自分史7
小牧北工場立ち上がり
痔の治療も終わり、誰かの送別会を八百津の養鱒場でやって、南工場に帰ってきて消防車庫の裏あたりを通り掛かったとき、当時の係長であった槌田得一氏に呼び止められて、「今度北工場が出来るが、そちらに行ってくれないか」と言われ、「一日考えさせてくれ!」と言って翌日返事をしたことがある。
三菱重工が、小牧の北東、下末、上末にかけてあれほど大きな土地を取得していたことなど、その時点まで知らなかった。
ただ大きな土木工事が始まっているな、ということは知っていたが、まさかあの全部が三菱重工の土地だとは想像もしていなかった。
それで、この北工場の先発隊が結成された。
最初、私の班は岡田昇さんと佐々木富吉さんと私の3人であった。
反対班は、高橋仲治、鈴木繁正、石田一夫というメンバーであった。
この6人のメンバーで、小牧北工場の保安の立ち上がりというか、先発隊が出来上がった。昭和48年、1973年のことだったと記憶する。
この時点で、北工場のメインの建物は、何一つ完成されておらず、すべての建物が建設の途中であった。
今の名誘本工場が産声を上げたときであった。
テストセルは外側のコンクリートのみ出来ており、組立工場(今の第1工場)も、外側だけしか出来ておらず、建物の中ではブルトーザーやパワー・シャベルがまだ土を掘り返していた。
保安の建物はプレハブ建築であったので、一応は完成はしていた。
けれども、いかにも間に合わせという感じのプレハブであったので、早く完成はしたものの、将来性のある恒久的なものではなく、その後も工場の拡張ごとに、北へ北へと移転していった。
はじめからその目論見であったのかもしれない。
このときの保安の事務所は、東向きに窓があり、その窓の外側にも内側にもカウンターがあり、内側のカウンターの下にテレビをはめ込んで、勤務中は画面の前に蓋をかぶせてカモフラージュしていた。
これは実に具合の良いやり方であった。
視線をほんの少しずらすだけで、本来の業務とテレビの両方を見ることが可能であった。内側のカウンターの前に椅子が二つと、その南側にデスクが一つあり。北西の角に炊事場というか、休憩室というか、流しとテーブルがあり、その横に仮眠所があった。
何しろ、片班3人だけの所帯であったので、それだけにこじんまりしていた。
その時のメンバーの岡田昇さんも佐々木富吉さんも実に良い人たちであったが既に故人となってしまった。
岡田昇さんはこの時点でまだ消防消長にもなっておらず、8月に北工場に配属されて、その翌年の4月に初めて4級になり、消防長に任命された。
かなり思い切った人事であった。
本来ならば、こうした新設の立ち上がりのセクションには、最初から4級なり、5級の人間をもって来るべきであろうが、3級のまま配属しておいて、実績を見て上げるなどとは、管理職の魂胆が見え見えであった。
まあ既存の工場から見れば、僻地であり、苦労しなければならないことが最初から判っているので、上の人も上手に逃げたに違いない。
それにしても、岡田さんも、佐々木さんも、私もよく頑張ったと思う。
何しろ、何もないところから形を作るということは、ある意味では難しいが、それなりに遣り甲斐もある。
手本とか参考にするものが何もないので、自分の経験と判断で、自分でレールを敷いていかねばならない。
そういう意味で、我々、先発隊は大変でもあったが、面白みもあった。
けれども、物理的な不便さは何とも仕様がなかった。
何といっても最初は水の問題があった。
保安の事務所までは水道が完備されておらず、まず水汲みからしなければならなかった。井戸というのが、大山川沿いの西門の傍にあって、そこから運んでこなければならず、ポリタンクに汲んでは、炊事場まで運んだものだ。
最初はまだ井戸も完成しておらず、工事用の簡易水道であった。
今は消防用の井戸になってしまったが、あの井戸は深く、120mぐらい掘り下げてあると聞いた。
けれども、井戸というのは深ければいいというものではなく、深すぎて、鉱物質が多く、飲料には適さないと、後から聴いたように記憶する。
しかし、その時点では、そんなことは知る由もなく、あの水でお茶を飲んだり、ご飯を炊いたりしたものだ。
あの井戸からポリタンクに汲み、それをジープで運んで使用したものだ。
あのジープの消防車も傑作であった。
元は大江工場で使用していたらしいが、後部に粉末の薬剤を積んでいたので、重心が高く、ジープ本来の機動性が全くなかった。
その上、左ハンドルで、そろりそろりと運転していたように記憶する。
このジープの消防車も半年ぐらいの間で、その後、4トン車の新型の消防車が配置された。そして、その年の秋にはテストセルも、組立工場も、一応完成して、大幸工場の発動機部の組立課の一部が移転してきた。
最初のうちは、新しく展開したもの珍しさも手伝って、いろいろなセクションから少しずつ社員が出張してきていたので、かなりの人数になっていたが、それでも250人程度であった。
小牧北工場、名誘本工場は、工場の出来上がる前から、隅から隅まで知っているつもりであるが、昭和61年、1987年、大幸工場が本格的に小牧北工場に展開した時点では、以前の知識ではついていけないほど急速に大きくなってしまった。
一度に大きくなってしまったので、隅から隅まで知るということが不可能になってしまった。
名誘本工場となった、元の小牧北工場を、亡くなった岡田さんや、佐々木さんに見せたやりたいものだ。きっと驚くに違いない。
この北工場の土地取得がいつから始まったのか知らないが、昭和48年の時点で展開したのは、その10分の1ぐらいのスペースしか利用していなかった。
東名・名神高速道路に寄った、ほんの一部しか利用していなかったので、その後、小牧市に再び買い戻されてしまった。
その買い戻された部分に、小牧勤労センターが出来、カシオが出来てしまった。
この間の事情は、大幸にいたのでその経緯は知らないが、それにしても惜しいことをしたものである。
あの当時は実に広大な土地であった。
一番最初のマスタープランでは、今の勤労センターのある部分には社宅が出来ることになっていた。
あの辺りは、私が子供の頃、本当に良い米の取れる美田であった。
そして現在の土地は2mぐらい埋め立てられているはずである。
その頃、北外山の家から下末、上末というコースで通っていたが、高速道路をくぐった辺りから、あの道路に沿った民家は全部立て替えられていたので、きっとこの人達が三菱に土地を売ったのであろう、と思いながら車を運転していたものだ。
保安の事務所の窓から、目の前の埋立地を見ていると、埋め立てたばかりの最初は、草一本生えていなかったものが、だんだん草が生え、一本が二本になり、二本が三本になって、ついには一面草原になってしまった。
全く、雑草の生命力には驚かされる。
あの広大な土地は、一面まっ平らではなかった。
ところどころに水抜きのため、溝が出来ていた。
ジープで巡視に出るときは、その溝に注意する必要があった。
幸い一度も落ち込んだことはなかったが、それだけ熟知していた証拠かもしれない。
建物が完成し、建築業者が逐次引き上げて行った後、工場らしくなってくると、我々のほうの仕事も順調に機能するようになった。
そうすると又別の問題が出てきた。
というのは、広大な土地であるので、工場とは知らずに迷い込んでくるものや、空き地だと思って、知らずに使用するものや、又反対に、借用したいといってくるものがいた。
まず最初が、社員のゴルフである。
その次が、野球のグランドとして、次がラジコン飛行機の練習場として、はたまた魚つりの投げ釣り大会の会場として、貸してくれという要求が来たこともある。
最終的には三菱自動車のモーター・プールとして貸したこともある。
このモーター・プールについては、駐車中の車のタイヤが盗まれたことがあり、ひと悶着したことがあった。
北側の道路から門を入って南に下ってくると、沢山並べた車の真ん中辺りが少し傾いたり、低くなったりしているのがあって、それがタイヤを盗まれた車であった。
4本とも盗まれた車は周囲より少し低くなっていた。
この盗難事件では、自工の側は保険に入っていたので大して問題にしていなかったが、我々、預かっている側は、その自工の態度に大いに腹を立てたものである。
結局、それが原因で、自工のモーター・プールはその後一度もなかった。
岡田昇さん
ゴルフの件というのは、当時、南工場の工場長室にいた須藤顧問と、ヘリコプター課の東門係長が、休みになるとゴルフの練習に来ていた。
ゴルフの練習が終わると、事務所に立ち寄られるので、お茶を出すとゴルフ談義を一くさりして帰るのであるが、このゴルフ談義を聞いているうちに、我々もやってみようかという話になって、それぞれにアイアンの5番と、練習用のボールを買い込んで始めてみた。岡田さんは、これがきっかけで、その後かなりのめり込んでしまった。
私はそれほどのめり込まなかった。
始めからこれは私には向いていないと思っていたので、夢中になるまでは行かなかった。岡田さんは何でも夢中になる性格のようだ。
この少し前に、ボーリングが流行ったことがあったが、あの時ものめり込んだ時期があった。
私も誘われて何度かついていったことがあるが、やはり少しばかり覚めた目で眺め、斜めに構えて、心底夢中になるということはなかった。
ところが岡田さんはボーリングでもかなり夢中になり、マージャンが流行ると、これにも夢中になり、せっせと通いつめ、次はゴルフである。
しかし岡田さんも、ボーリングにしろ、マージャンにしろ、夢中になるといっても少しはコントロールしていたようであるが、ゴルフだけは相当打ち込んで、結局死ぬまでゴルフはやっていたようだ。
死ぬときも、ゴルフに誘われていたのを断って、業界の慰安旅行についていったばかりに命を落とすことになったようだ。
岡田さんの死の真相は定かではないが、葬儀の日に、人が話し合っていたことを総合すると、会社の連中とゴルフに行く約束を断って、メーカーか、問屋さんの招待旅行に参加して、宴会の後風呂に入り、風呂の中で倒れたと聞いたが、これが真相だろうと思う。
その時、まだ61.2歳であったはずで、まだまだ活躍してもらわなければならなかったけれど、惜しい人を亡くしたものである。
岡田さんには、特別可愛がってもらったような気がしてならない。
北工場への配属も、岡田さんが私を選んでおいてくれたと、後から人から聴いたことがある。
その後、大幸工場でも、一時期、一緒に勤めたことがあった。
家にも何度か来てもらったことがあり、家内もよく知っており、岡田さんの家にも何度かお邪魔に上がったものだ。
岡田さんは中津川に別荘を持っていて、この別荘に何度か泊めてもらったが、あまりにも山奥で、ここに行くと半分原始人に戻らねばならなかった。
やはりネックは水汲みである。
別荘の中に水道が来ておらず、外の泉まで汲みに行かなければならず、これが難点であった。
すべてのセット・アップが完了して、焼肉でビールを飲むときは楽しいが、その後先のセット・アップが大変である。
それでもキャンプはキャンプで楽しいものである。
ビールや酒で酔っ払ってしまえば後は雑魚寝である。
この別荘は、軽井沢にあるような赤い屋根の瀟洒な別荘ではなく、母屋を立て替えたときの廃材を利用して立て直したもので、快適とまでは行かないが、文字とおり自然の生活が出来る。
雨露がしのげるという程度のものであるが、それでもバーベキューをしながら飲むビールは美味かった。
そんなわけで岡田さんには公私にわたって世話になった。
それともう一人、北工場立ち上がりからのメンバーで佐々木富吉という人がいた。
人格まことに穏やかで、人情こまやかな人であった。
手先も器用で、いろいろなものを作ったりして、メンバーから慕われていた。
この人も、会社生活では不遇で、最後まで役職にも付けず、下積みの生活を余儀なくされていたようであるが、その点気の毒であった。
会社の制度が私の入社した昭和44年に大幅に変更になったが、この時も報われることなく過ぎてしまったようだ。
大体、三菱のような大企業においては、身分制度が実に強固に確立されており、この隙間に落ち込んでしまうと、どうしても上がって来れないシステムになっている。
封建的というべきか、全く無意味な人事が罷り通っている。
佐々木さんのように、保安の生き字引のような人が冷遇されている。
人事の考課システムがなかなか改善されない。
私が入社した時点で、保安の中に警務と守警という階級が存在していた。
それで、入社したての私など、同じ仕事をしているのに階級が違うなどということは、理解できずにいた。
自衛隊には階級があったが、あれは階級により、それぞれ仕事のレベルが違っていた。
あれはあれで納得できた。
階級が上がるためには、試験と業務の実績の両方で評価をされ、まあ公明正大なシステムと納得していたものであるが、三菱の保安の場合は、そうしたものは一切なく、実にその辺が曖昧模糊としていた。
だからいくら温厚実直でも、上司のさじ加減一つで、いつまでも下積みの生活を余儀なくさせられた人が佐々木さん以外にも大勢いたことと思う。
それが昭和44年に改正され、当時、新従業員制度と言っていたが、以前よりは明確に昇給昇格のシステムが確立された。
それでも査定するほうの人が、意識改革をして、しっかりしないことには、いくら良いシステムでもまともに稼動しないことは以前と同じである。
いくら良いシステムが出来ても、それを運用する側の意識が変わらないことには、「仏作って、魂入れず」で終わる。
佐々木さんの場合、以前の工員籍で採用されていたらしく、何年保安の飯を食っても、何時まで経っても、消防長にもなれず、班長にもなれず、見ていて気の毒だなあと思いながらも、私ではどうすることも出来なかった。
岡田さんの場合でも、3級で北工場の展開という重大な局面に、責任だけ負わされて配属されているので、当時の管理職の人事に対する考え方というものは全く馬鹿げた話である。度胸がいいというか、無知というのか。
それでも岡田さんと佐々木さんと私で、北工場にいる間だけでも愉快に過ごしたい、という暗黙の了解のようなものが出来上がっていて、何もせずにボーッとしているよりは、何でもいいから体を動かしていたほうが良い、と言うことで、工場を建てたときに出た廃材を利用して、大きな物置を作り上げたことがある。
こういうときのアイデアは、岡田さんも素晴らしかったが、佐々木さんも実に手際よく仕上げられた。
アイデア、要領というのは、机上の学問と違って、やはり経験からくるものらしい。
本職の大工さんと比べ、なんら遜色ない出来上がりであった。
この物置は、あまり立派に出来たので、物置にしておくのはもったいないぐらいであった。我々は自己満足を込めてそう思い、自画自賛していたが、あまり立派過ぎて、経理課からクレームがついてしまった。
というのも、広さが6条間ぐらいで、仕上がりもうまく出来ていたので、もうちゃちな物置では通用せず、固定資産になってしまうということで、クレームがついた。
まあその点は話し合いで何と解決したが、結局、固定資産として計上されてしまった。
その後は、保安の建物として計上されたことにより、それが実績となり、保安所管の建物の面積が大きくなってしまった。
けれども、すぐに組立工場のほうの拡張工事が始まって、取り壊しの運命であった。
ああいったものを、皆の力で作り上げた、という実績はよい経験であった。
その後、正月に会社に出勤しても、「テレビばかり見ていても仕方がない」ということで、この物置の前に日本庭園を作ったこともあった。
これも遊び半分、暇つぶし以上の仕事でしたが、やはり佐々木さんが実力を大いに発揮して、築山もあり、池もある、一坪ほどの箱庭が出来上がった。
正月明けで、出勤してきた社員がびっくりしていた。
その後、岡田さんも佐々木さんも転出されて、その後に鈴木繁正という人が上司になった。この人も、人は良い人で、日進町の田舎の人でしたので、人柄はまことに申し分ないが、やはり会社という組織の中で、組織的に人を管理して仕事をするという、サラリーマンにはちょっと向いていない感があった。
百姓の親父さん、というイメージが抜け切れない面があった。
けれども、この人にも今までの先輩、上司と同じように、公私共にお世話になった。
人間にはやはり持って生まれた天性というものがあって、管理する側の人と、管理ばかりされる人とは別れるようだ。
管理する側の人が頭がいいとは決して思わないが、いつも管理ばかりされている人が、例えば、鈴木さんのような人が、管理する側に回ると、どうもやることがぎこちなく、不手際が多かった。
それでも大過なく過ごせたし、無事定年を迎えられた。
この人の送別会は島倉千代子の観劇であったが、企画も面白く、本人も喜ばれ、他の参加者も大いに楽しんだようだ。
この時の幹事が私であったが、良い送別会が出来たと思っている。
市民講座
北工場から南工場に配置換えがあった頃、(昭和51年、1976年)、仕事にも十分慣れてくると、毎日の生活のリズムがマンネリズムに陥った。
こんなとき、会社では同僚たちがパチンコの話をして、儲かっただの、負けただのという話を聞いて、自分でも一度やってみようと思っていた。
それで、家にいても退屈で、退屈で、それでいて本を読む気力もないとき、自転車でひょこひょこと小牧のパチンコ屋に出掛けて2,300円やってみた。
玉を入れ、右手でダイヤルを回して、そのまま握っていたら、玉が途中の穴に入り、下からぞろぞろ出てきた。
上の段も下の段も玉がいっぱいに貯まってしまった。
途中、こんなに玉が出てきていいものだろうかと心配になってきた。
右手のダイヤルをじっと握っていれば、玉はいくらでも出てくるような気がして、ほどほどのところでやめてしまった。
その玉を小さな箱、二箱ぐらいだったと思うが、カウンターに持っていって、全部チョコレートに換えて家に持ち帰った。
丁度、長男が幼稚園に入るか入らないかの頃であったが、そのチョコレートを見た家内が、その後「金を出すからパチンコに行ってきてくれ」と言うようになってしまった。
家で所在無くボーとしていると、必ず「金を渡すからパチンコに行ってきてくれ」というが、その後は一度も行ったことはない。
大体、あれは不健全な遊びだ。
大の大人が、右手でダイアルを握って、小さなパチンコ玉を行方を追っている姿など、不健全極まりない。
そもそもパチンコは、もともと子供の遊びであったはずである。
始めはおもちゃ屋の店先に置いてあった。小学生が群がってやっていたものだ。
小牧の中町の消防団の前、火の見櫓の前にあったおもちゃ屋の前の店先に置いてあったのを覚えている。
その後、小牧の中町だけでも本格的なパチンコ屋が2,3軒出来たが、すぐに倒産したようだ。
中町に家にいた頃、夜になるとパチンコ球を洗う音が聞こえたものだ。
夜、パチンコ玉を洗う頃になると、もう完全に大人の遊びになっていた。
子供の遊びと思っていたものが、いつの間には18歳以下禁止になってしまった。
小牧の町では、当時、パチンコ屋の過当競争があったのだろう、泡沫パチンコ屋はすぐになくなってしまった。
仕事面でマンネリに陥った頃、これでは駄目だと思って、
始めからそう長続きはしないだろうと思っていたが、それでも3年間ぐらいは続いた。
あれは夜6時半から2時間ぐらい、小牧の市民会館で行われた。
講師には小学校のときから知っていた栗木勝美先生や、佐々先生、津田先生と3人いた。市民講座の先生というのは大変だろうと思った。
支払いだってそう多くはないだろうし、夕食後の家族の団欒を犠牲にしなければならず、全くのボランテイアに近い仕事だろうと思いながら世話になった。
教えを請う方は、それなりに積極性というか、向上心があるから、それほど苦にはならないだろうが、講師の方は、その点なかなかできることではないと思う。
市民講座も初めはデッサンから始まった。
デッサンの練習も楽しかった。
ビーナスやトルソーを、鉛筆一本で書くというのも、やってみれば結構楽しいことであった。
先生が一口アドバイスをし、それを素直に受け入れると、全く違った感じになった。
そうしてアドバイスを受けながらのデッサンの練習は意義のある時間であった。
それから絵筆を持つようになったが、これも最初は何をしていいかさっぱりわからなかったが、先生からアドバイスを受けるたびに新しい発見があった。
デッサンも油絵も、書いている間は楽しいものである。
最初のうちは何もわからないので無心にやっている間は良かったが、そのうちに毎日メンバーが同じなので、あれよりは上手にとか、あれには負けたくない、という欲が出てくるともう無心には戻れなかった。
絵というものは感覚の問題で、上手、下手はないはずであるが、それでも先生が、あれは良いとか、これが良いとか言うのを聞くようになるといけない。
無心になるということがなかなか難しく、こうなると自分との戦いになってくる。
そうすると、はじめは遊び半分の気持ちであったものが、だんだん気が重くなってきてしまった。
それでも小牧の市民展で特別賞をもらったことがある。
機会があれば再度始めてみたいと思っている。
この頃、名古屋大学の公開講座にも出掛けたことがある。
新聞広告で開催を知って、名古屋大学の豊田講堂まで申し込みに行って、受講したものである。
しかし、勤務の都合で半分ぐらいしか出席できなかった。
それでも行った分だけでも得したと思っている。
この時、名古屋大学の経済学部の教室というのをはじめて見たが、その汚さには驚きもし、腹も立った。
公開講座の内容は原子力発電に関するものであったが、その内容よりも、教室の汚さに腹が立ったことのほうが、強烈に印象に残っている。
国立大学の教室というものは、国家の財産である。
それがこんなに荒らされているとは何事かと腹が立った。
学校の施設、ひいては公共施設を大事にするということを、日本の最高学府である大学が疎かにしていることに非常に疑問を抱いた。
小学校、中学校、高等学校までは、自治体の施設かもしれないが、それを使用する生徒にちゃんと掃除をさせて、きちんと管理させているのに、最高学府である大学で、それをさせていないことになんともいえぬ腹立たしさを感じた。
それを利用する学生と教師が、使いっぱなしにしておくことに不満を感じた。
私立大学ならば、金を出して掃除するということも可能であろうが、国立大学ならば、当然、受益者負担で、自分たちの使ったものは自分たちで清掃管理するべきではないのか?
昔の大学生は大変なエリートであった。
入学者の数も少なく、数少ない進学希望者の中から選抜された上、本当のエリートであったが、最近は数多い進学希望者の中から一応選抜されるとはいえ、数多くの入学者を入れているので施設の管理ということも難しいということは理解できるが、それにしても大学の施設というのは公共の施設であることに昔も今も変わりはない。
あの教室はあまりにも汚かった。
同じ国有の施設でも、自衛隊の施設とは数段の違いである。
同じような国有の施設を維持管理するのに、こうした違いは何処から来るのであろう?
公徳心というのは学歴に反比例するのであろうか?
大学生に掃除をせよとまでは言わないが、施設の維持管理はもう少しどうにかならないものだろうか?
60年代の学園紛争のとき、この経済学部の状況がどのようなものであったか知る由もないが、恐らく荒れに荒れていたことだろう。
しかし、どのような状況下においても、国家の施設を壊していいということはありえない。国の施設というのは、国民の税金で管理運営されているのであって、汗水垂らして働いた人の血税で出来ているのである。
「駕籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」の話ではないが、それこそ「草鞋を作る人」の汗で「駕籠に乗る人」が勉強できているわけである。
ひとり名古屋大学の学生だけのものではないはずで、その後、何年、何十年と続く後輩のためにも、国の施設というのは大事に維持管理しなければならないはずである。
それを学園闘争の場として、壊してしまうなどは言語道断である。
あの学園闘争の連中も、私と同世代か、少し若い世代である。
一応、並みのサラリーマンになっているとすれば、そろそろ管理職になっているはずであるが、30年前の安保闘争や学園紛争で、ヘルメットを被り、角棒を振り回した連中は今どういう気持ちでいるのだろう。
革命が起きなかったところを見ると、やはり社会のどこかに隠れて生活しているのだろうか?
それとも見事に変身して、体制側で人を管理しているのだろうか?
大学生ということは、それなりに頭も良いので、変わり身も早く、尚且つ、変身も上手なのかもしれない。
いずれにしても、革新と称する人たちの言うことは信用できない。
あの安保闘争を見てみるが良い。
安保が通れば今にでも戦争が始まるようなことを言っていたのに、その後の日本は、経済成長を遂げ、オリンピックもできたではないか。
あの時、革新と称して闘争の先頭に立っていた共産党や社会党、それに同調していた大学の先生や評論家は、日本のそれ以降の発展をどう説明するのか?
自分たちの言っていたことが間違っていたことに対して、責任は取らなくていいのか。
社会党は謝罪しなくていいのか?
共産党は謝罪広告を出さなくてもいいのか?
全く国民を馬鹿にした行為である。
しかし、それに同調した国民の側にも、あの闘争は間違っていたという認識がない。
全く付和雷同で、自分で考えるということをせず、人の言葉に惑わされ、右往左往、「あっち向いてホイ、こっち向いてホイ」である。
古い言葉で今は死語になっているが、「憂国」という言葉を思い出す。
日本全国、津々浦々に至るまで、今は、この憂国ということがなくなってしまっている。別に、右翼を礼賛するつもりはないが、この憂国という言葉から、三島由紀夫が必然的に連想されてくる。
「国を憂う」ということが、今は表現できない状況になっている。
しかし、まともな知識人ならば理解できると思うが、こうした常識的な、素直な、人の道として当然な考え方、意見というものは、最近流行らなくなったマイナーな意見である。
反体制でなければマスコミは取り上げてくれない。
反体制のポーズをとり、政府の悪口を言い、自民党をこき下ろしていれば、マスコミがちやほやしてくれるという社会現象である。
大学生が自分たちの教室を汚く使っていいはずがない。
名古屋大学の公開講座に出席しながら、こんなことを考えつつ、夜、車を走らせて通ったものだ。
末長のまったけ
昭和51,2年の頃だったと思うが、私が北から南に移って、末長義徳君とコンビを組んで班の幹事をしたことがあった、
その頃のことだったと思うが、末長の奥さんの実家がまったけ山を持っているということで、一度末長君から誘われたことがある。
あの時は、宮島善比呂、谷本明、和途勝幸、その他2,3人のメンバーだったと思う。
車2台で末長君の家にお邪魔して、まったけ狩りをしたことがある。
末長の配慮か、誰の配慮か知らなかったが、とにかく若い連中ばかりであった。
それで末長の家まで車2台で行って、そこに車を置いて、後はぶらぶら歩いていったように記憶する。
木曽川沿いの下麻生であった。
国道41号線の脇に末長君の家があったが、こんな遠いところから通勤するのも大変だなあと話し合いながら、宮島の車に乗っていた。
私は、その辺りを車で何度も通過していたので、知ってはいたが、末長の家が此処だと、はっきりは知らなかった。
えらく遠いところから通っているものだと感心した。
それで末長の家に車を置いて、少し戻って、下麻生の旧の集落に入って、何か買い物をしたようだ。
その時の街道が、それこそ中仙道か東海道そのままの佇まいで、素朴で、懐かしい町並みであった。
昔の宿場という感じであった。
そこで道具を準備したのか、何を買い物をしたのか、定かに覚えていないが、そこから山に入った。
この辺りの山はそれほど高い山ではないが、松林の中に入って、斜面を登るわけであるが、素人ではなかなかまったけを見つけることが出来なかった。
末長は慣れているので、手を後ろで組んで「そこにある、ここにある」と教えてくれるが、腰を屈め、地面をなめるように探しても、見つからなかった。
やはり物事には要領というものがあって、慣れた人には何でもないことが、不慣れな人ではさっぱり要領を得ず、気ばかりあせって、どうしようもなかった。
結局、私が自分で見つけたのは1本か2本であった。
山の斜面の松ノ木の根っこのところを2時間ぐらい探し回った後で、山の尾根のようなところに集合して、自分の採ったものを全員が提出した。
全員では2、30本はあったであろうか!
そこにはコンロと酒が用意されていた。
末長の奥さんのお父さん、義父が、あらかじめ用意して置いてくださったものだ。
それで、此処でまったけのバーべキューというか、とにかくまったけ三昧のご馳走にあずかった。
まったけの刺身というのがあるかどうか知らないが、まったけを生で、手で裂いて、少しコンロの火であぶって、醤油を付けて食べるのであるが、これが素晴らしく美味であった。それから焼きまったけ、これも実に美味であった。
その後でまったけご飯。こんなまったけ三昧は生まれて始めてのことであった。
あれほどの贅沢は、その後も経験ないし、これからも出来ないであろうと思う。
岡田さんの別荘で、バーベキューをしたこともあるが、あれとは又別の贅沢さであった。山の尾根で行われたまったけバーベキューは実に楽しくかつ贅沢であった。
どういうわけか天気もよく、最高に幸福な一日であった。
帰りはお土産までもらってきた。
お土産は一人5,6本のまったけであったが、それを家族にも食べさせてやったし、前の両親にも、柏森にもお裾分けしたように記憶している。
あの頃から日本ではまったけが採れなくなって、朝鮮から輸入しているという話である。
まったけそのものが高価であったので、とても自分一人で食べてしまうことは出来なかった。
それにしても野外で行うバーベキューというのは楽しいものである。
これを最初に体験したのは、航空自衛隊で当別にいたときにクルーのパーテーを当別川の川原でやったときである。
この時はジンギスカンであった。
ビールを川の水で冷やし、ジンギスカンの脂が焚き火の中に落ち、白い煙が漂っている中で飲むビールの味もうまかった。
その後、岡田さんの別荘で、これは山の中での焼肉であったが、これもまた同じように楽しかった。
それと今回のまったけのバーベキューであるが、屋外で、自分たちで調理しながら食べるということは、特別な楽しさがある。
それと調理が単純なので、素材の本当の味を賞味するという点で、家庭やレストランで食べるのとは違った美味しさがあるのかもしれない。
それと、やはり野外という開放感も影響していると思う。
最近はアウトドア・ライフと称して、野外での生活が見直されているが、人間が贅沢になって来ると、こうした傾向になるのも致し方ない面があると思う。
大勢の人間が、あちらでもこちらでも同じようなことをするようになると、きっと問題が起きてくるが、自然を楽しもうと思っている人は、決してトラブルを起こさないように心掛けたいものである。
キャンプの跡や、バーベキューの跡を上手に片付けて、世間一般から顰蹙を買うことのないよう、末長くこうした活動が出来るようにしたいものである。
家族旅行
自然の中で遊ぶということを、もっともっと子供に体験させてやりたかった。
そういえば、子供と一緒にキャンプをやったということがない。
旅行にはよく連れ出したけれど、キャンプということはなかった。
というのは、私は性格がズボラで、少々のことは無頓着であるが、家内は用心深く、子供をつれてのキャンプなど心配で出来ないと思っていたからである。
だから家族旅行でも必ず宿を確保してからでないと出掛けられなかった。
私なら、行き当たりばったり、その辺でテントを張ったり、車の中で寝るということも出来たが、子供連れとなると家内がなかなか納得しなかった。
それで、会社の保養所はかなり利用した。
しかし、これも子供が小さくて、比較的時間が自由に取れる間だけのことで、子供が大きくなって、子供自身の時間が自由に取れなくなると、自然に回数が少なくなってしまった。それと子供たちも成長してくるに従い、親と一緒よりも子供同志のほうが大事になり、家族旅行も自然に消滅してしまった。
子供を、幼児のうちにいくら連れ出しても、子供自身あまり覚えていないようだ。
まあそれも当然といえば当然である。
子供の為とはいえ、半分は親のほうが旅行したくて、子供を置いていくことが出来ないので、仕方なく連れ出したという面が無きにしもあらずである。
最初、ミニカ70に乗っていた頃はオマルまで積んで出掛けたものである。
その後、ギャランFTOになったら、屋根の上に子供用のプラスチックで出来た赤いソリを括り付けて、スキーに行ったものだ。
子供が小さかった頃は、会社の施設を利用して、実によく旅行したものだ。
東は伊東山荘、西は博多まで。
博多行きは従来の旅行とは少し違っていたが、数ある家族旅行の中でも志賀山荘は特によく出掛けたものだ。
大抵は3月の終わりから4月のはじめ、学校が休みに入って、まだ雪が残っている時期を選んで行ったものである。
あれは息子が小学校から中学校にかけての時期であった。当然娘も家内もついていった。
あの保養所はスキーをするには最高の保養所である。
朝早めに家を出ると、昼過ぎに到着できて、コンデイションが良ければ、その日のうちにスキーが出来るくらいである。
今は高速道路が出来たので、もっと時間は短縮できるかもしれない。
最初の頃は、国道19号線を上って、塩尻、松本、長野というコースで行ったが、何しろ時間が掛ったような気がした。
道中だけで一日見ておかなければならなかった。
あの保養中は、玄関でスキーを付けて、そのままゲレンデに通じていた。
着いた翌日、朝、玄関でスキーを付け、そのままゲレンデに行くと、丁度、ウオーミングアップをしたことになる。
そして私が先頭で、その後に子供達が続き、しんがりが家内だ。
子供達は健気に行いてくる。まるでカルガモの親子みたいなものだ。
ゲレンデに着くと、大抵は、私が最初一人で滑りに行って、疲れてくると家族のところに戻ったりしていた。
小さな子供に、自分が習ったときのようなことを、口で言っても仕方がないと思っていたので、技術的なことは何も言わずにいた。
けれども、小さな子供はすぐに順応するので、口で教えなくても、ほどほどには覚えるものである。
志賀高原に来るまで、美濃のひるがの高原や、息吹山のスキー場には悟義兄さんとは何度も行っているので、感覚的にスキーが体に染み込んでいたようで、志賀高原に来ても、特別に教えるということは一切しなかった。
スキーをつけて、その辺で遊ばせておくといった感じであった。
それでも何度目かの時、子供をリフトに乗せてかなり急な斜面に向かった。
これは私でもスムースには滑れないと思って、一つ一つのギャップをクリアーしながら降りなければと思って、少し降りては子供たちを見、少し降りては子供たちを見ながら降りてきた。
子供のことだから、転がってでも下まで降りればいい、と思っていたが、結局子供たちも案外素直に降りてしまった。
私が苦労して苦労してマスターしたものを、子供達は大した苦労もせずマスターしているびっくりしてしまった。
子供の順応性ということは、実に素晴らしい物である。
20歳を過ぎて、苦労に苦労を重ねてマスターしても、子供の頃からスキーになじんでいれば、意図も簡単に同じことが出来てしまう。
このときは、息子も娘も、私の後をついて難なく降りてきてしまった。
私が彼らの目の前にいたので、安心しながら滑って来たのかもしれないが、それにしても驚いた。
その点、家内はいつまで経っても初心者の域を出ない。
結婚したての頃は、「志賀高原にスキーに行った!」と自慢していた。
私は北海道でやっていたとは言うものの、こちらのスキー場は白鳥と伊吹山ぐらいしか知らないので、彼女も少しは出来るだろうと思っていたが、何時まで経っても若葉マークである。
スキー行きはいつも家族一緒だったので、息子や娘と同じ回数だけ通ったはずであるが、子供達にはとても及ばない。
やはり大人になってからでは感覚が身につかない。
自分のことを振り返ってみても同じことが言えるが、感覚というものは、子供にはかなわない。
子供達に、これだけスキーを覚えさせることが出来たのも、悟義兄さんの協力があったからである。
あの人には、ひるがの高原から伊吹山まで、子供がオムツをしている頃から連れていってもらった。
それと道具のお古を借りれたことが最大のメリットである。
スキーの道具からスキーウエアーまで、ほとんど全てのものにお古が拝借できた。
あれを全部自分が買わなければならないとなると、スキーに行く金がなくなってしまう。その点大いに助かった。
こんなわけで、志賀高原にはスキーによく出掛けたものであるが、スキー・シーズン以外にもこの志賀高原には出掛けたものである。
オフ・シーズンの志賀高原も素晴らしいものがある。
志賀山荘で一泊して、翌日、草津に抜け、鬼押し出しに行って、軽井沢を通ったこともある。
その逆コースのこともあった。
一度など、沼田まで行って、もう少しで日光というところまで足を延ばしたこともある。不思議なことに、この軽井沢や鬼押し出しのコースを名古屋の人はあまり知らないようだ。会社でも、鬼押し出しに行ったことのない人が結構いる。
此処は浅間山が噴火したときに出来た溶岩で、まるで地獄の賽の河原のようなところである。
火山灰に中に溶岩がごつごつと露出しており、軽井沢から登ってきた場合、左手に浅間山を望みながら、その火山灰と溶岩の間を直線道路が走っており、その道路が尾根になっている。
溶岩の一番沢山あるところに展望台があり、レストランや博物館があった。
九州と島根
九州博多に旅行したときは、いつもの家族旅行とは趣を異にしていた。
あれは長男が小学6年生の夏休みであったから、昭和57年1982年のことだったと思う。
当時、信夫一家が博多に転勤になっており、「博多にいる間に一度遊びに来い」というものだから、その言葉に甘えて、お邪魔に上がった。
このときも私は車で行くつもりであったが、親父も、柏森の両親も「車は危険だから止めるように!」と言うし、最後は「旅費を出すから車で行くのは止めてくれ!」と大騒ぎになって、結局、旅費を出してもらって車でいくことは止めた。
私にしてみれば、会社の同僚で九州から来ている人たちは、全員車で九州を往復しているので、車でも十分できると思っていたが、結果的には飛行機で行って新幹線で帰ってきた。男の子なら大抵そうだと思うが、息子がこの時期こうした乗り物が非常に好きになっていて、飛行機にしろ、新幹線にしろ、彼が興味を持ったものを全部体験させてやったようなものだ。
当日の朝、タクシーで家族全員、名古屋空港に乗りつけた。
子供たちは、タクシーで家族全員が一緒に出かけることを非常に喜んでいた。
それで飛行機に乗り、博多に着いたら、信夫が迎えに来てくれていた。
信夫の家は空港から1時間ぐらいのところだったろうか。静かな住宅街の中にあった。
その日の夕食は、和子さんがはりきって歓待してくれた。
鯛の刺身だとか、他にも海の幸で、大ご馳走をしてくれた。
翌日は中の海というのか、金印の出た島を見物に行った。
この金印の出た島というのは、もっと丁寧に見ておくべきであった。
それでも島全体が砂地で、丁度、川原に出来た砂洲のような島だと思った。
海抜0mという感じで、道路が波に洗われそうだとも思った。
金印の出た場所には碑が建っていたが、この碑の周辺は、手入れがなされておらず、夏草が茂っていた。
又、信夫が博多の町を案内してくれた。
大宰府八幡宮にも連れて行ってくれ、ビジネス街にも連れて行ってくれた。
あの時は2泊ぐらいしたと思うが、大変世話になった。
あの時、信夫は古いマツダコスモに乗っていたので、関門海峡をトンネルで抜け、帰りには関門橋を通ってきたことがある。
あの関門海峡は鉄道のトンネルに加え、道路のトンネルと、橋が架かっているので、実に便利だ。
まあ距離が近いので可能であったのだろう。
あれが
つい2、3年前やっとトンネルが完成したにすぎない。
その点九州は海の距離が短いので、文字とおり本州と直結している。
そのため何かと便利だろうと思う。
だから九州では、いままで点で発達していたものが、線となり、面として発達してきているが、北海道はいまだに点としての存在しかない。
九州にしても、東京からの距離は
博多から少し離れると、まだまだ素朴な田舎が存在する。
帰るときは再び信夫が博多駅まで送ってきてくれた。
帰りは新幹線でしたので、子供達は大喜びであった。
我が家の子供達はいつも車で移動していたので、新幹線には初めて乗ったわけで、その喜びようといったらない。
いつもは名神や東名を走りながら、車から新幹線を眺めるだけでしたので、もっともだと思った。
博多発の上りにはビュッフェがついていたので、食堂車(古い言葉だ!)を体験させてやろうと思い、家族でビュッフェで食事をした。
私もビュッフェなどは始めてであった。所詮はレストランである。
テーブルなどには白いシーツが掛けてあり、少し気取ったレストランと思えばいい。
たいした感激もなかった。それでも子供達はお喜びであった。
長男が小学6年生、長女が小学3年生であったので、その時のことなどさっぱり忘れているようだ。
前の年には、松岡譲義兄が松江に居たので、義兄さんのところにお邪魔に上がったこともある。
この時、義兄さんは佐藤造機という、三菱の関連会社に出向していて、松江に単身赴任していたので、それで「一度、居る間に来い」と云われ、お邪魔に上がったが、この時は例によって車で出掛けた。
中国自動車道がまだ下関まで開通しておらず途中までしかなかった。
それで、途中、大山で会社の保養施設に一泊して、伯耆大山を見てから義兄さんの所に行った。
松江などは一度も来る機会はないと思っていたが、これで3度目であった。
一番最初は、坂野隆雄が大学に居るときに下宿に遊びに行ったことがある。
2度目は、航空自衛隊で第5術科学校の第3分校に学生を引率してきたときに立ち寄ったことがある。
3度目が譲義兄さんのところと。
譲義兄さんは自分でも食い物に非常に感心を持っているので、この時はアワビの刺身をご馳走になった。
そして出雲大社と日御碕に行った。出雲大社は2度目であった。
日御碕は裏日本では一番高い灯台があるということであった。
崖の上に白い灯台が建っていた。
その灯台の付近には土産物屋が並んでおり、イカ徳利を売っていた。
このイカ徳利が私は珍しくて、一個買い求め、家に帰って、その中に酒を入れて飲んでみたが、スルメの味が染み込んで結構美味であった。
その帰りには、日本海に沿って帰ってきたが、途中鳥取砂丘に立ち寄ってきた。
この砂丘は本当に砂だけで何もなかった。
鳥取砂丘を見て、帰途についたことはいいが、その日が丁度日曜日に当って、阪神地方の海水浴客と一緒になってしまって、道路の混んだことといったらなかった。
日本海沿いに敦賀辺りまで来るつもりであったが、途中我慢しきれず、一刻も早く高速道路に乗りたくて、山の中に入ってしまった。
その道も流れは悪かったが、それでも神戸の西辺りで中国道に乗った。
高速道路に乗って順調に流れ出すと、やれやれという気持ちになった。
車の旅行も便利ではあるが、交通渋滞を如何に回避するかということに知恵を絞らなければならない。
こんな訳で、子供たちが小学校を卒業するくらいまではよく家族旅行をしたものである。これが出来たのも皆が健康であったからであり、曲がりなりにも安定した収入があったということである。
有り難いことであった。
子供が中学や高校になって来ると、家族で旅行することも出来なくなってしまった。
子供自身が忙しく、又自立心が出て、親と一緒には行動しなくなってくる。
これも成長の一過程であるので、素直に受け止めなければならない。
F4EJ
北工場から南工場に移ってしばらくしたら、F4EJの生産が始まった。
その過程で、1号機と2号機がグアム島から飛来するということがあった。
このF4ファントムUは、航空自衛隊にいるときから馴染みの機体であって、ベトナム戦争では大いに活躍した機体である。
もともと艦載機であるので、翼は折りたためるし、空中給油装置もついているのが本当である。
当時のアメリカ海軍とアメリカ空軍の主力をなす機体である。
又、アメリカ海兵隊も使用していたと記憶する。
私がまだ航空自衛隊にいたころはF104Jが主力であった。
このF104Jも素晴らしい機体であって、グラマン社の機体と、どちらにするかで大いに検討され、政治的にロッキード社のF104Jに決定された、という経緯があったように記憶している。
その前のF86の時代からのつながりがあるのではないか、と素人なりに考えたが、それにしても「最後の有人戦闘機」といわれながらも、次から次へと優秀な機体が開発されたものだ。
F104の次がF4、その次がF15、その次がF18と、次から次へと素晴らしい機体が登場してくる。
F4がF104 よりも優れていたのは、翼の面積の違いによる回転半径の違いもさることながら、レーダーの能力の違いがよりすぐれているからである。
しかもエンジンが2基のため、レーダーの重いのを搭載することが可能であったことによる。
それと同時に、レーダーそのものの発達にもよる。その能力の違いは3倍である。
3倍の違いということは、補足能力で3倍、索敵能力で3倍、攻撃チャンスで3倍と、すべての能力が3の級数倍になるということである。
それに反し、パイロットの負担は3分の1になるということである。
合理化という面で捉えれば、素晴らしい合理化である。
そして武装の搭載能力もすぐれており、まさに戦闘機の傑作中の傑作だと思う。
レーダー・オペレーターをしているときから、このF4の素晴らしさには感嘆させられたものである。
その機体がグアムから飛来して来る、その時点に居合わせたことは、自分にとってまたとないチャンスであった。
あの時、私は工場の北の端で川俣さんと警備についていた。
あの場所にはコンクリートの防護壁があって、エンジン・ランをしたときに排気を上に向けるようになっていた。
そのコンクリートの構築物の上に乗って見張っていたら、南の方から入ってきた。
2機一組になって、翼の先にはチップ・タンクを付け、胴体の下には大きなドロップ・タンクを付け、南から進入、見事にランデングした。
丁度その時、航空局の黄色の車が通りかかった。
航空局の車を民間人が止めると、トラブルになるのではないか思ったが、止めて「今、F4が入ってくるので少し待ってください」といったら、快く了解してくれた。
やはり飛行機に関心のある連中ならば、「F4を見たい」という気持ちは同じである。
タクシー・ウエイをゆっくりタクシーして、三菱タワーの前で停止したときは、あの機体のフォルムが実に素晴らしいものに見えた。
あのフォルムが、ベトナムのジャングルの上、またはベトナムの青い海の上でミグと渡り合っているのかと思うと、体に鳥肌が立った。
そして4人のパイロットが、赤い飛行服で、略帽を斜めにかぶって、着物姿の女性から花束を受ける取るところが実に格好よかった。
同じ挙手の敬礼でも、我々、日本人がするのとアメリカ人がするのではなんとなく違う。我々がすると、なんとなく糞真面目という感じになってしまうが、彼らが同じことをしても、なんとなくリラクスして、愛嬌を振りまいている、という感じになるから不思議だ。どうしてこんな違いが出るのであろう。
彼らが右手を額に持っていくのと、我々がやるのとではどうも違う。
彼らがやると格好よく様になっている。
長男が生まれて間もない頃、多分昭和46年、小牧基地の航空際のときだったと思うが、アメリカ海軍のアクロバット・チーム「ブルー・インパルス」が来た。
この時の機体がF4であった。
機体全体がネイビー・ブルーに塗装され、ノーズのところに黄色の塗料で「ブルー・インパルス」と記入されていた。
この「ブルー・インパルス」の飛行は、F4の性能を極限にまで引っ張り出したものであった。
私が自衛隊で教わったことに、飛行機が高度を得るのにズーム・アップとスナップ・アップというテクニックがあると聞いた。
スナップ・アップというのは水平にフルスピードで飛んできて一気に高度を上げる手法であるが、ズーム・アップというのは、エンジンのパワーを上げながら上昇するテクニックであった。
F86Fや、F86D、F104J はスナップ・アップをしていたが、F4はズームのまま真上に上昇してしまう。
これはエンジンのパワーが大きいので出来る業である。
あの「ブルー・インパルス」のアクロバット飛行は本当にすばらしかった。
低空でのローパスなどもスピードが違っている。
最近の戦闘機は高空よりも低空のほうが苦手である。
というのも、低空のほうが空気抵抗が大きく、燃料の消費がかさむからである。
F4に限れば、搭載燃料も多く、翼面積も大きいので、F104よりは低空での性能も向上している。
あの「ブルー・インパルス」と同じ機体が今目の前にある。
4人のパイロットが花束を受け取ったときのあの粋な挙手の敬礼、まるで映画を見ているようだ。
実際、あれと同じ映画がその後上映され、題名もそのものずばり「ブルー・インパルス」という映画で、「ブルー・インパルス」の演技が次から次へと出てくる映画であった。
巡業先(?)で花束を受け取るところなど映画なのか現実なんかわからない。
このF4の訓練をレーダー・サイトで実際に体験したけれど、F104やF86Dではレーダーの到達距離が短いのでなかなか目標が捕捉できないが、F4だとすぐに補足してしまうので、パイロットも我々レーダーオペもまったく楽であった。
技術の進歩というのはこういうことを言うのであろう。
そしてこのF4は、BADGEシステムともリンクしており、日本の空の守りも、合理化が進むことになる。
私も、航空自衛隊にいるときBADGEシステムの教育を受けたが、その後除隊してしまったので、それ以降の日本の空の守りがどうなったのかは知る由もない。
私が在籍していた頃から、すでに3次元レーダーとか、移動防空システムとか、内部では話があったが、その一つ一つがそれ以降開発され、実戦部隊に配属されていることと思う。今、名誘で生産されているパトリオットは移動防空システムの一環である。
3次元レーダーは既にBADGEシステムとリンクされていると思う。
今、東西の緊張緩和が達成されて、国防という意識が根底から問い直されていると思うが、これだけ近代化されたシステムを持っている日本は、アジアでは突出してしまっていることには違いない。
国防を考えるにも、新しい視野に立って、考えなければならない時期に来ている。
大幸工場
昭和54年、1979年、南工場から大幸工場に配置換えになった。
南工場を出るときは、当時の前田進吉班長が、いかにも申し訳なさそうに「今度、大幸に行ってくれないか!」と言われるので、前田さんのような班長の言うことならば、反対することも、我侭を言うことも出来ず、二つ返事でOKした。
この大幸工場というのは、名古屋機器製作所の部分と、名古屋航空機製作所の部分とに分かれており、全く妙な按配であった。
名航の部分においても、発動機とか、油圧部品の部分で、防衛庁の監視もゆるく、まるで民需品の工場に近いものであった。
名機のほうは100%民需品であるので、保安の扱いも全くイージーなものであった。
名機のほうは、鍛造品とか鋳造品を扱っていたので、名航、名機ともに小難しいものは何もなかった。
その代わり、来訪する人間の数は格段に多く、活気に満ちていた。
軍需産業と民需産業が同居しており、軍需産業と言っても直接軍需に結びついているものを生産しているわけではないので、防衛庁の監督も比較的ゆるく、全般的に見ると如何にも活気に満ちているように見えた。
しかし、保安の立場から見ると、これほどでたらめな警備も他に見られない。
三菱重工の事業部制というのは、経営戦略上は致し方ないとしても、違う事業部、性質の違う事業部が、同じ敷地に存在するということに警備上の問題がある。
警備上の観点からすれば、性質の違う事業部が同じ敷地内にあるとすれば、フェンスなどで完全に分離しないことには、十分な警備はありえない。
民需品と軍需品では半製品においても、製品そのもの特質が違う。
製品の精度の問題、材質の問題、コストの問題等どれ一つとっても共通する事項はない。民需品ならば精度も甘く、材質も安いもので、コストも安いものが要求されるが、軍需品となると、それでは通用しない。
軍需品では、コストは二の次で精度が一番に要求される。
大幸工場においては、こうした配慮は一切されておらず、とにかく工場があるのだから、なんでも物さえ作ればいいというわけで、行き当たりばったりで出来たという感じである。
同じ三菱重工同志でありながら、実にいい加減な警備の状況であった。
事業部制の弊害がもろに露呈し、その狭間に保安が置かれているという状況であった。
あれでも、たいした問題も起こさず、通用してきたことが不思議である。
大幸工場の名古屋機器製作所の部分というのは、膨大な設備投資された、ある意味では重厚長大の典型的な産業である。
そこで働いている人は、まさに正真正銘の労働者という感じがした。
ヘルメット、脚袢、安全靴は必需品である。
鋳造、鍛造という仕事は、これらの保護具が必需品であり、保護具の着用という安全スローガンが本当に生きている。
これが名古屋航空機の仕事となると、完全空調の中で、半そでシャツで仕事をするという全く相反する環境で仕事をしている。
これが同じ場所で仕事をしているのであるから、矛盾が起きるのは当然である。
大幸工場の正門を入ると、すぐ目に付くのが鋳造工場であるが、この鋳造工場の設備投資額は大変なものであった。
キューポラが2基あって、スクラップの鉄を溶かしているわけであるが、その溶かした鉄を型に流し込む設備が大変大掛かりなものであった。
しかし、テレビ・ニュース等で垣間見る最新の製鉄工場とは比べ物にならない前近代的な面も併せ持っていた。
本当の製鉄工場のように、素材を作る場所ではないので、ある面で合理化が中途半端にならざるを得ない面もあるが、それは溶かした鉄を鋳型に流し込む段階で、人間が介在しなければならないという点である。
それなりに合理化されているとは言うものの、素材の流れが変わるところでは、合理化が出来ていない。
個々の単純な動作は機械がしているが、その次の工程に移るときに人間が介在してやらねばならないので、本当の意味での合理化にはなってない。
まずキューポラから型に流し込む作業、型から取り出す作業、パレットにつむ作業、バリをとる作業等々、各所において人間が介在しなければならなかった。
工程の流れは、まずスクラップを積んだトラックが正門を入ると、すぐ左手にあるスクラプ置き場にそれを下ろす。
そのスクラップを人間が電磁石のクレーンで溶鉱炉に入れる。
溶けた鉄は、柄杓で型に入れられる。
型に入れられた鉄は、冷やすため、長い空間を移動し、冷えた半製品は取り出され、バリを取って一応鋳造品となる。
しかし、これでも本当はまだ半製品のままで、これを加工しなければならないが、此処の製品の場合、どこまでいても半製品のままである。
というのは完全な製品にはなりえないからである。
あくまでも機械の部品であるので、作っている人も、自分が作っているものが何の部品か知らないまま作っていると思う。
私の知る限りにおいては漁船のエンジンのエンジン・ブロックが多かったように思うが、三菱の小型船舶のエンジンはダイヤ・デイーゼルといって、評判は良かったようであるが、如何せんサービスが悪く、三菱の内部にいてもあれでは売れないと思ったものである。
あの時点で、潰れないのが不思議だと思ったものである。
結局その後間もなく潰れてしまった。
溶けた鉄を柄杓で型に流し込むところなど、全く前近代的である。
しかし、柄杓といっても石膏で出来た大きなもので、天井から下がったクレーンで移動するのであるが、流し込むとき一旦柄杓を台車の上に載せ、そこにキューポラを傾けて、溶けた鉄を流し込むところなど、全く立ち遅れていると思う。
溶けた鉄は600度から700度あるといわれているので、合理化は困難とは思うが、そこを克服しないことには取り残されることは間違いない。
鉄を流し込む型は、これまた前近代的な代物である。
この型は、砂と膠のような接着剤で出来ている。
それに剥離を容易にするために黒鉛が塗装してあり、実に汚らしい。
鋳造品というのは砂と鉄で出来ているが、砂の部分は、我々はその存在を気にかけたことがなかった。
大体、鋳造品にしろ、鍛造品にしろ、我々のイメージは、字引に書いてある以上の知識は持っていなかった。
しかし、この大幸工場に来たおかげで、その本質を知ることが出来た。
鋳造工場で働いている人たちは、この黒鉛のおかげで、全身真っ黒になって仕事をしている。
そのため大きな風呂が用意され、帰るときはみな風呂に入って、つやつやとした顔で帰宅する。
風呂のある職場というのは、その裏に、風呂に入らなければならないほど労働がきついということである。
それにしても、この鋳造の風呂は並の銭湯よりも大きかった。
鍛造工場となると、鋳造工場に比べ合理化の進んだ面もあるが、逆に一つ一つ手作りに近いという面も併せ持っている。
少品種大量生産に向くものは、合理化が進んでいるが、その他のものは一つ一つ手作りに近い状況であった。
合理化の進んでいたものは、車のユニバーサル・ジョイントを作っていたところで、ここは少品種多量生産で、ほとんど無人に近い状態で生産していた。
その他においては、各人が一台一台プレス機の前で足踏み式のペダルを踏んで製品を作っていた。
鍛造品というのは、大きなものはなく比較的小型の製品が多く、素材を炉から取り出してプレスするわけであるが、素材を炉に入れる作業、炉から取り出す作業、プレスする作業等いずれも合理化とは程遠く前近代的である。
しかし、プレス機械は200トンぐらいのものがあり、大仕掛けな設備であった。
そんな機械が何台も並んでいたが、その全部が稼動していたのは見たことがなかった。
いつも一台か二台しか稼動していなかった。
そこで仕事をしている人たちもヘルメット、脚絆、安全靴は必需品であった。
それに素材の温度も高く、油も飛んでくるので、眼鏡を掛け、顔はタオルで隠しているので、まるで中核派の連中のようないでたちで仕事をしていた。
いづれにしても鋳造と同じようなきつい職場である。
名古屋機器の関係では、このほかにアルミニウムの鋳造品と、工作部としての加工工場、当時、デ工作と呼んでいたが、そうした工場があったが、所詮、町工場の寄せ集めの域を出るものではなかった。
この頃、名古屋機器というのは経営的に一番苦しいときであったので、その後完全に撤退してしまった。
鋳造の設備など出来た当初は東洋一といわれたらしいが、私が赴任して以来というもの、一度もまともに稼動したことがない。
設備投資して、出来上がったものは確かに立派で素晴らしいが、まともに稼いだことがないのではないかと思う。
目を名古屋航空機のほうに向けると、未だに戦前からの工場を、騙し騙し使っているという状態で、仕事の内容は最先端の技術か知らないが、施設のほうはとても近代的とはいえない。
戦前の発動機工場のあった頃、エンジンのテストをしたテストセルというコンクリートの構築物があった。
この中では実際にこの時点でもエンジン・テストをするセクションもあったが、他の目的のために改造して使われているところが大部分である。
戦前に、エンジンのテストをするために、これだけの防護設備をしたということは、どういう意味があったのであろう。
今でこそ、騒音公害が問題になるが、あの当時、エンジンの騒音対策とも考えられないし、それとも秘密保護のためか、アメリカの空襲の被害を免れるためだったのだろうか。
実際、あの構築物にはこの時点まで弾の跡が残っていたし、アメリカ軍の空襲もあった。それで何百人も死んでいるのは事実である。
よって、あの周辺には慰霊碑が建立され、その霊が祭られている。
古い建物をやりくりして、その一部にはクリーン・ルームと言って、埃を一切排除する超近代的なセクションもあった。
古い建物に無理やり押し込まれているという感じで、不具合なことばかりであった。
大幸工場というのは産業革命当時の産業と、超近代的な知識集約型の産業が同居している、世にも不思議な工場であった。
これを一緒にして警備せよということは、逆に警備など意味がない、というのと同じで、全く不思議なことである。
かっての大幸工場というのは、三菱の発動機工場として広大な敷地を有していた。
三菱の大御所であったはずである。
その大幸工場は、重工の事業部制の弊害の露呈したところではないかと想像する。
あの名古屋の文教地区で、鋳造工場や鍛造工場の存在は時代遅れである。
昭和61年、名古屋機器が撤退したとはいえ、10年遅かった。
大体、鋳造部門、鍛造部門を抱え込んでいること自体、時代感覚に欠けていたと思う。
前にも述べたように、民需品と軍需品が同じように同一の敷地においておくこともはじめから問題を含んでいる。
名古屋機器が昭和61年、名古屋航空機が昭和62年、あの大幸工場から撤退したけれど、名古屋航空機だけならば、まだあの土地で生き残れたかもしれない。
小牧北工場という広大な土地が用意されていたとはいうものの、名古屋航空機のような知識集約型の、最先端の技術産業ならば、小牧のような土地よりも、名古屋市内にそのまま残ったほうがすべての面で都合が良かったはずである。
あの土地はすべて更地となっている。
何もない更地になると実に広大な土地である。
建物があったときはそう思わなかったが、今、眺めてみると実に大きな空間である。
今後あの土地がどうなっていくのか興味あるところである。
追伸 その後この地には名古屋ドームが出来、三菱技術研修所が出来、三菱重工名古屋ビルが出来、いまこの重工ビルの禄を食んでいる。2003年、平成15年1月現在