自分史10
1997年(平成9年)4月10日から6月11日
癌の認知
今年(平成9年)の正月から口の中がどうも可笑しいなあと思いながら、大方、口内炎であろうと高を括って放置していた。
しかし、痛いわけでもなく、痒いわけでもないが、どうも口の中の様子がおかしいということで、家内がしきりに「歯科医に行って、前歯の隙間を治せ」、と姦しくいうものだから仕方なしに歯科医に行った。
ところが「前歯の隙間は治す必要がないが、虫歯があるのでそちらのほうは治療を必要とする」ということを言われ、それによって1月から2ヶ月間ぐらい、会社の帰りに歯科医に通っては治療をし、虫歯に関しては完治した。
しかし、なおも口の中の違和感がぬぐいきれず、食物を噛むときに痛みさえ出るようになってきたので、これは一度見てもらわなければならないと自覚し、4月10日(木曜日)三菱病院の耳鼻咽喉科に行った。
普通に出勤する時間に家を出たので、病院には早く着いて、耳鼻咽喉科の前の待合室で待っていた。
9時をまわった時点で先生が診察室に来て、すぐに名前を呼ばれ、診察台に座って、「アーン」と口を開けたところ、先生は「フーン、これは病理検査が必要だなあ!硬くなければいいが、少し硬いなあ・・・・・」といって、手袋をはめた手で患部に触った。
それで「病理検査はここでも出来るが、資料を送ってそれが帰ってくるまで待たねばならないので時間がかかる。名大付属病院を紹介するので、そちらで病理検査を受けなさい」と言われた。
というわけで、その場で紹介状を書いてもらい、その足で名大付属病院へ行った。
三菱病院から名大付属病院へはJRで行けばたったの1区で、30分もあれば着いてしまった。
看護婦さんが「前のほうに乗ればすぐですよ!」と教えてくれたが、確かにその通りで、列車の前のほうに乗り、降りて前のほうに歩けばすぐに名大付属病院に着けた。
鶴舞の駅がこんな風になっているとは今まで知らなかった。
鶴舞公園というのは公園前の交差点しか通ったことがないので、こんな風になっているとは知らなかった。
名大付属病院というのも始めてきたところで、耳鼻咽喉科の初診手続きを済ませるまで、あちらこちらの関門を通リすぎ、やっと耳鼻咽喉科の待合室までたどり着くことが出来た。
ここでしばらく待っていたら名前を呼ばれ、待合室の後ろの予備室に入れられ、そこで紹介状を渡した。
又しばらくしたら、今度は正式に診断のために名前を呼ばれた。
診察用の椅子に座って、口を「アーン」と開けたら、それでも患部が見えなかったと見えて、「もっと大きく開けよ」という。
私のほうは精一杯大きく開けているつもりなのに、まだ足りないと見えて「もっと大きく開けよ」という。
私の場合、舌というのは無意識のうちに引っ込んでしまうので、自分の意思でコントロールできないようである。
先生の言うとおりにしようと思っても、無意識のうちに引っ込んでしまう。
よって、先生が二人がかりで、一人が私の舌をガーゼで挟んで引っ張り、もう一人がノギスで、患部の大きさを測っていた。
そのノギスが、三菱の工作部の現場で使うような工業用の、長さ30cmもあるような代物で、私は「アーン」と口を空けながら、もっと気の利いた、センスの良いゲージはないのか、と思いつつ、舌の先の引っ張り痛に耐えていた。
そうこうしているうちに、先生がファイバー・スコープをセットした。
正確にはどういう名称のものか知らないが、内視鏡のようなもので、カメラの先に照明があり、患部を照らすと患部の映像がテレビ・モニターに写るという仕掛けのものである。
カメラの照明をつけ、口の中の患部に向けると、その映像が私の目の前にあるモニターにきれいに映し出された。
この時どういうわけかモニターが私に見えるようにセットしてあった。
この映像を見た瞬間、「これは紛れもなく癌だ!」と自分自身で確信した。
映像はモニターに写ると同時に写真にも出来るので、先生は2,3枚写真にもしたようである。
映像として写った患部は、舌の右側の側面が阿蘇山の外輪山のように盛り上がって、中心が噴火口のように白くなっており、唾液でぎらぎらヌメッテいた。
映像を見ながら先生は確認するように「腫瘍、2、3cm、中心がビランしている」とささやきあっていた。
私といえば、口を精一杯あけて舌を引っ張られたままの格好で、「これは間違いなく癌だ!」と思いながら、舌の引っ張り痛に耐えていた。
その後、先生方は診断の説明をしてくださった。
「舌に腫瘍が出来ているが、腫瘍の正体を突き止めないことには、対処の方針が立たない。よって、いろいろ検査をしなければならない。
検査にもスケジュールがあるので、病理検査は来週の今日ではどうでしょうか・・・・」という風に、いろいろ検査の日程を予約させられた。
その時点で、4月17日(木曜日)病理検査の細胞採取
4月24日(木曜日)MR検査
5月 1日(木曜日)アイソトーブ検査
という風に、検査の日程を決めていった。
私は自分の患部をファイバー・スコープで見たとき、これは癌だと確信した。
その根拠は、今までテレビの放送等で見た映像が頭の隅にあったからだと思う。
テレビの映像というのは、いつもは無意識のうちに見ているが、これを意識してみれば、非常に豊富な情報が含まれているように思う。
特にNHKの放送するものは非常に豊かな情報が含まれているにもかかわらず、敢えてNHKを見ないことがインテリの象徴とでも思い違いをしているアホがいるが、そういう人はそういう人で、私とは別の世界の住人であるのでお互いに関与しあう必要はない。
自分が癌だと思ったときの感想は、特別な思いというものはなかった。
世の中では、癌を本人に告知するかしないかで大きな問題となっているが、私の場合、本人が真っ先に自分が癌であることを認知してしまったわけで、告知の問題は最初から消滅していたわけである。
というのは、名大付属病院から自宅に帰ったとき、家内が「どうだった!」と陽気に聞いてきたので、ありのままを報告し、「俺は癌だ。定年まで持たないかも知れない!」と、家内に告げたところ、家内のほうがパニックに陥ってしまった。
三菱病院から名大付属病院に行った経緯を話し、
「ファイバー・スコープで自分の患部の映像を見た。
あれは間違いなく癌だ。
名大の先生は癌という言葉を使わず腫瘍といったが、腫瘍も癌と同じことだ」と、家内に言ったので、家内のほうが動転してしまった。
4月10日は会社を一日休んで、病院に出掛けたので、病院から帰ったのは午後2時頃だったと思うが、あの映像を見て、自分が癌だと思うと、その日はさすがに何をする気にもならなかった。
ボーッとして、窓から外を眺め、タバコをすって時を過ごしたが、この姿を家内が見て、まんざら私が嘘をついているとは思えず、ますますショックに打ちひしがれたようだ。
その後、国立がんセンターに入院し、診察の合間に拾い読みした週刊誌、「サンデー毎日」の中に、漫画家の南けんじ、という人の癌体験記が載っていたが、彼が癌と聞いたときの印象を述べた部分を抜粋すると、
「好きなことをしてきたのだからしょうがないや。
目の前が真っ暗になるとか、そういうことはなかったね。
悔やむこともないですよ。
博打で負けて愚痴こぼしたって、金返してくれないでしょ。癌も一緒ですよ。
なったもんは仕方がないもん。
医者の言うこと聞くしかないでしょう。」
ということをいっていたが、全くこれと同じ心境であった。
私はこのように醒めた心境であったが、パニックに陥った家内のほうは、こんなあっさりとした心境にはなれなかったようで、あちらこちらの電話を掛けまくって、大騒ぎを演じたらしい。
この時、家内が一番頼りとしたのが、私の古くからの友達で、国立がんセンターで検査技師をしていた藤川荘介君であった。
がんセンターで仕事をしているということは、相談するにはこれほどの適格者は他にはいないわけである。
これは後から判ったことであるが、家内から「私の夫は癌である」と知らされた側が「がんの告知」のショックで、悲嘆のドン底に突き落とされたようだ。
思えば、家内の身内の中にも癌で、若くして命をなくした人がおり、癌の恐ろしさを身に沁みてわかっている人ばかりで、それだけに私が癌になったということが大きなショックであったにちがいない。
そして家内の友人の中にも、私の友人の中にも、癌で命を亡くした人がいるので、癌と聞いたときに人事ではないと思うのも致し方ない。
癌の告知というのは本人ばかりではなく、周囲の人にも大きなショックを与えるものである。
そのことを私は深く考えても見なかった。
癌という病気が「不治の病」であるという世間一般の常識としてある間は、本人がいくら自分では認知したところで、そうそうけいけいと口にすべきではないということを反省させられた。
入院までの迷い
次に名大付属病院を訪ねたのは1週間後の4月17日(木曜日)であった。
この日は内山という女医さんで、部屋も前の部屋の隣で、ここにはファイバー・スコープは置いてなかった。
この日は家内もついてきてしまった。
前の説明をして、「病理検査をしてもらいたい旨」告げると、既にカルテを見て内容を掌握している先生は、麻酔の検査をして、それが陰性であることを確かめてから細胞の採取を行った。
病理検査というのは、患部の細胞を切り取って、それを顕微鏡、その他で徹底的に調べることのようである。
先生は口の中に霧吹きのような麻酔をして、チカッとしたような感じがしたと思ったらもう済んでいた。
この1週間のうちに、家内と私とで、何処で治療するかということが大きな課題となっていた。
家内は藤川君の助言を入れて、国立がんセンターで治したいという希望であったが、私の方は今一そこまでは踏み込めず、迷っていた。
ところが、家内は藤川からさまざまな情報を仕入れ、すっかりその気になってしまっていた。
そして、この日も内山先生のもとで、国立がんセンターへの紹介状が書いてもらえるかどうか最大の問題であったわけである。
家内の言い分というよりも、哀訴に近い、半ば強引とも言える申し出に、内山先生は辛抱強く耐え、「紹介状は書きます」といっているにもかかわらず、なおも家内は執拗に食い下がっていた。
病理検査の結果というのは1週間ぐらいかかるものらしい。
よって、この日は細胞を採っただけで家に帰ることになったが、それでも待ち時間が長く昼ごろになってしまった。
2人でJR鶴舞駅まで戻ってきたら、突然家内が「ここで待っていて!」と言って、再び病院のほうへ戻ってしまった。
近くの喫茶店に入ってコーヒーとサンドイッチを食べ、しばらく待っていたが、家内が何時まで待っても現れないので、痺れを切らして私一人で家内をおいたまま帰ってきてしまった。
その後、当然、夫婦喧嘩になってしまったが、後で聞けば、あれから家内は再び内山先生のところに行って紹介状を「書いてもらってきた」とのことである。
彼女がこれほど紹介状に固執するのは、藤川に「国立がんセンターで見てもらうには紹介状があったほうがいい」ということを聞いていたからである。
現地に行ってみて初めて納得したわけであるが、がんセンターのような専門病院では、風邪や腹痛のようなありきたりの病人が押し寄せてきて、がん治療に支障をきたさないように、紹介状により選別しているわけである。
だから藤川が紹介状に固執したわけであるが、家内はこれがないと今にも私が死んでしまうかのような思い込みに陥っていたわけである。
藤川が心配して東京からたびたび電話をしてくれるので、私もだんだんその気になっては来たが、私としては国立がんセンターに行けば、「必ず、即、入院が可能かどうか」ということが最大の心配事であった。
しかし、何時までも迷っているわけにも行かず、私も藤川の好意に甘えて、彼のアドバイスを聞き入れ、国立がんセンターに行ってみることにした。
腹の中でそう決めたものの、次の日曜日には
此処も立派な病院で、何も東京まで行かなくても此処でも良いかもしれないと、思ったことは事実であるが、一度決め、藤川にも世話になる旨伝えた以上、浮気するわけにも行かず既定方針通り国立がんセンターに出掛けることにした。
藤川との電話でのやり取りで、病理検査の結果が出た時点で、国立がんセンターに出掛けることにした。
17日の内山先生の病理検査で、細胞を取る時点では、まだ国立がんセンターに行く腹が決まっていたわけではないが、その後、そういう決心をしたからには、あれこれ迷う必要はない。
自分で決めた道をまっすぐ進むほかない。
愛知がんセンターも立派な病院であるが、もう浮気は許されないと思い、未練がましく躊躇することはやめた。
1週間後の4月24日に病理検査の結果を聞こうと、再び名大の付属病院、耳鼻咽喉科に出掛けてみると、今度は内山先生ではない先生が現れて、その結果を教えてくれた。
それによると、「急に広がる性質のものではないが、良性でもない。ほおっておくと大きくなるので処置はしかるべきところで早急にしたほうがいい。」という結論であった。
この時点では、家内が大騒ぎをして、国立がんセンターに移るということを名大側に吐露してしまっているので、先方も、こちらの気持ちを慮って、こういう言い方をしたなと、私は直感した。
まあ、こちらの腹は、そうと決まっているので、その方がこちらも有難かったが、先方がこういう言い方をしてくれたので、その場でその後の検査をキャンセルした。
先回の内山先生との話では、病理検査の資料、つまり細胞を塗布したプレパラートを貸し出しても構わない、という言質を取っていたので、それを再確認することを忘れなかった。
私の腹つもりでは、病理検査の結果を見て、国立がんセンターに行こうと思っていた。
よって、こういう結果が出た以上、次の日に国立がんセンターに出向くことになった。
国立がんセンターでの初診
4月25日(金曜日)早朝、娘に勝川駅まで送ってもらって家内と2人で国立がんセンターに出向いた。
東京駅には藤川荘介君と、我が愚息が迎えに来てくれていた。
藤川は奥さんが風邪で寝込んでいるにもかかわらず、この日一日、仕事休んで私に付き合ってくれた。有り難いことである。
藤川の案内で、山手線、常磐線と乗り継いで、
大きくて立派な病院で、1階の入り口の待合室などまるでホテル並みである。
初診の手続きを済ませ、2階の待合室で待つことしばし、診察は12時ちかい時間であった。
斉川先生が見てくれたが、温厚そうな親しみやすい先生で一安心である。
先生の所見では「本格的な舌癌である。しかし、まだ初期の段階で、がんの進行を4段階に分けるとすると第2スタージの段階である。
この段階ではいろいろは対処の仕方があるので、安心してください。処置には手術の方法と放射線照射の方法がある。放射線照射というのは・・・・」と、放射線照射の説明をしようとなさったが、私は先生の言葉をさえぎって、「手術でお願いします」と自分から言ってしまった。
この斎川先生の言葉を聞いて家内は相当安心したに違いない。
というのも、4月10日以来というもの、彼女は自分の情報ルートでいろいろは話をかき集めていたが、それらの話はいずれも素人の域を出るものではなく、素人判断の集合に過ぎず、確実性に欠けた内容であった。
しかし、今、彼女の前にいる先生は、日本一の癌の権威で、その人が「心配ない」と言ってくれたので、これこそ信ずるに足る情報にめぐり合えたわけである。
「初期の段階で、対処の仕方はいろいろある、安心しなさい」という先生の言葉に、家内は心からホットしたに違いない。
彼女の心の中には「癌イコール死」という図式が離れず、「癌も治るものだ」という認識が薄らいでいたに違いないが、斉川先生の言葉を聞いて一縷の希望がよみがえったように思う。
「下で入院の手続きをしてください」といわれ書類を3部提出してきた。
その際、入院が何時になるのか、窓口の係りの人に尋ねたところ、何時になるかわからないということである。
これは困ったことになったと思ったが、この期に及んではなんとも致し方ない。
斉川先生が言うには「入院までは通常の生活をしてください」ということであったが、入院の目安も立たないでは、はなはだ困ったことだと思った。
東京まで出るについて、私が一番心配していたことが現実となったわけである。
しかし、他に手だてはないので待つほかない。
ただ手をこまねいて待つことについては、息子がもっともらしい心配をしてくれたのがなんともいじらしい。
日ごろ、生意気な口をきいているようでも、心の隅では親のことを心配していると見えて、待っている間にがんが進行するのではないかと思ったようだ。
私の当てずっぽうの予測では、5月の連休が明ければ何とか目鼻がつくのではないかと思っていたが、事態はそのとおりに動いた。
がんセンターからの入院の連絡は5月9日に(金曜日)にあった。
その日、会社の食堂で昼食をしていたとき、家から電話で、「12日に(月曜日)に入院という知らせが入った」と言ってきた。
その場で上司に連絡をし、長期の療養の内諾を得た。
いよいよ入院
5月12日(月曜日)娘に送ってもらって、いよいよ入院ということで出掛けた。
柏の国立がんセンター東病院。
入り口を入ったすぐ左にある入院受付で手続きをし、4階のナース・ステーションで病室の案内を請い、415号室を指定され、ベットの上に荷物を置いた時点で9時半ぐらいであった。
遠路はるばる来たように思ったが、時間にして3時間半ぐらいしかたっていなかったわけである。
中途半端な時間で、所在無げにこのフロアーを見渡していたところ、どうもこのフロアーは異様な雰囲気に感じられた。
後で、おいおいわかってきたことであるが、このフロアーは頭頸科のフロアーで、この頭頚科というのが曲者であった。
頭頚科というのは読んで字のごとく、頭と頸のことで、この部分というのは衣服で患部を隠すことが出来ない。
いきおい、手術の後が丸見えの部位である。
そのことが異様な雰囲気を漂わせている大きな原因ではないかと私なりに解釈した。
人様の容貌をあげつらうことは良いことではないが、ここの患者は、顔が異様に変形したり、ギロチンで落ちた首を又つけたような手術跡があったりして、見慣れぬ私は身の毛がよだつという感じがした。
と、同時に、「生きるということ」を考えさせられた。
これほどまでして「生きる」ということ、人の生への執着が如何に強いものか、という生き様を見る思いがした。
自分がああいう立場に立たされたとき、あのような手術を受けてまで、生きる気力があるだろうかと、自問自答してみたが、私はああいう生き様はしたくないし、出来ないのではないかと思った。
大きな傷跡があるということは、手術が下手だから跡が残ったというよりも、跡が残るほどの手術をしなければならないくらい癌が進行していたと見るべきだし、それでもなお死なずに生きていると見るべきだと思った。
とにかく、頭頚という衣服で覆われない人間の部位に取り付く癌を憎むべきである。
入院後、再び斉川先生の診断を受けたところ、前よりも大きくなっているといわれ、手術の概要の説明を受けた。
その時、意外だなと思ったことは、患部を切り取った後、そこを縫合するということであった。
素人判断では、舌を切り取った後は、自然の再生力に任せて、何も施さないのではないかと思ったが、その部分を縫合するというのは意外であった。
舌、ベロが縫合できるなどとは思っても見なかった。
その後、入院中に読んだ本によると、大きく切り取った場合は、他の部位から肉を持ってきて結合するなどと述べられていた。
斉川先生の話を聞いていると、いかにもたやすい手術のように聞こえて、これから手術を受けなければという緊張感が消えていくような感じがした。
もっとも、私の悪いところは舌だけであるが、ここに来るまで普通の日常生活をしており、
それが病院というところに入ったとたん、知らず知らずのうちに病人の気持ちになってしまいがちである。
入院して、自分の周りが癌患者ばかりになると、自分の癌が他の部位に転移しているのではないか、と心配になってきた。
此処に来るまではそんなことは眼中になく、自分の癌は舌だけだと単純に思い込んでいたが、ここに来てみると急に不安になってきた。
その後、16日には内視鏡による胃と食道の検査が行われたが、その時点では転移は認められないということでホッとした。
同じ日にCTの検査もあったが、こちらのほうは寝ているだけで痛くも痒くもなかったが、
内視鏡による検査はいささか苦痛であった。
12日(月曜日)に入院したとはいえ、この時点では手術の日程が決まっていなかった。
しかし、15日(木曜日)には日程が決まって、来週の火曜日、20日の11時頃から始まるというスケジュールを知らされた。
よって、家内は前日の午後から来て、手術の立会いに間に合うよう、行動しなければならなかった。
その点に関しては、息子と連絡しあって、柏の駅前ホテルを予約し、そつなくこなしていた。
病院の建物は4機のエレベーターを中心にしてA病棟とB病棟に分かれていたが、4階のフロアーに関しては、A病棟全部が手術室になっていた。
入院したとき何時も感じるのであるが、世の中には一生懸命仕事をしている人がいるのに、なぜ、俺だけがこんなところで寝ていなければならないのか、と悔しい思いに駆られることがある。
今回も同じような思いに陥った。
天気がいいとき、窓から外を眺めていると、ついついそういう思いに耽ってしまう。
しかし、これもある意味では贅沢な思いといわなければならない。
この病院に入院してみると、俗に「上見りゃ限りなく、下見りゃ限りがない」という言葉が実感として感じられる。
今回の入院に際して、結果からして、「私はなんと幸せか!」と自分自身の運命に感謝しなければならないと思った。
舌が癌になったとはいえ、私の癌など、癌のうちに入らないのではないかとさえ思える。
退院後「俺の手術はどのくらい時間がかかったのか?」と家内に聞いたところ、「30分ぐらいで、手術室に入って出てくるまで3時間ぐらいであった」ということである。
4階のフロアーに入院している患者の中では一番軽い症状ではないかとさえ思えてくる。生と死の狭間を行き来している患者のことを思えば、私が1ヶ月ぐらい病室に寝たとしても、それはきわめて幸せなことと思わなければならない。
1,2週間、会社生活から隔離されてからと言って自分の運命を恨むようなことでは罰が当たる。
こうなったのも運命の悪戯で、こうなればなったで、運命に逆らうことなく、素直に時の流れに身を任すことが大事だと思う。
愚痴ってはならないと思いつつ、4階の窓から新緑の外を見、手術を待っていた。
手術の前
入院したその日は朝早くから家を出て、病院へは早くついてしまったので、しばらくは手持ち無沙汰であった。
よって、地下の売店へ行って買い物などをした。
近頃の病院の設備はきわめて合理的に出来ており、テレビなどはベッドごとに完備しているが、それを見るためにはプリペイド・カードを用意しなければならない。
そのプリペイド・カードは良く出来ており、テレビのほかに洗濯機や売店での買い物にも使えるようだ。
その日の16:00頃、斉川先生の診断があり、その後ナース・ステーションの脇にある面談室で、家内も同席して、今後の処置内容の説明を受けた。
判りやすく丁寧な説明を受けたが、この時点で私が一番気に掛けていたことは会社に提出する診断書のことであった。
家内が病院にいる間に出来上がればいいなあと思っていたが、タッチの差で家内が帰った後になり、郵送することになった。
最近の医療の現場ではインホームド・コンセプトという言葉が話題になっているが、これは医者が患者に対して、治療に関する説明をするということであるが、このことについては色々と難しい問題を内在しているのではないかと思う。
一般的に言って、医者は専門家であるが、患者の側は医療について素人のはずで、その素人に高度な医療について説明するということは、口で言うほど安易なことではないと思う。
極端な場合、説明する側の医者は、医療に関する大学の授業をそのまま患者に対してしなければならないことになる。
医者と患者の間に共通の知識が潜在的にあればこんなことはないが、普通の場合、患者というのは医療に関してはズブの素人のはずである。
そのズブの素人に対して、相手が納得できるように説明するということが、医師としてのモラルだといわれても、医師のほうもきっと困惑するに違いない。
私の場合のように単純明快な病気ばかりならいいが、複雑な内蔵の部位の、複雑に転移した病状と、その対処の方法をズブの素人に対してわかりやすく説明せよといわれても、医者のほうの苦労は察して余りある。
この病院のインホームド・コンセプトは、複写のできる用紙に図入りで説明を受け、原紙は先生側の資料とし、コピーのほうを患者に渡してくれるので非常にありがたい。
私の病気も癌である以上、心して対処すべく、4月10日以来の病気に関する資料を、こと細かくメモしておくつもりでいたので、非常に有益な資料となった。
入院後の最初の斉川先生の面談で、手術は30分ぐらいであろう。
今週中は各種の検査が実施される。
術後は2,3日流動食となる。
回復は早いほうであろう。
ということであった。有難いことである。感謝、感謝の気持ちである。
17:00頃、海老原先生の回診があり、痛み止めの薬を依頼した。
この病院は、不思議なことに病室の患者の名前を表記せず、担当医師の名前が掲げてあった。
私の場合、斉川・海老原となっていた。
海老原先生も温厚そうな人で安心した。
病室は4人部屋であったが、着いた時点で隣のベッドには若い高校生ぐらいの女の人がいたので、この病院は男も女も同じ部屋に入れるのか驚いたものである。
しかし、その子は夜になると父親が迎えに来て退院していった。
それでなければおかしいと思った。
その子が退院したので、翌日、私のベッドがその子の後になり窓際になった。
私の反対側にも、同じ日に入院した人がおり、日が経つにつれ懇意になったが、その人が言うには、「ここに入院するまでが大変である」という意味のことを言っていた。
それは暗に、「入院したくてもそう安易に入院できない」ということを言っていたようだ。
痛み止めの薬に関しては、海老原先生が、「患部が痛むか?」と尋ねたので、「食べるときに痛む」と答えたら、痛み止めの薬と、副作用防止の胃腸薬を支給してくれた。
今回の私の病気で、4月17日に名大の内山先生が同じような痛み止めの薬を2、3日分調合してくれただけで、ほとんど薬というものに縁がなかった。
しかし、ここで支給された薬は食事のときの苦痛を和らいでくれるので有難かった。
手術前の1週間というものは、さまざまな検査に費やされたわけで、さほど苦痛ではなかった。
その間に、丁度、NHKスペシャルで、2回に分けて癌のことを放映していた。
大いに参考になったが、私の癌についてはなんら得るものがなかった。
しかし、癌の治療というものは日進月歩で進歩しているわけで、早期発見さえすれば癌といえども恐れるに足るものではないと思う。
手遅れになった場合、いくらインフォームド・コンセプトで医師が患者に懇切丁寧に説明したとしても、助からないものは助からない。
医療問題がマスコミに取り上げられるとき、医師の側が悪者に仕立てられ、患者側に立った見方がされがちであるが、発見が遅れた癌は救いようがないと思う。
手術前の1週間は、私の場合、通常の生活の延長線上にあったわけで、2階の図書室から本を借り出しては読みふけった。
家からも義理の兄さんから借りたこ難しい本を忍ばせてきたが、こういう心境、手術待ち、という状況ではふさわしくなかった。
図書室で、もっと軽い本を借りて、1日1冊の割合で読破した。
そして、体のほうもエネルギーがたまり気味であったので、病院の周囲を散歩したかったが、病院の外に出るには着替えなければならなかったので、パジャマのままで済ませる病院の構内だけを歩き回った。
このがんセンターのあるところは緑の多いところで、以前は米軍の通信基地があったらしく、4階からの眺望も、9階からの眺望もすばらしく良かった。
病棟の下にはきれいな花壇が作ってあり、上から見ると実にきれいに見えたので、そこを散歩したりして精力的に歩き回った。
構内の駐車場のヘリを通り、病院の構内をくまなく歩くと1周20分ぐらいかかる。
よって、それを2週ぐらいすると丁度良い散歩になる。
入院3日目に「ストレス早期発見のための簡易評価尺度の有用性に関する調査」と称する面接検査が実施されたが、面接のうちは良かったが、4者択一のペーパーテストになったら、設問と答えの整合性があやふやで、文章として成り立っていないような設問もあったが、、まあ、大勢に大きな影響はないのではないかと、適当にこなしておいた。
9階にある風呂はまさしく展望風呂で、ここから見る景色は実にすばらしい。
しかし、毎日は入れず、曜日によって男女使い分けているようだ。
入院しても、風呂でくつろげるというのは、20年位前、痔で野垣病院に入院して以来のことである。
この時は、風呂に入るということが治療の一環であり、朝から風呂に漬かっていたが、その風呂の成分は企業秘密であったようだ。
手術後の患者は朝風呂に入ってから先生の治療を受けるという風になっていた。
この病院における風呂も、風呂に漬かれるということ自体が、元気のいい患者だけの特典で、手術後で、青息吐息の患者には、いくら眺望のいい風呂でも入ることが出来ないわけである。
手術後、私もしばらくの間、入ろうにも入れなかった。
手術の後
手術のとき、鼻の穴から胃にかけてビニールの管を通された。
継管食(流動食)を胃に流し込むための管であるが、手術後この管が取れるまでは、風呂はもちろん、顔を剃ることも出来ず、この間こそ、本当の病人の悲哀を感じた。
その週の終わりの土曜日(17日)に、藤川夫妻が見舞いに来てくれて、担当医師が斉川先生と、海老原先生であることを知り、「これならばもう大船に乗ったつもりで安心していればいい」と助言してくれた。
しかし、彼らは海老原先生を院長のほうの海老原先生と思っていたらしいが、後になってわかったことであるが、この病院には海老原先生というのがもう一人いた。
手術は週が明けて次の火曜日、20日に行われることと決まったので、家内は前日にこちらに来て立ち会わなければならなかった。
19日の月曜日、手術の前日、午後3時頃、家内が病院に来てくれたので、再度、斉川先生からの説明があった。
内容的には前の説明と同じであったが、今回は楽観論ばかりではなく、再発の可能性と、転移についてより詳しく説明がなされた。
再発の可能性については、又同じ場所に再発する可能性が高いので、十分なる監視が必要である、という意味のこと強調され、転移に関しては、今のところ検査の結果として、他への転移は認められないということであった。
この病棟において、他の患者の姿を見ていると、リンパ節に転移していないかどうか心配であったが、その点ひとまず安心してよさそうである。
手術の当日には娘も来てくれた。
彼女は夜行のバスで上京し、早朝に家内の泊まっているホテルに着いたということであった。
長男も来てくれたらしいが私は記憶になかった。
手術に関しては自分では何も覚えておらず、ただストレッチャーに横になったところまでは覚えているが、後は何も覚えておらず、気がついたときはベットの上で点滴の管をつけ、鼻には継菅食用の管が付けられていた。
手術の後で家内から聞いたところによると、手術の正味時間は30分程度のものであったらしい。
ストレッチャーで運ばれて、ベットに戻るまでの時間でも3時間足らずであったらしい。しかし、患者本人にとって手術というのは、手術そのものよりも、術後のフォローのほうが厄介である。
特に、今時の医療というのはやたらと点滴を用いるので、あれだけ水分を摂取すれば小便が近くなるのは必然である。
手術の直後に小便がしたくなれば尿瓶でせざるを得ない。
となれば看護婦さんの世話にならなければならない。
看護婦さんの世話になるということは、大の大人が顕な姿を晒さなければならないというジレンマに陥るわけで、自尊心の高い人間ならば、羞恥心で顔も合わせられない思いがする。
私も手術の当日と、翌日の半分くらいまで看護婦さんの世話になったが、この時ばかりは恥も外聞もない。
この時ほど看護婦さんの仕事が如何に尊い仕事か、ということを痛感した。
それに反し、大の男が尿瓶でオシッコを採っている姿というのは実に哀れな姿である。
手術後という条件を加味したとしても弁護できるものではない。
まあ、私の場合、当日と翌日の半分くらいで、後は自分一人でこなせるようになったから良かったが、手術の具合によって、回復が長引けば看護婦さんに世話になる期間もそれだけ長くなる場合もあるに違いない。
自分の時には気がつかなかったが、ストレッチャーから普通のベッドに患者を移す作業も、看護婦さんにとっては大変な作業に違いない。
健康な人で、少々乱暴に扱ってもかまわない人ならばともかく、手術の後の患者というのは、その大方が絶対安静を強いられているに違いなく、そういう人を移し変えるということはそれなりに気を使うに違いない。
ある時それを目撃してしまった。
手術を終えた患者がストレッチャーで病室まで運ばれてきた。
そのストレッチャーには二人の看護婦さんがついてきたが、そのうち一人が「お願いします!」と、付近にいた別の看護婦さんに応援を頼むと、頼まれたほうの看護婦さんが二人、ストレッチャーの上に乗り、その端に立ち上がって、シーツの端を引っ張り上げ、4人がかりで移し変えていた。
ストレッチャーの端で立ち上がるということは、端で見ていても危険な作業である。
三菱の現場でこんな作業を安全監視委員に見つかれば完全に始末書ものである。
そんな作業を意図も簡単に日常の作業の一環としてこなしている看護婦さんのバイタリテイーには実のところ驚かされた。
私の場合も同じように扱われたに違いないが、自分では麻酔が効いているのでさっぱり記憶にない。
気がついたときには病室のベッドに寝かされていた。
点滴は致し方ないにしても、継管食用のビニール管というのはどうにも不愉快な代物であった。
これが何時通されたかは全く記憶にない。
手術室で鼻の穴にガーゼのようなものを押し込まれたところまでは記憶にあるが、後のことはさっぱり覚えていない。
継管食というのも実に味気ないもので、食事の時間になると、看護婦さんがビニールの靴下のような、袋に入った流動食を天井から下がった器具に取り付けてくれる。
それには細い管が垂れ下がっているので、その管と自分の鼻の穴を通っている管を接続すると、袋の中の流動食が胃の中に流れ込むという仕掛けである。
鼻の穴から胃の中に食物が行くというのも、どうにも不思議な気がしてならない。
そして、このビニール管が鼻の穴からぶら下がっている間は、心身ともに「俺は病人なんだ!」ということを自覚せざるを得ない。
同じ日に入院した同室の人は、私よりも一日はやく手術をし、術後一日でこのビニール管が取れたので、この分ならば自分もすぐ取れると高をくくっていたら、私のほうは術後1週間つけっぱなしであった。
20日の火曜日に手術をして、これが取れたのは次の週の日曜日、26日であった。
それぞれの患者によって、それぞれ手術の部位が違うので、患者によって事後の処置が違ってくるのは致し方ないが、嫌なことは早く除去したいという心理が働いて、自分勝手な早とちりとは言うものの、この管が鼻からぶら下がっている間は、身も心も病人の気分が抜けきれない。
手術後、自分のベッドで気がついたとき、口の中に棒のようなものが入っているような気がした。
傷口の痛みというものはなかった。
ただ、話をするとき呂律が十分に回っておらず、言葉が寸足らずになっているような気がしてならない。
手術さえ済んでしまえば、後は回復を待つだけで、鼻の穴を通っているビニール管さえ取れれば後は重湯から普通の食事へと移るだけである。
ビニール管が取れた時、はじめて手術が終わったなあ、という実感がした。
これがある間は顔も洗えず、髭も剃れず、目にはメヤニがたまって固まりになっていた。手術は20日の火曜日であったが、その週の土曜日、24日には珍しい人が見舞いに来てくれた。
斉藤尭といって、北海道石狩当別で別れて以来30年ぶりぐらいの再会であった。
毎年、年賀状は交換しており、彼が我孫子にいることは知っていたが、30年近く会はなくても一目でわかった。
この日、午前中、4階フロアーのロビーでくつろいでいたら、いきなり「誰かわかるか!」といいながら近寄ってくる人がいた。
一目見てすぐに30年前のことが思い出された。
彼は優秀なレーダー・オペレーターで、年は私よりも若かったが、自衛隊では先輩で、公私共に大いに気が合い、よく遊び、よく仕事をし、一緒に行動したものである。
酒もスキーも一緒に良くやったものである。
その彼が大きな花束を持って見舞いに来てくれたことは実に意外な出来事であった。
お互いに積もる話は山ほどあるが、いかんせん、私は手術後であるので、気を効かせて昔話もほどほどで切り上げてくれたことが有り難かった。
彼が持ってきてくれた大きな花束は、ナース・ステーションに飾ってもらった。
昼過ぎには藤川夫妻と、しばらくして谷夫妻が見舞いに来てくれた。有り難いことである。藤川夫妻は2度目であり、谷夫妻は、はるばる瀬戸から来てくれたわけであるが、谷の場合、私がこちらに来る前から「行く行く」宣言していた。
見舞いを兼ね、他の場所の訪問を計画しているようで、今回も「ふうてんの寅さん」の故郷、葛飾、柴又の帝釈天を見てきたといっていた。
ここの彫刻が立派だといっていた。
入院中は2人の弟もお互いの交互に見舞いに来てくれたことも嬉しかった。
不幸の中の幸せに感謝
入院に際して手術の前と後では精神的に大きな違いがある。
手術の前にはどうしても不安が付きまとうが、手術の後ではそういう不安はなく、一刻も早い回復を願うのみである。
気道の持ち方が違ってくる。
今回のがん騒動では、私は、自分の幸運を心から感謝しなければと思った。
最初に、三菱病院の先生が、「名大付属病院へ行け」といったときから、物事が良い方に良い方に転がって、癌に取り付かれた不幸の何倍もの幸せを感じた。
名大で、自分の患部をファイバー・スコープで見たときも、病気の現実の姿を知ることで、その後の対処の仕方に迷いを生ずることなく立ち向かうことが出来たのも、幸運としか言いようがない。
三菱病院の先生が、何とか自分で処理しようと思って、そのまま弄り回したとしたら、今の私はありえないかもしれない。
名大の先生が同じように、国立で治したいという我々の希望を無視して、紹介状を書いてくださらなかったら、今日、こうしてワープロを打ってはおれないかもしれない。
医者として、自分の手に負えないときは、上級の医療機関を紹介することが、医療に携わる人にとっては常識かもしれないが、昨今の世の中では、その常識が常識として通らないのが世の常であり、当たり前のことが当たり前として通ると、非常にすがすがしく、有り難い気持ちにさせられた。
名大で、ファイバー・スコープにより、患者が自分の目で自分の患部を見るということは、大学病院というものが、教育の一翼を担っているため、学生に対して教育の効果を高める方策としての処置にあったに違いなく、それをたまたま私が覗いてしまったので、癌告知の問題が吹き飛んでしまったわけである。
その後の診断では一度もファイバー・スコープを見たことがない。
内視鏡による検査を何度も受けたけれども、その時でもモニターを患者に見えるようにセットした例は知らない。
患者が医者の場合は、担当医と本人が同じモニターを見てもかまわないと思うが、普通はそういう画面は患者には見えないようにセットするものだと思う。
私の場合、モロに自分の癌を見てしまったので、いろいろ思い悩む手間が省けたような物である。
国立がんセンターに持っていく紹介状についても、家内が必死の形相で頼み込んだ甲斐が先方にも通じたと見え、快く書いてくれたので、素直な気持ちで、感謝の念でいっぱいである。
親父が骨粗相症で近くの病院に入院したときは、退院するしないで、喧嘩ごしの談判をしなければならなかった。
その時は、患者の側と、医師の側の儲け主義が衝突してトラブルになったが、今回の私の場合、そういうトラブルも一切なく、スムーズに事が流れて、水の流れのように事が運んだ。
私の人生の中で、今までに3度、大きな手術をしたが、自分では全く意識をしていなかったが、結果的に3度とも最高の医療機関で手術をしたことになる。
痔で入院した野垣病院も、目の手術をした三宅眼科も、名古屋では最高の専門病院といわれているところであった。
自分で意識してそういう病院を選んだわけではないが、結果的にはこういう結果になっていた。
病気になったときの。病院選びというのも大事なことだと思う。
儲け主義で、一度来た患者はカモだとばかりに、手放さない病院というのも困ったもので、医者選びというのも大事なことだと思う。
医者の側からすれば、どんな患者でも、抱えていさえすれば、医療保険から金が出るわけで、患者さえ捕まえておれば儲けにはつながるわけである。
その意味で、医者が上級医療機関を紹介し、紹介状を書くということは、患者のためを思う有り難い行為といわなければならない。
そういう好意の積み重ねが、積もり積もって、私の舌癌が克服され、こうしてワープロを打つことを可能ならしめているに違いない。
国立がんセンターの4階の病棟で闘病生活をしている頭頚科の患者を見ると、自分の幸せを有り難く思わないわけにはいかない。
顔がいびつになり、ギロチン台から落ちた首を又縫い合わせたような傷跡(自分もこういう風であったが、本人はそう思っていない)を持って生きている人のことを思うと、残された人生を、一刻たりとも無駄に生きることは慎まなければならない。
人が生きるということを根本から問い直し、人は何ゆえに生き、何のために生を得ているのか、そのことを根本から自分自身に言い聞かせなければならない。
退院が目前に迫った頃になって、図書室に癌の本があるのを見つけた。
中でも、信濃毎日新聞が、国立がんセンターの先生方にインタビューをして、岩波書店から発行された「がん治療最前線」という本が良かった。
インタビューに答えるというスタイルをとっており、一問一答形式で書いてあるので素人にわかりやすい。
それによると、人間の体の部位にはそれぞれに癌があるようだ。
頭頚科という人間の体の部位は、衣服で隠すことが出来ない部位であるので、患部の傷がモロに人の目に触れる。
だから見る方も身の毛がよだつ思いがするし、見られる方もきっと不愉快な気持ちになっているに違いない。
それに比べると私の癌など癌のうちに入らないかもしれない。
私の素人判断でも、癌も早期発見が出来れば恐れることはないと思う。
問題は、いかに早期発見を可能ならしめるかということだと思う。
私のように舌ならば、おかしいなあと思ったとき、それなりの専門医にいけばきっと発見できるであろうが、体の内部に出来る癌では、そうそう早期発見も安易には出来ないと思う。
私の今回の場合でも、おかしいなあと思ってから4ヶ月も放置していたので、手術ということになってしまったが、それでも斉川先生に言わせると、早期発見の部類に入るということで、手術も比較的簡単であったようだ。有り難いことである。