう説明をしているのであろう。
物の本によると、リスク・ファクターという言い方で、それぞれの癌の原因と思われる要因が記されているが、きちんと断定したものではない。
やはり、もろもろのファクターが原因であろうという推測の域を出ておらず、原因を特定することは今日の医学では無理なようだ。
原因が特定されていないからと言って、わざわざリスク・ファクターといわれるものを無視する必要もないわけで、危険だと思われることは最初から避けるに越したことはない。
理性で考えればこんなことは当然である。
ところがこういう自分にとって都合の悪いことは、理性というよりも、自然の感情に支配されがちなわけで、ついつい自分の欲望に負けそうになるところが人間、いや私の意志の弱いところである。
自分で、自分の意志の弱いことを熟知し、それを知っているがゆえに、その克服が如何に困難か理解でき、それを成しえない自分に対して大きな焦燥感にさいなまれているわけである。
いわば自分との戦いである。
「馬子にも衣装」
ここで、自分を責めることはやめ、視点を変えて、看護婦さんの制服というものに目を向けてみたいと思う。
どこの病院でも看護婦さんと先生の制服というのは白と決まっている。
ところが今の日本では制服というものが極めて軽んじられている。
今年は戦後52年目ということで、ここまでに至る間に、アメリカ進駐軍による日本民主化政策に則って、52年前から、物事の画一化ということが極端に嫌われた。
個性の尊重などという表現で、物事の画一化というものが否定的にとらえられ、小中学校から高校、大学にいたるまで制服というものが罪悪かのごとく見られ、学生服といえば、応援団ぐらいしか着ないようになってしまった。
高校生に制服を着用させるかさせないかで、高校生を管理する側の学校サイドが、高校生の意見を聞くという馬鹿なことが流行っている。
戦後の民主化で、一番の罪悪は、管理するものとされるものが、同じ人間だからという理由で、立場の違いがあってはならないという認識がまかり通っていることである。
管理するものとされるものの間には、立場の違いという抜き差しならないものがあるにもかかわらず、その違いを認識することなく、同じ姿の人間だからという理由で、それを否定すれば、社会そのものが成り立たない。
立場の違いを否定しているものだから、管理するものとされるものの間にある、秩序、社会秩序、約束事、決まり事、暗黙の了解、モラル、常識というものがことごとく破壊されてしまっているわけである。
かって、戦争中は日本中が画一化を強いられ、その反動として、自由を謳歌したい気持ちは理解できるが、人の集団というのは、最低の秩序もなしでいられるほど善良な人間の集まりではない。
看護婦さんの白衣というのは、おそらく世界共通の常識として、通用しているであろうが、あの色の服装には安心感が漂っている。
若い看護婦さんが白衣を着て、きびきびと看護をする姿というのは、本当に、白衣の天使という印象を受けるが、これも白衣というものが看護婦さんのユニフォームとして定着しているからこそ、誰もが安心感を抱くわけである。
GパンにTシャツで、おへそを出したり、お尻をぷりぷり動かして、看病された日には治るものも治らなくなってしまう。
ユニフォームの美しさというのはその画一性にあるわけで、色とその格好というものが一つの信頼性を持ち合わせているわけである。
看護婦さんの白衣というのは、看護に対する信頼性を内在しているし、軍人や警察官の制服というのは、そこに人々の安定した生活を維持している、という信頼性を内在しなければならないわけである。
我々が子供の頃着た学生服というのは、その黒い色と、その形の中に、学生としての本文として、誠実で、律儀、そして向学心を秘めた人としての象徴であったわけである。
戦後の民主教育では、こういう画一的なことを個性の埋没、没個性という言い方で。否定的に捉えようとしているが、そのことは逆に、表層的なものの見方で、その画一的な現象の中に、崇高な個人の意思が内在していることを知ろうとしない、偏向教育の顕著な例である。
「馬子にも衣装」という俚諺がある。
私の解釈では「街道の馬子引きのような卑しい職業の人でも、衣装を変えると立派な人に見える」という、封建時代の差別意識丸出し言葉のように思う。
しかし、これは人間の心理を極めて如才なく表現した言葉で、確かにこういうことはありうる。
昨今の、第一勧業銀行の経営者や、野村證券、山一證券等の一連の事件を見ると、警察の世話になり、手が後ろにいくような悪いことをする犯罪人、つまり馬子よりもレベルの低い悪人が、背広というユニフォームを着て日本のビッグ・ビジネスに君臨していたわけである。
こういう経営者の出現も戦後の民主教育の一つの成果だと思う。
即ち,それは人の生き方に「社会に貢献しなければ!」という大義名分を失って、その場その場で、「自分さえ良ければ、後は野となれ山となれ!」という個性の尊重が、こういう社会現象を生んでいると思う。
日本のビッグ・ビジネスの頂点に登りつめた人、つまり経営者の端くれが、して良いことと悪いこと、法に触れるか触れないか、常識として通用するかしないか、を判断できないはずがない。
つまり、知っていて、承知の上で、自分と自分の周囲を擁護するために悪事を働いていたわけで、このことは戦後の民主教育が口を酸っぱくして叫んできた、個人の尊重、個の権利の尊重であり、社会に貢献することの否定なわけである。
「馬子にも衣装」という俚諺にはもう一つ別な意味が隠されているのではなかろうか。
というのは、人はあるユニフォームを着ることにより、より職業に徹しきれる、という側面があるのではなかろうか。
通常、我々サラリーマンは、朝、職場に着くと、それなりの仕事に適した服装に着替えると思う。
すると、身も心も引きしまって、「さあこれから一日頑張ろう」という意欲に駆り立てられる。
職業によってそれが作業服であったり、看護婦さんの白衣であったりするわけである。
しかし、看護婦さんの白衣というのはいいものである。
けれども、あまり世話にならないほうがもっと良い。
8月13日(水曜日)・再診
2度目の退院後、8月13日(水)、お盆休みの初日に第1回の検診の日であった。
この日は、息子も休みに入るから、というわけで中央病院に来てくれた。
例によって、新橋駅から歩いて病院に行ったので、汗をかいてしまった。
病院について、再診の手続きを済ませ、待合室に行ったら、そこに息子が待っていてくれた。
息子は最近車を買って、それを我々、親に見せるため、その車で帰るつもりであり、この病院の近くに止めておいたらしい。
11:00の約束であったが11:40分に名前を呼ばれた。
息子も心配して診察室までついて来た。
前から一緒に話を聞くということを言っていたので、そのままの成り行きに任せただけであるが、彼は手術の際言われた、病理検査の結果を最初から気にしていた。
例によって、診察台に座ったら、先生はまず顎の下の触診から始めた。
その際、私は手術の後の傷口は大事にしなければならないと思って、今まで風呂にはいってもそっと洗う程度で、力をいれずに上からなぜる程度にしていた。
そうしたら、先生が「この部分は洗っていますか?」と質問するものだから、ありのまま答えたら、「傷口は完全にふさがっているので、もう洗っても大丈夫ですよ、ここに垢がたまっている」といいながらピンセットで剥がしていた。
傷口の、万里の長城のような突起した部分の黒いものは、手術の痕跡として取れるものではないと思い込んでいたが、それはカサブタであり、それと垢が一緒になって傷口にへばりついていたようだ。
大事にしなければと思っていたものが垢だと言われたときには大きなショックであった。
そういいながら先生はピンセットでカサブタ状の黒いものを全部とってしまった。
後は綺麗になっており、これなら石鹸で洗ってもなんら差し支えないと納得したしだいである。
手術の後がだんだん回復して、元の体に戻りつつある過程を見るというのは、非常に嬉しいもので、これほどまでに回復したのかと思うと、先への希望がわいてくる。
今回の検診では、先生に聞くべきところを箇条書きにして、忘れないようにしてきた。
その一つに、背中に吹き出物のようなものが出来、家内がこれを先生に聞くようにと、マーカーで印をつけてくれたので、すかさず先生に尋ねたところ、ただの出来物といわれ、安心した。
今回の検診で最大の問題点は先の手術でとった、リンパ節の中に幾つがん細胞が転移していたかという、病理検査の結果であったが、最初,先生はまだ手元にデータが来ていないといっていた。
ところが、横から息子が朴訥と先生にその質問をしたところ、すぐその場で電話を掛け、問い合わせてくれた・
その結果2つあったということを聞いた。
それは手術の前に私の顎の下にあった2つのしこりのことで、一応、2つということは、その両方を共にとってしまっているので、これ以上の転移というのはひとまず安心とみなしていいのではないかと思う。
先生は安全宣言をしたわけではないが、癌に安全宣言というのはないのではないと思う。
それで、私も息子も一応安心した気持ちで診察室を出て、会計を済ませようとしたが、この会計というのが実に廉価で驚いてしまう。
1万円以上の交通費を掛けて来院して、診察代というのがたったの100円である。
有り難いと同時にいささか拍子抜けの感がしないでもない。
安いということは良いことで、後は息子と二人で、家まで息子が購入した車で一目散に走り続けた。
一度、息子の寮に立ち寄り、市役所で、印鑑証明をもらって、後は一路、中央高速を西に走り家に帰った。
次の検診は9月10日と決まったが、再々入院とならないよう祈るばかりである。