自分史8

 

続 大幸工場

 

大幸工場は戦前、三菱の発動機工場として発足して、その広大な敷地は実に大きなものであったようだ。

以前、皇居前、現東京駅の前の笹薮の土地を三菱が買って、その時は「虎でもと飼っておけ」と言った、という有名なエピソードがあるが、その後、その場所に三菱村としての一丁ロンドンが出来た。

それと同じで、三菱発動機の土地も、今からは想像もつかないほど大きな土地であったようだ。

正確なデータは、三菱の社史でも紐解けばわかるであろうが、私は人から聞いた話を書き残しておきたいので、数字的には正しくないかもしれない。

とにかく、今のJR、昔の国鉄大曽根駅から今の千代田橋の東海病院までが当時の敷地だったと聞いた。

今、市バスの停留所がその間に8つある。

その頃は今の三菱電機も多分独立しておらず、一つの事業所であったろうと思うが、その当時としては、相当な設備投資であったろうと思う。

そして以前の愛知学芸大学、今の名大付属病院の辺りが本館になっていたと聞く。

この本館が学芸大学となり、その建物がつい最近まで、廃墟のまま破れたガラスもそのままに名大付属病院の東側に残っていた。

今でもバスで8つの停留所があるのだから、当然、戦前・戦中においては、工場の構内を三菱のバスが走っていたという話であった。

この小牧、春日井をはじめ、名古屋市内に住んでいた60歳以上の男の人ならば、大なり小なり、この三菱発動機で学徒動員なり、勤労奉仕で関わりを持っている。

男の人ばかりではなく、女性も同じように、ここで仕事をしていたようだ。

それでアメリカ軍の空襲の目標になってしまったぐらいだ。

アメリカ軍が本気で此処を叩こうとしたということは、その軍事的効果をアメリカが知っていたという証拠である。

大江にしてもそうであるが、此処で日本の戦闘機の重要部品を作っており、此処を叩けば日本の航空戦力を弱めることができると、そこまでアメリカは知っていたわけである。

我々から見ると、このアメリカの情報収集能力は、実に素晴らしいものがある。

私も名古屋市のすぐ隣に住んでいたが、実際に大幸工場に赴任してくるまで、此処でどんなものを作っていたのか関心もなかったし、知ることもなかった。

それが戦争のためとはいえ、アメリカ軍が正確な場所まで自前で知っていたということは脅威である。

確かに、個々のパイロットや一般大衆は知らないのは当然としても、専門家とはいえ軍の中枢が知っていたということは驚きに値する。

アメリカ軍の名古屋空襲は、ただ単に名古屋市内に爆弾をばら撒いたわけではない。

あれは、あくまでも、三菱発動機、及び三菱航空機を狙ったものだ。

そこを狙ったものが外れて、名古屋市内の落ちたわけで、目標はあくまでも三菱であったはずだ。

エンジンをテストするテストセルという、まるでコンクリートで出来たトーチカのような頑丈な構築物など、生コン車や、コンクリート・ミキサー、コンクリート・ポンプ車のなかった時代に、あんな背の高いコンクリートの構築物をよく作ったものだと思う。

高さは20mぐらいあるので、そこまで丸太を組み、板を渡して、一輪車で運び上げたに違いないが、おそらく中国のように人海戦術で作り上げたものと思う。

又、背の硬い煙突が3本残っていたが、外からは煙突を見ることが出来るが、建物の中に入ると、煙突の根元がない。

鋳造工場や鍛造工場の地下には、煙道といって、水平の煙突が実に複雑に走っていた跡があり、その正確な位置は撤退するときまでわからずじまいであった。

この広大な土地は、戦後ばらばらに分割され、身売りされ、タコが自分の足を食って生きるように、三菱重工も身売りしながら生き残ってきたものと思う。

大曽根駅から東海病院まで東西にのびた道路の北側は、矢田川に沿ったところまで、社宅を含む福利厚生施設だったと聞く。

大幸工場として最後まで残ったところが、発動機製造の中心的な部分ではなかったかと思う。

大幸工場においては、名航にしろ、名機にしろ、発動機がメインである。

名航は航空機用エンジン、名機は小型船舶用エンジンと、どちらにしても発動機に関わる事業であった。

名機の場合でも、船舶用のエンジンの鋳造品、鍛造品であったと思う。

事実、最後の最後まで鋳造課では船舶用エンジン・ブロックを造っていた。

名航の場合でも、最後まで海上自衛隊のP2V哨戒機のエンジンのオーバー・ホールをしていた。

それが最近の大型航空機はジェット・エンジンになってしまったため、現時点では石川島播磨重工に一歩リードを許している。

名機の船舶用小型エンジンは、小型船が主力マーケットであったが、この分野においても性能には定評があったが、サービスの面においても、その「悪さ」に定評があった。

我々、素人目にみても、名機のデイーゼル・エンジンのサービスの「悪さ」というのは痛感していた。

だから小型船舶のエンジンはクボタ、ヤンマー、ヤマハに食われてしまっている。

大体、サービスのセクションが休日夜間にはいない。

オーナーやデイラーからの電話が保安に入ってくること自体、サービス無視の営業方針である。

保安から各担当に電話を回しても、逃げるばかりで、積極的にトラブルを解決しようとしない。

これでは客が逃げるのも当然、 シエアの低下も当然、三菱の最大の欠点は、三菱自身が知っていながら、直せないところである。

昔から三菱の殿様商法といわれ、世間では半分馬鹿にされた言い方をされている。

全く世間の人の言う通りである。

同じことが三菱自動車ついても言える。

三菱自動車のサービスの「悪さ」も定評がある。

三菱自動車の個々の製品は比較的上等であるが、一旦悪くなったら最後、アフター・サービスで泣かされるのはオーナーである。

サービスの本質を知らない。

航空機の場合、対象が一般大衆とは違うので、こうした顕著な批判は直接耳にすることはないが、実態は似たようなものだと思う。

 

田代出張

 

この大幸工場にいるときに消防長になった。

消防長という呼称は、各地方自治体に一人しかいない公式な呼称であるので、本当は使うべきではなく、本来ならば消防担当とでも言うべきである。

しかし、三菱の保安では長年消防長と言い習わしている。

このポストは、消防一般を面倒見なければならないので一番大事なセクションである。

今まで門勤務や巡視をしていたものがいきなり消防関係の仕事をするので、本来ならば、大学出の優秀な人材を確保しなければならないところであるが、長年保安に携わってきた者がところてん式に繰り上がってやってきた。

まあ消防担当になったことはよかったが、すぐに田代出張が待っていた。

田代というのは、秋田県田代町にある三菱重工のロケット試験場の消火器に点検に出張することである。

三菱重工・名古屋航空機製作所の発動機部というのは、ロケットの生産を行っているが、そのロケットの機体は大江工場で作り、エンジンは大幸工場と小牧北工場で生産していた。というのも、発動機部そのものが大幸工場と小牧北工場に分かれていたので、こんな変則的な生産形態になっていた。

それで生産に伴うロケット・エンジンのテストのため、秋田県田代町に広大な土地を確保、そこに試験設備を作ってテストを行っていた。

この田代試験場の土地確保については、発動機部の技術管理課の陣川という人物が、10km四方、人家がないという立地条件の土地を、日本全国探しまわったということだ。

10km四方人家がない土地が要るほど騒音が出るのかと疑問に思ったが、実際にエンジンの出力が大きくなると、余裕を持って、これほどの用地がいるのだということを言っていていた。

それでこの時点では、その条件に見合う土地を秋田県から借りているということであった。この試験場には、北林さんという人が工場長代理として、その下に4名の人が仕事をしていたが、身分が社員ではなく、嘱託というので、我々の立場から見ると、気の毒だなあと思う。

けれども、秋田県の田代という田舎では、ほかに現金収入の道もなく、本人たちは我々が心配するほど考えてはいないようだ。

それというのも、試験場そのものが「所」の施設ではなく、発動機「部」の所管である上、北林さん始め、他の人たちも発動機部の嘱託であるので、勤労も労組も直接にはタッチできないでいる。

ここでテストするロケット・エンジンは小牧北工場で作っている。

それを以前は長崎の堂崎というところでやっていたものを田代に集約して、それ以降、ロケットの燃焼試験はすべてここでやっているようだ。

だからロケット・エンジンというのは、小牧北工場で生産して、田代に送って、ここで試験をして、それを種子島に送って、宇宙に飛び出すということになる。

此処に出張するについては、山本甚吉さんが先回行ったので、全く用意周到という言葉がぴったりと当てはまるほど、完璧に準備をしていただいた。

よって、最初の1回目は、事前の準備をするについて、さほどの苦労はなかった。

けれども、夜行で行って、着いたその日の朝から、そのまま仕事にかかるというのは如何にも無理なスケジュールである。

我々もそれでやってきたのだからやれないことはないが、どうせ会社の金で行くのだから、こんな無理なスケジュールを組まなくても、もっと余裕を持たせたスケジュールにすればいいものと思ったが、こんな妙な習慣がずーっと続いていた。

昼頃、「しらさぎ」で名古屋駅を発って、富山で夜行急行の「日本海」に乗り継いで秋田まで行くのであるが、この寝台車というのはなかなか良いところがある。

富山で、時間待ちの間に、駅弁とウイスキーの小瓶を仕入れておいて、「日本海」に乗り換えてから、ちびりちびりとやって、そのまま寝ると、翌日、目的地についている。

そのまま仕事をしても、左程きついことはないが、私の場合、列車の中で十分睡眠が取れたからこれでも良いが、列車の中で眠れない場合は、まさにきつい仕事になるのではないかと思う。

朝、秋田を過ぎ、鷹の巣という、ちょっとした町に着き、三菱の定宿に着くと、そこに田代の人が迎えに来てくれた。

この人の案内で、試験場に向かうわけであるが、私は北海道の石狩当別という田舎に住んだことがあるので、この程度の田舎はさほど珍しくない。

けれども、名古屋育ちの陣川さんや、陣川さんの下で仕事をしている小谷さんは「どうだ!田舎で驚いただろう!」としきりに同意を求めるが、この程度の田舎は私にとって左程驚くことではない。

けれども、同意を求められれば、敢えて反発する必要もないので、口を合わせておいた。試験場は、広さは広いが、試験用の施設が敷地いっぱいにあるわけではない。

ロケットを固定しておく櫓が2基あり、3基目が建設中であった。

一番古い櫓などは鉄板が腐食してしまって、消火器を点検していても床が抜けてしまいそうであった。

こんな古いものは撤収してしまえばよさそうに思ったが、それでもあの時点では、燃焼試験以外の実験を細々とやっていた。

素人目には櫓であるが、本当はテスト・スタンドというべきで、鉄で出来ていたが、風雪のため痛みが早く、ぼろぼろになっていた。

試験場のゲートからこのテスト・スタンドに行く途中に廃屋があった。

聞くところによると、満蒙開拓団で入植した人が、終戦で再入植したが、病気で一族郎党全滅したとのことであった。

こうした話を聞くと、実に悲愴な気持ちになる。

人はいずれ死ぬとは言うものの、満州まで夢を描いて出掛けていって、終戦でこんな人里はなれたところで、風雪に押しつぶされて、全滅とは実に惨めな話である。

この試験場には水素や窒素の大きなタンクがあったが、このタンクは鋼鉄性で、三菱重工の神戸かどこかで作ったものであろうが、要は大きな鉄の塊である。

これをこの地点まで運んでくるのが大変な作業であったようで、途中の橋を架け替えて、トレーラーで運び入れたという話である。

こんな山の中で、他にめぼしい産業が何もないので、「ロケットの試験場」といえば、そのままこの界隈では通用するという話だ。

「三菱」と言っても通じないが、「ロケットの試験場」といえばわかりやすいそうだ。

冬は勤務の交代が出来ないときもあるらしく、一週間分の食糧を備蓄しているそうだ。

また林道の除雪も、除雪用の施設も、三菱の金でまかなわなければならないそうで、林道の道路補修までも三菱の負担でしなければならないそうである。

ロケットを打ち上げるには、こんなところにも金がかかっているというわけだ。

折角、田代まで来たのだから、何かお土産にしようと思って、ゲートの前を流れている小川に水芭蕉が大きなもの小さなものと数多くあったので、これを一つ持ち帰ってみようと思った。

水芭蕉といえば、確か天然記念物に指定されているので、途中見つかると困るのではないかと思い、田代の人に聞いたところ,別に「取ってもかまわない」ということでしたので、一抹の不安はあったが2,3株持ち帰ることにした。

水芭蕉というのは、地面の下に地表の部分の3倍くらい根っこが埋まっていて、又その生えている状態が、落ち葉が1m近く埋っているようなところで、落ち葉の堆積した上を清流が流れているようなところでないと生えないものらしい。

我が家に持ってきても結局消滅してしまった。

天然記念物になるようなものは、生息の条件が厳しく、そのため限られた環境でなければ生きられないものらしい。

それからは、天然記念物を自宅に持ってくるような、浅はかな考えは持たないよう、肝に銘じた。

やはりあるがままの姿で、その場で眺めるのが一番良い。

そうしたなんでもない当たり前のことが環境破壊を防ぐ一番の近道だということが、失敗してはじめて判った。

水芭蕉についてはそんなことが予想されていたが、同じように持ってきたフキについても同じように消滅してしまった。

名古屋から消火器の点検ということで、春秋2回づつ出張すると、北林さんら他の4名の人々は、自分たちが監査を受けているような気になるものらしく、非常に遠慮がちに、北林さんなどは非常に気を使ってくれた。

一番最初のときは、陣川さんと、平社さんという発動機部の重鎮が一緒だったせいか、自宅で供応された。

そこで出された料理に、ラッキョのような妙な形のものがあったので、その名前を教えてもらったが、どうにも聞き取れなかった。

チョロギというものであったが、何度聞いても聞き取れなかった。

秋田弁の所為か、それともその品物の名前を一度も聞いたことがなかった所為か、今思い出しても、木の実であったのか、ラッキョのように草の根であったのかわからない。

品物の名前を聞いても、秋田の美味しいお酒を戴いて、酩酊していたのかもしれないが、あれは一体なんであったのかわからない。

まあこんな調子で秋田には都合3回出張した。

その度に発技官の陣川さんや小谷さんには世話になった。

 

消防訓練

 

田代から帰ってきたら今度は消防訓練が待っていた。

4月に消防担当になって、すぐに田代に出張で、その後6月になると例年のごとく危険物安全管理月間に入り、その時どういう按配か、なりたての消防担当の私が、名古屋市東消防署との合同消防訓練をする羽目になった。

工場内だけの、いわば身内だけの消防訓練ではなく、公的機関である東消防署との大々的な消防訓練である。

又、条件の悪いことに、4月の人事異動で、新人が二人も入って来ており、この間田代出張のため、この二人に対して十分な消防訓練も出来ず、合同消防訓練を迎えなければならなったことである。

工場内だけの通常の職場合同訓練ならば、計画もそれほど綿密にしなくても、又失敗しても、身内同志という気楽さがあるが、消防署との合同訓練ともなると、そうとも行かず頭を悩ましたものである。

それでも当時は田中豊さんが庶務担当をしていたので、田中さんと何度も消防署に足を運んでいるうちに、東消防署の考えていることがわかった。

初めは、東消防署のほうが、どういう内容の訓練を望んでいるのかわからなかったので、こちらの訓練内容とつき合わせて話しているうちに、消防署のほうは、実践に近い訓練を望んでいることがわかってきた。

それで我々のほうの計画は、だんだん縮小するような具合であった。

結果的には、我々サイドは通常の職場との合同訓練に、東消防署の訓練がドッキングするというような形になった。

それで、戦没者慰霊碑の西側にある屋外タンク貯蔵所で訓練が行われた。

けれども、東消防署に対しては、さほど気を使わずに交渉が出来たが、むしろ所内に対しては、保安課に対しても、工場長に出す書類および決裁などにおいても、余計な神経を使ったものである。

三菱の所内においては、ハンコ一つ押すにも、その押す位置とか順序とか、馬鹿みたいなことに神経を使わねばならなかった。

全くナンセンスなことで、私は何時まで経っても、こんなことに神経を使うことが苦手である。

苦手意識が先に立つものだから、何時まで経っても覚ることが出来ない。

この悪循環である。

まあそれでも田中さんや稲立係長に助けられて、書類も何とか通過して、いざ本番ということになった。

訓練の経過として、慰霊碑の西側の屋外タンク貯蔵所で火災発生、ここで職場の人の消火器による初期消火訓練、それに引き続き負傷者の救出、その後、我々の自衛消防隊の出動、その時のメンバーは宮島善比呂、丹羽正義、林正行、五十嵐俊之の4人であった。

この4人のうち、林と五十嵐は4月にチームメイトになったばかりで、消防車はもちろんのこと、ホースも、管槍も、ほとんど触ったこともないほどであった。

付け刃で、必要最小限、その時操作することのみを教え込んでの出動であった。

それでも我々は出動して、手順どおり放水していたが、そこに東消防署の訓練指揮者、本当の正真正銘の東消防署、第1消防分隊の隊長が無線機で出動をかけた。

それで我々が放水している前を、それぞれに展開するのはいいが、そのうちの一台の消防車が、我々の消防車の脇を通り抜けて、配置につこうとしたので我々は全くびっくりした。大体、我々が消防車を付けた位置は、水槽の位置から判断して、もう一台が通り採ぬけることなど想定もしてなかったので、まさかあそこを通り抜けるなどとは思っても見なかった。

それでも彼らは通り抜けて配置についた。本当にあれにはびっくりした。

予想外の展開ではあったが、我々の脇を通り過ぎて配置につき無事放水、泡も放出したが、さすがにプロフェッショナルで、登場した車両も、設備も、備品も本職らしく立派なものであった。

建物に沿って、下から上に水の幕を張る備品等、目を見張るものもあった。

東消防署のほうは8台ぐらいの消防車を出してきた。

それらが大幸工場の西門辺りにあらかじめ待機しており、そこから出動してきたはずであるが、それにしても無事終えることが出来た。

こんな大掛かりな訓練は、そうたびたびあるものではないので、失敗したらどうしようと気を揉んでいたが、無事終わって本当にほっとした。

今までの例を見ても、我々の先輩も、こうした訓練では失敗をしている。

失敗と言っても、消防担当の直接的な失敗ではなかったにしても、責任者としては面目丸つぶれであることに変わりはない。

失敗した時は、それぞれに強烈に印象に残り、何時までも笑い話として語り継がれるが、成功した場合は、人々はすぐ忘れてしまう。

この時の消防訓練は、我々が東消防署に土俵を貸してやったようなものだ。

さすがにプロフェッショナルで、大いに参考になったが、我々の側にフィード・バックすることが出来ないところに問題がある。

その後、大幸工場は名機が撤退したので、その間に我々同士で林君や五十嵐さんを含めて相当目新しい自主訓練を行った。

名機の工場が廃屋のようになっていたので、消防訓練をするには都合が良かった。

社員が仕事していたり、社員の車があったりすると思い切った訓練は出来ないが、その点恵まれていた。

ホースを6本延長したり、曲がりくねったところで伝令の訓練をしたり、屋内に入ってホースの水圧でガラスをぶち抜いたり、その後の訓練は十分意義のあるものが出来た。

あの東消防署との合同訓練のときが我々の戦力の一番弱い時期であった。

それでも何とかクリアーしてきた。

しかし、私も妙なことを体験してきたものだ。

自衛隊の班長を務めたことも、その時に基地のゲートにデモ隊が押しかけてきたことも、今回の合同消防訓練もそうである。

もっと前に、日本碍子にいたときにも、まだ臨時工でありながら、おばさん連中を12、3人も取り仕切って、責任者を押し付けられたこともある。

節目、節目に何か大きなことをさせられてきたような気がする。

 

大幸工場からの撤退

 

その後、大幸工場の名機・名航、ともにこの土地から撤退する時期にも立ち会わされて、撤退と建設の両方を同時にさせえられた。

同じ保安の中でも、こうしたビッグ・イベントを何一つ体験せずに済んでしまう人もいるのに、私の力を買ってその時期にもって来るのか、それとも本当の偶然なのかわからないが、とにかく大事な節目に居合わせたのは事実である。

名機のほうは昭和61年に撤退した。

撤退する噂は前々からあったが、それが現実の問題となった。

この時点で、名機から名航に移ってきた人は大勢いる。

保安の中でも、そういう人が大勢いる。しかし、名航に移れた人は幸せな人である。

下請けに出向させられた人や、相模原製作所に飛ばされた人が大勢いる。

相模原製作所に飛ばされた人は、そこからさらに下請けに出向させられたらしい。

出向とは言うものの、もうお姨捨山の状況であった。

この時期には、名機の社員が、仲間内で、社内でお別れ会をしているのもあった。

本来ならば、社内で酒を飲めば問題になるところであったが、この時ばかりはおお目に見るほかなかった。

別に上司から特別な指示があったわけではなかったが、彼らの職場がなくなってしまうのかと思うと、気の毒だなあと誰しも思ったに違いない。

戦前からの建物であるコンクリートのテストセルの中で、最後まで船舶用のデーゼル・エンジンを試運転していたところで、控えめに焼肉パーテー等をしていたようである。

工場の外でも送別会や壮行会があったはずで、酔っ払って会社の正門まで来て、ゴネタリ、愚痴ったりした連中もいた。

名機の仲間内でも名航に移管できた人は幸せである。

しかし、ここで不思議なことがあった。

名機では、共産党の名機支部というのが公然と活動していた。

この片割れが大幸にも3,4人いたが、この連中はどこにも飛ばされずに、岩塚や枇杷島工場に配置換えになったが、こうした社内の暴れん坊は比較的良い目を見ている。

彼らの上司も、無理なことをすれば共産党の跳ね返りが怖くて、当らず触らず、適当なところにはめ込んで、自分の責任を逃れたつもりであろうが、普通の善良な仕事仲間からすれば、赤旗を振ったり、ビラを撒き散らしたり、宣伝カーに乗って怒鳴り散らした連中が優遇されていると写ってもしたかがない。

事実、全くその通りである。

まじめに今まで仕事をしてきた連中は、遠くに出向させられて、札付きの厄介者が、地元にそのまま残れるなどとは不公平である。

それと、この時点では組合が社員の味方になってやらねばいけなかったように思う。

これは名機支部だけの問題ではなく、三菱重工の労組として、もっと社員の面倒を見てやるべきだと思った。

まあ組合も協力したから、出向先に落ち着けたといえるかもしれないが、それにしても希望退職を歓迎するような面があった。

 

名航の移転・名誘の発足

 

名機が撤退した後には、今まで使っていたいろいろな備品が残された。

スチール・ロッカーからキャビネット、机から茶碗にいたるまで、実にさまざまな備品が捨てられていた。

消防担当者としては、消防関係の器具備品の管理をしなければならず、通常に工場が稼動しているときは、気にもならなかったが、消防ホースから、消火器、その他もろもろの備品を一箇所に集めて、一括管理しなければならなかった。

それでまず消火器を廃墟の中から集めて鋳造の風呂場に集めた。

この鋳造の風呂場というのは、大幸警務係から一番近くて、外からの出入りも簡単でしたので、ものを一時的に保管するにはまことに都合が良かった。

結局、名機の消火器は300本近くあったように記憶している。

これを大江、小牧南、小牧北と3等分して訓練用に分配しなければならなかった。

鋳造工場や鍛造工場に配置してあった消火器であったので、埃や油で汚れていた。

又、大きいのや小さいのや、形や大きさもまちまちで、これを集めて再分配するのは正直言って大変な作業であった。

それが一段落すると機械類の撤去が始まった。

売却して他に移してしまうものと、全くのスクラプとして鉄くずにしてしまうものとか、そうした仕事を三栄組という会社が一気に引き受けてやっていたが、この時期にはよく火事になった。

スクラップにすると言いつつも、廃墟になった工場というわけで、作業員の気持ちもイージーになっていた所為かと思うが、小規模な火災が多かった。

いずれも我々自衛消防隊のみで消すことが出来て、大事には至らなかったが、鋳造のダクトの撤去作業中、溶断の火がダクトの中に入り、ダクトの中が燃えるというように、火事とは言えるかどうかわからないが、そういうことが多かった。

又、焼却炉の中で火が燃えず、炉の外でこれから燃やす材料に火がついて火事になったこともある。

いずれは燃やすものではあるが、炉の外で燃えているので、これも一応は火事であろう。消防車を持っていって消し止めたが、大幸工場ではよく火事があった。

一度などは、工場の正門南のマンションの入り口でオートバイが燃えるという火事があった。

東消防署から消防車が4、5台サイレンを鳴らして駆け付けてきたらしいが、その時、消防担当の私は仮眠中で、他の仮眠していたメンバーは全員起きて対応したらしいが、私のみそれを知らずに朝まで眠っていたことがあった。

朝起きて、火事があったことを知らされて「ウッソー!」という感じで、びっくりしたことがある。

私は、日頃、自分は不眠症だと思い込んでいたので、その私が知らずに眠りこけていたことに、自分がこれほど図太い神経の持ち主だったことが以外で、そういう自分自身に驚いたことがある。

あの当時、大幸警務係の建物の休憩室と、その東側にあった菱重興産の清掃員の建物が、

30cmの間隔で並んで建っていた。

どちらも木造の古ぼけた平屋建てであった。

名機の撤退により、清掃員の建物が不要になったし、我々の警務係りの建物はもともと狭かったので、これを一緒にして休憩室を広げようということになって、両方の壁をぶち抜いてそれを拡張したことがある。

これを本職の大工に頼むのではなく、すべて自分たちでやってしまった。

こうした作業は、班員の力を掻き集めてやるわけであるが、各人がそれぞれ色々な特技を持っていて、それを如何なく発揮できるので、結構面白い仕事であった。

結局、最終的には、本来の事務所よりも立派な休憩室が出来上がった。

材料は廃墟になった工場からありあわせのものを拾ってきて、それを使った。

エアコンなどは、空き家の工場から取り外してきて、それを取り付けてしまった。

警務係りの事務所のほうは以前からのままであったが、休憩室のほうは格段に良くなってしまった。

けれども、この状態も一年しかもたなかった。

というのは、今度は、名航の撤退が始まってしまったので、居ろうにも居れなくなってしまった。

名機の撤退は会社の施設、機械設備等一部は再利用されたが、基本的には廃棄処分するので、残ったものはすべてスクラップであったが、名航の場合は、あくまでも工場の移転ということで、名機の場合とは少し様子が違っていた。

それで、工場の北東角にあった油圧装置工場の二階に、丸全昭和運輸の人達が常駐して、引越し作戦を練っていた。

丸全昭和運輸というのは、我々にはあまり馴染みのある会社ではなかったが、聞くところによると、日本で一番大きい運輸会社ということであった。

この移転については「所」の方針ではなく、三菱重工としての「社」の方針のようで、本社でその採択が決定されたらしい。

我々ならば、藤木海運とか、橋本運輸ならば、いつも出入りしているので馴染みのある運輸会社であったが、これらの企業では問題にならないほど大きな企業であったらしい。

その後、気を付けて眺めてみると、この地域でも丸全昭和の看板が目に入るようになった。北工場の東名高速道路の南側に、以前、矢崎総業という倉庫があったが、それがいつのまにか丸全昭和の看板に変わってしまっていた。

藤木や橋本も、この丸全昭和の下で2、3仕事にありついたようであるが、大部分はこの丸全昭和が取り仕切っていた。

丸全昭和が引越しのスケジュール調整をし始めた頃、8月の暑い盛りであったが私は再び小牧北工場に配置換えになった。

名航の引越しに伴い、北工場での受け入れのためである。

北工場のほうは、工場の輪郭は出来上がっていたものの、それでも例によって工事中といったほうが良く、建物の壁がなかったり、床がなかったり、ピットを掘っていたりで、建物のなかでは大騒ぎをしている状態であった。

建物が出来あがると、消防設備、特に消火器の数を割り出して、なおかつ配置して、小牧消防署の検査を受けねばならなかった。

書類に関することは田中さんがやってくれたが、それでも自分で種類つくりもしなければならなかった。

図面に消火器を記入して、その通りに配置しなければならなかった。

消火器の配置は、ただ置いておくだけでは駄目で、表示場を取り付け、その下におかねばならず、この表示板を取り付けるのが厄介な仕事であった。

1辺100cmぐらいの鋼鉄の柱に、脚立に登って、ドリルで穴を開け、表示板のステーを付け、それに取り付けねばならなかったが、班員が積極的に協力してくれたので、どうにか全工場に取り付けることが出来た。

しかし、消火器を配置し、表示板を取り付けるときには、その建物には工作用の機械設備が入ってない状態で、いざ機械を据え付けてみると、消火器の位置や、表示板の位置が不適当になってしまうこともたびたびあった。

すると手直しをしなければならない。

新設の新しい工場だから、美観を大事にして、不要なものは目立たないようにというので、比較的目立たないように気を効かせて表示板を取り付けてみたら、次の安全点検では「表示板が見えないので改善せよ」と言ってくるし、人はそれぞれの立場持ち場で、さまざまなことを言ってくる。

消火器というのは配置すればそれで済むというというものではない。

維持管理台帳を付け、管理をしっかりしなければならない。

法定の点検をすれば、その点検結果もフォローしておかねばならない。

それで大幸から移転してきた当初は500本近くの消火器を管理しなければならなかった。現場の設備の移転は、現場サイドがそれぞれ責任を持ってやっていたが、それでも消防関係の備品の残りをきちんと管理しなければならず、この昭和62年という年は大変な年であった。

それで10月になると移転も完了して、新しく新生小牧北工場が発足したが、その翌年、4月には名航から分離独立して、名古屋誘導推進システム製作所として発足することとなった。

移転が完了した年の秋の火災予防運動には、社員が火災訓練になれていないので、大々的な職場合同消防訓練をやれ、ということで、又私にお鉢が回ってきた。

今度は社員同士のもので、それほど気を遣うことはなかったが、消火器の位置を覚えてもらうことに主眼を置いて実施した。

それと新しい消防用機材を試してみるということで、第1事務所の5階にある脱出用の救助袋のテストを行った。

私も、あんなものは始めてであったが、案外スムースに降りられるものである。

大幸工場のときもボヤ程度の火事はよくあったが、小牧北工場に来た当初も、ボヤとまでは至らないが火や煙が出たことはたびたびあった。

旋盤のような回転工具は、移動したことによって、少しずつ無理が出ていたのではないかと思うが、北工場で生産がはじまった当初はよくそんなことがあった。

この北工場、後の名誘は、大幸からも移転してきたが、大江からも、小牧南からも一部が移転して来た。

大幸からきた部分は、ロケットのエンジン、及び発動機部門と油圧の関係であったが、小牧南工場からは誘導機器の部門が移転してきた。

それに関連して、電子機器の部門が大江と小牧南工場から移ってきた。

これらが一体的に集約されて、ミサイルの生産、および開発にあたっている。

だから名前の示すとおり、ここのメインはエンジン部門と誘導機器部門であって、大江や分工場はロケットにしろ、機体にしろ、がらんどうの生産のみである。

南工場は飛行機の最終組み立てという使命があるが、他はがらんどうを作るのみである。まあ私などに言わせると味気ないものである。

 

ワープロについて

 

大幸工場で消防を担当していたとき、田代も、消防訓練も無事済んで一段落した頃、大幸工場の消防計画というものを見てみた。

これは各事業主が消防当局に提出するよう、法に定められたものである。

これを見たところ、どうにも見劣りがするので、これを更新してやりましょうと思って、下書きを作っていた。

消防計画というのは、企業が「内の会社はこのように消防・防災の対策をしていますよ」ということを消防当局に届けるもので、消防署側としては「企業はこれに基づいて社員の消防訓練をしている」と判断する材料になるものである。

我々の場合、消防計画と実際の消防・防災対策が必ずしも一致しておらず、社内の規則では消防の認めているよりもかなり厳しく規制されていた。

消防計画よりも実際の実務のほうが厳しく管理されていた。

その点が消防計画に反映されていなかった。

それで、それを見直そうと思ったのである。

丁度、その頃、たまたま春日井西部に行ったところ、正面の入り口から入って、エスカレーターで2階に上がった踊り場で、ワードプロセッサーの展示と模範演技をしていた。

NECの文豪シリーズのCRT用の初期のものである(今日のデスクトップ型パソコンよりも大型であった)。

それを眺めていたら実に不思議であった。

タイプライターのようであるが、タイプライターよりも一歩進んでいるように見えた。

私もオッチョコチョイなので、すぐ傍らの若い女性にいろいろ質問して、自分でも実際触ってみた。

昔、タイプライターをやっていたので、ずぶの素人ではないが、それでも何年もやっていないので出来るかどうかわからないが、ローマ字で打てばひらがなでで出て、それが漢字になってしまうところがどうにも不思議でならなかった。

同時に素晴らしいものが出来たものだと驚いた。

これはきっとヒット商品になると直感した。そうしたらどうにも欲しくなった。

その頃、仲間内で生命保険の話をしていて、「あれはつまらない!」ということで衆議一決して、「あんなものは止めよう!」ということになり、その話とワープロの欲求が一致してしまい、生命保険を解約した金でワープロを買ってしまった。

今思うと、あの時のワープロは買うのが1年早かった。

この1年の間に素晴らしく機能が発達してしまって、あの時買ったものは、それこそタイプライターと同程度の機能しかなかった。

しかし、このワープロで消防計画を作って上司に提出したものだから、上司は消防計画の内容よりも、ワープロで出来た書類のほうに関心がいってしまって、その後、保安課にもIBMを入れるきっかけとなった。

ワープロもさることながら、あのコンピューターというのは実に素晴らしい。

ワープロも、コンピューターの機能の一部を取り出して、文書作成専用のコンピューターと思えばいいが、元のコンピューターの実力というか、能力というのか、機能というのは実に素晴らしいものがある。

大幸工場から北工場に移った当初、資材課に加藤という名前の若い社員がいて、いつも夜遅くまで居残ってコンピューターを触っていた。

その男に、社員が帰った後の21時頃から、資材部内で使っているNECの6500というオフイス用のコンピューターの使い方を教わった。

覚えれば覚えるほど、そのコンピューターの素晴らしさには目を見張るものがあった。

これで北工場の500本近い消火器の管理台帳を作ってみたが、このNEC6500でも、500本近い消火器を年代順位並べ替えたり、大型、中型、小型と分類して並べ替えたり、自由自在であった。

それをフロッピー・デイスクに保存しておいたけれど、コンピューターを理解して、それで消火器の管理をしようとする、私の後に続く人がいなかったので、当然、そのデータを使いこなす人がおらず、私一人の遊びで終わってしまった。

そうこうしていると、今度は所内の土曜講座でIBMを使うワープロの教室が開催されたので、これにも応募して結局土曜日2回、公休。休暇をやりくりして出席、IBMのワープロも覚えた。

覚えたての頃は、面白くて、面白くて、とうとう保安課の課標準を全部ワープロ化して、そのフロッピー・デイスクを大江の保安課本部に送ってやった。

コンピューターでもワープロでも、一番最初の基本データというものは、誰かがインプットしなければならず、それが大変な作業であるが、やれば結構面白いものである。

上の人から強制された仕事ならばきついかもしれないが、自主的にやっている分には、面白くて仕方がない。

結局、IBMのワープロもほとんど覚えたけれど、最近は触っていないので白紙に戻っていることと思う。

目下、文豪ミニ7を愛用している。

これは特務職5級になったとき、非組合員になったので(平成2年4月)組合の生活闘争資金の積立金が返却された。

その記念として購入したものである。

家内公認のものである。

前のは、家内に内緒で購入したので、弁解するのに(保険を解約して購入したといえず、)散々苦労したが、今度のはおおぴらに購入できた。

最初のワープロとの出会いが西武の2階でのNECであったし、その後もNECの機械に接することが多く、先入観が出来上がってしまい、どうしてもNECのものが欲しかった。

本当はNECの9801の本格的なものに越したことはなかったが、私のことだから

9801を買っても100%その機能を使いこなすことは出来ないだろうと思って、ワープロ専用機にした。

この文豪ミニ7でも、いまだに全機能を使い切っているわけではない。

まだまだ使い方を研究する余地は残っているが、自分の望むこと以外の機能は、あっても仕方がない。どうせ使わないのだから。

しかし、ワープロというのは不思議なものだ。

ローマ字で打つと、ひらがなで出てきて、それを変換すると漢字になる。

そしてフロピー・デイスクは帳面と同じで、書いたり消したりできる。

この文書も全部フロッピーに保存されているが、この文豪ミニ7のフロッピーでは大失敗したことがある。

この「私の半世紀」の初期の項のものを、文豪を買ってきたときについてきたフロッピーに保存していたら、どうにもこうにもその部分が復元できず、NECのサービス・ショップまで持っていっても復旧できなかった。

だから、プリント・アウトしたものを見て、最初からインプットしなおさなければならなった。

その時のフロッピーがビクターの製品だったので、金輪際ビクターのフロッピーは使用しないことにした。

そして予備を備えておくことを鉄則としている。

たまたま、その時のものはプリント・アウトしてあったので再び根気よくインプットすればよかったが、デイスクのなかに埋もれてしまった文書もあったに違いない。

とにかく、何も出てこないので、何が入っているのかさえ、分からずじまいであった。

あの失敗は、1文書の容量以上に文章を入れ込んだのが間違いであった。

1文書は、私の目安で、12枚ぐらい入ると思っていたが、それに13枚ぐらい入れ込んだのが間違いの元であった。

それ以降は用心して9枚程度にとどめている。

ワープロというのは、人を虜にする要素を持っている。

会社でも、東芝のルポを各係りで購入して、皆に使うよう仕向けていたが、覚えたてのころは夢中になってやっている。

そのうちに、本来の自分の仕事を忘れてまで、夢中になってしまう。

たった一枚書類を作って、如何にも大仕事をしたような気分になって、満足している。

これではかえって非能率であるが、人が一生懸命やっていることに水をさすこともないので黙ってみているが、能率という点からすれば、手書きのほうがよほど早い。

又、ワープロ化が必要な書類かどうかということを見極めることも大事だと思う。

何でもかんでもワープロにしなければならないということはない。

世の中不思議なもので、年齢に関係なく、ワープロを使ってみようという人と、最初から出来ないと思い込んで、触ろうともしない人がいるので面白い。

これはどこのセクションでもそのようで、年配の人ほど、逃げる傾向がある。

若い人ほど素直に溶け込んでいるようだ。

それと、昨今においては、現場でも部品管理や計測にはコンピューターが直結されているので、逃げてばかりおれない状況である。

今では、コンピューターは、昔の計算尺や算盤のようなもので、これなしでは仕事が出来ないほどになっている。

嫌でも応でも使わざるを得ない時代である。

 

職場委員

 

昭和61年、1986年10月に、大幸工場から小牧北工場への展開が一段落した頃、職場委員をやれといわれ、組合の活動に足を踏み入れることになった。

職場委員というのも、最初はイージーに考えていたが、結構手続き等が難しく、上司から「やれ!」といわれること自体本当はおかしなことであるが、基本的には職場の仲間から推薦を受けてなるもので、上司の命令でなるものではない

そんなことも、なった当初はわからず、職場からの推薦という形を作るため、自分の選挙を自分でやらねばならぬ、変なことになった。

最初は何がなんだかわからず、先輩の職場委員に聞いたり、執行委員に聞いたりして、手抜きや間違いもあったようだが、そんなことも不問に付され、職場委員なるものを引き受けた。

大幸工場時代は勤労課と、業務課と保安が一つのグループであったので、その流れで、私にお鉢がまわってきたのであるが、北工場が充実してくると、大幸時代よりも人数が多くなってしまい、結局100名近い社員の面倒を見ることになってしまった。

というのは、大幸からのメンバーがそのまま北工場に移ってきたのではなく、大江や小牧南から移ってきた人も、含まれてしまったので、同じような構成でも、実質的に人数が多くなってしまったわけである。

この職場委員というのは、昼の休憩時間は、組合の事務所に集合しなければならず、これはこれで楽しかった。

しかし、この時痛感したのであるが、労働組合の活動というのも、再考する時期に来ているのではないかと思った。

これは三菱の我々のところばかりではなく、大企業から中小企業まで、すべて同じだろうと思うが、昨今は、本当の意味の労働者なんて居るのであろうか。

大幸工場で以前見た、鋳造工場、鍛造工場で仕事をしている人々は、本当の意味で産業革命当時の労働者というイメージを引きづっているが、最近においては、あんな職場は見あたらないのではないか?

名航の場合、クリーン・ルームという、完全に空調完備の部屋で、半そでシャツでコンピューターを使っている人が労働者といえるであろうか?

仕事をする人という意味で、ワーカーであっても、レーバーという労働者ではないと思う。その証拠に、我々の組合でも、高学歴になるにしたがって、組合への関心が薄くなっている。

昼のミーテイングでも、高学歴の組合員の出席率が悪く、関心の低さは、執行委員でなくとも嘆きたくなる現状である。

昔の労働者というのは、学歴もなく、賃金も低く、そうした人たちの生活設計から余暇の利用にいたるまで、組合が面倒見なければならない時期もあったに違いない。

けれども、今となっては、社員の学歴も高く、賃金もそれなりに高く、余暇の利用など、組合が考えなくてもいくらでもある。

それを40年も50年も前の感覚でやっていては、それこそ時代の流れに取り残されてしまう。

別に「組合を無くせ」とまでは云わないが、組合のあり方は考え直す必要があると思う。高学歴の、若い連中をひきつける要素を、皆で考え出す必要があると思う。

それと、最近の会社の経営方針として、子会社をたくさん作って、会社の機能を分散する方向に進んでいるが、こうした面にも組合は配慮する時期に来ている。

子会社は子会社の方で組合を作っており、年次大会等では招待したりされたりしているが、もっと一元化すべきだと思う。

まあこんなことを考えながらも、職場委員としての活動が始まったわけであるが、組合活動も、一生懸命やれば、それなりの面白さというものは出てくる。

ソフトボール大会でも、選挙でも、どうにかこうにかクリアーしてきた。

10月に職場委員になって、翌、4月にはソフトボール大会があって、これは面白かった。始めは、100名の内からどのように選手を選べばよいか、ずいぶん悩んだが、蓋を開けてみれば造作もなかった。

勤労課に、高校時代ソフトボールの選手をしていた高田という若い女性がいて、難問の一つをクリアーし、業務課の入谷さんと相談して、立ち上がったばかり名誘に、長期出張で来ていたアメリカのレイセオン社の外人を2名選手として引き入れることに成功した。

これで日米混成チームができ、面白いチームが出来上がった。

執行部も「親睦が目的だから」と、あまり難しいことも言わずOKしてくれた。

他のメンバーは、業務と保安から、野球好きな人を、入れ替わり立ち代り選手として起用した。

高田さんをピッチャーにし、外人をレフトに入れたら、ピッチャーも最高、外人はそれこそ大リーガーでも通用するような体格の立派な人で、レフトからファーストまですごい勢いでボールを返すので、他のチームや観客から拍手喝さいを浴びた。

女子のピッチャーと、外人のいるチームということで、北工場中が我々の試合を関心を持って見にくるようになったが、入谷さんの進言で、程ほどのところで負けることにした。勝つと、地区大会や県大会まで行かねばならず、我々にはそんな気は毛頭ないので、3回戦ぐらいのところで負けるよう細工をした。

これが終わると夏の盆踊り大会であった。

これも準備段階が大変であったが、皆でわいわいやっているうちになんとなく終わってしまった。

私は当日、保安だからというわけで、「金を扱うところをやってくれ」といわれ、受付で協賛金を集める係りにされてしまった。

子供に花火を渡したり、大人には出店の食券を渡して、その見返りに協賛金の100円を徴収する係りである。

皆がそれぞれ役目をもらってやっていることで、不満というわけではないが、出来れば、焼きソバを焼いたり、ビールを売る係りがやりたかった。

自分が今までしたことのないものをやってみたかった。

それぞれの店には、過去の経験者で、ベテランがそれぞれに腕を振るっていた。

日中の暑い盛りから、下準備で汗びっしょりになって、ビールを飲みながらの切符売りも、それなりに面白かった。

「お祭り騒ぎ」というのは参加することに意義がある。

盆踊り大会もそれなりに面白かった。

暑い一日の喧騒が終わって、帰るときに飲んだビールも美味かった。

この時は、ビールを飲まなければならないので、はじめから自転車で出かけた。

その年の秋には参議院の選挙があったが、これは一部の人には実際に応援してもらったが、大部分は自分一人でビラ配布をしておいた。

そして、協議員の名前で出席したことにして、手当金も全部協議員にいくように細工をしておいた。

職場委員は2年やったことになるが、最初のうちは何をしていいかわからず、業務課のほうも比較的協力的ではなかったが、終わりの頃になると、かなり協力的になってくれた。組合の活動のなかでも、鳳来寺の青年の家で行われた活動家初級教育というのは面白かった。

これは、職場委員の新人に対して、上部団体が活動家としての教育を施す講習であるが、従来、保安の人間はこういう研修は逃げてばかりいて、積極的に参加した人はいない。

私は積極的に参加してみた。

何でも経験だと思い、かなり絞られるぞと脅かされてきたが、終わってみれば、自衛隊を体験している私にとっては驚くに値しない。

その時は、武田さん、東堂さん、松尾さんと、その年に新しく職場委員になった人が3人出席した。

向こうに着いて、もう一人、住友重機労組から派遣されてきた若い人と計5人一組として一室をあてがわれた。

部屋単位でテーマを与えられ、それを纏め上げ、翌日、皆の前で発表するという演習があった。

この課題では夜中の2時3時まで、各部屋で討論するときかされていたが、部屋のメンバーを見ると、私が一番年長のようでしたので、リーダー役を買って出て、宿題のテーマを適当に纏め上げ、皆に早く寝るように言って、10時かそこらに寝てしまった。

翌日、起きてみると、実際に2時3時までかかって討論していたグループもあったらしいが、私はこれは内容よりも、発表の仕方に着眼点があるのではないかと思ったので、発表も私一人がやってしまった。

後の4人は周りで見守っているだけにしておいた。それで難なくパスした。

翌日の体操のときは、労働組合独特の号令と呼称には、まごついたけれども、それも慣れてしまえば大いしたことなかった。

まあこれもちょっとしたリクレーションにはなった。

それと昭和63年には、三菱重工労組の中央大会にも出席させてもらった。

こういうものも、保安の人間は逃げてばかりいるので、おそらく過去には中央大会まで出席した人はいないに違いないのではないかと思う。

職場委員も一生懸命やれば結構楽しいが、所詮、保安では、年齢的に遅くなってしまうので、十分な活動は望めない。

どうせやるなら30代の前半で、4、5年はやってみるべきである。

そうすれば面白い体験が出来ることと思う。

保安課というのは、組合というものを敵視した時期があり、先輩たちの時代には、組合の職場委員になっても、逐一、保安課長にその言動を報告していたということだ。

保安という職域は、基本的に会社側であるので、その意味で組合に対してスパイのようなことをしていたわけであるが、その時代感覚たるや、思想のシイラカンス以外の何者でもない。

その前提に立って、組合の側も保安には心を開いていなかったようだが、その溝もおいおい薄れているように感じられた。

 

子供たちの教育について

 

昭和59年、1984年にこの家を作って、その年1年、長男は西部中学、長女は牛山小学校に通った。

息子は西部中学に通っても応時中学でやっていたハンドボールを続けていたが、どうもこのハンドボールというのは西部中学では猛者ばかりのクラブであったようだ。

それでも家内は、息子が転校したときから、進学について、旭丘高校にしたいと強力に西部中学側に意思表示しておいたらしい。

とはいうものの、学校群制度のため、旭丘にいけるかどうかは神のみぞ知るで、我々も、とても旭丘高校にいけるとは思ってもいなかった。

入試を翌年に控え、どうしたものかと思案していたのは事実であるが、愛知県は学校群制度というのがあって、これまたみょうちくりんな制度で、愛知県教育委員会が実施している以上、こちらが不服を言ってみたところで仕方がない。

息子の場合、旭丘高校は名古屋北高校と群を組んでいたので、旭丘が駄目でも名古屋北高校には入れるだろう、と読んでいた。

だから入試の前には名古屋北高校の所在地を調べ、実際自転車で走って所要時間を計ったところ、大体15分か20分で通うことが出来るので、ここならまあいいだろうということになった。

この学校群制度というのは複雑怪奇で、いまだによくわからない。

要するに、旭丘と名古屋北高校が郡を組んで、試験をし、一定レベル以上の合格者を旭丘と北高校に振り分け、折半するという風に理解している。

だから受験した場所が問題ではなく、一定レベル以上に達しているかどうかが問題で、一定レベル以上あれば、そのうちのどちらかに進学できるということである。

だからいくら旭丘を希望しても、運が悪ければ北高校に回されるということもありうるわけである。

突き詰めれば、愛知県で独走している旭丘高校の評価と実績を下げて、優秀な生徒が旭丘だけに集中するのを回避して、平準化しようという狙いだと思う。

つまり、旭丘高校をはじめとする優秀な県立高校を、駄目な高校にしようという目論見だと思う。

息子の場合でも、試験を受けたのは北高校のほうであった。

それが旭丘だとわかったときは、文字とおり「ウッソー、ホントー?」という具合で、信じられなかった。

家内がそうなることを望んでいることは知っていたが、まさか現実になるとは思っても見なかった。

この時点では、私の友人たちの子供は、あまり良い方向に進んでいなかったので、親の気持ちを察すると、私ばかりが喜んでおれなかった。

私の友人たちも、子を思う親心に変わりはないと思うが、結果が親の願ったとおりにいっていないので、私だけが有頂天になることができなかった。

私は根っからのオッチョコチョイで、うれしさがすぐに顔に出てしまうので困った。

親戚に対しては、そんな気苦労をする必要はなかったので気が楽であった。

息子が旭丘高校に合格したことに対して、親父も意外という感じでびっくりしていた。

柏森のほうも素直に喜んでくれた。

やはり、この地方で旭丘といえば、旧愛知一中の伝統が一段と光り輝いている。

知っている人は、「それは素晴らしい」と素直に喜んでくれる。

旧制愛知一中の名声と伝統を知らないのは本人だけであった。

本人は、愛知一中の伝統も知らなければ、その名声にもまったく無頓着で、新制中学の延長のようなつもりであった。

若い人ならば、それが普通かも知れない。

又、高校生でありながら、古い伝統や、過去の名声に一喜一憂するようでは勉強に身が入らないのかも知れない。

それでも北海道に行ってから、改めて自分の学校の名声に気がついたようである。

というのも、受験雑誌に旭丘高校の名前がたくさん出ているらしくて、その方面のことを同級生が言っていたらしい。

それで自分でも気がついたみたいだ。

私は、息子が旭丘に通っている間に一度も学校を訪れたことがなかった。

別に嫌っていたわけではないが、教育界のことは私よりも家内ほうが精通しているので、家内の話を聞くだけで十分であった。

父兄会なども、すべて家内に行かせたが、それで十分であった。

けれども旭丘の教育は特別に変わったことはしていなかったみたいだ。

優秀な生徒が集まれば、結果として大学の進学についても良い結果が生まれるものらしい。学校群制度というのは、そのことが、つまり優秀な生徒が特定の学校に集中することがいけない、と言ってそれを否定する方向に作用させようとしたわけである。

県立高校である以上、教育委員会の指導を超えた特別の教育というのはありえないわけで、当然といえば当然である。

又、大学の進学率に関して言えば、新聞等で報道されているのは、数字のマジックが隠されている。

だから新聞発表の数字を鵜呑みするわけにはいかない。

旭丘の生徒は高校生活ものびのびと送ってしているらしい。

それでも進学するものはするし、浪人してから進学するものも大勢いる。

我が家は、お蔭様で現役で入ってくれたが、彼の同級生は全員浪人組みである。

高望みして浪人するものや、遊びすぎたものなど様々のようである。

いづれにしても、旭丘といえども現役で進学するものは以外と少ない。

その上、在学中3年間ボートをしてきたので、親の目から見ても、なかなか頑張ったといわざるを得ない。

大学に入ってからも続けてもらいたいと、家内と二人で、それとなく勧めてみたが、どうも友人の関係で、友人の中にボートをするものがいなかったようで、大学に入ってからは止めてしまった。

「ボートをするなら留年してもいいぞ」とまで言ったが、これは効果がなかった。

相手もだんだんと大人になってきて、こちらの口先だけでは誤魔化すことが出来なくなった。

旭丘には、我が家から自転車で勝川まで行って、あとは中央線で大曽根で降りれば学校はすぐ近くである。

息子や家内の話を聞くと、旭丘では学生服を着ている生徒がほとんどいないそうだ。

一応制服と定められているらしいが、先生も生徒も現状に甘んじているらしい。

自分の子供の成長を眺めるというのも、実に不思議な気持ちがする。

子供たちが幼児の頃は、自分とは別の人間だと言って見ても、あくまでも親の庇護を必要とする子供であるし、幼児なるがゆえに自分のコピーかなと思うこともあるが、だんだんと成長して、背丈なども親を追い越すぐらいになると、子供とは一体何だろうかと疑問に思うようになった。

今でも息子は北海道から長距離電話をかけてきて、家内にいろいろなことを言ってきているようであるが、娘のほうを見ていると、その性格が私と瓜二つで、「悪」かと思えばそうでもなく、ちょっと「良い子」で健気なことをしているな、と思うと長続きしなかったりして、まったく自分の若いときはああではなかったかと思ったりする。

現在、息子は落ち着いたところに落ち着いているのでそれほど心配はないが、娘の場合、まだこれから関門を通過しなければならないので、心配である。

けれども、進学については、以前から、予備校に通わせたほうが良いのではないかと、何度も思った。

しかし、本人は通う気がなさそうだし、体力的にもどうもついていけない面があるように見受けられたので、つい一日一日と延ばしていた。

本人も本気で考えているのかどうか今一はっきりしない。

というよりも、本人が進学ついて深く考えていないようにみえる。

しかし、こういうことは親がいくら口を酸っぱくして云って見ても、本人の自覚が出てこないことには意味がないので、そのままにしている。

あと1年の間に、彼女の自覚を促す何かを考えなければと思っている。

家内の言うことには、彼女は頭は悪くないそうで、その同じことをずっと親父から言い続けて成長した我が身のことを思うと、親として「頭が良い」ということに満足しているわけにはいかない。

高校受験の時は、彼女は授業料免除の私立高校を2校も受け、合格はしたが、そこを辞退して県立に入った。

それと同じことを望むことは到底無理なことで、いかんせん彼女の世代は、同世代が一番多い世代である。

男の子ならば、それこそうかうかしておれないが、女性ということで、本人も我々親のほうも、今ひとつ力が入らないという有様である。

別に、女だからと言って差別しているわけではなく、渡に比べて手を抜いているわけでもないが、どうも結果的にはそのように取られかねない状態である。

平成2年11月20日     脱稿

 

あとがき

 

これは7月15日に思いついて、11月20日まで掛かって一気に書き上げたものである。全く記憶だけを頼りに書いたので、途中記憶違いや、勘違い、また100%の間違い等あることとは思うが、その時点で、つまり感じた時点で間違ったものである。

その時に感じたこと、思ったことをそのまま書き綴ったということに対して、嘘はない。私は、昔も今も、熱しやすく冷めやすい性格である。

思いついたときに出来る限りノルマを稼いでおかないことには何時挫折するかわからない。過去にも、何度か、やりかけては挫折したことは数え切れないほどある。

その時は、自分に都合のいい理由を付けては、挫折の連続である。

自分でも自分の欠点は知っている。

それを改善、克服することはどうしても出来なかった。

これからも今まで同様、自分で自分の欠点を背負いながら残りの人生を歩むに違いない。それで思い込んだが吉日という言葉どおりに、一気に、息の切れるところまで走っておかねばならない。

そうして一気に書き下ろしたのが以上の拙い文章である。

現時点において、私の立場は幸せな部類に入っていると思う。

親戚や友人を見回しても、私は恵まれている方だと自負している。

まず何が一番幸せかといえば、家族全員が健康であるということである。

2番目に長男が国立大学に入ってくれたことである。

これで長女が国立に納まってくれれば、万々歳である。

そんなうまい話があるものではないと自分でも思っている。

そんな棚ぼた式にうまい話が転がり込んでくることはまずないと覚悟はしているつもりである。

今、幸せの絶好調ということは、次は下降すると言うことである。

我々の周囲を見回しても、人の幸不幸は、サイン・カーブと同じで、山あり、谷ありで、決して一直線で等級的な上昇カーブはありえない。

上昇カーブがあれば次は下降カーブである。

私は、50歳にして人生カーブの頂点にいるようなものである。

これからは下降線になると肝に銘じている。

親父だって80歳を超えており、柏森の両親でも同じように80歳をオーバーしているわけで、何時天に召されても不思議ではない。

そういう状況を見ても、よいことばかりが続かないことは目に見えている。

だから無理なこと、危険なこと、計画性がないことは自重している。

しかし、こんなくだらない自叙伝を書く程度のことは金もかからず、人にも迷惑をかけず、全く無益無害な遊びである。

とにかく、娘がどこかに納まるまでは自重しなければならない。

けれども、自分の過去を書き留めておくことと、将来を自重することとは何の関連もない。これが私の生き様であり、自分なりに一生懸命生きてきた証である。

前にも書いたとおり、誰も読んでくれなくてもいい。

私の本棚に転がしておくだけでいい。

所詮、私の自己満足すぎない。

これから先、何年生きられるか知らないが、愚痴らず、朗らかに、明るく生きたいものだ。

 

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