続 私の半世紀
飛島工場・赴任の心構え
前に書いたものは娘の学業の事を心配しつつ終わっているが、それから10年、私もいよいよ定年を迎え齢60になった。
自分が還暦を迎えるなどということは今まで一度も考えた事がなかった。
しかし、自分の歳が60になれば、当然世間ではそういう目で見るわけで、自分の意思とは関係なく、日本の古来からの風俗習慣に流されてしまうことになる。
前に自分史を一気に書き上げたものを今読み返して見ると、自分の文章が如何にもつたなく感じられる。
よって、再度、書き直さなければならないかとも思ったが、その一方で、下手でも私が書いたことには間違いないのだから、下手な文章も私自身の個性と考えるべきだ、と思うようになった。
10年前の文章が下手とは言うものの、その下手なるが故にいとおしきも出てきた。
10年経っても文章が格段にうまくなったわけではない、しかし、過去を見る視点は少しずれてきているかもしれない。
人間の記憶というのは実に曖昧なもので、特に私は記憶力が弱く、自分が何年何月何日に何処で何をしたかということが全く記憶にない。
だから自分がいろいろな工場に転勤したにもかかわらず、その移動の日時がさっぱりわからなかったが、これも不思議な切っ掛けで思い出す事が可能となった。
というのは今年にはいって、定年が間近かに迫ってきたので、年金の相談に中社会保険事務所に出向いて、自分の年金の事で相談に行ったところ、そこで私の職歴に関するデータをコンピューターが出してくれた。
そのデータには、私が最初に中央貿易に入社してからの一覧表が掲載されており、それを見れば私の職歴は一目瞭然と判明した。
私も過去において日本の官僚の悪口を散々に言ってきたが、この社会保険事務所の個人の履歴の掌握という点では実に素晴らしい実績を示している。
それによると、私が飛島工場に転勤になったのは平成2年の4月という事になっていた。
その点を振り返って見れば、確かに私が北工場にいたときに昭和天皇の崩御があり、年号が昭和から平成になったのであるから、その後しばらくして転勤になった事を思えば、確かに平成2年のことであった。
飛島工場というのは確かに私の家から通うのには遠いところであった。
最初の内は、平成元年9月の集中豪雨で決壊した新川の堤防を走って通勤していた。
当時はまだミラージュの1600GTに乗っていたが、これは会社の帰途、新川の堤防上で追突され、途中から小島モータースで購入した中古車に変わった。
この飛島工場というのはH―2ロケットの本体部分や、ボーイング747の後部胴体などを作っていたので同じ航空機製造といっても私に取っては何となく張り合いのない雰囲気であった。
南工場のように実際に飛行可能な機体を扱っているわけではないので気の抜けたビールのようなものである。
それでもこの工場で辛抱しなければならない、という使命感は、家族があったからに他ならない。
この時期にはまだ子供の教育にいくばくの金のかかる時期であった。
娘の教育に関していえば、どうしても女の子という境遇から、あまりやかましく言わなかったことは確かであるが、娘の通っていた西部中学というのは随分と管理教育の厳しいところであったようだ。
その詳細は家内から聞いていたが、あまりにも馬鹿馬鹿しい話なので、「少しの間、我慢しなさい」といってなだめた記憶がある。
その馬鹿馬鹿しさの真骨頂は、通学経路の違反で先生から家に電話連絡があったことである。
「定められた通学路を通らずに帰宅したから校則違反である」、という主旨であったが、「そんな些細な束縛は、わずか3年間だけのことだから、こちらが下手に出て、時の過ぎるの待てばいい」と諭した事がある。
それでも一番近くの春日井南高校に進学してくれて、教育費の面では大いに親を助けてくれた。
高校生活においては特別な印象はなかったが、それでも名古屋市立女子短期大学に入学してくれた。
ここでも彼女は親孝行をしてくれたわけである。
この学校は今は4年制大学となっているが、この時点ではまだ短期大学であった。
自分の娘の通っている学校がどんな所か1度は見ておかなければならない、というわけで学校まで出掛けてみたが、実にこじんまりとした学校であった。
場所は大幸工場のすぐ南のところで、通学についてもそう時間のかかる所ではなかった。
私の教育方針は、家の近くということを常に念頭においていたので、男の子ならば致し方ないが、特に女の場合、自宅通学がのぞましいと思っていたので、その意味からしても最適な学校に進んでくれたものである。
娘は幼少の頃から頑固な一面があったが、実に手のかからない育ち方をしてくれたものである。
いろいろな資格試験でも、教科の試験でも、合格点すれすれで様々な関門を通過してきたようで、決して優秀というわけではないが、要領がいいというか、最小の努力で最大の効果を引き出してきたようだ。
その後10年たっても未だに親と同居しているが、今は海外旅行に嵌ってしまって世界各地を遊びまわっている。
日本の経済が、若い一人娘が、一人で海外に出掛けられる状況を作り上げてしまっているので、これも世の中の流れにただ単に乗っかっているだけに過ぎないが、50年前には考えられない事である。
私の方は飛島工場に転勤になったがここでは班長に昇格した。
班長といっても配下の社員は5人しかいなかったわけで、自衛隊でいえば分隊長のようなものである。
今までは副班長という事で、一歩下がって物を言っていたが、これからは自分の思う通りに班を運営出来る、という自負というか責任感というか、そういう気負いは多少はあった。
しかし、実社会の組織というのは、学校の先生ではないのだから、一人一人の大人をある枠の中に閉じ込める事が職務の遂行ということにつながるわけで、班長という権限だけでは人はついてこないことは一目瞭然である。
これは私の今までの人生経験で充分わかっている事であった。
だからここでは私は班長という権限を一切振りかざすことなく、マネージメントに徹した。
配下の班員は皆れっきとした大人ばかりで、私よりも年上の人が配下にいるわけであるから、自分がこれらの人の下働きをするぐらいの気持ちでいた。
組織というのは上意下達が基本であるが、これはピラミット型の組織ではそうかもしれないが、皆がほとんど横一線に並んだような組織では、如何に民主的な運営が出来るかという点が大事だと思う。
この点を掘り下げて行くと組織論にまでなってしまうが、わずか6、7人のグループ内で,如何に気持ちを合わせて業務を遂行するかという点を考えれば、班長が権威を振りかざして威張っていては埒があかないのは当然至極である。
自分よりも年上の人を使うということは、非常に難しいわけで、それは言葉使いに尽きると思う。
われわれ日本人の感情というのは言葉使いで非常に左右される部分があるように思う。
我々は西洋人のように、言葉をストレートに相手にぶつけることを、意思疎通の手段とは考えていないので、意思疎通の役目と同時に、感情の受け売りまでもその言葉のなかに含まれている。
だから言葉使いで、相手の立場をこちらが重んじている、という雰囲気を相手にわからせなければならない。
同僚の死
わずか6、7人の班員の中に柴垣留夫という人物がいた。
三菱には途中入社で、しばらく大江の機械課あたりにいたところを配置換えで保安に移ってきた人物で、導入教育のあいだ、小牧南工場で一緒に仕事をしたことがあった。
その当時から好人物ということは知っていた。
しかし、この柴垣さんが夜の仮眠の時、布団に入って眠らず、応接間のソファアでしか眠らなかったので、これには少々困っていた。
彼は渓流釣りが好きで、よく釣りの話をしていたが、あれは私が飛島に赴任して1年ぐらい経った頃だと思うが、彼が非番の日に員弁川の奥のほうに釣りに出かけて、その場で倒れてしまった。
彼は日ごろ釣りに関しても、人と同じ事をするのが好きでなく、常に単独行動であったらしい。
それが災いして、とうとう帰らぬ人となってしまった。
彼の死後、遺族の話を繋ぎ合わせて見ると、どうも川の中で脳溢血を起こしたらしい。
それで、本人の意思で岸まで辿りついた所まではよかったが、彼は日ごろから単独行動で、仲間が近くに居なかったものだから、河原で一夜を明かさなければならなかったらしい。
それが最終的に命取りになってしまったようだ。
彼が倒れたので、家族と連絡を取り合っている内に、いよいよ名市大病院に転院するという事であったが、転院してからというものずっと集中治療室に入れられっぱなしで、これはただ事ではないと我々も思うようになってきた。
それで、当直開けの非番に、全員揃って市大病院まで見舞いに行っては見たものの、相手が集中治療室に入っていては、傍によって話をする事も出来ない。
集中治療室のガラス越しに覗いてみると、彼は遠くのほうに寝かせられて、体中にビニール管やコードが張り巡らされており、本人は全く意識がないようであった。
これでは人間の尊厳もあったものではないと思って、とても本人を直視できなかった。
それで付き添っていた奥さんから話を聞いて、それを大江に報告したものである。
最終的に、彼はその病院で命を落とす事になってしまったが、そうなれば今度は生き残っている我々の方は安閑としておれなかった。
なにしろ我らの同僚の死であるから、出来る限りのサポートはしなければならないわけで、大江の本部とも連絡を取り合って、遺族をホローしなければならない立場に立たされた。通夜から葬儀まで滞りなく支援できたと私自身は思っている。
当時、彼もまだまだ現役で、家には子供さんがいたが、彼も結婚が遅かったと見えて、上の子供さんはまだ高校にも行っていなかったのではないと思う。
葬儀が終わってからも2、3度焼香に伺った記憶がある。
彼は保安という立場にもかかわらず、現場の人にも非常に人気があり、まさしく好人物そのものであったが、こういう人に限って早死にするものらしい。
二つのハプニング
その後1年ぐらい経った時、一色譲さんが北工場から転勤になってきた。
一色譲さんとは以前大喧嘩をしたことがあって、最初の内は彼が非常にその事を気にかけていたようだ。
しかし、彼と亡くなった柴垣さんとはどうも小学校以来の同級生であったらしく、柴垣さんが病気になってからの私の対応がどうも気に入っていたようで、その後、私の下では非常に気を使っていただいた。
この両名とも、私よりも5才ぐらい年上の人でしたので、私も丁重の扱わねばならなかったが、それ以上に先方のほうが気を使っていたようだ。
一色さんに至っては、退職後もいろいろ気を使って戴いて、まことに申し訳と思っている。一色さんとの大喧嘩は、所標準や課標準のワープロ化のことで、考え方が違っていたことに原因があったようだが、その当時の彼の目から見ると、私が点数稼ぎでそういうことをしているように見えたいたらしい。
昭和からは平成になるころ、我々の職場風土の中で、普通の人の間にはコンピューターに対する認識が甘く、コンピューターというものは特別の人が特別な仕事で使うものだ、という感覚があったようだ。
そういう雰囲気の中で、一歩先を行く私が、一色さんにとっては生意気な存在に映ったに違いない。
今、名誘の勤労課では、女子社員は一人に一台それぞれに端末機を使って仕事をしているが、この頃はまだ共用で、必要な者が順番で使用している状況であった。
そういう状況の中で、よその課のコンピューターを使って、よその課員から指導を受け、私が所標準や課標準をワープロ化してしまったので、点取り虫に見えたのも無理の無い事であったかもしれない。
考えみれば、実に図々しいことで、よその課に出ていって、自分ところの仕事をしていたわけであるから、相手もさぞかし迷惑であったに違いない。
そういうわけで、大喧嘩をした相手が私の下に来るという事で、いささか緊張もしたけれど、一色さんの方が私以上に気を使ってくれたので、今では家族ぐるみの付き合いといってもいいぐらい、親密にさせていただいている。
私が出向してからもいろいろ心配していただいて、有り難い事だと思っている。
飛島工場にいる間は、仕事に関しては特別なことというのはあまりなかった。
少ないメンバーでしたが、皆、和気藹々と、こじんまりと団結して、大過なく過させてもらった。
しかし、私に取っては大過が一つ有った。
それは何時頃であったのか定かには覚えていないが、女性の社員が受付に配属されるという状況が起きて、谷川久子という女性が赴任してきた。
彼女も、最初は健康管理のような仕事であったが、いわゆるリストラで飛島分工場の保安に配置換えにあったわけである。
彼女がそれなりに慣れてきたころ、三菱の中でも我々の職場がどういうものを扱っているのか、その全体像をつかんでおくことも彼女に取って悪くはないだろうと思って、彼女を他の工場の見学に連れ出した。
これがいけなかった。
で、約束の日に、彼女は休暇を取って、私が非番で帰る時、車に同乗して一度我が家に寄った。
この日はたまたま雨が降っていて、家内は雨にもかかわらず、アルバイトで出掛ける日に当っていた。
家内は、雨が降っているので私に送ってもらいたかったが、私が他の女の世話をしているものだから、相当に頭に血が上ってしまって、もう一歩のところで家庭崩壊にまでなるところであった。
それで翌日、谷川久子さんから家内に「よこしまな気持ちで遊んでいるのではなく、仕事の延長線上の行動である」旨、直接電話をしてもらった。
夫の立場としては真に不甲斐ない事であったが、家内に申し訳ない事をしたという、幾ばくの慙愧の念もあったので、男の面子などには構っていられなかった。
谷川久子さんに対しては、その日、南工場を充分案内し、説明もし、タワーにも上らせて、実りある研修であったに違いないと思っている。
彼女も、私の潔白を家内に説明してくれたが、我々夫婦の間のしこりは、しばらく続いた事は言うまでもない。
飛島工場在勤中は他にはさほど印象に残るような出来事はなかったが、強いて言えば、私が尿管結石で,三菱病院に搬送された事ぐらいである。
この事件は、夕方の4時くらいだったと思うが、急にお腹が痛くなってトイレに入って見たものの一向に痛みが取れず、当時の田中主任が海部郡の消防本部に電話をかけ、そこの救急車で三菱病院へ搬送された。
病院について、いろいろ検査をしている最中に、「超音波で見てみよう」ということになり、それでこの痛みは尿管に石がたまっていることが判明した。
原因がわかれば治療も決まるわけで、すぐ痛み止めの薬を飲む事になったが、私の方はあまりの痛さで自分が如何なる処置を受けたのかさっぱり分らなかった。
それで緊急入院ということになり、ベットでしばらく横になっていたが、しばらくすると痛みが綺麗さっぱりなくなってしまった。
痛みさえ無くなれば全く健康そのもので、その日のうちに自分で退院してきてしまった。幸い同僚が通勤の衣服を持たせてくれたので、それを着て家まで買えって来てしまった。ところが今度は家内が納得いかなくて、「何故、もう2、3日入院していなかったのか」といって大騒ぎとなった。
結石というのは、人間の体の中にできる石ころであるが、これが尿管なり、尿道なりにできて、それがころころ移動するときには激痛が走る。
ところが、それが体外に出てしまえば、今までの痛みは急に雨散霧消してしまって、嘘のようである。
私の陥った病状も全くこれと同じで、石が体外に出たかどうかは自分でも定かにわからなかったが、とにかく痛み止め一本で、今までの痛みが嘘のように何処かに行ってしまった。しかし、この症状というのは、ぎっくり腰の時の症状と瓜二つで、自分ではこれの再発だと勘違いした。
石が体外に出るということも、オチンチンの先からコロコロと転がり出るような感じで認識していたが、そういうものではなく、実際には出たか出ないか判然としないものらしい。痛みさえ無くなってしまえば、病院にいる意味がないわけで、そのまま家にまで帰ってきてしまったので、今度は家内が怒り心頭に来て、ここでも大いなる諍いが起きてしまった。
家内の言い分では、もう少し病院にいて、再発の可能性を見極めてから帰ってくればいいのに、というものであるが、病院というところはそう安易な気持ちで居れるものではない。用がなければ一刻も早く退散したいところである。
そんなわけで、救急車で病院に運ばれるということもあったが、この時、こういう公設の救急隊員の働きというものは実に尊いものだと実感した。
以前、息子が幼少の頃、正月に頭に怪我をして、庭でくつろいでいた医者に頼み込んで治療してもらった事があり、その時にも事後何かお礼を持っていかなければならないのではないかと、相当苦悩し、考えたが、結局何も持っていかなかった。
今回も、その時と同じ心境に至ったが、結局は何も持っていかなかった。
しかし、こちらが本当に藁をもつかみたいような気持ちの時に、先方は当然の義務として、当然な事をしているとは云うものの、やはり自分が助けてもらった時の感謝の気持ちというのは、何かの形で表現したくなるのも人間の良心の一部ではなかろうかと思う。
考えた末何も持っていかなかったのは、彼らにとってはそれが当然な仕事であり、彼らの報酬というのは別の形で支払われているわけで、彼らとて決してボランテイア活動をしているわけではない、という事に行きついたからである。
実際問題として、自分が藁をもつかみたいような気持ちの時、公務とはいえ、身をもって助けてくれるということは、どれほど心強い事か知れない。
自分で体験して見ると、本当に菓子折りの一つも持って、お礼に行きたい心境になる。
しかし、相手が公務員の場合、そう安易に考えて、相手の立場も省みず、自分の思い込みで勝手に行動すると、相手を窮地に落としかねない場合がある。
こちらは善意でした事でも、世間ではそれを善意と取らない事がしばしばあるので、気をつけなければならないことである。
井沢金属・出向
飛島工場においてはこれ以外に印象に残ったこといえば、紛れもなく井沢金属への出向であった。
この出向期間中は正直言って悔しい思いをしたもので、関係者を心底恨んだ。
長いサラリーマン生活では、人事異動の恨み辛みは大なり小なり誰でも持っているに違いないが、よりによって最後の人事異動が最悪の結果であった。
自分の人生史を綴るに当たって、奇麗事では終わらせたくない。
本音を書き記し、残しておきたい。
その時まで、私は上司であった田中豊氏を心から信頼していた。
大幸工場から、小牧北工場の移転に伴うさまざまな業務の中で、お互いに協力し合い、助け合いながら来たつもりであったが、雑談の中で不用意に、私が「条件付きならば出向に出ることもやぶさかではない」という意味のことを言ったらしい。
この「条件」というのがどういう意味か、自分でも判然としないまま、雑談の中で口走ったらしい。
私自身はどういう状況でそういうことを言ったか記憶にないが、とにかくそういう意味のことを言ったらしい。
飛島工場のような、安定して、落ち着いた、既定のレールが敷かれた状況下で、日常の業務はルーチン化して、少々マンネリズムに陥った中で、不用意に言ったのではないかと思う。
それで、保安課の中でリストラ旋風が渦巻いたとき、その一言に白羽の矢が当たり「あいつを生贄に差し出そう」ということになったようだ。
結果論からすれば、田中豊氏が会議の場で、その一言を披露しなければ、恐らく他の誰かに行ったに違いないと思う。
そして、私に引導を渡しに来たのが、当然のことながら課長の山本学であった。
この時も「私は家に帰って家内と相談したいから一日猶予をくれ」といったが、これは「決定事項だからYESかNOのどちらかしかない」ということであった。
こうなると後は、必然的に椅子を蹴って会社を辞めるしかない。
しかし、この時点でまだ会社を辞めるわけには行かなかった。
その時の説明では、「井沢金属で倉庫の仕事してくれ」ということであったが、倉庫の仕事といえば、当然、三菱の資材倉庫のことを連想していたので、そう深刻には考えていなかった。
ところが、この「倉庫の仕事」というのは、語感からは推し量れないほどギャップがあったわけで、そのギャップの大きさに比例して、恨みが深くなったわけである。
その仕事の内容までは、出向を受け入れた三菱サイドも聞いていなかったに違いない。
三菱の人間ならば、誰でも資材倉庫を連想して、あの程度の仕事ならば、そうそう恨みを買うこともないだろう、と考えていたとしても不思議ではない。
ところがギッチョン、井沢に行って最初の仕事が、カヤバ工業向けのベアリングの出荷であった。
このベアリングの出荷というのが曲者で、ベアリングというからには、鉄製品で、それを何百、何千という単位で扱うわけだから、その重いことといったらなかった。
朝、配達されてきた製品を、整理、分類、仕分けして、保管場所に格納し、午後、出荷数量にあわせて梱包し、翌日の出荷に合せなければならなかった。
一つ一つのベアリングは小さなものでも、その数が纏まると、重くて、重くて、言葉で整理、整頓、仕分けと言っても、まことにきつい作業であった。
出向という言葉も聞きなれて、自分が渦中に嵌まり込むまで、あまり深く考えたことがなかったが、これは一体どういう経緯で双方の合意が成り立ったのであろう。
これは私の推測であるが、恐らくリストラを断行しなければならなくなった三菱側が、下請けなり、取引先に、何人かづつ割り当てをして、取引関係をちらつかせて強要しているのではないかと思う。
三菱側も、各部、各課で割り当てられた出すべき人数をピック・アップして、生贄を用意しているのではないかと思う。
その時、組織の人間としては、言う事を素直に聞き、聞いてくれそうな人間から先に生贄にするのは、ごく普通の人間の感情ではないかと思う。
ごねたり、反抗したり、労組みに駆け込んだり、内部告発したり、共産党三菱支部に駆け込むような人間には、こういう話を持っていかないのが、普通の組織人としての有り態ではないかと思う。
係長、課長という中間管理職も、上から下からのプレッシャーがあることは理解できる。しかし、自分がリストラの生贄にされたかと思うと、悔しくて、悔しくてならなかった。今まで会社のため、課のため、係りのために一生懸命やってきたにもかかわらず、自分は要らない人間だったのかと思うと、悔しくて、悔しくてならなかった。
出向中も、何時ケツを割るか、自分でもわからなかった。
何が何でも定年までかじりついてやろう、という確固たる意思はなかった。
何時までもつか、自分でもわからないまま、自分との闘いであった。
年に1、2回、勤労なり、労組が陣中見舞いと称してやってきたが、彼らはいい気なもんだ。
そういう時は、わざと汗びっしょりの格好で対応してやった。
「お前たちの所為で死にそうな目にあっている」ということあからさまに見せ付けてやった。
どういうものか、井沢金属に出向してからというもの大病を患った。
その一番最初が白内障の手術であった。
井沢に来た最初に、支店長と面接したとき、私の様子がどうもおかしかったらしい。
それで上前津の眼科医に連れて行かれて検査したところ、白内障ということで、病気がわかれば放置しておくわけにも行かず、その後、三宅眼科で白内障の手術をした。
白内障の手術は、間をおいて両眼ともしなければならなかった。
この手術では、術後、職場復帰して作業をしていると汗が目に入って困った。
それで、額にタオルを巻いて、汗が目に入らないようにしながら作業をしたものであるが、どうしてもうつむいて仕事をしなければならないので、これには困った。
この井沢金属では遠藤氏と高田氏に世話になった。
遠藤氏は直接的な上司であるので、嫌なことも言われたが、職務上のミスならば言われても仕方がなかった。
何と言っても慣れない仕事なので、最初のうちは自分では気を付けているつもりでも、よくミスがあった。
高田氏は半分は社有車の運転手、半分は上司という中途半端な立場であったが、よく私を助けてくれた。有り難いことであった。彼はよく大須に飲みに誘ってくれた。
井沢金属は上前津にあり、都心の会社だったので電車通勤であった。
それで帰りに一杯ということはよくあった。
カヤバのベアリングの出荷を半年ぐらいした頃、後輩が出来た。
新たに、井沢の倉庫に私よりも5つ、6つ若い新人が入ったわけであるが、その後輩に仕事の内容を教え、二人で仲良く仕事をするつもりでいたところ、この仕事からはずされて、別の仕事に変わらされた。
こちらは取引先が一社に限定されておらず、取り扱い品目も多義に渡っていたが、いづれにしても力仕事に変わりはなかった。
この新人は、力仕事は苦にしていなかったが、上司の遠藤氏と折り合いが悪く、半年もいなかったみたいだが、その間に彼の酔っ払いの介護を2回もさせられた。
あれは年の暮れから年が明けるまでの間に、社内の飲み会が立て続けに続いたときであった。
2回とも彼が酩酊して、家もわからなくなってしまったので、私が最後まで面倒見させられた。
仕事が途中から変わったので、それ以降はびしょびしょに汗をかくようなことはなかったが、その代わりリフトの免許を取らされた。
ここではフォークリフトに乗れないことには仕事にならなかった。
遠藤氏も高田氏も、実に上手にフォークリフトを取り回していたが、リフトに乗れない私は、ただ手をこまねいて見ている他なかった。
新人が辞めたらすぐ又変わりの新人が入ってきて、彼と二人でフォークリフトの講習に行かされた。これは非常に良かった。
トラックへの荷物の積み下ろしも、遠藤氏や高田氏に依頼しなくても、自分でさっさとこなせるようになった。
資格免許は、取れといわれたときには素直に取得しておくべきだ。
しかし、フォークリフトというものも実に便利なものだ。
慣れると自転車並みに扱えるが、倉庫の仕事というのはリフトなしではありえない。
しかし、これでも失敗したことがある。
あれは名航に収めるアルミの板であったが、厚さ30cmほどに重ねた、畳一条ほどの板を、トラックの運転手の言った言葉を真に受け、そう重くないと思ってフォークのつめの先をあげたところ、滅法重くて、爪の当たったところがすれて、製品に傷がついてしまった。
これはこちらのミスで叱られても仕方ない。
フォークリフトでの作業といえば、三菱自動車のバスの製品で。ステンレス製の窓枠の積み下ろしにはいささか緊張したものである。
これは長さ4、5mのパレットに入れられて到着するのであるが、リフトで掬っても、あまりに長すぎてその場では回転が出来ず、一度掬っておいて、そのままバックして、トラックを前に移動させてからでないと、倉庫に収められなかった。
このパレットは長尺なるがゆえに、その扱いには気を使ったものである。
広い工場内での作業ならば楽であるが、街中の公道の上で、近所の車がそこら中に駐車している中で、その車の上をリフトで掬ったまま移動しなければならず、人の車に傷つけたらと思うと気が気でなかった。
井沢に出向させられた、といっても井沢に恨みがあるわけではない。
新しい職場では一刻も早く溶け込めるように、それなりの努力もし、誠心誠意仕事をしたつもりではあるが、動けば動くほどミスの機会も多くなるのは致し方ない。
何もせずにじっとしていればミスもないわけである。
カヤバのベアリングの仕事が急に変わったのは、三菱側のプレッシャーがあったのかもしれない。
出向者のフォローに来た、会社か組合の誰かが「あれでは可愛そうだ」と井沢側に言ったのかもしれない。
此処では西さんというおじいさんがいて、この人は井沢金属の生き字引のような人であった。
籍は井沢の取引先の運輸会社の人であったが、もう何十年と井沢の倉庫を切り盛りしており、まさに生き字引であった。
ここでは配達を担当している千代田運輸の運転手とも仲良くなって、それなりに楽しく過ごさせてもらった。
しかし、私にとってはとんでもない事件がこの井沢出向中にあった。
それはがんとの闘病である。その件に関しては項を改めて記す。
定年が間近かになって、時の支店長が「労をねぎらうから」と、大須で酒席を設けてくれた。
その時がどういうわけか大雨の日で、天気予報は台風の襲来を告げていたが、日にちを変更するかと思っていたが、予定通りその日に酒を飲むことになった。
支店長とは談論風発、喧々諤々と口から泡を飛ばして話し合って愉快な時を過ごさせてもらったが、終わったのが午後8時半過ぎであった。
それで地下鉄で平安通りまできたが、どうもそれが最後の便で、その後からは不通になってしまったらしい。
上飯田の駅までで来ると、通勤の顔なじみの人が皆駅で待っていた。
時間は丁度21時、午後9時であったが、改札口には不通である旨、紙に書いた告知が張ってあった。
周囲の状況を見ると、とても1時間や2時間では復旧する様子もないので、どうせ濡れたついでだからと雨の中を歩いて帰ることにした。
結局、我が家まで歩いて2時間半掛かった。
出向の最後に思わぬハプニングにめぐり合ってしまった。